赤犬のギムレット
天野維人
招待状の謎・上巻
ロードリック・ギレットが営むカフェ兼カクテルバー「レッドドッグ」は、店内に六人掛けのカウンター席と二人掛けのテーブル席が四つだけの、お世辞にも大きいとは言えない店だった。
昼のカフェは朝一〇時から午後一時までの三時間しか開かず、夜のカクテルバーは「一見お断り」が謳い文句で、そもそも多くの客が来る事を想定していない規模である。
その理由は、ギレットが彼の友人、あるいはその友人が招待した者達のために店を開くからだ。
開業して既に十五年の月日が経ち、間も無く齢五〇を迎えようとしているギレットの交友関係は、警察官、新聞記者、俳優、科学者、芸術家、果ては政治家に至るまで個性豊かで幅広い。
そういったギレットの友人達は、物静かだが瀟洒な彼の人柄を好ましく思い、毎夜の様にレッドドッグに訪れては時に静かに酒を飲み交わし、時に他愛ない話で夜を過ごしている。
もっとも、毎日同じ人間が来店するわけではなく、また来店する人数も日によってまちまちである。
今宵、レッドドッグの戸を叩いたのは、ギレットの友人であり警察官のジム・ドレイク、ただ一人だった。
三五歳まで軍人だったドレイクの体格はかなり大きめで、性格も剛毅だが、決して粗野ではなく分別のある人物だった。
ただ、少々思い込みの激しい点だけが、彼の欠点である。
窓を打つ雨音が店内に響き渡る程の大雨にもかかわらず、レッドドッグにやって来たドレイクは「調子はどうだいギムレット」と、いつもの調子でギレットに挨拶して、羽織っていたレインコートを壁に掛け、大きな体を揺らしながらカウンター席にどかっと腰掛けた。
ギムレットとはギレットの愛称であり、親愛の証として、いつだったか友人達の誰かが彼に付けたものだ。
これに対し、ギレットもいつも通り「おかげさまで」と微笑みと共に挨拶を返し、最初の一杯をどうするか尋ねた。
「モスコミュールを頼むよギムレット。おっと、今のは君の愛称を呼んだだけで酒の方のギムレットはまだいいからな」
「分かっていますよ。少々お待ち下さい」
いつもの言葉遊びに興じつつ、天気の話から始まる世間話をしながら、ギレットがシェイカーを振り、ドレイクは出されたピーナツを口に放っていく。
ほどなくして出来上がったモスコミュールがドレイクの前に出されると、「今夜は君も一杯どうだい」とドレイクがギレットを誘った。
するとギレットは口を綻ばせる。
「そう言ってくださると思って、実は二杯分作っておきました」
「さすが、抜け目がないなギムレット。では……親愛なる我が友人達に」
「我が友人達に」
『乾杯』
ギレットとドレイクは、互いとその場に居ない友人達を讃え、カクテルグラスを傾ける。
喉を流れるウォッカとジンジャービアの奔流にライムスライスの香りが加わり、レッドドッグの夜は、二人の心を満たす爽快感で幕を開けた。
「今日は、お仕事の方はもうよろしいのですか?」
「最近担当していた事件がようやく解決したから、今日は書類仕事だけで済んだのさ。それにこの歳になると外を走り回るのは厳しくてね、こんな雨の中でパトロールするのは若い奴らの仕事だよ」
「お互い、寄る年波には勝てませんな。職業柄運動はあまり出来ませんし、この歳になると年々体力が落ちてきて、昔の様に走るとすぐに息が上がってしまう」
「君が息を上げる姿は中々想像出来ないなギムレット。何事もスマートに熟す印象がある」
「運動は苦手ではありませんが、足よりも腕を使うことの方が多いですから」
「ああ、そういえば少し前に君とランバートのダーツ勝負を見たよ。君の圧勝だったな。まさか三投全部的の中心に当てるなんて驚いたよ」
「昔はよく嗜んだものでして、ついつい熱が入ってしまいました。お恥ずかしい限りです。ランバートにも悪い事をしました」
「彼は悔しがるどころか大笑いしていたよ。君が強過ぎたんだな。彼の事だからもう次の趣味を見つけているに違いないさ」
