第7話 こんなに弱くて

 言葉を切った茉奈に、俺は、なるべく怖くないような口調で、話しかける。


「それだけか?」

「え?」


 茉奈の黒々とした目が、俺を見返し――少し視線が泳ぐ。


「海で、転がってた理由。――なにか、よっぽどのことがあったんじゃないのか?」


 茉奈に問いかけながら、俺はまた光希のことを思い出していた。


 光希が、風呂場で手首を傷だらけにするたびに、俺は、根気よく、粘り強く、何が彼女を傷めつけたのか、知ろうとした。それが恋人の務めだと思っていたから。


 たいがいの場合、光希は、親への恨みつらみを、言葉にできない代わりに、自傷していたから。俺が、ゆっくりとした口調で、今日母親との電話でどんな暴言を言われたかを聞いていくと、光希はいつも泣き出して「順ちゃんごめんね、ごめんね。こんなに弱くて、ごめんね」と言って、最後は「お母さんの望みどおりになれない自分が悔しくて」とつぶやいた。


 光希の母親は、光希に小さい頃から英才教育をほどこそうとして、幼い頃から週6の厳しい塾に通わせた。小学二年生のときには、ストレスで頭にハゲができた、と光希は言っていた。光希の母親は、光希を医者にしたかった。自分が医者になりたくて、なれなかったから、娘にその夢を叶えさせようとしたのだそうだ。


 光希自身も「人を助ける仕事」である医者になりたいと、小学校、中学校、高校と、進学校でがんばりつづけた。だけれど、高校の途中で、光希にパニック発作の症状が現れるようになった。必死になって目指した医学部受験も、試験中に、パニックになり、あえなく失敗。


 浪人という結果に怒り狂った母に、光希は額をすりつけて謝ることしかできず、それから、部屋にこもって自傷をするようになった。見かねた母が、精神科に通わせるようになり、病院のベッドで入院したときが、情けなかったけど、一番安心したときだった、と光希は言った。


「私みたいな人間が、人を助けたいだなんて、おこがましかった」


 光希はそう言って、俺の腕の中で泣いた。



 茉奈は、手に持った箸で、おでんの大根をゆっくりと二つに割りながら、言った。


「――お母さんが、あまりに勉強勉強ってうるさいから、なんでそんなに、勉強させたいのか、って聞いたの。そうしたら、いい大学に入って、いいところにお勤めして、高い学歴の優しい旦那さんをつかまえるのが、女の子にとって一番幸せなことなのよ、って言うの。


 お母さんは、ろくに出世もできなかったお父さんと結婚して、後悔してるから、あんたの幸せを思って言うのよ、ってこっそりお父さんには聞こえない場所で、私に言うの。


 お父さんも勉強しろ、っていうから、私、なんでそればっかり言うの、って聞いたの。そうしたら、お前の母親は学がないからな、俺は専業主婦なんかじゃなくて、もっと仕事をしてくれる、ちゃんとした女と結婚したかった、お前は母親みたいになるな、ってまた私にこっそり言う。


 うちの両親、仮面夫婦なの。口では『勉強しろ』って同じこと言うけど、すごく仲が悪いんだ。だから、家にいると、もうストレスで仕方なくて、勉強って言われるたびに、吐きそうになる。もうどうしていいかわかんなくて、友達もいないし、こんな家大嫌いなのに、出ていける力もないから、自分はもうゴミ以下だ、もういっそ、死んじゃいたいって思って、海にいた」


 茉奈は一気にしゃべって、肩で息をついた。


 俺はゆっくりと口を開く。


「――いまは本当に辛いんだと思う。でも、死なないでほしい。本当に、死なないで」


 俺の言葉の語尾がかすかに震えたことに、茉奈が顔を上げる。


「赤の他人の俺がどれだけ言ったって、君には届かないのかもしれないけど、自分で自分を見捨てないほうがいい。君は自分をゴミだと言って、海に打ち捨てたつもりだったかもしれないが、何のご縁か、俺が君をたまたま見つけた。


 俺は海辺のゴミ拾いをしているが、どのゴミだって、もともとはゴミじゃないんだ。花火だったり、海藻だったり、ガラス瓶だったり……モノをゴミとして決めつけるのは人なんだ。君は自分で、自分をゴミと決めつけてるかもしれないが、俺はそうは思わない」


 言ってるうちに、自分が何を言いたいんだかわからなくなってしまい、俺は頭が悪いな、と思う。気の利いたことを、こういう場面で上手く言えないのが、いつも祟る。


 茉奈はふっと、頬をゆるませた。


「――お兄さんの言いたいこと、わかんないけど、私を励ましてくれてるのはわかる。あのときも、コーンスープとラーメン、美味しかった。嫌なことばっかりの人生だけど、お兄さんと、銭湯のお姉さんは、優しいから嫌じゃない。ありがと。また来るね」


 そう言って茉奈は席を立つと、一階にある銭湯のほうへ階段を降りて行った。

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