お菓子

 尾長鶏亭は今日も混んでいる。リリアは、いつも通りの元気で明るい笑顔を振りまいて、常連たちを癒していた。

 そんなリリアを、数日前とは違った目でミナセが見つめる。


「変わった様子は、特にありませんね」

「そう、ですね」


 マークの言葉に、ミナセはやや不満げに答えた。



 あの夜以来、ミナセはリリアのことが気になって仕方がなかった。ふとした拍子に、リリアの腫れ上がった顔を思い出してしまう。

 悩んだ挙げ句、ミナセはマークに相談したのだった。

 話を聞いたマークがミナセに言う。


「もしかすると、リリアは何か大きなものを抱えているのかもしれませんね。それを誰にも言えずに苦しんでいる可能性はあると思います」


 おぬし、何か大きなもの、それも、あまりよくないものを抱え込んでおるの


 ご隠居に言われた言葉を思い出して、ミナセはうつむいた。


「誰かに話したところで、その問題は解決しないのかもしれません。ただ、それを一人で抱え込んでいる限り、リリアが苦しみから解放されることはないような気もします」


 おぬしが抱えてるものを、放り出せなどとは言わん

 じゃが、それを一人で抱え込んではいかん


 まるで自分のことを言われているように思えて、ミナセは苦しくなる。


「もしミナセさんが、リリアのことを何とかしてあげたいって思っているのなら、ミナセさんにできることはきっとあると思いますよ」


 そう言って、マークは微笑んだ。

 そう言われて、ミナセは考える。


 私にできること


 ミナセは、ある過去を背負っている。その出来事について、マークに話してはいない。どうして話さないのかと聞かれても、ミナセには答えられなかった。

 あえて言うなら、性格の問題だ。

 

 でも。


 過去を背負っていること、それを清算したいと思っていること。それをマークに伝えたことで、ミナセは少し楽になっていた。

 何かが解決した訳でもないし、何かが変わった訳でもない。それでも、ミナセの心は軽くなった。


 リリアだって、誰かに話すことができれば、きっと少しは楽になれるはずだ。

 だとしたら、リリアの話を私が聞いてあげれば……


 ……いや、そうじゃない。


 ミナセはふと思い出した。

 可愛らしい笑顔がミナセを見つめている。


 私にできること、じゃないんだ。

 リリアが何を求めているか、なんだ。


 ミナセが、顔を上げる。


「いつも通りにリリアと接すること。できるだけリリアのそばにいてあげること」


 自信なさそうに、上目遣いでマークを見る。


「そんなことでも、いいんでしょうか?」

「それでいいと思いますよ」


 マークが笑って答えた。

 ホッとしたようにマークを見ながら、胸の内へとミナセが語り掛ける。 


 今度は私、少しはうまくやれるかな?


 その顔は何も答えてくれない。

 それでもいいと、ミナセは思った。

 

