第7話 二度目の襲撃事件

 二度目の襲撃


 戦国時代、中国地方も風雲、急を告げる情勢で、安芸の毛利軍と可愛川を挟み尼子軍とが対峙していた。其の要衝の地に志和地八幡山城が有った。其の為に互いの情報収集を得る上で、頻繁に総大将が出っ張って来ていたのである。

 総大将の尼子国久公は前の襲撃事件の事が有り、以後は必ず三人もの護衛侍を付け、この日は敵の間者の動きが目立つ昼間に向かっていた。

 今日も比叡尾山城を出た処より間者に見張られており、すぐに後を付けらていた。

 最初からの追跡者の二人は丸腰で全くの町人風で有った。

 毛利軍勢も、総大将が奥出雲から有る程度、定期的に国境の三次に出っ張って来るのを知っており、其れから更に、両軍の接する最前線の志和地八幡山城へ来るのを察知していた。

 志和地の明光山の山腹から、相手の陣地の三つの城が目の下に有る様に分かり、敵の動きが完全に見渡せるのだ。

 深瀬の宍戸勢は、相手が何時、何刻に出向いて来るのかは分からない。

 その為に常に敵の陣地の中に入り込み見張りを付けていた。城のすぐ近くの別の小山の山裾に有る竹藪の中に小さな穴を掘り笹を被せて分からない様に潜んでいたのだ。身なりは百姓か木こりの格好をしており山中に紛れ込んでいた。

 此の日も総大将が険しい坂道を警護侍と共に登って来て城に入ったのが分かっており、見張り役の仲間が更に別の谷向こうから炭焼きに見せかけて煙を上げたのである。其れを何時も常駐している南西の方向でほぼ目の高さに位置する高谷山の仲間が見て、道中の間道で襲う為の助勢を頼む為のに早馬を立てて、可愛川沿いを駆け上がり深瀬祝屋城へ連絡に走った。 知らせを受けた間者供は、 犬飼平を川舟で渡り志和地に入ると、明光山の間道迄へと一気に駈け上がる。

 こちらの方が険しい間道を時を掛けて抜けて行く、国久公より一足早く先回りして待ち伏せする事が出来るのだ。

 明光山は志和地にあり此のてっぺんに登ると毛利方の三っの城が見渡せるのだ。宍戸兄弟の五竜城、深瀬城から更に毛利元就の本拠地の吉田郡山城が微かにみえる。可愛川を挟んで両軍が接している位置関係にある。今でこそ難しい国境になっているが元々は盆地の中にある集落であった。国人領主が勝手に決めた境目であり百姓町人にしてみれば今も昔と変わらず夫々に田地や山を持っており往き来しているのだ。

 その為に深瀬の農民も明光山に草刈りや材木切りだしとかするのだ。侍の世界では今現在互いが敵であり夫々の陣地を守って欲しい処だが現実不可能な事なのだ。

 だから国久公が通る間道にしても百姓に化けて何時でも何処からでも入ってこれ襲撃態勢が取れるのだ。

「おい、二人が付けて来ちょるが気付いておるか」

「えぇ、本当で御座いますか」

「町人の格好をしておるが絶対に侍だぞ、振り返るなよ」

「然し、三次藩の警備はどうなっとるんなら。城の正面玄関からの出入りが、敵にみな筒抜けじゃないか、ほんま、間抜けな奴ばっかりじゃのう」

 此の比叡尾山城は三吉家代々四百年間続いており、さしたる紛争も無くある程度平穏無事に世を過ごして来たのであった。当主もその時その時に小さな諍いがあったが「どうじゃ、お前等に此の城は落とせんじゃろうが」ぐらいの難攻不落な城だと自画自賛し何処の奴等も攻めて来れないぐらいの気持ちしか無かった。

 其れゆえに山が険しいだけで実際の守りには全く疎いものが有ったのだ。此の時代になると互いの攻撃方法も段々と進化し、ただ険しい山城だけでは通用しなくなり出していたのである。

 家並みが続く町中を暫く歩くと、人家がポツポツと途切れ出して、やがて山道に差し掛かって来た。一本道をかなり離れて、さり気なくキョロキョロしながら付いて来る。

 総大将は草鞋の紐を結び直す振りをしながら屈んで後方をチラッと見た。

 やはり間違いなく尾行されているのだ。

「ウ〜ン、今日も奴等は、前と同じ様に十人前後の間者を呼び寄せるじゃろうのう。じゃがワシが城に入って即ぐに、わざと早う出て来ちゃったから、深瀬から助っ人を呼んでも間に合わんぞ。奴等はワシが暗うなってから出立すると思うとったんじゃろうが目論見違いよ。奴等が追っかけて来た時には、既にワシ等は八幡山城に入っとるわい」

