小さな手

 燃えさかる炎の如き気迫を纏い、長身の男が大剣を握り締める。

 その正面に静かに立つ、細身の剣を携えた男。その身体には一切の力みがなく、その心には、一切の乱れがない。


 まるで、静止した水のよう。


「やめて」


 ミナセが声を絞り出す。


 あの男と戦ってはいけない!


 だが、二人の男はやはり剣を構えた。

 そして、炎と水は激突する。


 達人同士の戦い。恐ろしく高度な攻防。

 しかし、その結末はいつも同じだ。


 ガシュッ!


 気持ち悪い音とともに、剣が男の体を貫く。


「だめよ」


 その体から血が溢れ出す。


「いや」


 男が、血の海の中に倒れていった。


「いやあぁぁぁぁっ!」



「お姉ちゃん!」


 突然子供の声がした。

 驚いて、ミナセが目を開く。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 目の前に、心配そうに自分を見つめる女の子がいた。


「クレア」


 ミナセの意識が現実に戻ってくる。

 クレアは、そこにいた。やはり、それは現実だった。


「大丈夫。いつもの夢だ」


 そう言って、ミナセはもう一度目を閉じた。夢と現実が混在した不安定な感覚を、息をゆっくり吐き出しながら落ち着かせていく。


 ふと。


 ミナセの髪を、小さな手が優しく撫でた。


「?」


 目を開けたミナセに、クレアが微笑む。


「あのね、昔怖い夢を見た時、お姉ちゃんがこうしてくれたの。そしたらね、すごく安心できたの。だからね、お姉ちゃん、もう怖くないよ」


 小さな手が、ミナセの髪を撫でる。


「大丈夫だよ」


 そう言いながら、ミナセの髪を、クレアは一生懸命撫でていた。


 温もりを感じない小さな手のひら。

 青白い顔で、そっと微笑む小さな女の子。


 ミナセが、また目を閉じる。


 クレアの足の異様な傷も、驚くようなクレアの話もミナセの心に刻み込まれていた。

 クレアとはいったい何なのか?

 そんな疑問がいまだにくすぶり続けている。


 だけど。


 クレアが髪を撫で続ける。

 クレアの気持ちが伝わってくる。


 とんでもない存在と出会ってしまった。どうしたらいいか分からなくなってしまった。

 目が覚めたら、クレアはいなくなっているかもしれない。そんな気持ちでベッドに入った。


 それなのに。


「大丈夫だよ」


 クレアの声がする。


「もう怖くないよ」


 気持ちが落ち着いていく。


 心地よかった。気持ちがよかった。

 いつの間にかミナセは、その優しさに身を委ねていた。


 その体がどうであろうと。

 その生い立ちがどうであろうと。


 クレアは、暖かい。


「ありがとう」


 ミナセがクレアの手を握った。

 黙っていれば、クレアはきっと、いつまでもそうしてくれているに違いない。優しくて、とても小さなその手を、ミナセが握った。


「お姉ちゃん、痛かった?」


 クレアがまた心配している。


「いや、違う。違うんだ」


 慌てて答えながら、ミナセは、袖で顔を拭って体を起こす。


 難しく考える必要なんてないんだ


 ミナセは思った。


 クレアは、クレアなんだ


「おはよう、クレア」


 ミナセが笑う。


「おはよう、お姉ちゃん」


 クレアも嬉しそうに笑った。


 いつもの夢の後とは思えないほど、ミナセは気持ちのよい朝を迎えていた。

 


 夜が明けてからそれほど時間は経っていない。厨房からは音が聞こえているが、客のほとんどはまだ寝ているだろう。


「とりあえず、体を洗おう」


 クレアにそう言って、ミナセは、鞄からタオルと小さなポーチを引っ張り出した。


「……うん」


 ちょっとだけ、クレアの返事が遅れた。でも、結局クレアはミナセに従う。

 二人は、昨夜と同じように裏手の井戸にやってきた。


「少し寒いかもしれないけど、頭と体を洗うぞ」


 ミナセが、桶に水を汲みながらクレアに言った。

 手と顔は洗ったが、クレアの体は、さすがにちょっと臭う。


「きっとさっぱりする……」

「あのね、お姉ちゃん」


 クレアがミナセを見上げる。

 上目遣いで、少し落ち着かない様子でミナセを見ていた。


「私ね、お胸に、変なのが付いてるの」


 ミナセの顔に緊張が走った。


「……見せてみろ」


 言われてクレアは、おずおずと服を脱ぐ。


「あのね、お姉ちゃん」


 クレアが聞いた。


「私って、やっぱり変なのかな?」


 ミナセの目は、クレアの胸を凝視したまま動かない。

 目を大きく開いたまま、ミナセはそれを見ていた。


 クレアの胸の、やや左。普通は心臓があるその位置に、人には存在しないものがある。それはクレアの体に半分以上埋まっていて、一部が表面に出ているだけだ。しかし、それが何であるか、ミナセにはすぐ分かった。


