第2話 割烹一村/Japanisches Restaurant Ichimura

新しい年がはじまる。

1月1日の経済新聞、大企業社長や業界弾代代表の年初の挨拶、経済誌の今年第1号、どれを見ても今年は激動の一年になるそうだ。

ある経済誌曰く、だから変化に対応できるよう破壊とイノベーションを不断に行わなければならない、ある社長曰く、だから企業はしがらみにとらわれない経営が必要である、あるコンサルタント曰く、だから各個人はたゆまぬ自己研鑽に励まなければならない、以下同文、以下同文。

去年も一昨年も、もっとずっと前にもおんなじこと言ってなかったっけ。

要するに今年もいつもどおり激動で、要するに今年もいつもどおり前例に従っちゃいけなくて、要するに今年も去年と一昨年とそのずっと前と同じってことでいいのかな。

件の大会社社長は今日だけは変革のリーダーたらんと鼻息荒いけど、明日からは社員の提案をこんなの前例がないじゃないか、と鼻息荒く握りつぶすのだろう。毎年起こる恒例行事。こうしていつもどおり新たな年がはじまった。


松の内は15日までだが、門松は2日、すなわち今日仕舞うことにする。

三が日さえ終わっていないが、ヨーロッパの年末年始イベントのメインはクリスマスであって、ニューイヤーは盛り上がるといっても2日から仕事始めの企業が少なくない。この街の人間がどこまで門松を理解しているか不明だが、文化委託の対象は拡大の一途をたどり、金閣寺や法隆寺、姫路城といった文化的建造物のみならず、無形遺産まで国際都市ミリオポリスは引き受けるようになった。

もっともこの街はこれまでも保全金と社会保障の報酬として日本の漢字名を名乗らせていたわけで、門松や注連縄が街で見られるようになったところで今さら誰も気にしない。

正月飾りを仕舞い、私は厨房に向かう。


水を入れた鍋に昆布と鰹節を入れる。

昆布は羅臼、鰹節は本枯節。

うちはどんなメニューであろうと必ず食事の締めに味噌汁をつける。味噌汁がなければ食事が締まらない。ほっとさせるお袋の味。

客に愛しているとは言えないけれど、うまい味噌汁が客に私の愛を伝えてくれる。愛とはちょっと大げさか。でも客に心和むひと時を過ごしてほしいという思いに嘘も偽りもない。

今日はなめこ、それと里芋としめじの味噌汁。

出汁は深い味にしたいからしばらく沸騰させる。アクは丁寧に取り除かなければならない。そうしないと雑味が出る。しばらく煮出すと汁が澄んでくる。厨房が昆布と鰹の香りに満たされる。

かつてヨーロッパ人は昆布の海洋臭や鰹の魚臭が苦手だったが、和食の健康性が注目されて久しく、今では確固たる料理のいちジャンルの地位を確立、昆布も鰹節も晴れて市民権を得た。

昆布と鰹の旨味が詰まった出汁は琥珀色に輝く。

今日も上出来。

割烹といえば聞こえはいいが、実際のところ居酒屋に毛が生えた程度。それでも、出汁の手は抜かない。何でも作るけど、基本は和食だから。出汁がまずいとどうにも納得できる仕上がりにならない。

出汁から立ち上る香気。大きく深呼吸。肺胞まで満ちていく昆布と鰹節の香り。毎日の習慣。高まる気持ち。今年もおいしい料理を作れそう。


国際都市ミリオポリスの一角にあるリトルトーキョーに、「割烹一村」、すなわち私の店がある。

一村がある一角は、文化委託により新宿という東洋の街から移設されたエリアで、かつて「ゴールデン街」と呼ばれていた。果たしてこんな街が保全に、というか保全の報奨として支払われる莫大な保全金に見合うのか、国連の意思決定機関である安全保障理事会では喧々諤々の大激論が繰り広げられた。だが、時のアメリカ合衆国大統領がじつは隠れゴールデン街ファンということが明らかになり、うやむやのうちにゴールデン街は保全リストに滑り込んだのであった。衰えたとはいえ依然として世界最強の国。権力政治のおこぼれで街は生存。

