誰もいない広いリビングのソファで、鍋島はようやく少し落ち着き始めた自らの精神を、大切に包み込むように小さくなって座っていた。


 とにかく、本音では今すぐ逃げ出したいところを何とか思い留まり、必死で平静を装っていたというのが正直なところだった。玄関前で琉斗の姿を見つけてしまう前の茜は、その時すでに目に涙を浮かべることになってしまっていたものの、いつもの冷静さで彼女らしく毅然と思いとどまっていた。しかし目の前に琉斗が現れ、彼が自分と刑事たちの話を聞いてしまったのだと知った瞬間、その気丈さは一気に崩れ、茜は激しく取り乱した。

 鍋島は、そうなると今度は自分が軽々と限界を越えてしまい、茜をフォローするどころではなくなることを瞬時に察した。そして早く彼女を落ち着かせようと躍起になったのだ。  

「全部喋るんや……もう逃げるな」

 鍋島はギリギリのところで必死に耐えながら茜に言い、自分に言い聞かせた。

 すると茜は底の見えない哀しみに覆われた眼差しで鍋島を見つめたあと、まるでスイッチが切れたかのようにパタンと倒れ、鍋島の腕の中で意識を失ったのだった。


 それから約一時間半。茜は今、自室のベッドで眠っている。鍋島が彼女を担いで部屋まで運んだのだ。そして自分はリビングに戻り、自らもソファに倒れこんだ。

 そして鍋島は、パニック寸前で辛うじて踏みとどまっているいつもの情けない脆弱な心を、じっと庇いながら小さくなって眼を閉じていた。


 ──泣くな、涙を流さないでくれ。


 女の涙は見たくない。息が詰まって、身体が震える。

 母を失った時の、あの哀しみに打ちひしがれた妹。何もできなかった自分。自責の思いで胸が張り裂けそうな痛み。不安、闇。女性が流す涙とともにそれらが一気に甦り、自分が自分でなくなっていく、制御が効かなくなる。

 壊れるのが怖い。

 そんな恐怖で押し潰されそうになりながら、逃げ場を探してはいつもみっともない悪あがきを繰り返してきた。

 仕事では芹沢に助けられ、私生活では麗子に守られ、俺はずっと、この地雷のようなトラウマを克服しようともせず、ただひたすらに震えが通り過ぎるのを待ち、その場をしのいで生きてきた。

 いつまでこんな古傷を抱えていくつもりなのだろうかと、鍋島はほとほと自分に閉口し、疲れ切っていた。


 ──もう、怖がってばかりは嫌だ。


 鍋島はゆっくりと起き上った。ぶるっとひとつ身震いをして、両手で髪をかきむしった。そのまま顔をするりと拭うと、重い腰を上げて茜の部屋があるメゾネットの上階へと続く階段を見上げた。

