二宮からの電話で、彼が追跡する林淑恵たちの車がその後阪神高速に乗って東へ向かったとの報告を受けた芹沢は、当初の計画通り、郷里の母親が突然出てきたと嘘をついて早退を願い出た。ちょっと大袈裟に騒いだおかげで要求はあっさり通り、十五分後、彼は署の前でタクシーを拾っていた。


「どちらまで?」

 ドライバーに訊かれて、芹沢ははっきり決めていなかったことに気付き、一瞬口ごもった。

「あっ、え、えっと……西宮にしのみや──いや、豊中とよなかインターまで」

「え、どっち?」

「豊中。とりあえず豊中」

「高速、乗るってこと?」

「ダメですか?」

「いいけど」

 ドライバーは声に些かの迷いを残して車を出した。


 二宮から連絡を受けたとき、芹沢と鍋島は淑恵たちが阪神高速からおそらく名神高速に乗り換え、京都か滋賀方面に向かうのだろうと予測した。だがあくまでも予測に過ぎない。しかも尾行している二宮は土地勘の無いよそ者だ。芹沢はできるだけ早く二宮と合流する必要があると思った。

 ただ、問題はどうやって合流するかだ。高速道路を行く車を尾行しながらとなると、かなりの手際が要求される。

 タクシーの後部座席で考えていると、携帯電話に一条から着信があった。

「はい」

《──聞いた? 二宮くんから》

「ああ。だから今、合流するところ」

《鍋島くんも一緒?》

「あいつは仕事に残った。まだいろいろあるから」

《二人ともってわけにはいかないわよね》

 一条は溜め息をついた。《未体験ゾーンに行くと思う?》

「さあな。どこであれあっさり婚約者のところに連れてってくれるといいけど、そりゃ期待しすぎだろ」

《だけど、もうこのチャンスは逃せないわよ》

「もちろんさ」

《あと……淑恵の会社についてだけど、ちょっと気になることを掴んだの》

「居場所が分かるような手がかりか?」

《いいえ。だけどそこはどう判断するかね。少なくとも邪魔にはならないとは思うわ》

「了解。で?」

《彼女の会社。ひと月ほど前に引っ越したって聞いてるわよね》

「渋谷から横浜にだろ」

《そう。その理由を耳に挟んだんだけど──少し引っかかるの》

「なに」

《ヤクザともめたそうよ。もめたって言うか──嫌がらせを受けたか、脅されたか、はっきりしてないんだけど》

「原因は」

《そこも未確認》

「ふうん。ま、今そいつらと行動を共にしてるんだから、その辺の事情が関わってるのかもな」

《頭に入れといて。追加情報を入手したらまた知らせるから》

「わかった」

《──ところで今、どこ?》

「言って分かるのか?」と芹沢は笑った。

《分かんない。だけど、あなたとの電話では訊くことにしてるの》

「なーるほど」

 芹沢は窓を覗き込んだ。「もうすぐ豊中のインター」

《……やっぱ分かんない》

 一条はお茶目な声で言い、じゃあね、と電話を切った。

 芹沢はふんと笑うと、電話のボタンを押し直して耳にあてた。

「──もしもし」

《あ、芹沢さん。ボクもちょうど連絡しようと思ってたところです》

 二宮の声は弾んでいた。

「何かあった?」

《ええ。ちょうど今、吹田すいたってサービスエリアに入るところです》

「早いな。もうそこまで行ってんのか」

《割と空いてましたからね》

 芹沢はドライバーに言った。「すいません、吹田サービスエリアに向かってください」

 ドライバーははい、とだけ答えた。

 やがて二宮が言った。《……こっちも車、停めました》

「休憩か? そんなに走ってねえよな」

《南京町からでも一時間未満でした》

「じゃあ誰かと合流するのか」

《さあ──あ、でも、二階に上がって行きます……あれって確か『王将おうしょう』ですよね》

「そうだっけ? よく知らねえけど。早めのメシでも食うんじゃねえか」

《だといいんですけど。ま、どっちにしたってここに来てくれてラッキーでしたね。芹沢さん、あとどれくらいで来れます?》

「十五分もかからねえと思う」

《じゃあボクは車の中で待ってます。ガソリンスタンドの近くに停めました。シルバーのヴィッツです》

「了解。着いたらまた連絡する」

《お願いします》


 電話を切ると、ドライバーが訊いてきた。

「お客さん、警察の人?」

「警察? なんで?」と芹沢は訊き返した。

「警察の前で乗ってきはったでしょ」

 芹沢は首を振ると、困ったように口許を歪めて言った。「確かに、ときどき間違えられるんだよね」

「わざと聞いてたわけやないんやけど……そんな感じのこと話してはったし」

「ただの浮気調査ですよ」

 ああ、なるほどと言ってドライバーは頷いた。芹沢は彼に気づかれない程度の溜め息をつくと、また電話を開いてボタンを押した。