当初の経緯はともかく、ゴールデン街は一部のヨーロッパ人のハートと胃袋を鷲掴み、周囲の景観とまったく合致していないが、それはそれとして、ミリオポリスの貴重な外貨獲得源として重宝されている。

そのおかげで排外主義あふれるこの街において、ゴールデン街は人種差別主義者からも歴史修正主義者からも攻撃されないという不思議な治外法権を獲得した。


軒先に人間の身長ほどもある大きな提灯を吊るす。この店のトレードマーク。

「準備中」の札を裏返して「商い中」に変える。店先のランプをつけると、オレンジ色の光がぽぅっと灯り、「一村/Ichimura」と書かれた一枚板の看板を優しい色で染め上げる。

店内はカウンターのみで席は10席。

カウンターは黒松、柱は欅。

取り壊される日本家屋から骨董品や資材を買い集めることが好き、という酔狂なフランス人に分けてもらった貴重な素材たちである。かれこれ二〇〇年以上使われていたものらしく、磨きに磨かれた黒松と欅は黒く艶がかっている。

フランス人は同じヨーロッパ人から見ても変わり者だが、何世紀にもわたって培われた彼らの審美眼は信頼できる。

私が抱いていた夢。

湯気が立ち上る温かい食事で張り詰めた人々の心を優しく解きほぐしたいという夢。

それには食事が供される空間も大切だ。温かい食事は柔らかくて綿のような空間の中で供されなければならない。


新年最初の営業ともあって今日は常連さんがひっきりなしに訪れた。

店は狭く満席でも10人とはいえ、一人でさばくのは大変だ。それに皆おしゃべりで、私にも会話にはいるよう要求してくるものだから、機械のように調理だけをこなせばいいわけではない。

もっとも昨今の機械は愛想をふりまくのも上手なのだが。

常連さんが陽気に酔っ払い、その陽気さが店に活気をもたらす。そういう陽気な酒飲みに私は生かされている。ありがたい話だ。

やがて常連さんたちも引けてきた。

そろそろ今日は店じまいかな、と思っていた頃、彼女、すなわち馬渕みゆきがやってきた。常連、というほど頻繁にではないが、ちょいちょい顔を出してくれる。来るのは閉店を意識しはじめる時間帯が多い。