「かもしれませんな。ですが、様々な事に挑戦するのは良い事です。人生に深みが増しますから」
「ランバートの場合は単に飽き性なだけさ。でも彼みたいな人間を見ていると、昔仲が良かった友人を思い出すよ」
「『昔』ということは、今は違うのですか?」
「ああ。そうだな。今は違う。もうずっと会っていないし、彼とはもう会えないから」
「そうですか」
「そういえば、オススメのつまみはあるかい? 夕食は取ったんだが、小腹が空いてしまってね」
「でしたら、本日は五種のチーズとそれぞれに合うハムを用意しております。モスコミュールに合うものとしましては――」
その時、ドレイクが浮かべた物憂げな表情がギレットは少し気になったものの、急いで話を聞くこともないと思い直し、カクテルに合うつまみの用意をしていく。
チーズとハムの盛り合わせをカウンターに置き、二杯目を用意しながら、ギレットは引き続きドレイクと他愛ない会話を続けた。
すると、ドレイクは時折、何かを思い出す様に眉をひそめた。
いつもと違うドレイクの様子にギレットは首を傾げたものの、彼から尋ねることは決してしなかった。
「少し昔話を聞いてくれないか」
雨音の心地良さと店内に他の客が居ない事もあってか、少しばかり酒が進むドレイクがミモレットチーズと生ハムをつまみに三杯目を飲みきったところで、ぽつりと呟いた。
どこか申し訳無さそうな雰囲気で、普段のドレイクにしてはとても小さな声だったが、目の前に立つギレットが聞き逃すほどではなかった。
「どれ程昔のお話でしょうか。写真やアルバムなどがあると、想像しやすいかと思いますが」
「そこまで昔の話じゃないさ。俺が
「すると、少なくとも十年以上前のお話ですかね」
「正確には十二年前、俺が軍を辞める一年前の話だ」
そう言って、ドレイクは差し出された四杯目をあおったあとに「俺が軍を辞めたきっかけの話でもある」と付け加えた。
ギレットが僅かに眉をひそめる。
「それは、僕が聞いてもよいお話でしょうか」
「名前は伏せて話すし、君から外部に漏れるとは考えていないさ。そこは信頼している」
「ありがとうございます。では墓まで持って行かねばなりませんね」
「大袈裟だが、出来ればそうしてくれるとありがたい」
「かしこまりました」
少々大袈裟な仕草でギレットが了承の意を示すと、それを見てドレイクは吹き出すように笑った。
ふと、ドレイクはそれが話し手をリラックスさせる為のギレットの気遣いであることに気付き、再びグラスを傾けて口内を潤す。
一息吐いたドレイクは、次のカクテルを作り始めたギレットに聞こえるように、話を始めた。
「先程は昔話と言ったけど、そう喩えるほど長い話ではないんだ。グリム童話よりも短い話さ。ただ君にこれを話す理由は、ある謎について解き明かしてもらいたいからなんだ」
ドレイクの前置きに対してギレットは何かを尋ねようとしたが、今は口を挟まず聞くべきだと判断したのか、口を噤み沈黙でもって続きを促した。
「軍に居た頃、俺の同期には幼少からの友人が何人かいて、その中でも特別仲の良い男が一人いたんだ。名前は……そうだな、仮にジョンとしようか。
「ジョンは所謂キャリア組と呼ばれるやつで、俺が必死に戦場を駆け巡っている間にあいつはデスクワークで出世街道を駆け上がっていた。正直同い年で同郷のやつとここまで差が出たことは少し悔しかったが、認めざるをえなかったよ。それにジョンの事は嫌いになれなかった。
「あいつは俺達より飛び抜けて頭が良かったし、頭の回転も速かった。俺達の知らないことも沢山知っていたよ。それで憎たらしい性格なら心底嫌ってやったんだが、ジョンは清々しい程に人好きで俺達や部下からはかなり信頼されていたし、あいつも俺達を信頼していた。人格者で人気者だった。今思えばジョンの人好きは博愛主義に近かったのかもしれないが、そのくせ昔から悪戯が好きな憎めないやつだったな。散々くだらない悪戯をされたもんだ。