 それは、妖しい光と魔力を放つ、魔石だった。

 

 分からない。

 何もかもが分からない。


 息がうまくできなかった。

 脈拍が異常なリズムを刻んでいた。


 それでも。


「クレア」


 ミナセが、両手でクレアの冷たい頬を包む。


「お前は、優しい普通の女の子だよ」


 ミナセは言った。

 目を逸らさずに、ミナセはそう言った。


「お姉ちゃん」


 クレアがミナセの手を握る。


「ありがとう」


 クレアが笑った。

 少し寂しそうに、クレアが笑った。



 頭と体を石鹸で洗って、クレアは服を着た。


「じっとしてろよ。今髪を乾かしてあげるから」


 そう言って、ミナセは魔法の風をクレアに送る。

 風の魔法の第一階梯、ウィンド。女性に限らず誰もが使える、基本的な生活魔法だ。

 柔らかな風で、ミナセはクレアの髪を乾かしていく。ある程度乾いたところで、ミナセは櫛を取り出した。


「髪をとかすから、後ろを向け」

「うん」


 クレアが素直に向きを変える。ミナセが、櫛で髪をとかし始めた。

 その時。


「!」


 ミナセの動きが一瞬止まる。だが、すぐにミナセは櫛を動かし始めた。

 髪の根本を押さえるように、そっと櫛を通していく。


「お姉ちゃん、気持ちいいね」

「そうか、よかったな」


 答えてミナセが唇を噛む。

 櫛に絡みついた大量の髪の毛。それが、パラパラと、砂のように細かい粒子となって地面に落ちていった。


 ゆっくりと、ミナセは髪をとかし続ける。

 きれいに洗ったはずのクレアの体からは、まだ臭いがしていた。


 それは、その臭いは、明らかに、腐臭だった。


「この家から絶対に離れないこと。ここでしか、きみの体は維持できないのだから」


 クレアが語った、先生という人物の言葉をミナセは思い出す。


 どうしたらいい?

 私はいったいどうすれば……


 手を動かしながら、ミナセは考えた。泣きそうになるのをこらえながら、ミナセは必死に考えていた。



 全身をきれいに洗い終えたクレアは、もうどこから見ても普通の女の子だ。

 くりくりとした大きな目に可愛らしい顔立ち。ミナセが適当に選んだワンピースも、クレアにはとてもよく似合っていた。

 靴だけは相変わらずボロかったが、今はどうしようもない。


 昨夜同様、何もいらないと言うクレアに断って、自室で軽い朝食を取ったミナセは、クレアを連れて町に出た。

 今日は土曜日。いつもに比べると、午前中の町は人通りが少ない。

 美しい女が可愛い女の子の手を引いて歩く姿は、道行く人の視線をかなり集めていたが、二人に声を掛けてくる面倒な人間は、幸いなことにいなかった。


「先生を探す前に、ちょっと調べ物をさせてくれ」


 そう言って、ミナセは宿屋から一番近くにある本屋に入った。そこで、クレアに関係しそうな本を探す。

 おとなしくしているよう言われたクレアは、物珍しそうに辺りを見回しながら、ミナセの後を黙ってついていく。ミナセが移動すればクレアも動き、ミナセが本を読み始めれば、その横でじっとミナセを見つめていた。


 やがて。


「ふう、なかなか無いな」


 ミナセが、息を吐き出してつぶやく。あまりに集中していたせいで、少し目が痛い。

 眉間にしわを寄せ、目頭を押さえるミナセをクレアが心配そうに見上げた。


「お姉ちゃん、大丈夫?」

「ん? ああ、大丈夫だ。心配ない」


 クレアの頭にポンと手をのせて、ミナセは笑った。


「さあ、次のところに行こう」


 クレアの手を引いてミナセが歩き出す。


「うん」


 クレアも、素直に手を引かれて歩き出した。

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