「例え、途中で襲われても此れくらいの人数なら、なんちょう事たぁないか、手練れも付いとるしな」

 然し、総大将の読みは甘かった。

 城を出る時には城主の三吉氏が自ら見送りに出てくれた。

「大殿、昼間の明るいうちで大丈夫とは思いますが、目の方は悪るくはないんですか」

「あぁ、此の時間ならよう見えるわ」

「なんなら、手勢を増やしましょうか」

「いや、ワシ等で十分じゃ」

 三吉氏の援軍要請までも断って、一行は間道を駆け抜ける為に足速に出立した。

「じゃが、念の為に鉄を呼んでみるか。大将が居らんのは少々心細いが、忍者犬が居れば百人力じゃからのう」

 細くて険しい山道に差し掛かる場所迄やって来た。総大将は与作から貰った笛を腰から抜いて初めて思いっきり吹いた。

 木立ちの木々が微かに揺れる静寂の中、耳を澄ましてみた。

「確か、何時もこの一本松の木の辺りに鉄はおると聞いたんじゃがのう」

 だが一向に足音が聞こえて来ない。

 立ち止まって様子を伺ったが何の反応もない。

「大殿、息が切れますか、少し休んでいかれますか」

「馬鹿、そう云う事じゃない」

 と言ってから歩を進めるも、芝草の上を歩く自分等の足音しか聞こえて来ない。

 全く何の反応もない事に一抹の不安が生じ出した。

「どうしたんじゃ鉄は、ワシの笛が聞こえんかったんかのう。何処ぞに遊びに行っとるか、其れともワシを信頼しとらんのかのう」

 と心の中で叫び葛藤していた。とに角、もう一度吹いてみた。 然し、何の反応もない。

「えぇい、ままよ、三人の手練れが付いておるから大丈夫じゃろうよ」

「おい、これから二里の道が勝負の分かれ目じゃ。覚悟して掛かれよ」

「分かりました」

 総大将は口では強がりを言ったが、やはり鉄が現れてくれるのに、いちるの望みを託していた。やがて、この間道の一番の難所の峠に差し掛かって来た。

 この細くて険しい山道は殆んど与作と鉄の専用道みたいなもので有った。一日中、先ず普通の人が通る事がない。

 こんな道を通らなくても可愛川沿いになだらかな街道が有るからだ。

 だが、此の道は行き来する人も多く、敵、味方が入り乱れて歩いており、其れこそ何処で、どんな方法で、いきなり襲撃されるかもしれないのだ。

 与作に案内されて明光山の山頂に上がった時、下の街道筋が如何に狙われ易いかを見ており、其れよりも間道を選んだのだ。

 丁度、其の頃、与作は浅田屋を離れて山道を駆け上がっていた。

 総大将が吹いた犬笛で、山中で仲良く一緒に遊んでいた鉄とラー助はすぐに気付いたのだ。

 笛の方向へ一気に駆けていく。 ラー助はもう上空に飛んで来ている。

 そしてお師匠さんに近付こうとすると、二人の間者が尾行しているではないか。

 頭のいい鉄は間者の後を付かず離れず足音も無く着けて行く。

 鉄もラー助も恐ろしい程、危険予知の能力が高いのだ。動物的な勘と云うので有ろうか、なんとラー助の判断で与作を呼びに行ったのだ。

 なにしろ速い、空を飛ぶのだから。鉄も速いがとんと話しにならない。

 そして浅田屋の上空を旋回すると、庭先で仕事をしている与作をすぐに見付けた。

「カアー、ギャー、カァー」と大きく鳴いた。

「オゥ、ラーちゃんか、どうした」低い目の前の植木に止まるや

「オシショウサン!」

 のこの一声に危険を察知すると

「よし、分かった。すぐ行くぞ」

 店で地方発送の荷物の積み込みを手伝っていた与作は、仕事を放っぽり出して奥へ走った。

「コラー!与作、何やっとるんじゃ、我りゃ何処へ行くんじゃ!」

 番頭の大きな怒鳴り声が店内に響き渡った。だが、お構い無しに奥の帳場の前に座っていた主人の処に走って行き

「今から一日、暇を下さい。急用が出来ました。其れが駄目なら首にして下さい」

 真剣な表情で訴える与作に

「よし、分かった。後の事はええから安心して行け、首にはせん」

「有難う御座います」

「今、鳴いとったカラスが知らせに来たんか。確か「オシショウサン」言う声が聞こえたが。カラスが、ものを言うのを初めて聞いたよ、ハハハ」

 と主人は笑いながら聞いたが与作は何も答えなかった。

 浅田屋の主人は以前、まむし事件の時、与作が言っていた名の有るお武家様の事を覚えていた。主人は何時も薬の商いで城中に出入りしており、山中で尼子国久公が、まむしに噛まれて死にかかった時に、多分、与作が助けたので有ろうと云う噂を何度も聞いていた。又、今度も何か緊急事態が発生したのかと感じ快く許してくれたのだ。

 主人は、国久公と与作が今も繋がっているのではないか、と思い非常に嬉しかった。其れに自分も少なからず協力していると思ったら、内心誇りに思えてきたのである。

「与作!何か手助けを必要とする事が有れば何時でも言えよ」

「有難う御座います」

 着替えもせず、其のまま店を出ると一目散に走り出した。するとすぐ頭の上をラー助が飛んで来た。

「ラーちゃん、有難うさん、すまんが先に行ってお師匠さんを守ってあげてくれるか」

 と山の方を指差すと

「ヨシャ、マカセトケ」

 たどたどしいながらも、お師匠さんの声色で全く憎めないラーちゃんだ。あっと云う間に飛び去った。

 与作は道中に何時も隠している小刀と吹き矢を携えて、別荘から全速力で駆け出した。

 一方、総大将は間道の峠を下りだして、遥か前方に小さく八幡山城の天守閣が見え隠れする場所迄やって来た。此の頃になると、何か後の方でザワザワと絹擦れと云うか、寧ろ、武具擦れの音が聞こえ出したのだ。後を振り返る事が出来ないが、気配から察し、十人近くはいるで有ろうか。峠の頂上辺りで先回りしていた間者が見張っていて、仲間の戦闘用具を揃えていたのだ。

