【仮題】間話その1

【仮題】間話その1の1

「水曜日……」


 俺はベッドの上でスマホを掲げ、誰に向けるでもなく表示された曜日を掠れた声で読み上げる。


 ミフユさんと会うようになってからというもの、俺に曜日を確認する日課が付いた。元来それが人として真っ当なので、日課と呼ぶのはいささかおかしなことだが。


 ミフユさんと出会ってから変わったことと言えばもう一つ。俺はなるべく外出することを心掛けるようになっていた。理由は勿論のこと日記に記すべきネタを得る為だ。


 〝ありのまま正直〟が前提条件である以上、ミフユさんと会う土曜日以外が全て自室での事柄になってしまうのが憚られてというのが本音だが、果たしてこうして無理矢理何らかのイベントを求めて外出することが、俺にとっての〝ありのまま正直〟かと問われれば耳が痛くなる。


 だが、こうした心境の変化だって立派な俺自身のありのままの姿であることには違いないので、嘘とまではならないだろう。


 しかしその成果があるかと言えば、それは虚しい程何もなかった。


 ただただ移動の為の電車賃と行く先での多少の失費、財布の中を浪費する毎日である。


 日、月、火曜と連続して外出したものの、最終的な行先は喫茶店、ファミレス、また喫茶店……。小説を書く以外は本当に、笑えないくらいに無趣味なのだと痛感させられた。


 水曜日の本日も書きかけの原稿を持参しながら池袋を散策し、思い切ってサンシャインまで訪れていた。


 平日だというのに人が多い。そして当然のことだがどんなに人がいようと、日記に記載できるレベルのイベントは発生しない。


 俺は適当に服屋や雑貨屋を転々とし、広い館内を何往復かした挙句、何故か最終的にトイザらスで買いもしない玩具を見て回っていた。危うくリアルな恐竜のラジコンのデモンストレーションに惹かれかけてしまったが、何とか思い留まり、貯金と年相応の沽券を維持した。


 ここサンシャインにはプラネタリウムやナンジャタウン、そこそこ有名な水族館なんかもあるが、さすがに男一人で行こうとは思わない。


 時刻はまだ17時だったが、歩き過ぎて無駄にカロリーを消費してしまったのか、腹を空かせた俺はスマホで色々と検索して食事処を探す。そしてさらにカロリーを消費しながらどこが良いか迷った末に辿り着いたのは、結局サンシャイン前のジョナサンだった。


 店内で無難なハンバーグのセットを頼み、食べ終わった皿が下げられたところで俺はドリンクバーのアイスコーヒーと持参した原稿をテーブルにセットし、自作の執筆を始める。


 俺の小説の進みは相変わらずだったが、それでもさすがに少しずつ前進はしていた。もう少しで楽しみに待っていてくれているミフユさんに最新話を読ませてあげることができそうだ。


 けれども難儀なことに、そのミフユさんという存在が俺の筆の進みを阻害する要因のひとつになっているのも事実だ。別に日記付けという日課の所為ではない。そんな些細な習慣が増えたところでニート生活真っ最中の俺にとって時間的な支障はないに等しい。


 問題は、読み手を必要以上に意識してしまうということ。


 これまではよりたくさんの人に読まれたいという欲求しかなかったが、それは顔の見えない人間相手だったから思えたことで、いざ見知った人間に読まれるとなると、変に向こう側を意識してしまい、思うように筆が進まない。


 家族には勿論のこと、たまに会う友人にすらこの趣味を明かしたことがないだけに、何ともやり辛さは否めなかった。


 しばらく執筆に集中しふと時間を確認すると19時半、俺は夕飯時で混んできたことに配慮し店を後にする。


 あとはこのまま帰宅し、波に乗りかかっているうちに小説の続きを書き上げてしまおうと決心した。まさにその時である。


 サンシャインビルの入口にあたるエスカレーター付近に佇む一人の女性の姿が目に入った。


 長い黒髪の綺麗な女性。5月も終盤、もうそれほど寒くないというのに暖かそうなふんわりとした素材のトップスに嫌味のないベージュのロングスカート姿。そのやけに大人っぽい佇まいに一瞬見間違いかとも思ったが、念の為駅を目指す足を緩めてよくよく確認すると、私服姿のミフユさんだった。


 俺が思わず足を止めると、向こうも俺に気付いたらしく、ハッとした表情で目をぱちくりさせていた。


 この時俺は何故か逃げようという気持ちが働き、咄嗟に片足をずずと下げる。すると、ミフユさんも似た心境だったらしく全く同じ動きをした。まるで互いが互い、天敵に遭遇してしまったかのように踵を返そうと、ぐっと脚に力を込める。