 すると見計らったように、茜が階段の先に姿を見せた。

「ああ……」

 鍋島はぼんやり呟くと、彼女を見て少し安心したのか、口許を緩めた。

「大丈夫なんか」

 茜はこっくりと頷いて階段を下りてきた。そして言った。

「刑事さんの方こそ、大丈夫なの」

「何がや」鍋島は少し怯んだ。

「何だかパニクってたじゃない」茜は鍋島の顔を覗き込んだ。「顔色、良くないよ」

「……別に何ともない」

「そぉ? ならいいけど」

「人の心配してる場合やないやろ。喋ってもらうで」

 鍋島は真顔で茜を見つめ返した。茜は眉根を寄せ、唇を歪めた。そして鍋島から視線を外すと、がっかりしたような表情で小刻みに頷き、肩をすくめた。

「何も話すことなんてないわ」

「まだそんなこと言うか。逃げるなって言うたはずや」

「あたしはあんなおっさん知らない」

 鍋島は溜め息をついた。「……ほんまにずっと、そんな言い逃れが通用すると思ってんのか?」

「だって──」

「琉斗はどうするんや」

「……それはあたしが言いたいセリフだし。琉斗はきっと、ひどくショック受けたわ」

「そうと分かっていながら、それでもまだもっとあいつを傷つけても平気なんやな」

「………………」

「シラを切り続けるってことは、そういうことなんやぞ」

「どっちだって同じじゃない──!」

 茜は顔を上げ、怒ったような眼差しを鍋島に投げつけてきた。「……このままでも、本当のことを知っても」

「違うね。知ると知らんとでは大違いや」

「あんたは刑事だからそう言うだけ。無理矢理にでも犯人を特定して、さっさと事件を解決したいから」

 鍋島はふんと鼻を鳴らした。「俺の都合がどうであれ、それが琉斗に──キミにもや──何の関係がある?」

「何言ってんの?」

「話をすり替えるなって言うてるんや。俺らのせいにしたって、それで解放されるんか?」

 茜は面白くなさそうに俯いた。「……解放されたいなんて、思ってないわ」

「そうかな。罪からの解放よりも、琉斗に対する罪悪感から解放されたくてしゃあないのと違うか」

「勝手なこと言わないでよ」

 その時、茜のパーカーのポケットの中でスマートフォンが鳴った。茜はポケットからはみ出ているウサギ型のスマートフォンカバーの耳を引っ張り、画面を見た。

「……あなたのパートナーからみたい」

 茜は鍋島に言った。大人びた表現だ。

「芹沢が?」

 茜は頷いてスマートフォンを差し出した。「あなたが出たら」

「キミに用かも知れんぞ」 

「そんなわけないじゃない」と茜は苦笑した。

 鍋島はスマートフォンを受け取り、耳に当てた。「もしもし」

《──俺だ。今、マンションか》

「そうやけど……なんでこのケータイに?」

《てめえがケータイ持たねえからだろ》

「やっぱそうか」

自宅そこの番号も分かんねえしよ。彼女、どうしてる》

「ここに居るけど」

 鍋島の言葉に、茜が反応して顔を上げた。

《じゃあ今から言うこと、彼女に知らせるかどうかはおまえに任せる》

 ──また気の滅入る現実か。鍋島は茜から視線を外し、俯きながらもできるだけ何気ない口調を心がけた。

「何や」

《……琉斗がてめえの腹刺しやがった》

「なっ……!」鍋島は息を呑んだ。「……どういうことや?」

《あれから自分のウチ帰ってどっからかナイフ待ち出して、エレべーターの中で腹に突き刺したってわけさ》

「何でまたそんなことを……」

《知るか。直接あのガキに訊いてみろ》

「ってことは、大丈夫なんやな」

《少なくとも死にゃしねえよ》

「……余計なことしよる」鍋島は短く溜め息をついた。

《……ああ。話をどんどんややこしくしてくれてる》

 芹沢も苛立ちのこもった溜め息を漏らした。《自殺なんてあいつにゃできっこねえんだ。そんな勇気もねえって、自分で言ってたから》

「それで今は?」 

《深見と同じ病院だ。あの医者にキレられたぜ。警察は何やってんだってな》

 その時のことを思い出したのか、芹沢は舌打ちした。

「で、どうするんや」

《俺か? 琉斗の親父を探す》

「どこに居てるか、見当ついてんのか」

《女房の言うには、パチンコか競馬だってよ。とりあえず行きつけの店のある京橋に行ってみる》

 そう言うと芹沢は少し声を低くした。《彼女は喋ったか》

「いや、まだや」

《時間ねえぞ。この情報を効果的に使え》

「分かってる」

《んじゃあな》

「父親が見つかったら連絡くれよ」

《またそのケータイにか?》

 芹沢は呆れたようにふんと鼻を鳴らした。《オッサンがベタベタ触らないでって、女の子に怒られるぞ》

 鍋島はちらりと茜を見た。「……既にそんな顔で見られてる」

《だろ。ちゃんと拭いて返せよ》

「ほな折を見てこっちから掛けるわ」

《出れっかどうか、保証はしねえけどな》

 芹沢は電話を切った。

「……どっちやねん」

 鍋島は不満そうに呟くと、スマートフォンを袖口で拭こうとした。

「いいわよ、そんなことしなくても」

 茜が右手を差し出した。鍋島はその手にスマートフォンを置いた。

 すると茜はポケットからハンカチを出し、自分でスマートフォンを拭き始めた。鍋島は傷つくよりもむしろ呆れてしまった。

「何の話?」

 茜が訊いた。自分の無礼を悪びれる様子もなかった。

 鍋島はその様子をじっと見つめながら、まるで独り言がたまたまはっきりと声に出てしまっただけかのように、何の前触れもなく言った。

「琉斗が自殺を図った」

 茜は眼をむいた。拭いていたスマートフォンをすとんと足元に落とした。そしてそれを拾うこともなく、素早く両手で口許を押さえた。

「ウソ……」

「安心しろ。死んだわけやない」

 鍋島は穏やかに言った。「せやけど、死ぬほど苦しかったことには違いないんやろな」

 そんなぁ、と呻くように言うと、茜はその場にへなへなと座り込んだ。

「何で……どうして琉斗が……」

 茜は両膝に顔を埋めた。

「理由を問うより、もうその苦しみから解放してやろうや」

「あたしが琉斗を苦しめてたって言うの……?」

「キミ一人の問題やない。せやけどこの一件を終わらせて、あいつの辛さを和らげてやることができるのはまさにキミや」

 茜は顔を上げた。「あたしが全部喋ることが、結局は琉斗のためになると言いたいのね」

「そうや」

 鍋島は真顔で頷き、静かに言った。「琉斗を傷の治療に専念させてやろう。あいつはもう十分、周りの人間の犠牲になってくれたやろ」

「……分かったわ」茜もようやく頷いた。

「嘘は許さへんで」

「どうせ無駄なんでしょ」

「そうやな」

 鍋島の言葉に少しがっかりしたような表情を浮かべながらも、茜は黙って立ち上がり、ソファに腰を下ろした。

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