【仮題】3日目その5
『〝動物〟という点では同類の〝要素〟と言えます。では例えば、ジャッカルでは? 残念ながらこの場面でジャッカルを配置してしまった場合、同様の効果は得られなくなります。犬と同じ哺乳綱食肉目イヌ科イヌ属なのに何故か。わたしの言う〝要素〟とは単なる種類分けではなく、言わば一種の〝ベクトル〟なんです。〝動物〟であるという〝要素〟の点では同じと言えますが、ジャッカルというワードが強すぎる為、描写に余計なノイズが発生してしまうのです。言葉には強弱があります。弱い程描写に溶け込みやすく、強い程物語という一本の線の中でノイズのような波を発生させるのです。強弱とその方向、ベクトルにも様々ありますが、ここで言う〝強さ〟とは、それが日常的であるか否か。無論、それ以外にも途方もない種類のベクトルが存在します。言葉という球体を中心に矢印が四方八方に伸びているウニのような形状を想像してください。ジャッカルを引き合いに出したのはそれが極端でわかり易いからという理由ですが、それぞれのワードが持つ物質としての、あるいは行動としての、概念としての相違、ベクトルの種類、それらが複雑に絡み合ってようやく〝要素〟として分けられるのです』
再生されるミフユさんの説明は、普段俺が喫茶店で聞いている講義以上にわけがわからないものだった。何というか、上手く言えないが、全く手心を加えていない印象だ。普段から良心的とは言い難いが、何だろう、こうして淡々と紡がれる彼女の声は半ば投げやりな印象すら受ける。
『そしてそれらの〝要素〟に対し、わたしが自分でそうだと確信した観点において番号を付けて分類しています。一つのワードに対してあてがわれる番号は決して一つではありません。種類分けの基準が無数にある以上、当然重複だってするわけです。例えばシンプルな単語の分類を例に出しますと、わたしの定義付ける要素52では〝歩く〟、〝生きる〟といったワードが該当します……』
録音された音声は今まで以上に俺を置き去りにして無情にも説明を続ける。
『しかし、356において〝希望〟と共にこの〝生きる〟が同一の要素として分類されます。また、2169においては 〝歩く〟と〝不屈〟、また〝決意〟がある観点のもと同一視されます。ところが122では…………』
「わかりました、もう大丈夫です」
俺は耐え兼ねてギブアップを申し出た。倉敷さんはスマホの画面をタップし、再生をストップする。これ以上聞いても意味はなさそうだ。
「堪え性がないわね。わたしはこれを延々と1時間は聞いたわよ」
俺が止めなかったら1時間続けるつもりだったのだろうか。
「気味が悪いわよね」
倉敷さんは当時のことをより鮮明に思い返してしまっているのか、凜とした表情を崩さないながらも眉を顰め、やや苦悶を滲ませていた。
「まあ、わたしも最初は単に彼女の主張の表面上の印象から、例えば川端康成が描いたような『人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである』というウィリアム・ジェイムズの提唱に由来される文学手法の『意識の流れ』に似た類の話かとも考えたけれど、彼女の場合はそれとも違う。文学上の『意識の流れ』はあくまでも書き方の一手法、カタチであって、彼女が目を向けているのは常にリアルな読み手の心情の変化。それも、恐ろしく実際的、いえ、実践的に。これは心理学というよりもむしろ科学的な観点から考えなければならないものね。まさしく文学に対する冒涜だわ」
「そんなに酷い改変だったんですか? その、倉敷さん用に書き直された『ひなげしと哭く空』は」
「すぐに酷いって気付ければこんなことになってないわよ」
倉敷さんはそう吐き捨てる。
「あの改変版はわたしに本を出版させる為に書いたもの、当然初めて読まされた時は何て素晴らしい小説だと思ったわ。ただね、わたしというたった一人の個人の為に書かれたアレは、あなたやその他大勢が読んだ無改変版『ひなげしと哭く空』からすると余計な改変、そう、改悪でしかなかったのよ。ある特定のターゲットに絞り過ぎれば当然の成り行きだわ。さっきも言ったでしょ? 仕事とわたし個人の趣味は別」
本を売るという仕事に対して並々ならぬ心血を注ぐ倉敷さんだからこそ、それは酷く許し難い経験だったようだ。
「次にあの小説を読み返してしまったら、わたしはどうなるかわからない。だから本棚には並べてないの。視界に入ったらページを開いてしまうかもしれないから。ホント良い迷惑よ。休日の楽しみだった本屋巡りも、今では変な緊張感に汗しながら行かなくちゃならない。何はともあれ、あの子がうちで本を出版することはもうないわ。少なくともわたしがこのレーベルの編集長の地位にいる限りはね」