「なしてじゃ、ワシは敵の裏をかいて早ように出立したのに、何で先に待ち伏せしとるんじゃ」

「おい、一気に間者の数が増えたぞ。 其れも完全武装をしとるぞ」

「・・・」

 警護侍は一切、何も声を発しないのだ。緊張し足が震えているではないか。

 此奴等は今迄に一度も総大将の連れをした事が無く、ただ道場で腕が立つくらいのもので実戦経験には乏しかったのだ。

「家老の野郎め、もっとましな奴を選べや」と胸のうちで思っていた。

「お前等、しっかりせんかい!覚悟を決めてワシと一緒に戦え。勝負は時の運じゃ」

「分かりました、性根を入れて戦います」

 然し、総大将は内心「敵は十人はおるぞ、相手も精鋭を集めておるじゃろうから、ワシも此れまでかのう」

 と自ら覚悟を決めた。

 段々と足音を立てながら大胆になり距離を縮めて来た、そして間者供は襲撃の機を伺っている。

「然し、ワシの勘も当てにならんのう。奴等、先に来て待ち伏せしとりゃがる」

 其の頃で有ろうか。

「ウォーン、ウォーン」

 と遠くはないが何処からともなく、狼か犬の遠吠えで有ろうか、鳴き声を師匠は聞いていた。無論、敵にも聞こえたで有ろう。

 此れがまさか鉄で有ろうとは思いもしなかった。

 極度の緊張状態で警護侍は身体中が震えていたが、チラッと後を振り返ったので有ろう。今にも走り出して逃げそうな雰囲気だ。

「なんと頼りない奴等じゃのう、三吉氏の援軍要請を受けときゃえかったかのう」

 敵の間者の動きが身近に迫り武具擦れの音を一段と高く響かせ出したのだ。

「万事休す、ワシもこれまでか」

 忍者一家の活躍


 其の時だ、間道をゆっくりと歩を進める道の側のすぐ先に有る低い草叢の中から、何やら動物の小さく鳴く声がした。

「キュ〜ン」

 先頭を行く総大将にしか聞こえなかった。

「鉄だ!鉄だ!鉄だ!」

 と心の中で何度も叫んだ。一旦、立ち止まった。そして涙が溢れ出して止まらない。やはり来てくれていたのだ。

「だんだん!だんだん!有難うよ」

 どれだけ勇気付けられた事で有ろうか。

 大泣きしている総大将を見たすぐ横の侍は、「任しとけ!」と空威張りする程の気迫も無く、弱々しそうに

「申し訳け御座いません、私等が頼りないばっかりに」

 だが、そんな事は全く関係なかった。

 そして四、五歩前進し横を向くと、草陰の中に低く伏せている鉄と目が合った。

 目がランランと輝いている。

「お師匠様、お助け致します」

 と云う自信満々の面構えだ。

 襲撃する機会を狙っている敵の間者の後を、音も無く、気付かれない様に尾行していたのだ。何と賢い忍者犬で有ろうか。

 さらに鉄は、顔を上に向けて空を見渡した。

 何て事だ!上空をラー助が飛んでいるではないか。

「ラーちゃん迄もが見張っておってくれたんか。だんだん!だんだん!」

 だが感傷に浸っている時ではない。相手は何時襲って来るかも分からない。

 鉄もラー助も動物的直感で、其れが間近で有る事を知らせてくれている。

 お師匠さんは何度も歩いている山道なので地形はよく知っている、細い道の先には格好の広い場所が有り多分此処だなと読んだ。

 処が、又々、読みを誤った。

 毛利勢の間者供は事前に潜伏、前後で挟み討ちにする算段で広場のすぐ手前の処に、弓の射手を待ち構えさせていたのだ。

 其れを察知せずに、警護侍は不覚にも総大将を一番狙われ易い、先頭を歩かせており、前後から囲んで総大将を守る基本を怠っていたのだ。

 狭い小道より開けた広場が見えて来た。

 其の時だ。前方の小高い木陰より

「ギャー」

 と言う悲鳴が聞こえた其の瞬間、総大将の頭上を、すれすれにかすめて矢が飛んで行った。

「ウォー」

 まさか、飛び道具で来るとは思ってはおらず、正しく度肝を抜かれた。

 三人に緊張が走り抜刀して身構えていると、すぐ其の後で、声がした方からラー助が飛んで来た。何と隠れて矢を放った其の時、敵の間者の右目を鋭い嘴でくり抜いたのだ。

 そして目の前の路上に顔面血だらけになり、のたうち回りながら転げ落ちて来た。

「ラーちゃん、有難うよ!奴を見張っとってくれたんか」

「ナンノ、ナンノ」

 日頃の師匠さんの物真似に、思わず引きつっていた顔の三人から笑みがこぼれた。

 ラー助が助けてくれたお陰で、間一髪、総大将の命が救われたのだ。

 三次の町を出て、何時もの場所で与作から貰った犬笛のお陰で、ラー助も聞き付け上空からずっと間者の動きを見張ってくれていたのだ。

 非常に目のいいラー助は、敵の動きを逐一見ており、広場に近付いた時に総大将を追っていた相手の指揮者らしき侍が、前に隠れている射手侍に向かって

「やれ!」と合図を送った。

「キューン」と目一杯弓を引き今にも矢を放とうとした瞬間

 真上を舞っていたラー助が急降下したのだ。

 目の前の負傷した間者のすぐ横を通り抜けて広場に到着し、愈々来るなと三人が総大将を囲むように陣形を敷こうとしていた。此の時、初めて来た道を振り返ると、十人前後が鎧を着けて完全武装をし、こちらを睨み付けながら挑発しているではないか。

「オゥ、彼奴等と合間見えるがお前等、覚悟して掛かれよ」

 処が三人からは小声一つ発する事は無かった。

「糞ったれ!頼りない奴ばっかしじゃのう」

 双方供に離れた距離から睨み合いが続き静寂の時が流れる。

 其の時だ、目の前の笹薮の中からガサガサと音がした。一瞬、何事かと目を向けると、鉄が現れた。

「鉄!来てくれたか!」

 そして日頃聞いた事の無い様な異様な声で「グウォーン、グウォーン」と吠えると其の唸り声が山中に響き渡った。

 警護侍は、目の前の総大将に、狼犬がピタッと寄り添いながら大声を発するものだから、其れこそビビりまくり、全く犬嫌いなのか震えまくっている。

「おい、鉄は大丈夫じゃ何もせん。安心せい」

 すると今度は反対方向から「ドッドッドッ」と足音がして四、五頭の狼が現れた。大きな図体に口が裂け牙を剥き出しでこっちに来るではないか。

 此れには総大将も度肝を抜かれた。

「ワシ等もやられるんかい、鉄ちゃん!」

 と緊張しながら鉄の目を見た。

 処が全く涼しい顔をし、微笑んでいる様な優しい目をしている。

 だが三人は警護どころではない。其の場にへたり込んでしまった。

 然し、近付いて来ても自分達を襲う気配がまるで無い。それどころか鉄が先導し総大将を中にぐるりと取り囲み、鉄が一声発するとゆっくり回り始めた。

「オイッ!お前等、立て!」

 牙を剥き睨み付けながら歩くのだ。其れを遠巻きに見ていた間者供は、総大将を討ち取るどころではない。

「オゥー、ワシ等が完全に殺られるで!」

 と全くビビりまくり逃げ腰になってしまった。

 前の襲撃の時、いっぺんに十人の手練れの仲間が殺られ、誰一人として帰る事が無かった。

 其の時は比叡尾山城から八幡山城へ、夜道を一人で間道を抜けて行くとの情報で、この時ばかりは、敵の総大将を討ち取り、手柄を立てる事が出来ると、我先にと競って遠征に参加して行ったが全滅ときた。

