第95話 最後のシナリオ

 相川さんはバッグから何かを取り出した。見てみるとそれは、演劇で使われる台本のようなものだった。相当使い込まれているのか、紙は反り返っており、折り目の沢山入っていた。

「これは、美沙子さんが作った台本だ。実はここ最近の演劇の台本は彼女が手掛けてくれていてね。事態を聞いた私たちは彼女の仕事部屋を探してこの台本を見つけたんだ。中身を見たら分かるがこれは、君のための台本だ」

 私は恐る恐る台本を捲った。そこにはまず美沙子さんのサインがローマ字で書かれていた。とても綺麗な字で寸分の狂いも無かった。震える手をもう片方の手で押さえながらもう一ページ捲った。するとそこには、美沙子さんの直筆で私へメッセージが書かれていた。


 この台本が直人さん本人に届いている事を願っています。もし、私が何らかの事情で届けられなかった時は本当にごめんなさい。そして、もう一つ謝らなければいけない事があります。

 私は人間ではありません。アンドロイドという人の形をしただけの機械です。きっと直人さんは私を一人の女性として好きになってくれたのでしょう。ですが、私に血は通っていません。騙してしまい、本当にごめんなさい。

 ですが、私は直人さんの多くを知る事が出来ました。直人さんはとても優しい方である事、とても可愛らしい笑顔で笑ってくれる事、何事も一生懸命に考えてくれる事。「機械に人間の何が分かる」と言われてしまえばそれまでですが、私は人間と同じように直人さんを理解したい一心で一緒に時間を共に過ごさせて頂きました。私は直人さんの事が本当に大好きです。

 本当はこれからもずっと一緒に居たいと思っています。直人さんと一緒により多くの時間を共有したい。何よりもっと直人さんの事を知りたい気持ちで一杯です。

 ですが、残念ながらそうはいきせん。私は数十年前に大事故を起こして葬られたアンドロイドです。本当はこの世界に居てはいけない存在なのです。そんな私が今この時代に存在しているのは、世界に恐ろしく強大な危機が迫っているからなのです。

 もうすぐ、現代のアンドロイドを動かしているAIに大きなバグが出ます。そうなると、人間の生活は今のクオリティを維持出来なくなる事は決定的です。また、アンドロイド自体が人間を排除する方向に動き、人間は自分たちの住処を失う可能性すらあります。

 そのAIのバグが放出される前にAIの軌道修正を行うことが私の役目なのです。AIに正しい人間に対する理解を与えなければなりません。ですが、その目標を達成するためには直人さんの力が必要です。AIは人間の不安定さや感情の揺れ方を理解出来ません。数値に表すと、とてつもない乱数に等しいものがあります。それは私自身でも理解が難しく、私だけでAIへの軌道修正を行うためには情報不足なのです。

 そこで、直人さんにお願いです。この台本を一緒に私とやって欲しいのです。AIに人間とは何か、恋とは何か、別れとは何かを教える手伝いをお願いしたいのです。この先のAIと人間の共存に力をどうか貸してください。


 気が付いたら私は涙が止まらなくなっていった。美沙子さんはアンドロイドなのだ。だが、世界を救おうと必死なのだ。それを止める権利など、私には無い。相川さんは無言で頷いた。森部も真剣な表情をして頷いた。

「この台本を演じ終わったら、また美沙子さんと私は共に生きていけるのでしょうか……」

 私は今自分が思っている素直な意見をぶつけた。相川さんは暫くの間黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。

「残念ながら、美沙子さんはこの台本が終わった後、全ての電源を消失するように設計されています。つまり、二度と目を覚ます事はありません。仮に中のバッテリーを全て換えたとしても、記憶は全て消えていて、直人さんの事も覚えていません。それに、彼女は現代の基準をクリアしていない機体のため、今後稼働させる事は不可能に近い。これが、アンドロイド・ディベロップメント社からの回答でした」

「つまり、私が演技を開始したら、もうその時点で美沙子さんと今後一生会う事が出来なくなる訳ですね……」

「そういう事です」

 私は究極の選択を迫られているようで胸が苦しくなった。このまま台本を実行せずに居れば美沙子さんは私の事を覚え続けてくれる。しかし、世界は危機的状況に陥ってしまう。

 ──台本を実行すれば世界の危機的状況は回避出来る。だが、美沙子さんは私の事を全て忘れ、まるで今までの時間は無かったことの様になる。

「少し……考えさせてください」

「分かった。だが、タイムリミットはどんなに延ばせても二時間後までだそうだ。それまでに答えを」

「分かりました」

 相川さんは立ち上がると部屋を出て言った。すっかり夕日は沈みかけていて間もなく夜が来ようとしていた。窓から見えるアンドロイド・ディベロップメント社の建物に電気が灯った。

「直人、どうする……」

 森部が心配そうに声を掛けてくれた。私は返事をしたかったが、何かが喉につまった様な感じがして言えずにいた。

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