I know nothing.

都稀乃 泪

愛されたい、ただそれだけのこと。

「恋がしたい。全てを忘れるような恋を。」



なに、人間に恋がしたい訳ではない。“恋に”恋をしたいだけだ。


1度覚えてしまった心地良さを容易に忘れることなどできず、思い出の中で美化されながら生き永らえる。共に味わったはずの苦しみを忘れ、また心地良さを求める。悲しき人の性だ。


私の好きな台詞に

「カツ丼を食べたことのない奴が『カツ丼を食べれなきゃ死んじまう』なんていわないだろ?」

がある。まさに今言おうとしていることを的確に表現してくれている。

つまるところ私が言いたいのは、人間というのは一度知った快楽から逃れることが出来ない獣だということだ。


事実、こうして私は“恋”による心の充足を求めている。他のものでは埋められないのだ。


少し昔の話をしよう。私がまだ中学生だった時、初恋というものを経験した。頭の中が彼のことでいっぱいになり、無意識でも常に彼のことを考えていた。

恋をするまでに頭の中を埋めつくしていたはずの趣味やら勉強やら部活やらのことはどこかへ追いやられ、彼のことだけを考えていたと言っても過言ではない。

そして、そんな初恋も私が中学三年の時に終わりを迎えた。想いを一言も告げられぬまま、彼と私の間に出来た距離は広がっていった。

私の心の中から彼への想いが抜け落ち、大きな虚無が生まれた。昔頭を埋めつくしていたなんたらが私の心の虚無を埋めてくれることなど無かった。


ただ一度経験してしまった甘美な音色は、それほどまでに私を魅了し、次第に美化され、蓄積されていった。


そんな時、誰かが言った。

「失った恋の代わりに新しい恋を」と。


今思えば当時の私は無我夢中だった。彼が私の中にいる間は目に入って来なかった“彼”とは、SNS上で出会い、1度も顔を合わせたことなどなかった。だが、“彼”の優しい言葉は傷口を埋め始めていた。

そんな中迎えたエイプリルフール。私は親友の後押しもあり、「告白」と呼べるほどのものではないのかもしれないが、初めて“彼”に対して自分の想いを口にした。と言っても、メッセージだったのだが。

後日、彼から電話で返事を貰い、正式に(?)交際することになった。私は舞い上がっていた。その恋が“彼”へのものなのか、はたまた“恋”へのものなのか自分でも分からないままその“恋”にのめり込んでいった。


だが、そんな日々も突然終わりを迎えた。きっかけはたった一つのメッセージだった。それからお互い気まずくなって、やり取りも次第に少なくなり、いわゆる「自然消滅」という形でこの恋は終わりを告げた。

特に仲が悪かったとかではない。だから尚更私の中でその恋は美化されていった。


また生まれてしまった心の虚無は、前にあったものよりも大きくて・・・。今までの2度の“恋”と美化され続けた“虚”の思い出だけでは埋めることなどできなかった。埋めるには、小さすぎた。

そうして私の心に巣食った虚無は絶望を吸ってどんどん大きくなった。この頃には既に高校1年生も終わりを迎えようとしていた。



心機一転。クラス替えが行われたあとのことだが、小、中学と女子の恐ろしさを実感してきた私が男子と会話など交わせるはずもなく、仲のいい男子などいなかった。ただ、かろうじて部活の男子とは話すことができた。


新しく生まれた虚無が長く埋まらないことを深刻に見た脳は、部活の男子生徒Aに狙いを定めたらしい。Aのことは嫌いではなかったが、好きでもなかった。多分というか絶対、以前言いよってきた尻軽男とオーラというかなにか似ているものを感じていたのが要因だろう。

だが、脳に身体が逆らえるはずもなく、当時の私はAを意識せざるを得なかった。


だがそれはあくまでも“身体”の話しである。私の“心”はAとの恋を拒否していた。それが、失うことへの恐怖なのか、Aへの嫌悪感なのかは置いといて。

そうして“心”は一つの名案を思いついた。(まあ、身体としては頭にしろ心にしろ迷惑なことに変わりはないのだが。)当時の私には幸いなことに親友がいた。部活動で仲良くなった大人っぽい女の子Bだ。


