愛の哲学(フィロソフィー・ラブ)

獅柴

序話 真夜中の邂逅


 月の光が道を照らしている。街頭は有るが、電球が切れそうなのだろう。ちかちかと風前の灯火のように光を瞬かせて、ばち、と消えた。

今度こそ月の光のみが道を示していた。それでも薄く雲がかかった月の光は弱くて、このまま身体が闇に埋もれてしまいそうだ。

そんなことは怖くない。ものの数時間前まで見てきたものよりは怖くない。

狂気の箱庭と形容するのが適切であるような、地獄絵図とも判断できそうなあの光景が脳裏に焼き付いて離れない。


 人ならざる者達との遭遇。 超常現象と例えるには目に余る景色。

己の精神がすり減って、すり減って逆に自信家になって誇大妄想すら繰り広げた位には恐ろしかったあの光景。

あれより怖いものなんてこの日常の中にはないだろう。

普通の人であればまずしない深夜徘徊ふしんこうどう。それすらも精神を落ち着かせるための行動で、自らを精神分析した結果。


それがこの新雪抹茶あらゆき みどり、僕の日常的な習慣。




「あのー、ちょっといいかな?」

 …? こんな時間に、誰だろう。 振り向けばそこには、僕よりも少し…いやそこまで変わらないけれど。 少しばかり背の低い男の人が立っていた。こちらを見ているのだから、間違いなく僕を呼び止めたのはこの人だろう。

ワイシャツに、少し薄めの生地のベスト。半分ほど開かれた切れ長の目は錆色で、眠そう、気だるそうというよりは少しばかりおっとりとしたような穏やかな印象。

月の光に照らされた髪は若干褪せた金色で、穏やかそうな割には髪色がやんちゃ感あふれる様子だった。

「はい?」

「君だよね、夜中に徘徊してる男の人って」

「……えーっと…、他にそういう人がいなければ、僕です」

 深夜徘徊する人なんて、僕か本物の不審者くらいしかいない。どうしたんだろう?

そう考えていれば、目の前の男性は僕に掌を掲げた。

――正確には、手に握られた革張りの、手帳のようなもの。


「オレ、警察官こういうものなんだけどさ。こんな時間になにしてるのかな」


 金色の旭日章が光るそれはまさしく警察手帳だった。ぱたりと軽い音をたてて閉じられたソレに記された、彼の名前は分からない。しかし、ちらりと見えた顔写真は確かに目の前の男性と一致していたから、こんなナリでも確かに警察官なのだろう。

数秒前の思考を思い返す。

深夜徘徊をする人なんて、僕か……本物の「不審者」しかいない。まさか、まさか。


「近隣の人から連絡があってね。――少し、話を聞かせてくれない?」

「……あー…あはは、は」


 違うんです。口から漏れ出したそんな言葉と、微かに一歩後ずさったその行動がまずかったんだろう。彼は確かに僕の手に――カシャリ、なんて小気味いい音を立てて手錠をかけた。

「どこ行こうとしてるの?お巡りさんも付き合おうか」

「ほ、本当に違うんです、僕はただあの、その」

「何が違うのかなー」

 ずるずると引きずられるようにして歩かされる。振りほどこうと思えば振りほどける。けれどそうしないのは、そうすることで余計あらぬ疑いを掛けられそうだから。

だがこのまま連れていかれたとしても彼に話せることは無い。だって信じるはずがないのだ、人間ならざる者を見たとか、宗教じみた思考の人物たちと戦ったとかそんなの。

 別に罪を犯した訳じゃない。 そうじゃないけど、うまく説明できるわけがないし彼がそれを信じるはずもない。だから逃げたいのだ。逃げられたら苦労しないけれども。


――ああ、僕はどうして…。




 

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