 前の仲間も此の狼犬に殺られたに違いないと、相手の間者全員が察したのである。

「おい、前の時、深瀬殿の家来十人が一向に帰って来んのは、此奴等に殺られて喰われてしもうたんじゃないのか」

 此の一声に取り囲んでいた仲間は全く戦意喪失し後すざりを始めた出したではないか。

「誰か国久の処へ突っ込めや、ワシャ喰われるのは嫌じゃ。恐ろしゅて無理じゃわい」

「オイッ!ワレ行けや」

「嫌ですよ」

「然し、国久は何処で狼犬を手懐けとるんじゃ」

「とてもじゃないがワシ等じゃ無理じゃ、引き揚げるぞ」

「中尾を担いで行ったれや。そろそろ退がれよ。狼を刺激すな!」

 戦わずして完全に戦意喪失してしまい目玉をくり抜かれた仲間を抱えて一目散に逃げて行った。

 暫くして殺気だった戦闘気配が消えて山中に静寂さが戻って来た。

 すると、鉄が優しい一声で「ウォーン」と鳴いた。

 今迄、牙を剥いていた狼達の仲間は、この狼言葉の号令で有ろうか、牙を収め柔和な顔に戻っているではないか。そして静かに背を向けて山中に消えて行った。

 道中で聞いた狼の遠吠えは鉄の声で、仲間を呼び寄せてくれていたのだ。

 総大将は一気に緊張感から解放されると暫くは放心状態であった。

 警護の侍は先程から腰抜け状態で有る。冷静なのは鉄とラー助だけでお師匠さんの前でジィーと見つめている。

 そしてお師匠さんが我に返ったのを見るや飛び付いて来た。

 後は何時もの様に戯れまくっている。此の度は、鉄、ラー助にとっては特に嬉しいものが有る様だ。全く自分達で師匠さんの命を救ったのであるからだ。

「鉄ちゃん、ラーちゃん有難う。お前さん達のお陰でワシ等の命が救われたよ。だんだん!だんだん!」

「ナンノ、ナンノ、ダンダン」

 とラー助の声がし、鉄は「ワン、ワン」叫びながら喜び走りまくっている。

「お前さん達はほんまに策士じゃのう」

 鉄もラー助も頭を撫でられて嬉しくて堪らない。他に何の欲も無い。でも、たまには美味しいご馳走が食べたいよと云う顔をしている。

 其の間にも二人は、へたり込んだままである。

「お前等、ちったあ正気に戻ったか。何時迄ビビっとるんなら」

「・・・・」

「おい、ワシ等が何もしとらんのに、大勢の敵の間者が逃げてしもうたがな」

 二人は苦笑いをしながら

「さ、左様で御座います」「申し訳け有りません・・・」

「ほんまに痛快で凄いお犬様とお鴉様じゃのう」

 此の話しを聞きながら冷や汗を流していた。鉄とラー助が居なかったら、総大将は完全に殺られていたで有ろう。

 何の為の警護なのか、山中での細い一本道で一番狙われ易い先頭を総大将に歩かせるなど、全く無能としか思えない。

 ラー助が間者をやっ付けなければ、総大将は弓矢で心臓をぶち抜かれ命が絶えていたのだ。

 侍達の切腹だけでは到底済まされる事では無いのだ。

「おい、何時迄もビビっとらんで、こっちへ来て鉄に触ってみいや。どうもしゃせんから」

「でも、恐ろしいですから・・」「・・・・」

「一寸、よう見てみ鉄を、耳を寄せて後ろに寝かせとるじゃろうが。其れに第一、尻尾を目一杯振っとるで、お前等と仲ようしようと思うとるし、可愛いがって貰いたいと思うとるんじゃ」

 其れでも、言われるがままに恐る恐る近付いて頭を優しく撫でた。

 すると鉄は三人の手を代わる代わるペロペロ舐めだした。そして嬉しそうな表情をしている。

「あゝ、やっぱり大殿の言われる通りだ」

「あれえ、ほんまに優しいんじゃ!」

 そして慣れて来ると暫く子供の様に一緒になって戯れていた。

 幼い頃を互いに思い出したので有ろうか、広場を走り回っている。

 そうしてボチボチ出立するかと、大殿が腰を上げた時に、鉄が急に耳を立てて、 もと来た道の方向に走り出した。

 すわ!又、奴等の急襲かと三人に緊張が走った。だが鉄の走る後姿を見ていたお師匠さんには即ぐに理解で来た。

「慌てるな、何も有りゃせんよ」

 案の定、草木が繁って、先が見え無い道の方で鉄の甘えた声がする。大将が来てくれたのだ。

 鉄が嬉しそうに与作に寄り添いながら三人の目の前に姿を現した。

「お師匠さん、ご無事ですか!」

 師匠からため息交じりに喜びの声が溢れた。

「大将、来てくれたんか。ハァ〜、又、奴等が戻って来たんかと思うてびっくりしたよ」

「此奴等、さっきまで腰を抜かしておったんじゃ、ハハハ」

「鉄ちゃんとラーちゃんのお陰で命拾いをさせて貰ろうたよ」

「ワシはなんとも無いがどうして此処が分かったんじゃ」

「ラー助が呼びに来てくれたんですよ」

「でもラーちゃんは鉄ちゃんと、ずっと一緒にワシ達を尾行して来てくれとったんじゃがのう」

「お師匠さん、ラー助には羽根が有り、あっという間に空を飛ぶんですよ」

「そうか、そうか」

「ラーちゃんはお師匠さんが危ないと知ると、ワシの所に繋ぎに来て、すぐ折り返したんですよ」

「ほうか、然し、ラーちゃんも凄いやっちゃなぁ」

「じゃが、よう急に店を出て来れたなぁ」

「首を覚悟で主人にお願いして許して貰いました。師匠の命には代えられません」

「有難う、有難う、だんだん、だんだん」を繰り返し目頭を拭いながら男泣きし何度も頭を下げたのである。

「お前等もよく礼を言え!」

 三人の侍もさぞたまげた事で有ろう。

 自分等の大殿様が涙を流しながら、町人である丁稚奉公人に何度も地面に頭を擦り付けるなど到底考えられない事であったからだ。

 何せ、与作は着の身着のままで駆け付けており、小刀と吹き矢は腰に付けてはいたが、浅田屋の前垂れを掛けて丁稚そのままの格好で有る。

 そんな事にはお構い無く、天下の大殿がこの態度である。

「ワシ達を助けてくれた、鉄とラー助の飼い主様じゃ、其れに剣の達人で吹き矢の名手じゃ」

 此の言葉と大殿の丁重な姿勢に度肝を抜かれた警護侍は

「ハハァ、此の度は大殿の命を救って頂き誠に有難う御座いました」

 二人は其の場の地面に土下座して頭を何度も下げ平伏している。

 だが与作にはこの状況が何が何やらさっぱり分からず全く困惑していた。

 この場所で、鉄とラー助がやった事など、与作は後から駆けつけており知る由も無く、返答するにもどうしていいか分からず躊躇していた。

 其れでもお師匠さんは与作の狼狽える姿を見て、嬉しそうにニコニコ笑いながら鉄の頭を撫でている。

「お師匠さん、此れは・・・」

「ハハハ」

「そりゃそうと、一番活躍してくれたラー助が今迄おったんじゃがのう。何時のまにか何処へ飛んで行ったんかのう」

「多分、其れは落武者が相手の陣地に戻る迄、上空から見張っているんではないですかね」

「ほんまかいのう信じられん。どうしてそんな事迄、大将には読めるんじゃ」

「ラー助はね、小さな頃から此れをするのが好きなんです。鉄と玉とラー助は私と隠れんぼ遊びをしょっちゅう、山中でしておりましたが、必ず上空から見つけて付いて来るんですわ」