当時の私は「愛されたい症候群」だったためか、中学の頃から“自分の一番”の中で“自分が一番”でなければ気が済まない人間だった。

他の人(たとえそれが女子であっても)とその子が話していれば嫉妬するし、独占したいし、尽くしたい。

そんな歪んだ愛情がおかしいことに対しての自覚はあった。それが恋愛感情なのかと悩んだこともあった。そこに焦点をあてた心は当時の親友への愛情を恋愛感情と脳に誤解させようとしていた。


結論からいえば、それは成功だった。だが、思い出を美化し、蓄積し、反芻し、心の虚無を誤魔化し続けてきた私が脳によって生み出された“恋”の過去を忘れられるわけがなく、結果として私はどちらも意識してしまうという最悪の結果に陥った。

まあ、どちらへの恋心も非常に曖昧で不安定な代物だったためか、さすが演劇部と褒めるべきなのか、他人にバレることはなかった。(はずだ、多分。)


当時の台本が“性的マイノリティ”というか、同性愛ものだったから私は役作りのために同性愛ものの小説を書いていた。と言っても、サブテキストと呼ばれるものにモノローグをつけただけの代物だったが。

そのおかげか所為か、異性と言うだけで意識してしまっていたAは私の中で次第に薄れていった。


だが、脳は危惧していた。同性愛は“いけないもの”であるから非難される可能性を。

「愛されたい症候群」は自分への自信のなさから発症したものだった。そんな私にとって、他人から非難されるということは“死”を意味する。そんな中で本当にこの気持ちを育てていいのか、と。


だが、もう身体は止まらない。Bと話した時に感じる感覚は今まで経験した感覚とは全くの別物で、あえて言葉で表現するとしたら「暖かいものが身体にスっと入ってきて溶けていく感覚」。

この感覚には覚えがあった。それは中学の時に尊敬していた先生から褒められた時のこと。自分に厳しく他人にも厳しい先生は、滅多に人を褒めているところを見たことがない。そんな先生が褒めてくれたか、と言えば微妙かもしれないが「このクラスでプリントの問題を全て解けたのは坂谷さんだけです」と言ってくれたこと。その一言が嬉しかった。先生が私の名を呼んでくれたこと、そしてその言葉にはきっと「すごいですね」が続くだろと期待するのはさすがに自意識過剰すぎるだろうか?


まぁ、そんな充足した気持ち。それを彼女と話す時に感じる。そして、話終わったあとには一人反省会をするのも、私にとっては当たり前になりつつあった。

いつでも彼女のことを考えて、喜んでもらえることを期待して、彼女の好みに合わせて・・・なんて、こんなことをすることの原動力は“友情”なのか。



だが、そんなことを考えるだけ無駄というものだ。なぜなら、こんなに“劣っている”私が彼女の隣なんかには並べない。

それに、彼女は同性愛者を嫌っている。だから、この恋は叶うことなどない。


どんなに彼女と話しを合わせようと、彼女にとっては所詮“友人の一人”なのだ。

そもそも私は彼女の“一番”ではない。彼女にとっての一番はあの先輩かそれとも後輩か。はたまた同級生か。いや、いないかもしれない。彼女は平等に人を愛する人間だから。

いずれにせよ私ではない。だから、こんな嫉妬に苦しむ意味などないのに、あの甘美な音色を味わいたいがためだけに苦しみに踊る醜い私など見ないで。


代わりの人などもう見つけられない。だって、私の世界の住人はもう全員紹介し終わったからね。

Aでは彼女の代わりになどなりはしない。そもそもAは彼女が好きなのだから。



恋がしたい。そう、願ったのはいつだったか。今、私が願うのは「愛されたい。」美しき彼女と同じように、私も「愛されたい。」


その願いさえ叶わぬと言うのなら私を「楽にして」欲しい。あの甘美な音色の記憶を完全に消し去ってもう一度味わいたいなどと考えない、そんな陳腐な人間に堕ちてもいいから、この苦しみから逃れたい。

そう願ってしまうほどに私は疲れていたのだ。

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