「あけましておめでとうございます」

「どうもー。今年もよろしくお願いしますね」


彼女がこの店に来るようになってどのくらい経つだろうか。

とあたかも長い歳月を振り返るような気持ちになったが、実際のところけっこう最近の話だ。まだ半年くらい。

今日と同じように常連さんたちでひとしきり賑わい、そろそろ店じまいにしようかと思っていた頃、彼女は一人で店に入ってきたのだった。

若い人だ、と思った。

だけどずいぶんと疲れているな、とも。

長い髪はわずかにブラウンに染められている。

ネイビーのスカートにホワイトのカットソー。ジャケットはグレイ。清潔感を与える、ビジネスマナー講師が100点をあげるコーディネートだろう。

顔立ちは東洋系。リトル・トーキョーに住むかもしれない。推奨されるビジネスウェアでまとめているあたり、きっと真面目な子なのだ。

それもまた日本人を連想させる。

扉から見て左奥の席に座ってもらう。

温かいおしぼりを渡す。


「——メニューいただけますか」

と聞く彼女に対して、

「ねぇ、何が好き?」

と私がたずねる。

当然うちの店にもメニューはあるが、私は客の好みを知るのが好きで、たいていの客にこうたずねる。メニューにはなくても、食材があれば即興で作ってあげる。

質問を理解しなかったのか、彼女は目をキョトンとさせる。

「好きな食べ物あるでしょ?」

「えっ、好きなものですか?」

声を尻すぼみにさせながら、彼女は問いかけに対して問いかけで返す。

「そう、好きなもの。小さい頃好きだったものとか、思い出のある食べ物とか。なんでもできるわけじゃないけど、好きなものや食べたいもの食べるのが一番でしょ?」

彼女は依然として怪訝そうな表情。そんなこと聞かれると想定していなかったからだろう。

まあ、メニューを出さずに好きなものを言え、と聞く店はたしかに少ない。

が普及した今日においてはなおさら。

そういう店は健康コンサルタントが推奨する低カロリー・低糖質メニューを提供することが一般的。食事は己の欲求を満たす行為ではなく、より望ましい自分になるためのプロセスの一部となった。脂質と糖質が高い料理を頼もうなら、同席者はおろか人工知能からも軽蔑の眼差しを向けられる昨今。個人主義と自分らしさが尊重される時代といいながら、その実、空気を読んだ自己検閲が尊ばれるこの時代。

そんな時代において「好きなものを食べる」という行為は淫靡で背徳的な響きさえ持つ。

だから面食らう。慣れない質問をされた女はしばし考え込む。

「じっくり考えてもらっても大丈夫だよ。大切な食事だから、むしろじっくり考えたほうがいいよ。思いついたら呼んでね。あと、そこの漬物は好きにつまんでいいから。」

こういうときは問答無用で考えさせたほうがいい。

ちゃんと定番メニューはある。今日のおすすめだってある。答えを出すのが苦手そうならメニューを渡す。

でも、先にそれをしちゃうと、じゃあそれで、ってなっちゃうから、まずは自分で好きなものを考える時間を持ってもらいたい。

他の客から追加注文はなさそうだから、私は明日の仕込みをするために厨房に戻る。それに目の前で待たれたら彼女にとってもプレッシャーになってしまう。


「どう、決まった?」

「本当に好きなものを頼んでもいいんですか?」

店主のすすめに応じて素直に好きなものを言ってしまっていいのか、未だに半信半疑のご様子。「なんでもできるわけじゃないけど、たいていのものは作れるよ」

「あ、あの、じゃあ、揚げ出し豆腐。それと —— 鶏のつくね鍋ってできますか」

「はいよ」

そうそう、大事なことを言わないと——

「外の看板に書いてあったからわかってるかもしれないけど、うちは店内でを使うのを控えてもらってるの。ちょっと不便で申し訳ないけど、食事の間くらい浮世のことは忘れてほしくて。その分おいしいご飯作るからがまんしてね」

うちの店内にはBGMもない。

食器が立てる音、人の話し声、私が食材を切り調理する音、何かしらの音が常に存在するから気詰まりになることはない。むしろ、そうした人が発する音が適度な活気と人がいる温もりを生み出す。

私はそれをお客さんに感じてもらいたいのだ。


水気を切った木綿豆腐に片栗粉をまぶして揚げる。油がはじける。

横目で彼女を見やるとやや所在なさげに店内を見回している。拡張現実端末を使えないから空白の時間を持て余しているのか。

こうした端末がない時代、人はどうやって時間をつぶしていたんだろう。はるか昔の話ではないはずなのに、まったく想像ができない。連れがいる人はおしゃべりでもしたはずだ。一人客はデッドメディアになりつつある紙の本でも読んでいたのか。