「今は、特にラー助が、好きで好きで堪らない、お師匠さんの為にやっているんではないですか」

 与作はにっこり笑いながら

「待っていましょうよ」

「処でな、大将、ワシも炭焼き小屋に寄ってもええか」

「どうぞ、どうぞ、汚ない所ですが」

「ラーちゃんが帰って来る迄、待っておりたいんじゃ」

「よし、そうと決まればお前等、先に城へ行っておれ。それとな今度の件の事は内緒でぇ、誰にも他言無用じゃぞ、分かっておろうのう」

「喋っみい、お前等の評価が落ちるでぇ」

「三人共、狼犬を見て震えとった云うて家老に言いつけるで」

「其ればかりはご勘弁を」

「ハハハ、冗談、冗談じゃよ。そんなこたぁしやぁせんよ。お互い内密にしょうや」

「ハハァ」

 と侍は直立不動で

「其れでは先に行っております」

 そして与作の方を向いて

「此の度は、大将様に何度も助けて頂き誠に有難う御座いました。後は大殿を宜しくお願い致します」

 と何度も頭を下げたので有る。

 与作は警護侍から大将様と呼ばれるなど、思ってもみず全く返答に窮し只々、照れ笑いを浮かべながら黙礼をするのみで有った。

「後は皆んなと一緒に帰るから気を付けて行けよ」

 と警護の二人を見送った。

「よしゃ、大将、ワシ等もボチボチ行こうか」

 と出発準備をしている時、又々、鉄が帰る方へ走り出した。然し、今度も尻尾を巻いて嬉しそうに行くではないか。

 其の先には息せき切って駆けて来る玉がいる。

「玉ちゃん、どうした」

 なんと、玉も山中に木霊する鉄の吠える声を小屋にいる時に聞き付け、心配して駆け付けたのだ。ハアハァ、荒い息をしている玉を、抱き上げ懐に入れてやると「二ャーン、二ャーン」と甘えながら師匠さんの顔をペロペロ舐めまくっている。

「玉ちゃん迄も心配して来てくれたんか、有難う有難う」

 マムシに噛まれて苦しんでいた時に、鉄と玉で看病して以来、玉は師匠を子供の猫の様に思って好きで堪らないのだ。

 鉄は相変わらず山道を歩く師匠に身体をぴったりくっ付けて、何時もの様に介護気取りなのだ。

「ほんまに汚ない処ですが入って下さい」

「有難う、有難う、いやぁ久し振りじゃのう。マムシに噛まれて世話になって以来じゃのう」

 中に入ると囲炉裏が有る。玉は先程迄に寝ていた座布団の上に案内して座らせた。

 日頃、可愛いがって貰っているお礼のしるしのつもりなので有ろう。

「こんな処で何も有りませんがこらえて下さい」

「要らんよ、何も無くても皆んなと居るだけでええよ」

 与作は、師匠さんの為に何か有ればと戸棚を開けると、此の前に浅田屋から貰った祝い酒が有るではないか。何れ自分の家に持って行く事にしていたがこの際に丁度いい。

「お師匠さん、祝い酒が有りますが飲まれますか」

「ほんまかいな、それは有難い。ワシは酒には目がのうてな」

 戸棚から菰樽を取り出すと

「お口に合いますかどうか」

「ワオゥ、ぎょうさん有るな、五升樽か」

 と非常に嬉しそうだ。

「全然、封を切っとらんが大将は飲まんのか」

「私は酒を一滴も飲めん体質なんですよ」

「ほう、其れは悪いな。一人でええ思いをさせて貰うて済まんな。へへへ」

 と一人悦に入りながら一合升で口にしている。

 山中で酒の肴を買いに行く訳にもいかず、何時も食べている、丸干しやスルメが有ったので其れを囲炉裏で焼いて出すと

「大将、極楽じゃ、極楽じゃ。側には地獄の一丁目から救ってくれた鉄と玉が居るし此処は御殿だな」

 城中ではこんな物は食べた事などないのであろう。始めて庶民が口にするものが旨くて珍しくて全くご機嫌で一人酒をしている。

 その間、与作は近くから、ミョウガや山芋を掘って来て簡単に調理して出した。更に青い柚子が有ったので味噌を其れの上に乗せて炭火の上で焼いて食べさせた。

「大将、ワシは大酒飲みじゃが、こんなに美味い酒と料理を食ったのは生まれて初めてじゃ、実に美味い!」

 酒が進むと明るく饒舌になり、周りも楽しくなって来て鉄も玉も嬉しくて堪らない。

「それにしてもラー助が遅いのう。何処へ行ったんかのう」

 とえらく心配している。

「どうしたんですか。間も無く帰って来ますよ」

「大将、聞いてくれるか。ラー助の活躍ぶりを」

「ラー助が何かしましたか」

「ワシの命の大恩人よ。ラー助が来てくれんかったら今頃はお陀仏になっていただろうよ 」

「ワシ等は間道をずっと尾行されとったんじゃ、前と同じ様に十人はおったな。完全武装をしてな。さっきワシ等がおった広場の手前に栗の木があろうが、其処で木の陰に隠れてワシを待ち伏せしとってな、毛利方の弓の射手が心臓を狙うとったんじゃ。後を付けて来る奴ばかり気にしとったから、前方に全然気が付かんかってのう」

「奴等が襲って来るのは広場じゃばっかりと思うとったから、突然、矢が頭のすぐ上を飛んで行ったからびっくり仰天よ。じゃがのう、目の前の木の陰から射手が道に転げ落ちて来てな、右目をくり抜かれて血だらけじゃ」

