【仮題】4日目その3

 殺してしまった……。


 ミフユさんのファンタジーが消えてしまったという事実を目の当たりにしてからの俺は絶望の淵にいた。


 油断すればそのまま心象風景にぽっかりと空いた黒洞々たる奈落に落ちてしまいそうだ。不安定な足取りで意識だけを朧げに保っているような、頭だけがふわふわと宙に浮いてしまっているような、そんな危うい心理状態の中で何とか彼女の姿だけを視界に捉える。


 眼前で涙する若い女性を余所に他のことを考えていられる程世間ずれしている自覚も女性慣れした覚えもないが、とにかく、俺にとってはそれ程にまでショッキングな出来事だった。


 そしてミフユさんが小説を消去した直後の衝撃に頭が慣れ始めた頃からじわじわと、自身が犯してしまった罪の意識が湧き上がって来るのを感じた。まるで障子紙の端から墨汁を染み込ませていくように、徐々に俺の思考を侵食していく。


 俺は何ということを。とんでもないことをしてしまった。殺してしまった。後世に残ったかもしれない名作を、俺の何気ない軽口が殺してしまった。何という罪。あの序盤の物語だけでも俺の凡庸な命なんかよりもずっと崇高な価値が見い出せたというのに。俺が一生書き続けてもああまで人の心を揺り動かすファンタジー小説は生み出せない。


 俺は何という罪を……。殺してしまった……。ああ……。殺してしまった……。


 悔悟の情で埋もれそうになりながらも、ひたすら心中で繰り返す。


 それはきっと殺人よりも重い罪。代わりに俺が死ねば良かったのに。社会貢献などとは程遠いニート生活の俺が。誰からも必要とされていない、今後も必要とされないであろう、社会のお荷物であるこの俺が。


 俺はひたすら心中で自分自身に対する問責を続ける。


「ミフユさん。一応聞きますが、下書きは?」


 あの数字ばかりの下書きだけでも残していないのか。淡い希望虚しく、俺の言葉を聞いたミフユさんは嗚咽交じりに小さく頭を振った。


 ああ、やはりもう取り返しが付かないんだ。


 弱弱しくゆっくりと吐き出す呼気は震えていた。そこで初めて気が付く。俺はどのくらいの間呼吸を忘れていただろう。脳に酸素が巡るのを感じる。


 俺はほとんど減っていなかったアイスコーヒーを八割程飲み干すと今度は勢い良く深呼吸し、改めてミフユさんに向き直る。


 さて、このくらいにしておかねば。


 いくらショックだったからといってこんな状態の彼女を放っておいて落ち込んでいても仕方がない。それにミフユさんの様子を見る限り、彼女もまた違った絶望の中にいるのだ。  


 確かにショックだ、俺の残りの人生を合わせても恐らく三指にランクインするくらいにはショッキングな出来事だ。しかしこの件における本来の目的は彼女が書きたい小説を書けるようにアドバイスすること。いくら俺の中で当初の目的を忘れつつあるとはいえ、あまり自分勝手な都合を押し付け過ぎるのも人としてどうかと思う。


 俺は気を取り直して、わざとらしい咳払いを一つ挟んだ。


「ミフユさん良いですか? 書きたい小説を書く上での僕の持論は、とにかく書くことです」


「とにかく……書く……」


「ええ、そうです」


 俺は未だしつこく纏わり付いて離れない悔悟の情を振り払うように力強く頷いた。


「先程の小説は僕にとっては完璧と呼べるものでしたが、ミフユさん、あなたにとっては違うのでしょう。それは理解しました。でも一回で上手くいく人間なんていません。それは誰にでも言えることです。勿論ミフユさん、あなたにも。今までのあなたの執筆活動がイレギュラーだったに過ぎません。ミフユさん、あなたは〝創作〟がわからないと言いましたが、きっとこれが創作なんです。創作するということなんです」


「これが……創作……?」


 ミフユさんは涙交じりに俺の言葉を繰り返す。その喉の調子が整い切らない中で絞り出すような声は、先程見た上目遣い以上に彼女を幼い印象に見せた。


 彼女と出会って一番、彼女が高校生と言うか、子供らしいと思えた。いつもが落ち着き過ぎていたのだ。


「ええそうです。創作です。僕なんかも書き上げたものが理想とかけ離れていた時は何度も書き直しますし、時には頭を抱えます。何で上手くいかないんだって、自己嫌悪することもしばしばです。ミフユさん、あなたはようやく本当の意味での〝小説〟というものを書いたのかもしれません」