「だが、その人望と人格は上層部の人間にとって目障りでしかなかった。上層部はジョンがいずれ自分達の脅威になると判断して、軍から排除しようとしたのさ。でもジョンは持ち前の頭の良さで上層部からの執拗な攻撃を尽く躱し、あいつは一度の停滞も無く出世していった。ジョンが三十半ばに差し掛かった頃には、あいつは既に中佐だった。最速の出世コースだよ。
「将官になる事は確実だろうが、もしかすると大将まで上り詰めるんじゃないかってあの時の俺達は思っていた。でもジョンが上がれたのは准将までだった。それより上の階級に上がることはもうあり得ない。そこがあいつの終着点だった」
「なにかあったのですか?」シェイカーの蓋を開けながらギレットが尋ねた。
その問いにドレイクはすぐに答えず、四杯目のグラスを空にして、一息吐いてから答えた。
「死んだんだよ。十二年前に。だから二階級特進で准将になった。それ以上階級は上がらない」
「それはそれは」
ギレットはドレイクから空いたグラスを受け取り、新しく取り出したグラスに琥珀色の液体を注ぐ。
出来上がった五杯目のカクテルをドレイクに差し出しながら、ギレットは先程よりも僅かに潜めた声で尋ねた。
「ご病気ですか?」
「いや、任務中に爆撃に巻き込まれて死んだ。殉職だ」
「戦場に赴いたのですか? 確かその方はデスクワークが主だったのでは」
「佐官も紛争地帯に赴くことがあったから、毎日デスクワークというわけではなかったよ。けどそういう時こそ暗殺には絶好の機会だったし、実際難しくなかった」
「その言い方ですと、まるであなたが殺害した風に聞こえてしまいますな」
目を細めるギレットに「ああその通りだ」とドレイクは答え、付け加える様に続けて言う。
「俺が殺した」
ドレイクはグラスを傾け、アルコールをさらに体内へ流し込む。
真偽はどうであれ、彼にとってそれは目を背けたい事実でありながら、決して忘れてはならない記憶に違いないとギレットは悟った。
それにも拘らず、ドレイクの独白にギレットは「それはそれは」と平然とした様子で相槌を打った。
逆に、ドレイクがギレットのその反応に驚いた。
「驚かないのか」
「予想が的中した事に対する驚きはありますが、あなたがそれを行った事に関してはそれほど驚きませんよ。理由については気になりますが」
「俺のことをそういう風に見てたってことか?」
「あなたは何度も戦場に赴いていた兵士です。それに僕の記憶が正しければあなたは狙撃手、それもかなり優秀だったと聞いています。そのあなたが優秀であった事は的に当てた弾丸の数でしか語れないでしょうから」
「誰から聞いたんだ?」
「あなたからですよドレイク。もう五年程前になりますかね」
ギレットは洗ったグラスの水滴を布巾で拭き取り、使わないボトルを静かに棚へ戻していく。
特に普段と変わらないギレットの反応を見て、そして過去の自分が既に昔話をしていたことを知って、ドレイクは力なく笑った。
「酒の力というのは怖いものだな。素面なら絶対話せない事も話してしまうし、おまけに話したことすら忘れてしまう」
「それが酒の良い所で、ここは酔い処です。それに、あなたは思い込みが激しい所があります。それほど飲んでもいないはずなのに、その場の空気に酔ってしまわれることもしばしば。歩いて帰られる程度に嗜まれるのがよろしいかと」
「大丈夫さ。君に解いてもらいたい謎の話をするまでは潰れたりしないよ。ただ、もう少し酒の力が必要というだけさ」
ドレイクはさらに酒をあおり、体に酔いを蓄積していく。
僅かに頬を上気させ、体の内側から立ち上る熱を肺に溜まる息と混ぜて口から静かに逃がした。
「十二年前の九月頃だ」
どこか意を決した様子で、ドレイクが口火を切った。
中巻へつづく
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