「其れがな、空から見張っとったラー助が弓を放つ瞬間、真上から急降下して攻撃してくれたのよ」

「ワシは間一髪、心臓をぶち抜かれずに済んだんじゃ」

「そんな事が有ったんですか」

「だから今すぐにでも逢いたいのよ」

「でも、もうじき帰って来ますよ」

 と話している時に

「テッチャン、タマチャン、ヨサク」

 と小屋の上から声がした。何と一番先に師匠が飛び出して行った。余程、弓矢から難を逃がれたのが嬉しかったので有ろう。

「ラーちゃんお帰り、待っとったよ」

「オショウサン」

「ワシは坊主じゃないよ」

「カラスカ」

 とトンチンカンな会話を外でしている。

 与作は其れを聞いていたが、おかしさに吹き出した。

 すぐに肩に止まって中に入って来た。暫くは小屋の中は「ワンワン、ニャーニャー、ガァーガァー」賑やかな事、賑やかな事、天下の大殿も酒の勢いかどうか、子供の様にはしゃぎまくっている。

 何とも奇妙な取り合わせである。

「処でラーちゃん、口に何を咥えておるんじゃ」

 と師匠が聞くと、与作が答えた。

「其れは、水芭蕉の花ですよ。ラー助は逃げて行く間者供を上から見ていたのです。山中から怪我をした仲間を担いで下りて、可愛川沿いに行き其処から川舟で対岸の敵陣の犬飼平に渡りました。

「そんな事が何で分かるんじゃ」

 と師匠が不思議そうに聞くと

「其れはラー助が持って帰って来た花なのです。水芭蕉は此の地では犬飼平の窪地の池にしか咲いておりませんから。子供の頃に仲間と泳いで渡り、よく採りに行ったものです」

「う〜ん、凄い!もの凄い読みじゃのう。大将がワシの参謀に付いておってくれたら千人力なのじゃがのう。惜しい、実に惜しい」

「済まん、つい愚痴が出てしもうたが許してくれ」

「然し、ラーちゃんは空飛ぶ忍者じゃなぁ」

 大好きな師匠に頭を撫でられ、褒められると大きな目をパチパチし、照れながら膝の上にちょこんと乗っかっている。

「ほいでな、他に鉄ちゃんの事じゃがな、どして狼犬の仲間を呼んでくれたんかのう」

「何ですか、其れこそ私には分かりませんが」

「さっきの広場でワシ等が囲まれて殺られかけとった処へ、牙剥き出しの図体が大きな仲間が四、五頭来てくれてな、ワシ等を取り囲んで奴等を威嚇してくれたんじゃ、笹薮から出て来た時はワシ等も噛み殺されるんじゃないかとビビッたよ。じゃが強い味方になってくれて全部追っ払ろうてくれてな、奴等は這々の体で逃げて行ったんじゃ」

「さいなら、さいなら云うて送くっちゃたよ」

「じゃが、ワシ等を守ってくれた狼達が帰える時はな、牙を収めて穏やかな顔になってくれてな、ワシャ嬉しゅうて又、遊びに来いよと言うてやったよ」

「ワシは日頃から鉄を信頼しとるが、其れにしても狼の仲間を呼び寄せるとは、如何に与作殿に鉄が恩義を感じているかと言う事じゃ」

 師匠は酒が段々に回って来ると、全くご機嫌で冗舌で、冗談ばかりを飛ばしている。

「ワシは此処におるのが楽しゅうて堪らんのじゃ。何でバカ殿を続けにゃいけんのかのう。ハハハ」

「鉄ちゃん、ようやってくれたな。お前も師匠さんが大好きだからな」

 与作と師匠さんに頭を撫でられ大喜びをしている。

「然し、鉄ちゃんは義理、人情に厚い犬じゃのう。ワシもほんまええ勉強させてもろうとるよ」

「私にも、よう分かりませんが多分、小さな時に一度だけ、半年くらい家出した事が有ります。その時は多分、親兄弟の狼に見つかり連れ戻されたのでしょう。 然し、人間の愛情が忘れられず、又、狼の群れの習性に馴染めず戻って来てくれたのではないでしょうか。迷い子になったのを拾って生命を助けて貰った恩返しではないでしょうか」