出し汁を強火で熱し、にんじんやしいたけを加える。

水溶き片栗粉でとろみをつけ、揚げた豆腐とほうれん草の入った器に出し汁を注ぐ。最後にしょうがと白髪ねぎを添える。熱々の豆腐に熱々の出し汁。

萩焼の中鉢で出す。

この店の器はすべて萩焼。地味だけど地の色が生かされ、素朴で力強い。使い続けると徐々に色合いが変わるのもいい。

徐々に、がいい。ゆったりとした時間を演出するうえで、萩焼はいい。

「熱いから気をつけてね。」

熱々の豆腐に彼女が箸を入れる。一口大の切った豆腐を口元に寄せ、ふー、ふーと息を吹きかける

「ハッ、ハフッ、ハフ」

あまりの熱さに彼女が口を押さえる。手のひらで隠した口をパクパクさせる。

出来立てだからまだ相当に熱いはずだ。

熱さにもだえながらも彼女は豆腐を喉に滑らせた。

衣は適度に出し汁を含み、口の中に出汁の香気を広める。

ふー。

吐く息に湯気がまじる。

熱さの衝撃はまだ収まらないが、脳が平静を取り戻そうとする。

熱さを受け容れると、味がわかってくる。

出汁がきいている。

ふー。

もう一回息を吐く。

今度の吐息は熱さのせいではない。

出汁の旨みによって引き出された脱力の合図。


「熱いでしょ。大丈夫?」

「すごく熱かったです」

彼女の肩から力が抜けている。偶然とはいえ揚げ出し豆腐はいい選択だった。

熱さで一瞬我を忘れると同時に脳みそに居座る何かが一気に消えたようだ。

意識を選択に例える人もいる。

脳みそから本当に消えたわけではないが、より大きな衝撃によって認知の優先順位が変更させられる。集中していると指の骨折に気付かないのと似ている。風邪をひいても気が張っているときは頑張れてしまうのも同様か。

何かしらもやもやしたものが彼女の脳みそにこびりついていても、熱い!というシグナルがそれをどこかに吹き飛ばす。

彼女がもう一口、二口はふはふしながら豆腐を口に入れるのを見届け、私は鶏のつくね鍋にとりかかる。

うちに来るお客さんにはゆっくりしてもらいたい。

だからわざとゆっくり準備する。

「どれくらい食べる?」

うーん、と少し考えたのち、

「少し多めで」

と彼女は答えた。


鶏もも肉をこまかく刻み、ネギや卵、生姜の絞り汁、そして醤油などの調味料を加える。

一人用の土鍋に少しだけ出汁を引き、水を足して昆布を入れる。鍋に火をかけ、ごぼうを入れる。

豆腐を入れてもいいが、すでに彼女は揚げ出し豆腐を食べている。

彼女はちょっと多めといったが、締めの雑炊も食べてもらいたい。多めとはいっても量はほどほどにしたほうがいいだろう。

鶏団子は直径3センチほどの大きさに絞り出し、鍋にそっと静かに落とす。アクは丁寧に取り除く。鶏団子に火が通るまでことこと煮続ける。

火が通ったら、えのき茸、せり、こちらにもネギを入れて出来上がり。

鍋を作っている間、彼女は何を考えていたのだろう。

腹が満たされたせいもあるだろうが、おずおずと所在なさげにしていた感じは、もうなくなっている。


「できたよ」

土鍋をそっとカウンターの上に置く。

揚げ出し豆腐以上に熱そうな一品。

まずはそっと蓮華でスープを一口。

——— ふーぅ。

揚げ出し豆腐以上に深く長く吐き出される息。

美味しさが体に染みていく過程で意図せずこぼれ出るゆるみの表出。

出汁に鶏と野菜の旨みが溶け出し、味に深みが増している。それぞれの素材が互いの味を引き出し、ひとつの料理へと昇華する。女は口内の幸福な余韻に浸っている。

「ゆっくり食べて。この時間だともうお客さんはこないしね」


という一言を覚えているのかいないのか、彼女はよく閉店を意識し始めるこの時間に来る。

今では胸襟を開いてくれて、聞きもしないのに近況をあれこれ話してくれるようになった。悩みや愚痴も言ってくれるようになった。

仕事はきっと忙しいはずだ。遅い時間に来るのは初来店の記憶ばかりではないだろう。それでもしばしばお店を訪ねてくれるのは、素直にうれしい。

それに———

彼女の表情は朗らかになった。口には出さないが、はじめてこの店にきたときの彼女の顔はひどかった。とても疲れていた。

率直に言えば、生気がはっきり欠けていた。

本人もこれではいけない、という自覚はあったのだろう。

己の気持ちの持ちようで世界の見方は変わる、そうすれば新たな地平が開けて人生を楽しめる、という似非科学の影響を受け、思い切って繁華街に繰り出したものの、一人で店に入る勇気もなくただハイヒールのかかとをすり減らすばかり。