 ちゃんとマークに相談することができた。

 ちゃんとあの笑顔を思い出すことができた。


 マークを見るミナセの顔には、小さな笑みが浮かんでいた。



 そんなやり取りの後、今夜は二人で尾長鶏亭に行こうということになり、今に至っている。

 店に入った時、リリアは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔で駆けてきた。


「いらっしゃいませ。来てくれて嬉しいです!」


 リリアの様子はいつもと変わらない。

 あの夜の出来事はウソだったんじゃないか、そんな気さえする。


「まあ、何となく気になることがあるとすれば」


 マークが言った。


「女将さんが、リリアにほとんど気を遣っていないってことですかねぇ」


 その言葉で、ミナセは女将を観察し始めた。


 女将の役割は、厨房から上がってくる料理をカウンターに載せて、リリアに知らせること。

 リリアが下げてきた食器類を、カウンターから引き上げて洗うこと。

 リリアが取ってきた注文を厨房に伝えること。

 料理の盛りつけの一部を担当すること。


 大ざっぱに言えばそんな感じだ。


 リリアは、女将の手が放せない時や洗い場がいっぱいの時、下げてきた食器をカウンターの端に置いておき、様子を見て女将に渡すか、自分で洗い場に持って行っている。

 余裕があれば、そのまま洗い物もする。

 注文を女将に伝える時も、「お願いします!」と明るく声を掛けている。


 一方女将は、でき上がった料理をカウンターに並べて「三番テーブル上がったよ!」と叫ぶだけだ。

 リリアが注文を取っていようが会計をしていようが、お構いなしに叫ぶ。リリアのことは、まったく見ていない。

 リリアから注文を書いた紙を受け取る時も無言で、リリアの顔さえ見ていなかった。


「何というか、思いやりみたいなものは感じられませんね」


 率直にミナセが言った。


 リリアは、伯父さん夫婦に引き取られて幸せに暮らしている


 そんなイメージが揺らいでいく。


 リリアを目で追いながら、マークが言う。


「いずれにしても、働いている時のリリアは”元気いっぱいの明るい女の子”なんでしょうね。違う顔を見せるとすれば、店の外にいる時なんじゃないでしょうか」

「そうですね。だとすると……」


 同じくリリアを目で追いながら、どうするべきかをミナセはじっと考えていた。



 数日後、ミナセは夜の町を小さな袋を下げて歩いていた。飲み屋や食堂が店を閉めた後の町は、やはり静かだ。

 ミナセはまっすぐに尾長鶏亭の裏手へ向かう。そして、路地の手前で耳を澄ませた。

 すると。


 今夜も聞こえてくる。

 女の子の、リリアのすすり泣く声だ。


 ミナセは、わざと足音を立てて進んだ。

 その音に気付いたのか、泣き声が止んだ。


「リリア、ごめん、こんな時間に。私だ、ミナセだ」


 そう言いながら、リリアに直接光が当たらないように、懐中電灯を路地の奥へと向けた。


「ミナセさん、どうして?」


 光の先で、リリアが驚いた顔をしている。

 ミナセは、リリアのそばまで行って、持っていた小さな袋を明かりで照らした。


「お客さんから珍しいお菓子をいただいてね。リリアと一緒に食べたいなって思って」


 そう言うと、リリアの前にしゃがんで、にっこりと笑った。



「あの、ほんとにいいんですか?」


 お菓子の入った箱を見つめながら、リリアが心配そうに聞く。

 二人は、店の近くにある公園のベンチに腰掛けていた。

 今夜は、月が出ていてとても明るい。その月明かりに照らされた箱と中身は、見るからに高級品といった印象だ。

 お菓子は、ミナセがファルマン商事のご隠居からもらったものだった。貴族に献上するために用意したのだが、手違いで多く仕入れてしまったらしい。


「大丈夫だよ。私が買った訳じゃないから」


 ミナセが優しく答えた。


「じゃあ、一つだけ」


 リリアが右手を伸ばし掛けて、ちょっと顔をしかめる。そして、左手でお菓子をつまんだ。


 今日は右手を痛めているのか


 ミナセは気付かない振りをして、リリアがお菓子を食べる様子を見守った。

 目を閉じて、味わうようにお菓子を食べていたリリアが、大きく目を開く。


「これ……」


 小さくつぶやき、そして。


「美味しいです、これっ!」


 凄い勢いでミナセに顔を向けた。


「そう? よかった」


 ホッとしたようにミナセが笑った。


 お菓子は、庶民の間でも食べられていた。ただ、いわゆる贅沢品の部類に入るため、お祝い事がある時に出てくるくらいだ。

 町にもお菓子屋はあったが、ほとんどが金持ちや貴族相手に商売をしている。材料そのものは高価ではないのだが、菓子職人たちはレシピを秘伝としていて、それが店の外に出ることはない。

 そんな事情からか、一般家庭ではクッキーのような簡単なものでさえ作る習慣がなかった。


「私、こんなに美味しいお菓子食べたの初めてです! 前にお客さんからもらったクッキーも美味しかったですけど、これには全然負けちゃいます!」


 リリアが幸せそうに目を細める。

 ミナセが持ってきたのは、しっとりふわふわ、優しい甘さが口いっぱいに広がる、不思議な食感のお菓子だ。庶民が口にするのはクッキーの類がほとんどなので、この手のお菓子は目にするがことがない。

