やり直せたなら

 エム商会の事務所では、リリアが泣きじゃくっていた。


「私、何にもできなかった!」


 溢れ出る涙を拭いもせず、ただただ声を上げて泣いていた。

 そんなリリアを、ミナセがそっと抱き締める。


「大丈夫だ。もう泣かなくていい」


 ミナセの胸に顔を埋めながら、それでもリリアは泣き続けた。



「ついて来ないで」


 その声に、リリアは動きを止めた。

 立ちすくむリリアは、悩み、葛藤を繰り返しながら、結局フェリシアを追い掛けることができなかった。


 お前は、そこにいるような、無垢な少女とは同じ世界にはいられない女だ


 あの男の言った言葉がリリアを迷わせた。

 自分が無垢な少女かなんて分からない。でもフェリシアが、自分なんかでは想像もつかない世界で生きてきたことだけは分かる。


 私がフェリシアさんに掛ける言葉なんて、ない


 フェリシアの姿が見えなくなった後、リリアは目にいっぱいの涙を湛えながら事務所に戻ってきて、起きた出来事をみんなに話した。


「何なんだよ、そのガザル公爵ってのは!」


 ヒューリが怒る。

 その隣では、シンシアも無言で怒っていた。

 リリアを抱き締めたまま、ミナセも眉間にしわを寄せている。


 そんなみんなを黙って見ていたマークが、突然立ち上がった。


「ちょっと出てきます」

「えっ!?」


 ヒューリとシンシアが驚いて立ち上がる。

 その二人の横をすり抜けて、マークは玄関へと向かった。

 マークを目で追い掛けることしかできないみんなに、勢いよく歩いていたマークが、少しだけ振り向いて笑みを見せる。


「みんなは、ここで待っていてください」


 そう言い残して、マークは事務所を出て行った。

 玄関がパタンと閉まると同時に、呆然と立ち尽くしていたヒューリとシンシアが、ストンとソファに腰を下ろす。

 リリアも、いつの間にか泣き止んでいた。


「何だってんだ?」


 ヒューリがシンシアに聞いた。

 答えようのないシンシアは、首を傾げるばかりだ。


 そこに、落ち着いたミナセの声がする。


「大丈夫。社長に任せよう」


 腕の中のリリアを優しく見つめて、ミナセが笑った。



「公爵は、明日国に帰る。今夜はパーティーだから、お前と会うことはできない。悪いが、今日はここに泊まってもらって、明日公爵の一行が町を出たところで合流する段取りにした」


 仲間に”お頭”と呼ばれていた男が、二階の窓から外を眺めるフェリシアに説明をする。


「飯は後で持ってくるから……」

「どうでもいいわ、そんなの。もう出て行って」


 男の言葉を、フェリシアが冷たく遮った。


「ちっ!」


 舌打ちをしながら、それでも男は黙って部屋を出ていく。

 扉を閉めた直後、男は吐き捨てるように言った。


「ふざけた女だ」


 ここは、アルミナの北西部にある古い一軒家。この区域には王の住む宮殿があることから、貴族や金持ちの家が多い。

 貴賓であるガザル公爵は、イルカナを仕切っている三公爵の一人、カミュ公爵の屋敷に泊まっていた。その屋敷からほど近い場所に、この家はある。


 男が率いる一団は、ガザル公爵から”表沙汰にできない仕事”を任されている、裏稼業専門の集団だ。

 その中の一人、公爵を陰で護衛していた部下が、女を連れて戻ってきた。どうやら公爵がご執心の女らしい。

 その女のことを、お頭は知っていた。

 公爵の命令で、女の経歴を調べたことがあったからだ。


 キルグの孤児院生まれ。オモチャとして商人に引き取られ、その後、貴族の政争の道具として使われていた。そして魔術師の弟子となり、現在に至る。

 そんな報告を公爵にしたのは、この男だった。


 極上の女。

 フェリシアを間近で見たのは初めてだったが、男たちを虜にしてきたその姿は、仕事を忘れて見入ってしまったほどだ。


 だが。


「気に入らねぇ」


 冷たい態度にではない。


 フェリシアを連れてきた部下は、一団の中でも、特に尾行が得意なはずだった。

 索敵魔法と隠密魔法の使い手。

 相手が軍の偵察兵だろうと、気付かれることなく接近して情報を得る。裏稼業でひたすら腕を磨いてきた一流の追跡者だ。


 その部下の尾行が、あっさりバレた。


「気に入らねぇ」


 もう一度つぶやくと、男は仲間のいる一階へと階段を降りていった。



「私って、じつは運が悪いのかしら?」


 すっかり暗くなった町並みを眺めながら、フェリシアがつぶやく。

 フェリシアは、自分が強運の持ち主だと思っていた。


 無茶な仕事、無謀な命令でもそれを成し遂げてきた。

 知恵とか勇気とか、そんなものではとても生き残れないような状況でも死ぬことはなかった。


「でも、人との巡り合わせっていう意味では、最低かもね」


 過去に出会った人間たちは、そのほとんどがどうしようもない人間ばかりだ。

 まともな人間と言えば、孤児院のシスターたち、商人の家で自分の世話をしてくれたメイドたち。そして、その家に出入りをしていた職人たちくらい。

 貴族の屋敷にもメイドや職人はいたけれど、どことなくよそよそしくて、あんまり話をしたことはない。


「だけど、あのみんなは、ちょっと違った」


 ミナセの真っ直ぐな目。

 リリアの明るい笑顔。

 ヒューリの元気な声。

 シンシアの温もり。

 マークの、心に響く言葉。


「私、社長さんの命令なら、どんな無茶なことでも喜んで受けられるような気がしてたんだけどなあ」


 穏やかな笑顔を思い出しながら、そんなことを考える。


「でも、やっぱり無理ね」


 ガザル公爵の言ったことは真実だ。


 お前の体は穢れておる。そんなお前を受け入れてくれる男など、そうはいないと思うぞ


 別に、マークと結婚したいなんて言うつもりはない。

 だけど、私の体は穢れている。

 私は、マークのそばにいることさえも許されない女。


 もし人生をやり直せたなら、私は普通の人になりたい。

 農家でもいい。商人でも職人でもいい。普通の家に生まれて、普通に育って、普通に恋をして。

 そして誰かと結ばれて、子を産み育てる。

 泣いたり笑ったり、喧嘩したり。

 そんな人生を送りたい。

 そんな幸せを味わってみたい。


 人は過去には戻れない。

 そんなことは分かっている。


 それでも。


「これからやり直せるかもって、ちょっとだけ思ったのに」


 残念だわ。

 本当に残念。


 フェリシアの目が、わずかに潤む。


 悲しいのか、悔しいのかよく分からない。

 でも、一つだけ思うことがある。


「泣けるって、ほんとめんどくさい」


 フェリシアは、薄曇りの夜空を見上げた。

 瞳からそれが溢れてしまったら、もう止めることはできない。


 みんなの顔を思い出さないようにしながら、夜空に浮かぶ霞んだ月を、フェリシアはじっと見つめ続けていた。

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