判明した事実以上にミフユさんに対する謎は膨らむばかりだが、倉敷さんが何故ミフユさんの小説を毛嫌いしているかは理解できた。
「でも、改悪って言っても、一般的に見れば小説としてはそこまで酷いものじゃないのでは?」
仮に一人の人間の為に書かれた小説だとしてもあのミフユさんの作品だ、書籍化作品としては及第点以上の出来であることは想像に難くない。腐っても鯛ということわざもある。
「甘いわね。普通ならそうだけど、彼女は既にカクヨムというサイト上で同名の作品を出しているでしょ。既にいる彼女の大勢のファンからすれば、それは紛れもなく改悪なのよ」
確かにそうか。腐っても鯛とは言ったものの、新鮮な鯛を後ろ手に腐った方を差し出されれば誰だって快くは思わない。
「Amazonのレビューでも見てみなさい。あなたがうちの作家なら絶対に薦めないんだけどね。あんなの、同業の妬み嫉み、真の価値をわからない脳足りんのたわ言が少なからず混じってるんだから。そんなもの鵜呑みしてお抱えの作家に自信をなくされちゃ、こっちは商売あがったりなの。でね、彼女のレビュー、案の定罵詈雑言の嵐よ。それだけなら良いわ。だって真実だもの。仮にわたしがAmazonで彼女の本を買っていたなら長年の編集業の経験で培った語彙力を総動員して、それはそれはサージェント・ハートマンも鼻水たれ流しながらフル〇ンで土下座する程の凄いのをぶちまけていたわ。許せないのはその駄作を生み出したのはわたしたち無能編集部の所為ってことになってる点。当然よね。アニメ化や実写映画化に代表される世の商品化に伴う改悪は、例外なくわたしたちが加害者であくまでも原作者は被害者だもの。世間から見た戦犯は常にわたしたち。でも今回ばかりはわたしたちが圧倒的被害者よ」
表情に出ないまでもやや疲れが出てきたのか、倉敷さんは力の籠らない声で淡々と話した。あれだけヒートアップすれば無理もない。
「一つ、確認ですが……」
「何かしら?」
「録音音声でミフユさんが説明していた夕日と野良犬の場面は書籍版の『ひなげしと哭く空』に登場した場面なんですよね?」
「ええそうよ。それが何か?」
「いえ、わかりました。ありがとうございます。お忙しい中時間を頂きまして」
俺はそれだけ確認すると一応お礼をしておく。いきなりの訪問者に対してここまでの対応をしてくれたのだから、厳しそうな見た目や振る舞いとは裏腹に彼女はとても良い人なのだろう。
「ところで、あなたはミフユ先生と面識でもあるの?」
「え!?」
「だって、あの数字の原稿のこと知ってたでしょ?」
「あ、いや……」
一旦は流されたと思いきや、しっかりと覚えていたようだ。終わったことと高を括っていた俺は急に焦り出す。別にミフユさんと面識があることが後ろめたいわけではないが、あそこまで彼女の小説を目の敵にする相手だ、今更言い出しづらい。
「なら気を付けなさいよ。活字だけの世界よりも現実の方が圧倒的に受ける情報量が多いんだから」
だが、俺の懸念を嘲笑うように倉敷さんは何食わぬ表情でそう言葉を続けた。不問に付されたことに安堵すると共に、倉敷さんの不可解な警告に思わず眉根を寄せてしまう。
「どういうことです?」
「どんな頻度で会う機会があるのか知らないけど、あなたが気付かないうちに彼女から何らかの影響を受けてしまっているかもしれないってこと。まあ、彼女に何も意図がないなら無用な心配だけど」
倉敷さんは曇り一つないレンズの奥で意味深に瞼を細めた。
「こ、怖いこと言わないでくださいよ……」
「あら、割と本気よ?」
平静を取り繕って必死に嘲る俺へ追い打ちをかけるように倉敷さんは言う。
「今日ここに来たのだって、彼女の何らかの意図によることかもしれない」
彼女から受ける情報量は、確かに多い。
ふとした時に彼女から漂う甘い香り。嗅覚。
ひんやりと柔らかな彼女の肌。触覚。
そして何よりも、彼女の発する言葉の数々、その声。聴覚。
もし仮に小説のような活字上でのことならばそれらの感覚は文字で表現して読者に想像させるしかない。しかし現実世界では明確な生の情報がある。そう、小説よりも遥かに〝効率的〟だ。効率的であると同時に強制的でもある。
俺が既にミフユさんの意図するような…………それこそ、彼女の思い描くシナリオの中に捕らわれてしまっているとしたら……。
いや、あり得ない。
確かに俺が今日ここに来たのはミフユさんについての謎を知りたいという気持ちがあったからだが、それで彼女にどんな得がある。目的は何だ。
いや、でもあのミフユさんのことだ、俺が考えもしない目的がそこに存在するとしたら?
