ガザル公爵
「……ガザル公爵、ご無沙汰しております」
フェリシアが、うつむきながら挨拶をする。
その挨拶に返事をすることもなく、男が言った。
「お前の主が死んだ後、わしはお前をずっと探しておったのだぞ」
フェリシアの最後の主、カサールの年老いた魔術師は、死後数日で発見された。
争った跡も、他殺の疑いもなかったので、魔術師の死因は病死として処理されたが、弟子として一緒に暮らしていたはずのフェリシアの行方はまったく分からなかった。
「まさか、イルカナにいたとはな」
ガザル公爵と呼ばれた男が、フェリシアを舐めるように見る。その視線は、とても紳士的なものとは言えなかった。
「ふっふっふ。相変わらず、お前は美しいな」
下品な笑みを浮かべて男が言う。
「まだ落ち着ける場所など見付かっていないのであろう? どうだ、わしのところに来ないか? あの魔術師との生活より、ずっといい思いをさせてやるぞ」
高圧的な物言いだ。
リリアが顔をしかめている。
「お気持ちはありがたいのですが」
フェリシアが、男と目を合わせることなく、弱々しい声で答える。
「私は、この町で落ち着こうと思っております。働く場所も見付かりそうですし」
「お前が働くことなどない。金はわしがいくらでも出してやる」
「……申し訳ございません」
「ふーむ、そうか」
男が黙ってフェリシアを見つめた。
やがて男が、薄ら笑いを浮かべて言う。
「わしには、お前が普通の生活などできると思えんがなぁ」
フェリシアが、ギクッと肩を震わせた。
「わしがお前の過去を知らないとでも思ったのか?」
男がニタリと笑った。
「お前の体は穢れておる。そんなお前を受け入れてくれる男など、そうはいないと思うぞ」
平然と男が言い放つ。
「お前は、そこにいるような、無垢な少女とは同じ世界にいられない女だ。お前がいるべき世界は、ほかにある」
屈辱的とも言える言葉だ。
しかし、その言葉にフェリシアは一切の反応を示さない。
「フェリシア、わしのところに来い。お前にとって、そこが最も落ち着く場所となるであろう」
フェリシアを悠然と見下ろしながら、男がイヤらしく笑う。
一方的に言われ続けるフェリシアは、しかし何も返すことなく、黙ってうつむくばかりだった。
何も言わないフェリシアに男が言う。
「すぐには決断できんか。まあいい。だがわしは、お前を諦めることはせん。後で使いの者をやるから、それまでによく考えておくがよい」
そう言うと、男はリリアを一瞥して、窓を閉めた。
馬車がゆっくりと走り出す。
馬車が見えなくなってからもなお、フェリシアはうつむいたまま立ち尽くしていた。
「フェリシアさん……」
リリアが小さく声を掛ける。
「あの……」
「ごめんなさい」
言い掛けたリリアを、フェリシアの低い声が遮った。
「私、やっぱり面接は受けられない」
それだけ言うと、フェリシアは事務所とは別の方向へ歩き出した。
「フェリシアさん!」
リリアがフェリシアを追い掛けようとする。
だが。
「ついて来ないで」
氷のような声に、リリアはそれ以上動けなくなってしまった。
フェリシアは歩く。前を睨み付けるように歩く。
やがてフェリシアは、人気のない公園を見付けて、そこのベンチに腰掛けた。
肩を落とし、視線を落としてフェリシアがつぶやく。
「もう無理ね」
その声は虚ろだった。
ガザル公爵。
イルカナの隣国、カサール王国の有力な貴族だ。
そのガザル公爵は、フェリシアの前の主のパトロンでもあった。
年老いた魔術師は、金に困ると、何かしら研究の成果をフェリシアに持たせて公爵の屋敷に行かせた。
フェリシアは、それを公爵に届け、数日屋敷に滞在した後、金を持って主の元に戻る。
どうでもいいような研究成果でも公爵が喜んで金を出していたのは、それを持ってくるフェリシアが目当てだったと言えなくもないだろう。
その公爵が、フェリシアに来いと言う。
相手が並の貴族であれば、フェリシアは丁重に断って終わりにできた。
だがあの男は……。
王家の外戚で、頭も切れる。国内外に広く影響力を持ち、その権力はカサール国内でも有数のものだ。
その権力を維持し、拡大するために、公爵はあらゆる手段を駆使した。表沙汰になってはいないが、公爵が関係していると思われる陰湿な事件がいくつもある。
ガザル公爵は、黒い噂の絶えない人物だった。
あの男は、私を手に入れるために手段を選ばない。
エム商会に入社してしまったら、確実にみんなに迷惑が掛かる。
「幸せか……」
フェリシアが、空を見上げて寂しそうに笑った。
しばらくの間、流れる雲を眺めていたフェリシアは、思いを振り払うように立ち上がると、公園の隅に立つ大きな木に向かって歩き出す。
そして、その木に言った。
「一旦宿に戻るわ。その後、ガザル公爵のもとに行くから、私を連れて行って」
誰かが見ていたなら、その行動を大いに不審がったことだろう。
独り言とは思えないしっかりとした声でそう言って、フェリシアが木を見つめる。
その木の影から、やや間をあけて、返事があった。
「どうして分かった?」
声と共に、風采の上がらない男が姿を現す。
町を歩いていても誰も気にしない、どこにでもいるありふれた市民。
その男の目は、だが鋭くフェリシアを見ていた。
「それはどうでもいいわ。あなたの役目は、私の滞在先を突き止めることでしょ。その手間を省いてあげる」
男が、じっとフェリシアを見つめた。
「まあ、いいだろう」
それを聞いたフェリシアが、無言で男に背を向ける。
表情を無くしたフェリシアが、男の前を足早に歩いて行った。
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