時間は無情に経過して、閉店する店も現れて、いい加減入る店を決めないと帰宅時間が遅くなる。選択的意識調整剤で睡魔を自覚せずに働けるとはいえ、健康には悪い。

人生を謳歌せよというノイズと自分を律して真面目な人間にならなければという義務感のせめぎ合い。楽しむはずがますます辛くなる。

持てる勇気を振り絞って入ったのがうちの店だった。


「あなた、本当はちょっと後ろめたさを感じているんじゃないの。」

「今だって頭の片隅で明日の仕事のことを気にしているでしょ。こんな遅い時間に一人で外をほっつき歩いてていいのかって。寝不足になって、明日の仕事に支障をきたすんじゃないかって。何かを楽しもうとしてもあなたの脳みそがあなたにそんな堕落的なことをしてていいのかってリミットをかける」

「でもさ、そんなに頑張って、ちょっとうまい飯食べたからって、それがそんなに罰当たりなことなのかな」

はじめての客にもかかわらず、あのとき私は彼女についそう言ってしまった。

人と適度な距離感が求められている今日において、ずいぶんとプライベートな領域に踏み込むような発言をしてしまった、とやや後悔した。

でも結果的にはそれがよかったのだろう。彼女はこの店に繰り返し来てくれるようになった。


純度100パーセントに辛さのない世界も、純度100パーセントで楽しさばかりの世界も、純度100パーセントで自分らしくある世界も、そんなものはこの世に存在しない。

辛いのは心の持ちようのせいだけじゃない。どんなに努力したってこの世は輝きだけにはならない。輝くときもあれば輝かないときもある。

でも、100パーセント常に輝いていなければならないのか。

たまにうまいもの食べて、うまい、幸せだって思うだけじゃダメなのか。

大事なのは、日常にわずかでもいいから自分が楽しいと思える一時を持つこと。幸福を左右するのは得てしてそういうものだ。

美味しい料理は最善。心の有り様で世界はとても美しくなるなんてめんどくさい精神修行をするよりも、うまい料理を食べたほうが手っ取り早い。

美味しさは正しさだ。

自分の心身に残る不完全さという染みを嘆くより、うまい飯を食べた、というささやかな喜びを積み重ねてほしい。


私がこんなことを考えるようになったのは理由がある。

敬愛する人の影響。

まったく陳腐な話だけど、本当の話。

ある日突然、家の転がり込んできた少女。いや元少女。

依然として20歳には満たないが、「特甲児童」と呼ばれる彼女を含む武装化された少女たちが活動をはじめて数年経過した頃。この街で彼女を知らない者はいない。

彼女たちが使用する重武装が犯罪者たちの人権を損なっているのではないか、という批判をかわすために時折開催される愉快で可愛い<妖精たちの小歌劇>。ウィキペディアには彼女たちのプロフィールが事細かに紹介され、下着を含むたくさんの写真も貼り付けられているものだから、ファイルサイズはゆうにギガを超える。

その彼女が家に転がり込んできた。

かなりの重傷。

いろいろ批判はあるけれどこの街を守ってくれているのは事実。

ごたごたに巻き込まれるリスクを恐れる両親をよそに私は彼女を手当てした。

以来、ちょっとした交流を持つようになった。

直情的な性格ながら、彼女は彼女なりに深い悩みを抱えていた。

世界を救いたいと願った特甲児童は、世界の救済が一筋縄でいかないことを学んだ。どれだけ悪を己の拳で打ち砕いても次から次へと溢れ出す悪の後継者たち。救ってみたところで救われた人間が善行に励むわけでもない。己の犠牲のわりに得られる対価の少なさに少女は苦悩した。