考えるうちにだんだんわからなくなってきた。
でも仮に、もし仮にそんなことがあるとするならば、一体どこで俺は…………。
「今、『どこで?』とか考えてるなら無意味よ」
倉敷さんは俺の思考を読んだかのように言葉を挟んだ。
「特定のどこかでそうなるわけじゃない。そう、彼女は最終的に期待する結果を得る為の要素を正確に、順序正しく、配置しているのだから。その全ての過程に意味があるのよ。あなたの心がその波に重なりさえしてしまえば、必然的に彼女の期待通りの行動を起こすに違いない」
俺は徐々に湧き上がる疑念に慄然として言葉を失う。
「さて、わたしもそろそろ仕事に戻らなくちゃ。あなたの作品は不合格よ」
倉敷さんは椅子から立ち上がると無情な結果をことのついでのようにさらりと言い放った。
「それと、これ以上ミフユ先生に関することは教えられそうもないわ。いくら知り合いって言っても個人情報をべらべらと話すわけにはいかないしね。本当はそれが目的だったんでしょ?」
「いえ、その……」
俺が未だしつこく口籠っていると倉敷さんは構わず応接室のドアノブに手を掛ける。
「まあ、強いて挙げるなら一つ。彼女、着やせするタイプだからあまりそうは見えないかもしれないけど、お胸のサイズはそこそこ立派よ。腹立たしいくらいにね」
そう謎の追加情報で締め括る倉敷さんのバストは、スーツを着ているとはいえお世辞にも大きい方とは言い難かった。もしかして倉敷さんがミフユさんを毛嫌いするのは小説の所為だけではないのかもしれない。
会議室を出ると、倉敷さんは多忙にもかかわらず律儀にもエレベーターまで見送ってくれた。
エレベーターが閉まるまでの短いあいだに、倉敷さんは呟くようにような声が聞こえた。
「検討を祈るわ。それと、切に願う。あなたのような若い作家志望が深淵に呑まれないことを」
エレベーターの中で俺は考えていた。
ミフユさんは何らかの理由で書籍化を目指し、この会社に原稿を持ち込んだ。偶然自宅と近かったこの会社に。そこで俺の頭に疑問というか、とある矛盾が過る。
あの時、倉敷さんからその話を聞いた時は内容と倉敷さんのテンションに圧倒されてしまいあまり冷静に考えられなかったが、普通に考えれば誰だって思うことだ。
効率性の矛盾。倉敷さんは彼女が小説の書籍化にあたり効率しか考えていないと言った。そしてそれは本当なのかもしれない。
例えばあの夕日と野良犬の場面。昨年の時点であの場面の説明が出るのはおかしい。恐らく倉敷さんは処女作以降のミフユさんの作品を読んでいない為知らなかったのだろうが、あの場面は『ひなげしと哭く空』ではなく今年カクヨムのサイト上で書かれた新作の『ラピスラズリ』に登場するものだ。
ミフユさんが書く小説は全てミフユさん自身、自分の為のもの。そしてミフユさんにとって小説を構成するワード、描写の数々は期待する心情変化を生じさせる為の材料であり記号でしかない。単にそれだけの目的で書かれたものならそれ以外の物事は余計なものだ。目的さえ果たせれば、材料さえ合っていれば、描写の重複なんて気にするに値しないのだろう。酷く効率的だ。
だからこそ、疑問に思う。
それならば何故、自宅が近いという理由だけでわざわざカテゴリエラーとも言えるこの出版社を選んだのか。
ミフユさんは書籍化にあたり、編集長である倉敷さんの心を動かすことだけを目的とした小説を完成させるべく、何度もこのビルに足を運んだとのことだが、本当に効率を重視しているならそれでは本末転倒だ。
だって、彼女の小説なら相応の出版社へ持っていけばもっと早く書籍化に至りそうだ。それこそ何度も通わずに実現できる可能性が大いにある。
ビルを出て、駅へと歩を進めながら思案を続ける。
池袋駅の西口が見え始めたところで俺は立ち止まる。
初夏の湿気を孕んだ風が頬を撫でながら背後から過ぎ去って行く。まるで一人考えに耽る俺を置き去りにして行くように。
いや、やはり効率的だったんだ。
単に通う距離だけの問題だけならかえって時間がかかってしまい、非効率だ。
でも、それだけが目的じゃないとしたら?
書籍化以外にもう一つ、別の目的があるとしたら矛盾がなくなる。
彼女は何度も会社に足を運びながら何をしていたか。倉敷さんという女性に、一度は書籍化できないと突っぱねられながらも出版社まで何度も足を運んでいた。小説について教えを乞うという名目で倉敷さん曰く、倉敷さんという人間を知る為に。そして倉敷さんに出版させる小説を完成させる為に。
もしミフユさんの目的が〝小説によって人の心を動かせるか〟を試す為だとしたなら、倉敷さんという編集長程適任な人物はいないだろう。
結果は変化率が高い程、振り幅が大きい程、より明確なものになるのだから。
今日、別れ際にミフユさんは言っていた。〝何かの犠牲のもとに生まれた小説は素敵か〟と。
倉敷さんという一人の女性の仕事に対する信念を踏みにじるようなこと。
これが彼女の言う犠牲なのだろうか。
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