「じゃが、鉄は従順で優しくて全く勇敢じゃな」

「ほんま大将の処は忍者一家じゃのう」

 色々喋っているうちに師匠さんの瞼が重くなりだした。一升以上を飲み干し、流石に疲れたのであろう。今日の襲撃事件の気苦労も有り

「ワシはもう眠とうなった、今日は城には帰らんぞ。大将、泊まらしてくれよ」

「布団は有りませんよ」

「要らん、要らん。囲炉裏とゴザで十分じゃ。其れに地獄の一丁目から救うてくれた、鉄と玉とラーちゃんがくっ付いて寝てくれるからな」

「其れに此処で忍者一家と一緒におると、ワシは何十年分もの、幸せを取り戻した気分になれるんじゃ」

 その夜は師匠さんと与作に挟まれて鉄、玉、ラー助とも皆んな安心して腹を出し仰向けに寝たのであった。

 他人様から見れば馬鹿かと思われる程、奇妙な取り合わせで有った。

 翌朝、与作は仕事の為に出掛けなければならない。早めに起きて師匠さんと皆んなの食事を作り用意をしておいた。

 玄関戸の外に出ると皆んな見送りに一列に並んでいるではないか。

「今日は来んでもええからな、お師匠さんをちゃんと送って上げてくれよ」

 と言うと心得たものですぐに聞き分けてくれた。

 そして小屋の上から

「ダイジョウビ、ダイジョウビ、ワシ二マカセトケ」

 何時もの師匠の声色のラー助の一言

「ほんま頼りになるな、お前達は。じゃ行って来るからな」

 其れから与作が出掛けてから暫くして、師匠が目覚めると与作はもういなかった。顔のすぐ上に鉄と玉とラー助がジィーと覗き込んで待っている。

 背伸びをして欠伸をすると鉄と玉が顔をペロペロ舐めまくりながら大騒ぎをしだした。

「ラーちゃんは堪えてくれ、目を潰されるからな」

 と冗談を言いながら、優しく頭を撫でている。

 起き上がって見ると、質素ながら食膳が並んでいた。

「有り難うよ。ほんまにすまんことよ」

「よしゃ、一寸、外に出てみるか」

 と鉄が先に戸を押し開けた。

「オッ、鉄ちゃんすまんのう」

 陽射し眩しい本日もいい天気のようだ。

 手水鉢で手や顔を洗うと後から鉄も玉も同じ様にやりだした。

「何という事じゃ」

 其れが済むと遠くに見える城を観やりながら「飯を食ったら出発じゃ」

「鉄ちゃん、玉ちゃん、ご飯を頂くぞ」

 と言うと屋根の上から「ラーチャン、オルゾ」

「すまん、すまん姿が見えなんだからな」

 皆んなで一斉に小屋の中に入ると自分の食べ物の前で師匠さんが食べるのを待っている。

「何という躾をしとるんじゃ、大将は」

 箸を取り上げると思わず涙が出て来た。

「メシ、メシ」

 のラーちゃんの一声に急かされて

「いただきます」

 麦飯に丸干しを焼いたのと、囲炉裏の側には冷えない様におみおつけと梅干しが有った。こんな質素な物でも師匠にとっては、何物にも代え難いご馳走で有った。

 鉄、玉、ラー助も何もいい物を与えていなかったが互いに美味しかったよ、と云う顔をしている。

 やがて食事を済ませると

「城で皆、心配しとるじゃろう。よし、出立じゃ」

 途端に「ワンワン」「ニャァ、二ャァ」「ガァー、ガァー」と騒々しい事、この上なしである。

 小屋から城までまだ一里程は有る。此処から大将は

「天守閣の上からワシが手を振るのがラーちゃんには見えると言うとったが、どんなええ目をしとるんじゃ。城がほんの豆粒しかないで」

 朝もやの中、爽やかな道中であったが昨日の今日で有る。城へ着くまで油断は出来ない。

 鉄と玉は与作が居ない分、師匠の警護気取りで挟む様にして山道を歩いて行く。

 上空を見るとラー助が弧を描く様に空から目を光らせてくれている。

 やがて城門が見えて来た。

「鉄ちゃん、玉ちゃん、有り難うなもう此処でいいよ。後は一寸待っといてな、ラーちゃん行くか」

 小さな八幡山城の前では城主と警護侍が待っていた。

「大殿、心配しておりましたが、無事で居られましたか」

「アァ、全く大丈夫じゃ。朝帰りしてすまんのう」

 と互いの挨拶を済ますと城内へ入って行った。

 二階に上がって行くと昨晩と今朝の食事が用意して有った。既に窓枠にはラーちゃんが止まっている。

「一寸、待っといてくれるか。今から一筆書くからな」

 と言い師匠は猪の肉を持って来てくれた。其れを頬張っている間、暫く考えながら手紙を書くと

「ラーちゃんよ、此れを大将に渡してくれるか。其れに飯を持って帰るか」

 包みを持って飛べる様にこしらえてくれた。

「ラーちゃん、此れを持てるかな。重いぞ」

「ダイジョウビ、ダイジョウビ」

 足の爪に大きいのを持たせ、口に書状を咥えさせた。

 城の上から見ると山中の道に鉄と玉がこちらを見ている。其処へラーちゃんが舞い降りた。窓枠から顔を覗かせ手を振ってやると目一杯尻尾を振っている。

 其れから大きな包みは鉄が咥え、玉は背中に飛び乗っている。皆んな嬉しそう帰って行くではないか。

 中身が美味しいご馳走で有るのを皆よく知っている。

 礼金


 師匠は今度の襲撃事件の事が与作が居ない時に発生し、鉄とラー助が大活躍してくれたのが余程嬉しかったのか

「大将、来てくれ!皆んな引き連れ来てくれ。でも城へは絶対に来んじゃろう。ワシの方から行こうと思う、何処がええかのう」

 と書状を書いた。

 其れを頭のいいラー助は、すぐに浅田屋の与作の処へ一っ飛びした。

 店の上空から見渡しても見つからない。今日は何も急く事ではないとラー助はよく知っいる、屋根の上からキョロキョロのんびり見渡している。 然し、物凄い視力で観察力が半端ではなく、其れに鼻も利くと来ているから空飛ぶ忍者のラー助から逃がれる事は出来ないのだ。

 そうして暫くして又、空高く舞い上がると、遥か向こうの田んぼの中の一本道を荷物を小脇に抱えながら与作が歩いているではないか。

 ラー助は其処へ飛び立ち急ぎ目の前に舞い降りた。

「ラーちゃん、びっくりするじゃないか、どうした」

「オシショサン、ガミガミ」

「おう、お師匠さんから手紙か。わざわざ持って来てくれたんか」

 咥えていた書状をポトリと落とし、与作は広げて一読すると

「ラーちゃん、今から返事を書くから又、城へ届けてくれるか」

 すると田んぼのあぜ道に腰掛けて、御用聞き用で何時も携帯している、筆と紙を取り出し一筆書きだした。

 お師匠様へ

「其れなら、明日は非番で百姓の手伝いも無く大丈夫ですが。お師匠さん、天気も良さそうなので昼頃、城の近くのすぐ上にある堤の処に皆んな総出で行きますが、いいですか」

 こんな簡単な書状のやり取りは、ラー助が果たしてくれる。

 店に戻ると、丁度、主人が商いの事で城へ出掛ける処で有った。

 ばったり顔を合わせると

「ご主人さん、昨日はご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

「いやいや、どうちゅう事たぁないよ」

「其れでお師匠さんは何とも無かったんか」

「・・・・」

 何にも喋らなかったが、ニコニコしているのを見て主人は

「昨日、国久公が三次へ来られたというのを聞いたでぇ。与作よ、外で話すか」

 と言いながら一緒に街中を東にぶらぶらと歩いて行った。

「そりゃええが、昨日、城から使いが来てのう。ワシャご家老様に呼ばれてな、何事かと思うて登城したのよ。又、闕所じゃ言われるんじゃないかと、ヒヤヒヤしながら緊張しまくってのう」

「処が全く違う話しじゃったのよ」

「殿様がな、此の前の闕所の事で浅田屋に、大変、迷惑と心配を掛けて申し訳ない、謝りたいと仰せになったらしいんじゃ。其処でご家老様が代わりに、ワシに手をついて頭を下げられたのよ。ワシはびっくりしたで」