 ミナセも、初めて見るお菓子だった。


「よかったら、もう一つどうぞ」


 ミナセが箱を差し出す。


「えっ、でも……」


 遠慮がちにリリアは言うが、その目はキラキラと輝いている。


「じゃあ、もう一つだけ」


 誘惑に負けて二つ目を口にしたリリアは、やっぱり幸せそうに目を閉じた。

 その顔を見ながら、ミナセも一つを手にとって、半分かじる。


「どうですか? 美味しいですよね! ねっ!」


 リリアが、少し興奮したように同意を求める。

 口の中でゆっくりと味わい、それを飲み込んだミナセが、リリアをまじまじと見た。


「これ、ほんとに美味しい」

「ですよねっ! よかったぁ」


 リリアが、まるで同志を得たとばかりに喜んだ。


「自分で持ってきておいてなんだが、これはいいな」


 食べ掛けのお菓子を、ミナセがしげしげと見つめる。


「いいですよね! こんなに美味しいお菓子が食べられて、私幸せです! ミナセさん、本当にありがとうございました!」


 リリアが、ミナセの空いている手を両手で強く握った。


「いたたた……」


 途端に痛みで顔を歪める。


「まったく、興奮しすぎだ」


 ミナセが笑う。


「えへへへ」


 リリアも、ちょっと照れくさそうに笑った。


「せっかくだから、私ももう一つ頂こう。リリア、あと二つ食べていいぞ」


 残り三つのうち一つを手にとって、ミナセは箱ごとリリアに渡した。


「じゃあ、遠慮なく!」


 リリアは、お菓子を頬張りながら、嬉しそうにミナセを見つめていた。



 その夜以来、ミナセは時々夜の尾長鶏亭を訪れるようになった。

 リリアは、泣いていることもあればそうでないこともあったが、行けば必ず裏口に座り込んでいた。手みやげは、お菓子だったり手料理だったりしたが、リリアが何かしらを用意することもあった。

 夜の公園で持ってきたものを食べながら、二人は取り留めのない話をして過ごす。

 リリアは、その日あった出来事や面白いお客さんのことなど。

 ミナセは、旅で経験したことや、マークにきつく言われている守秘義務に反しない範囲で、仕事中の出来事など。

 どうでもいいような話ばかりだったが、リリアはとても楽しそうにミナセに語り、とても嬉しそうにミナセの話を聞いていた。

 そんなある夜。


「リリアって、本当に料理が上手だな」


 ミナセが、リリアの用意した手料理を口に運びながら感心したように言う。

 リリアが、照れたように顔を伏せながら答えた。


「賄いは全部私が作るので、伯父さんが作る料理を参考にしながらいろいろ試しているんです」


 賄いまで作っているのか

 大したものだと褒めるべきか、そこまでやらされているのかと心配するべきか


「でも、ミナセさんもお料理上手ですよね!」


 ミナセが時々持ってくる料理を思い出しながら、リリアも言う。


「まあ、小さい時に母を亡くしているからね。いちおう家事全般はできるんだ。父が亡くなるまでは、これでも主婦だったんだよ」


 ミナセはさらりと答えたが、リリアはハッとしたようだった。


「ごめなさい。私、知らなくて……」


 リリアの声が沈む。

 そんなリリアの頭に、ミナセがポンと手を置いた。


「気にすることはないさ。もう何年も前の話だよ」


 そう言いながら、リリアの頭を撫でる。


「第一、リリアだってご両親を亡くしてるんだろ? 悲しい思いをしたのはおんなじさ」


 そう言って優しく笑った。

 リリアが、ホッとしたように笑みを返す。


「リリアのご両親は、どんな方だったんだ?」


 ミナセが、構えないよう自然にリリアに尋ねた。

 少しドキドキしながら、リリアの答えを待つ。


 リリアは、ちょっと思い出すように遠くを見てから、明るく答えた。


「私、お父さんもお母さんも大好きでした!」



 リリアの両親は、パン屋を営んでいた。小さな店だったが、味と夫婦の人柄のおかげで、それなりに繁盛していた。

 一人っ子だったリリアは、両親に愛されて優しい子に育っていく。

 リリアが小さい頃、店が火事になるという大変な出来事もあったが、そんな危機も乗り越えて、親子三人は仲良く暮らしていた。


 その幸せな日々が、ある日突然終わりを告げる。


 はやり病で、両親があっさりと亡くなったのだ。体調が悪くなってから数日で父が、続いて母が、天に召されていった。

 リリアが十才の時である。

 呆然とするリリアを、父の唯一の肉親である伯父、尾長鶏亭の主人が引き取って今に至っている。


「亡くなる前、お父さんが私に言ったんです。”みんなのことを好きになりなさい。そうすれば、みんなもお前のことを好きになってくれるから”って」


 懐かしむように、リリアが目を細めた。


「お母さんは、亡くなる前に笑って言いました。”どんな時も笑顔でいなさい。そうすれば、必ず幸せがやってくるから”って」


 笑いながら、リリアが言った。


「だから、私はみんなのことを好きでいたいし、いつも笑っていたいんです」


 リリアが星空を見上げる。


「だって私は、お父さんとお母さんが、大好きだったから」


 その顔は笑顔のままだ。

 それなのに。

 ミナセには、その顔が泣いているように見えて仕方がなかった。

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