「これが小説を書くということ……」


 ミフユさんは先程よりもしっかりとした声色でそう俺の言葉を繰り返すと、制服の袖でぐいと目元を拭った。こういう時は男がハンカチなんかを差し出すべきなのだろうが、残念ながら俺にそんなものを用意するようなレディファースト精神はなかった。ないと言うか、まあ、単に慣れていないだけなのだが。


「ヒイラギさん……」


「はい」


 ミフユさんはこちらを見据える。その決意の色が浮かぶ瞳からはもう、涙は流れていなかった。


「わたし、頑張ります……」





 ミフユさんが落ち着きを取り戻したことで、まるで鎮静化する彼女の感情と反比例するように俺の中での自責の念がゆったりとした足並みで、しかし着実に、そして今度は天井知らずに増幅されていく。


「ヒイラギさん、あの、大丈夫ですか?」


 涙が止まったことで視界が開けたのか、人の表情の変化に人並み以上に敏感なミフユさんは怪訝そうに尋ねる。


「ええ、あの小説がこの世から消えてしまったんだなぁと、思うとですね、何だか遣り切れなくて……。ああ本当に、僕が死ねば良かったんだ……」


 最早取り繕う余裕さえ失いつつある俺は、ミフユさんが相手だということを忘れ、臆面もなく情けない心中を吐露する。本当に、何を言っているんだ、俺は。一度は持ち直したかと思えたが、全くそんなことはなかった。


「そ、そんな! そこまで悲しませてしまうとは、わたしも思いませんでしたから……その……ついカッとなってしまって……、すみませんでした……」


 ミフユさんはどう声を掛けて良いか迷いながらも、謝罪を口にした。


 「ついカッとなって」だなんて言われると、本当に殺人でも犯してしまっているかのように聞こえてしまう。しかしこの場合責任は俺にある。俺が余計なことを言いさえしなければ、あの魅惑の世界がこの世から消えてしまうことなんてなかった。


「でもヒイラギさん。わたしはこれからも小説を書きます。書こうと思います。本当の意味での創作を、これからも続けます。だからヒイラギさん、元気を出して下さい」


「そうですね。それは良いことです……。でもミフユさん、あなたは果たして息子を亡くした母親に、また子供を作れば良いだなんていう、非道なことが言えますか?」


 そう。この先彼女がいくら良作を量産しようとも、あの小説は、今日読んだあの世界は、もう戻っては来ないのだ。


「でもその場合、書いたのはわたしですから、母親はわたしの方では?」


 言われてみれば確かにそうだが、俺が言いたいのはそこではない。それに今はあまり細かいところまで気が回りそうもない。


「あ、ちなみにヒイラギさんのアドバイスを頂きながら書きましたので、お父さんはヒイラギさんになりますでしょうか」


「…………。勝手な理論で顔を赤らめないでください」


「べ、別に、赤くなんかなっていません! 怒りますよ?」


 ミフユさんは泣き腫らして赤くなった目元と、たった今赤くした頬を制服の袖でごしごしと拭った。余計に赤くなっていた。


「そんなにお気に召したならあの物語もまた書きますし、変なこと仰らないでください」


 あの小説もミフユさん自身の感情の写しだとしたら、書き直したものでも似たような感動を得られるのかもしれない。でも、だとしても、あの小説は、もうこの世には存在しない。


「ミフユさん、小説は料理とは違います。そんな『美味しかったならまた作ってあげるわね』的なノリで言わないでください。それにミフユさんはあの物語と一言一句違わないものを書けるというんですか?」


 皮肉にも、初めてこの喫茶店で出会った時、彼女は小説による読み手の心情の変化を味覚に例えたのだが。


「えっと……さすがにわたし自身が書いたものとはいえ下書きすら残していませんので、記憶を基に書く以上は全く同じとはなりませんが……」


「そうでしょう」


 そう言って俺は一層深く息を吐き出した。


 仮に料理に例えるならば、今回の出来ごとは〝ある料理の概念そのもの〟を消し去ってしまうに等しいだろう。


 例えばカレー好きがある機会に美味しいカレーを食べ逃すのは実にショックな出来事だが、その場合の心の傷の深さは知れている。次の機会はいくらでもあるのだから。しかし、「カレー」という料理の概念そのものが消えてしまうとしたらどうだ。無類のカレー好きの中には今の俺みたいに、絶望に打ちひしがれる人間もいるのではなかろうか。


「ですからあの小説は今この瞬間、死んだんです……」


「ご愁傷様です……」


「ええ、本当に……」


 俺が力なくそう答えると、ミフユさんも俺につられて物悲しそうに目を伏せる。


 当初の厳格な儀式場めいた空気漂う喫茶店の一角は、いつしかスマホという名の小さな遺影を前に二人して項垂れるしめやかな葬儀場へと変貌を遂げていた。

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