 そしてミフユさんは一瞬遅れて吹き出したように微笑む。


 俺も釣られて引きつったように笑った。


 少し距離があるので彼女の笑い声はサンシャイン60通りの喧騒に紛れてしまったが、心底可笑しそうに口元に手を当て微笑む彼女の姿は、本当に、一切の淀みなく、優艶だった。


「ヒイラギさん何かお買い物ですか?」


「いえ、たまにこうして外を出歩いて適当な店で小説を書くのが日課なんです」


「ああ確かに、あの時も喫茶店で原稿用紙を広げてましたね」


 正確には最近できたばかりの日課で、今後も続くか怪しいが。


「実はわたしも、ヒイラギさんと同じく〝原稿用紙に書く派〟でして、外を出歩く際は常に持ち歩いてるんですよ」


 確かに、学生用の鞄と違ってミフユさんの持つ余所行きらしき小さく可愛らしいバッグの口からは、収まりきらないのか、原稿が入っているであろうA4サイズの封筒の端が少し見えていた。


 こうして直に接している今でも〝ミフユ〟という作家のファンである俺は、彼女が自分と同じ執筆スタイルであることに素直に嬉しくなった。


「ミフユさんこそ、どうしたんです? その、学校は?」


「水曜日は授業が少ないんです。だから本当は友達と約束をしてたんですが、つい先程来られないとの連絡があり、どうしたものかと考えていたところにヒイラギさんが……」


 そこで先程のことを思い返したのか、ミフユさんはまた微笑んだ。


「でも何故だか、ヒイラギさんが来てくれそうな気がしてました」


 そして良くわからない予言めいたことを口した。本当にそう思っていたなら、先程の反応は何だったのか。


「そうだ! せっかくこうして出会えたんですからヒイラギさん、ご迷惑でなければ少し付き合って下さいませんか?」


「付き合う……って何にですか?」


 俺は不必要な言質を与えるような軽返事しないように、詳細を乞う。


「水族館です!」


 ほら、聞いておいて正解だ。しかし、美女からいきなり水族館デートに誘われるだなんて、俗にいう「これなんてラノベ」だ。


「水族館って……サンシャインの……ですか?」


「ええ、サンシャイン水族館です!」


 俺は考える時間を稼ごうと当たり前のことを訊き返す。だが、


「はい……別に構いませんが……」


 悪足掻きの甲斐なく、結局上手い断り方を知らない俺は了承してしまう。先程あれだけ警戒したのは何だったのだろうか。


「でも、こんな時間にやってるんですか?」


「ええ、そこは問題ありません」


 そう言いながらミフユさんはバッグから大人二名分のチケットを取り出した。そこに記載されている営業時間を確認するに、どうやら3月から9月の時期は夜21時までやっているらしい。


「そうと決まれば行きましょう、ヒイラギさん」


 ミフユさんは軽快な足取りで建物入口へと続くエスカレーターに乗り込む。気持ちの整理がつかないまま、俺もミフユさんを追う形で下るエスカレーターに乗った。


 視界にはミフユさんの後姿。


 一応、間に一段空けた位置に立つが、それでも彼女との距離は近い。こうして間近で確認すると余計に彼女の大人っぽさが際立って見えた。前に感じた甘い香りも今日はより一層強く感じられ、着実に俺の思考力を奪っていく。


「ヒイラギさん、良かったです。ヒイラギさんに会えて……」


 そう言いながらミフユさんはやや振り向き気味にはにかんだ。見えた彼女の横顔に、俺は思わず視線を逸らす。薄くだが化粧をしているのか、唇がほんのりと淡く色付いていた。


「チケット、先に買ってしまってましたから。友人から連絡があった時にはどうしようかと」


「それは、お役に立てたのであれば……ああ、そうだ! チケット代!」


「いえいえ良いですよ。いつもごちそうになっていますし、そもそも急なお願いでしたから」


 ミフユさんは両手を後ろに回し、頑として受け取らない身振りをした。いつもは俺が押し通しているだけに、その所作はやや大仰としている。こんな足場の悪い所でひと悶着起こし足を滑らせては大変なので早々に折れることにした。


