Ⅴ.究極の成り行き

 慶福堂が所有する滋賀県高島市の料亭跡の前に立った芹沢は、想像を超えた立派な日本家屋の店構えに一瞬、圧倒された。

 敷地と道路を隔てる生垣をつたって控えめな佇まいの門をくぐると、まずは目の前に堂々たる屋号の書かれた大きな常夜灯が目に入る。すぐそばの玄関には造りの良い格子戸がはめてあり、重厚で艶があり年代を感じさせる。ここに掛ける暖簾は掛け布団一枚分くらいは必要と思われた。おそらく裏側には立派な庭が設えてあるのだろう。さらにその後ろに広がる琵琶湖を借景にして、訪れる客は湖畔の宿の情緒を存分に満喫したのだろうなと芹沢は想像した。

「――なるほど、先代が手放したくないとこだわった気持ちが分かりますね」

 芹沢の隣で腕組みをしながら建物をしげしげと眺めていた二宮が言った。

「日本情緒の極みです。売りに出すなんてとんでもない」

「そうも言ってらんねえんだろ」と芹沢は言った。「このままの状態で引き継いでくれる買い手がつくかも知んねえし」

「まあ、それはそうですけど」

「俺らみてえなしょぼい公務員が気にしてもしょうがねえよ」

 芹沢が諦めがちに言ったのを見て、二宮は肩をすくめた。

「ねえ、芹沢クーン」

 道路から声がした。芹沢たちに同伴してきた滋賀県警の女性警察官だった。ミニパトの運転席から顔を出し、日差しをまともに受けて目を細めている。少し茶色がかった前髪を綺麗に切り揃えて、背中でポニーテールを揺らしていた。

「あたし、戻らんと。上司から呼び出しかかったの」

「あ、ごめんよ歩美あゆみちゃん。助かった」芹沢は門を出て婦警に言った。

「忙しいとこ悪かったね」

「不動産屋には窃盗未遂事件の裏付けで前庭の足跡を調べるだけやから、きっかり一時間で引き上げますって言って門扉の鍵の暗証番号を教えてもらったんやし、そこは守ってね」

「わかってる。ありがとう」芹沢はにっこり笑った。「でもまさか立ち会わないなんて不動産屋もいい加減だな。こっちとしちゃそれで有難かったんだけど」

「年末で忙しいみたいよ。建物の中には入らへんのやし、一時間後に来て暗証番号を変えればいいと思たんやない。バッジも見せてるから信頼したんでしょ」

「そうかもな」

「じゃあ、あたし行くから」

 そう言うと婦警は門の奥から顔を覗かせている二宮に会釈した。二宮も会釈を返した。

「このお礼はするよ。今度飲みに行こう」芹沢が言った。

「あ、うーん、嬉しいけどやめとく」婦警は照れたような笑顔になった。「来月結婚するの」

「マジ? じゃあなんで合コンに来たのさ」

「なんでやったかな……マリッジブルー?」婦警は今度はにっこりと笑った。左頬にえくぼができた。

「……もったいねえなあ、こんな可愛いコをみすみすよその男に取られるなんて」

 芹沢が結婚を控えた女性に向かって必ず放つ常套句である。

「またまた。誰にでも言うてるんでしょ」そして必ず彼はこう言い返されるのだ。

 こうして婦警は帰っていった。芹沢と二宮は敷地の中へと戻った。

 自分のことをじっと見つめている二宮に、芹沢は言った。「説教したいんだろ」

「もうしませんよ」と二宮は言い捨てた。「もはや不毛です」

「分かってきたじゃねえか」

 芹沢はへへん、と笑って、あらためて目の前の日本家屋を見上げた。「じゃちょっと探ってみっか。時間もねえことだし」

「どこから行きます? 中には入れないんですよ」

「裏へ回ってみる。そっちからだと何とかなるだろ」 

「……入るつもりなんですね」

「そんな無茶はしねえよ。ちょっと様子を伺うだけさ」

 そう言うと芹沢は前庭を横切り、建物の裏手に向かってすたすたと歩き始めた。

 裏はやはり趣のある日本庭園になっていた。芹沢は自分の肩よりも低い垣根を覗き、「こっからじゃ見えねえな」と言いながらそばの小さな木戸をカタカタと揺らした。

「え、ちょっと何やってるんですか」

「なんだよ、ここまで来て止めるかね」

「当たり前ですよ。たった今そこで様子を伺うだけだって言ったじゃないですか」二宮は腕を組んだ。「住居侵入ですよ」

「個人情報盗みまくってるやつに言われたかねえな」

 芹沢は言うと木戸から手を離し、諦めたらしく溜め息をついて俯いた。「……あれ?」

「どうしたんですか」

「これ――」芹沢は跪いて目の前に落ちていた小石を手に取った。「――血だ」

「え」二宮は芹沢の肩ごしに石を覗き込んだ。「……ホントだ」

 ゴルフボールより少し小さめの石には、赤黒くなって固まりかけた血液のようなものが付いていた。

「でも、人間の血でしょうか」

「まあそこは断言できねえけどな」

「あ、見てください。そこにも血痕が――」そう言うと二宮は自分たちが来たのとは反対方向に伸びる小路を指さした。「あれ」

「どうした?」芹沢は立ち上がった。

「それです。気付かなかった」

 そう言って二宮が示した土の地面には、明らかに何かを引きずった跡がついていた。同じところには点々と血痕らしきものも落ちている。

「どこかに連れて行かれたってことですかね」

「おそらくな。きっともうここにはいねえ」芹沢は舌打ちした。「……やばいことになってんじゃねえか」

「でも、この推測は正しいんでしょうか。ここに中大路氏が監禁されてて、それで怪我を負って連れ去られたっていう」

「そこは自分たちを信じるしかねえな。仕事の案件じゃねえから証拠を固める必要はねえ」

「そうですよね。だいいち時間がない」

「だろ。つまりここにはもう用がねえってことだ」

「どこへ行ったんでしょう」

 芹沢は少し考え込んだ。「……山科か」

「ヤマシナ?――ああ、胡散臭い連中のアジトのあるところですね」二宮は頷いた。「そこへ連れて行かれたってことですかね」

「確証はねえけどな。でもこうなったら手がかりはそこだけだ」芹沢は二宮を一瞥し、足元を見た。「行くしかねえだろ」

「ですね」

 そう言って頷いた二宮に芹沢は振り返った。「けど、あんたはもう――」

「ああ、お気遣いは無用です」と二宮は笑って言った。「て言うか、今さらここで放り出さないでくださいよ水臭いなぁ」

「……確かにそうだ」

「レンタカーは二十四時間の契約ですし、今日中に返せば問題ありません」

 二宮はジャケットのポケットから車のキーを取り出し、顔の前で振った。

「行きますか。これ以上ここにいてもいいことなさそうだし、時間もないし」

「寒いだけだしな」

 二人は来た道を戻った。

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