「──俺」

《──おう。リリーフエースには会えたか》

 鍋島がひそひそ声で訊いてきた。

「吹田のサービスエリアに向かってる。やつとはそこで合流だ」

《ターゲットもそこに?》

「ああ。餃子が食いたくなったみてえだぜ」

《……何やて?》

「いいって、聞き流せ。あと、みちるからも連絡が来た。林の会社のことを調べてる」

《何か判ったってか》

「目の色変えるほどのことじゃねえ。だいたい想像のつきそうな話さ。もっとはっきりしたら報告が入る」

《ふうん。他には?》

「今のところはそんな感じだ。そっちは?」

《順調に引き継いでるよ。少年課も大感激やで》

「嘘つけ」

《嘘や》と鍋島は即答した。《いつもと同じ。向こうがさっさと手を引いて欲しそうにしてたから、遠慮なく引き下がっといた。それで、これから琉斗に会いに行ってくる》

「何かあったのか?」芹沢は微かに眉根を寄せた。

《いや、そうやない。俺がまあ、ちょっと顔見とこうかなって。タイムリミットが明日に迫ってて、そんな状況やないことは分かってるけど──》

「いいさ」と芹沢は静かに言った。「今朝の茜の様子をあいつに伝えようってんだろ?」

《……まあ、そうや》と鍋島は言った。《きっと心配してるやろし》

 芹沢はにやりと笑った。「ま、こっちは俺たちゴールデンコンビに任せろ。未体験ゾーンまで、バッチリお供してくっからよ」

《俺もこっちが済んだら、とりあえず京都に向かうよ》

「行くのはいいけど、どうやってこっちと連絡取り合うつもりだ?」

《……あ》

 芹沢はふんと鼻を鳴らした。「何だったらケータイ買うか?」

《……そうやな》

「冗談だよ。どうせならお嬢さんに会いに行け」

《……真澄に?》

「ああ。不安がとっくにキャパ超えてるってのに、じっと黙って我慢してるんだ。おまえが行って、寄り添ってこい」

《……その方がええかな》

「ただし、ちゃんと三上サンに──」

《分かってるよ。言うて行く》

「ならいい」

 話しているうちにタクシーは吹田サービスエリアに着いた。

「着いた。合流するわ」

《ああ。じゃあ頼むで》

 芹沢は電話を切り、料金を払ってタクシーを降りた。ガソリンスタンド近くの駐車エリアに行き、二宮の言っていた車種を探した。そしてほどなくしてその車を見つけた。


 芹沢は車に近付くと、運転席の二宮を確認して窓を覗き込み、ガラスを叩いた。

 スマートフォンを眺めていた二宮が目を上げた。

「芹沢さん」

「よう」

 芹沢はにこっと笑い、それから助手席側に回って乗り込んだ。

「意外と早かったんですね。連絡待ってたんですよ」

 二宮は嬉しそうに言った。

「そっか、悪りぃ。忘れてた」

 芹沢は片目をつぶった。そしてフードコートとレストランの入る二階建ての建物を見て言った。「で、まだお食事中か?」

「ええ。マジ食いってことですかね」

「未体験ゾーンに備えての腹ごしらえかもな。俺らも何か食っとく?」

「えっ、ボクらも行くんですか?」

「いや、先に出られるとマズいからここは動けねえ。フードコートで何か買ってくる」

 そう言うと芹沢は二宮に振り返った。「リクエストは?」

「お任せします」

 芹沢は二宮をじっと眺めた。「……草食系の好みって分かるかな」

「だから、お任せしますって」

 二宮はむっとして言った。芹沢は了解、と笑うと車を降りてフードコートに向かった。

 しかしその直後、二宮の抑え気味の叫び声に呼び止められた。

「芹沢さん、芹沢さん!」

 芹沢は振り返った。運転席から身を乗り出し、助手席側の窓から顔を出した二宮が大きく手招きをしていた。「連中、出てきましたよ……!」

 芹沢がレストラン棟の二階へ続く階段に振り返ると、ちょうど男二人、女一人の三人組が降りてくるところだった。

 芹沢はきびすを返し、早足で車に戻った。

 二宮は緊張で少し強張った手でエンジンをかけた。ギアを入れ、サイドブレーキに手を掛けたところで芹沢に振り返ると、昨日から見たこともないような神妙な顔つきでシートベルトを締める彼の姿があった。

「いよいよですね」

 二宮も力強く言って、口許を引き締めた。

 芹沢は頷いた。そして目を細め、小さく舌打ちして言った。

「……嫌な予感……」

「えっ」

 二宮はたちまち不安でいっぱいになった。

「だってよ。ここでメシ逃すとちょっと厳しいだろ」

「……あ、はぁ」

 今度は一瞬にして脱力感に襲われた。

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