 その意が伝わると、ミフユさんはまた嬉しそうに微笑んだ。


「ミフユさん、わざわざ着替えて来たんですか?」


 表情も相まって、より女性的な印象に写るミフユさんを前に、俺は何かを誤魔化すように質問をする。


「ええ、時間がありましたから」


 ミフユさんは振り向いていた顔を正面に戻すと、後姿でそう短く答えた。


 私服姿を見て純粋に思っただけのことだが、前回のことで警戒でもされているのだろうか。表情が見えなくなってしまったので伺い知ることはできない。別にここで「土曜は制服なのに?」とか続けるつもりはないのだが。


 サンシャインシティという巨大な複合商業施設は4棟の大型ビルから成っている。俺はほとんどミフユさんに付いて行く形で入口から複雑な道を進み、エスカレーターやエレベーターを乗り継ぎながら目的の水族館があるワールドインポートマートビルの最上階に辿り着く。


 平日ということもあり受付の順番待ちはそこまでではなく、俺たちは割とスムーズに館内に通された。


「ヒイラギさん。わたし、こっちのコーナーを見たいのですが、良いでしょうか?」


 ミフユさんは受付で受け取ったパンフレットと入口から直ぐの二手に分かれる案内板を交互に見比べ、右手の方角を指差す。


 ミフユさんがかざすパンフレットの表記では右のコーナーでは主に水槽の魚や、イカやタコ、クラゲといった生物が見られるらしく、反対の左は屋外に繋がっており、そこではペンギンやアシカ、鳥類といった動物がメインになっているらしい。


「別に構いませんよ。僕のことは気にせず見たい場所を見て下さい」


 それに俺も強いてどちらかと問われればミフユさんと意見が合致する。


 水槽のコーナーは全体的に薄暗く、水槽の青白い灯りが辺りを怪しく照らしていた。


「ヒイラギさん、ヒイラギさん! これ見て下さい!」


 ミフユさんはコーナーに踏み入ってまず最初に目に入った水槽に駆け寄り、ぴたりと張り付く。水槽の中には地面から突き出すようにして無数のミミズのような細長いフォルムの魚がゆらゆらと蠢いていた。水槽の説明札には「チンアナゴ」とある。


「これっ! うふふふ」


 何が可笑しいのか、ミフユさんはその不気味な生物の群れを眺めながら微笑んでいた。


 まあ、割とわからなくもない。俺だって暇な時にYoutubeとかで不気味な深海生物の動画とかを延々と見てしまう時がある。その心境は言語化し難いものだが、本質的に人間にはそんな趣味があるのだろう。


「可愛いです……」


「ええ? そうですか?」


「はい、可愛いです」


 そこまでは共感できなかった。


 俺はミフユさんの真横に並ぶと一緒にそのチンアナゴとやらを眺める。なるほど、興味深い。これはこれでしばらくは見ていられそうだ。しかし、これでは本当にただのデートみたいだ。実際、一緒に水族館を回る以外の目的はないのだが。


 気が付くと、ミフユさんは肝心の生き物ではなく俺の横顔をじっと見つめていた。


「あの、ミフユさん。僕ではなく魚を見ませんか?」


「ええ、それもちゃんと見てますよ? でもなかなか見れないじゃないですか。こういうのも」


「僕の顔ですか? それなら喫茶店で嫌という程見ているでしょう」


「いいえ、こうしてヒイラギさんが水槽を興味深く眺めている様子をです」


「は、はぁ……」


 俺は意図がわからず、間抜けな返事を返す。


 こういったことも彼女の執筆活動の一環なのだろうか。それならば……、


「では、次は僕の番ですね」


 俺はそう言って、ミフユさんの視線を水槽へと促す。


「えっと……」


 ミフユさんはやや戸惑い気味に、それでも自分が先にやってしまった手前断ることはせずに素直に水槽へと視線を戻した。代わりに俺はミフユさんの横顔を眺める。


「…………」


「…………」


 しばし無言の時間が流れる。


「あ、あの……やっぱり、やめましょうか」


 ミフユさんの方からギブアップの申し出があった。薄闇でもわかるくらいに顔を赤らめている。


 よろしい。他人の気持ちは、自分がその人の立場になってこそ真に理解できるというものだ。それが彼女にもわかって貰えただろう。


 それから順路通りに水槽を見て回り、最後にアーチ状の水槽をくらげが泳ぎ回るコーナーに差し掛かった。ミフユさんはそれを見つけるなり俺を置いてやや足早にそのアーチの中へ踏み入る。


 俺が追い付くと、その幻想的ともいえる情景にミフユさんは「ファンタジーです……」と、小さく漏らしていた。


 俺にとっては未だ謎の多いミフユさんこそファンタジーだと思った。

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