そんな彼女を私の料理が救っていた、らしい。

私は子供の頃から料理は好きだったし、元来凝り性の性格。その頃はスーパーで普通に売られている昆布や鰹節を使っていたが、それでも丁寧にやれば相当にうまい出汁になる。

うまい飯は五感に直接訴える。

最強の特甲児童もうまい飯にはかなわない。凶暴な獣もうまい飯の前ではトイ・プードルに変貌する。うまい飯は人に安らぎを与える。

「案外世界を救うってこういうことなのかもな」

五体不満足で生まれ、闘いを余儀なくされた特甲児童が行き着いた深遠なる悟り。

うまい飯を食べてくつろぐ彼女が発した一言が、私の人生を決めた。


今日も遅めの時間にやってきた馬渕みゆきに、

「今日は何にする?」

と聞くと、

「牛フィレ肉のロッシーニ風」

「はいよ、焼き加減はレアでいいかな」

「えっ、えっ、できるの?」

「できるよ。ご存知のとおり、うちは締めが必ず味噌汁だから、ちょっと食べ合わせが悪いけど、フレンチもわりと自信があるんだよ」

と、私はフリーザーに向かう。

「うそ、ちょっと待って。ごめん、今の冗談だから。まさか本当にできるとは思わなかった」

彼女も冗談を言えるだけ、この店に馴染んでくれたということだ。うれしくなる。

「この前来た時におまけで出してくれた肉豆腐はないの?」

「あるよ。けっこう評判よかったから定番で作ることにしたの。それから七味も作ってみたから試してみて。唐辛子は少なめにしているから、たっぷりかけてもそんなに辛くならないよ」

「へー、七味なんか作れちゃうんだ」

「けっこう簡単に作れるんだな、これが。だいぶ日本食材が定着したとはいえ、美味しい七味をこの街で手に入れるのは大変だから。作ったほうが手っ取り早いの」

自分で言うのもなんだけど、この肉豆腐は甘辛いたれに牛の脂が溶け出てしみじみとうまい。抜群にうまいわけではないところがいい。毎日でも食べられる。定番とはそうあるべきだ。お手製の七味を加えると香ばしさが鼻をくすぐり、味はより芳醇さを増す。いくらでも食べられてしまいそう。

「お代わりしてもいい?」

と彼女が笑顔で聞く。

「どうぞ。もうこの時間だからそんなにお客さんは来ないだろうからね」


肉豆腐とお茶漬け、締めの味噌汁——今日はけんちん汁——をきれいに平らげた彼女は、で支払いを済ませ家路についた。

美味しいものを食べる至福の時間。

日常にわずかでもいいから自分が楽しいと思えるひと時を持つこと。幸福を左右するのは得てしてそういうもの。

いろいろ問題のある街だけど、それでも生活の利便性は向上した。

何世紀も前のように貧困や飢餓で死ぬ人間はほとんどいない。それはそれで社会としての成熟だとは思うけれど、そのぶん社会は人間個人の成長に目を向けるようになった。

かつてのように社会がひどければ、自分の不幸を社会のせいにできたし、周りもそう理解してくれた。

でも、今は違う。

外的要因がなくなったにもかかわらずその人が不幸だとすれば、それはその人自身の責任に還元される。

現実には外部要因の制約は大きい。生まれがその人の将来を左右することも多い。けれど、社会はそれを個人の怠惰を棚に上げた責任転嫁だと糾弾する。

いつも自分を律していなければならない社会。

ちょっとした欲望を持つことさえ後ろめたく感じる、なんとも世知辛い時代。

そんな世界を私はひどいと思うけれど、変革を起こして世界を救うには私はあまりに非力だ。でも、一時の幸福を提供することくらいならできるはず。

私はそう思ってこれからもおいしい料理をつくり続ける。

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