「其れは良かったですね」

「其れからな、浅田屋さんに頼みたい事が有るんじゃが聞いてくれるか。とおっしゃってな」

「私に出来る事なら何なりとお申し付け下さい」

 と言うと

「うちの家来供の事に関する由々しき問題でのう。此れのせいで横着者がぎょうさんおってな。藩の士気に関わる事じゃ」

 と言われて、

「鳥目に関わる予防と対策について是非、講義をしてくれんかのうと頼まれたんじゃ」

「聞く処によると藩士の中に一杯おるらしいな。これじゃ夜間の城の警備も、いざ合戦になった時に、何の役にも立たんと嘆いておられたよ。其れに、此れを口実に日頃の仕事を、わざとせん不心得者がいるらしいんじゃ」

「多分、其れは、お殿様の依頼でしょうから、堂々と藩士の皆さんの前で有りったけの知識を披露されては如何ですか」

「此れは藩を掌る、重要な役目のご家老様も、主人さんに期待されていると思いますよ」

「なるほど、ワシは侍相手にやると思うて少々ビビッとったが、自信を持って話せばええんじゃのう」

「そりゃそうですよ。浅田屋はお城とは先代からの長きに渡り、信頼関係を築いて来たのですから」

「分かった、有難う。ワシは今から行くけぇ此処でええよ」

「堂々と胸を張って一席ぶってきて下さいよ。すみません。丁稚が要らんことを言うて」

「何の何の、頼もしい男がおってくれて浅田屋も心強いよ」

 与作は、今日は一日中、仕事をしながらご機嫌であった。主人が以前と同様にお城に出向き、商いに精を出している事に、心の中で嬉しくて堪らなかった。

「コラー、与作!何をニヤニヤしいしいボケーとしとるんなら。昼飯を抜かせるど」

 昨日、仕事を放ったらかしにして逃げて怒鳴られた、あの番頭の大声が店内に響き渡っている

「す、すみません。真面目にやりますから」

 浅田屋での仕事を終えてから、鉄と一緒に小屋へ帰り着くと

「おい、皆んな明日は休みじゃから、師匠さんの処へ遠足に行くぞ。そして久し振りに宝探し遊びをやるからな」

 途端に此の言葉を聞いて大喜びをして、部屋の中を飛んだり駆け回っている。

「辞めぇや、埃が立たあや」

 そんな事には御構い無しで、与作も処置なしで有った。

「オイ、晩飯を食うたら早う寝るど。又お師匠さんに会えるぞ。明日は朝飯抜きでご馳走をいただくぞ」

 食べる言われて又、走り出した。

「オイ、ほんま辞めいや」

「エイエイオー、オラーオラー」

「好きな様にせぇ、ワシャ寝る!」

 翌日、昼前に堤の側の広場でゴザを敷いて待っていた。

 其の上に座って師匠さんが早く来ないかなと、与作と鉄と玉が城の方を見つめている。

 其の時には既にラー助は、城を出て来るお師匠さんを待ち構えている。

「キタ、キタ」

 早速、小さな包みを受け取ると爪に引っ掛け皆んなが待っている処に飛んで来た。

 すぐに、其れに気付いた鉄と玉は迎えに走って行く。そして本当に嬉しそうに鳴きまくっている。鉄は大きな包みを咥えて駆けて来た。

「大将、待たせたな」

「どういたしまして、わざわざ有り難う御座います」

「今朝、弁当を作らせたから皆んなで食べようか」

「ワシは酒を一升程持って来たが、大将は飲まなんだなぁ、へへへ、すまんな」

 与作は頂いた包みを広げだすと

「オイ、皆んな喜べ、大ご馳走だぞ。どうも有り難う御座います」

 すると一斉に鳴き出しお礼を言っている。

「お師匠さんは先に飲んどって下さい。でも弁当を頂く前に忍者一家が宝探し遊びをしますから、よ〜く見といて下さいよ」

「ほう、そりゃ楽しそうじゃのう」

「よし、お前達ええな、お師匠さんの前で誰が勝つか競争じゃ」

 鉄も玉もラー助も此れをやりたくて、喜びはしゃぎまくっている。

「今から此処へ五つの宝を置きます。そして皆んなに臭いを嗅がせ、其れを私が此れから山中に隠して来ます。其れを誰が一番早く多く取って来るか競争させるのです。

 やがて与作は袋の中から「草鞋、足袋、手拭い、しゃもじ、弁当箱」を取り出した。するとお師匠さんは

「ハハハ、屁みたいな宝じゃのう」

「茶化さないで下さいよ。皆んな真剣なんですから」

「すまん、すまん、ごめんよ」

「でも、そんな事が出来るんか」

「出来るか、出来ないかやってみましょう」

「よし、臭いを嗅いだか」

 鉄も玉もラー助も額を突き合わせながら、真剣にクンクンと大きな鼻息で嗅いでいる。

「よし、ええな。今から隠して来るから一寸、待っとけ。ワシが帰ってから競争じゃ」

 与作はすぐに草木が茂る山の中に駆け上がって行った。

 今迄、甘えていた鉄、玉、ラー助の表情が一変し、全く真剣な顔で与作が駆け上がって行った先を見つめている。

 結構、広い範囲に隠しに行ったので有ろうか、大分、時間が経ってから与作が坂道を駆け下りて来た。

「師匠さん、今から始めますから号令を掛けて下さい」

「よしゃ、分かった。皆んな頑張ってくれよ」

「さあ、行け!」

 と両手を「パン」と叩くと一斉に動き出した。鉄と玉が並んで走り出し、ラー助は一気に飛び立った。

「然し、大将、面白い事をするな。こりゃ楽しみじゃ、酒がすすむぞ」

「こうなりゃ、ワシと大将の人間同士の勝負じゃ。誰が勝つか賭けようではないか」

 とニコニコ笑いながら挑んで来た。

「ワシはラー助が勝つと思うが、大将はどうじゃ」

 与作は苦笑いをしながら

「ウ〜ン、多分、鉄でしょうが」

 と言葉を濁しながら笑っている。

「じゃが、真面目な話、大将は相当広い範囲に隠したが、皆んなに全部見つける事が出来るんか」

「其れに、此処は何時も遊ぶ処と違ごうて、慣れとらん始めての場所じゃろうが」

「さあ、其れは私にも分かりません。だが皆んなを信じております」

 色々話している時にラー助が飛んで来た。

「ウオゥ!やった、やったあ、ラーちゃんじゃ、幸先がええのう」

 手拭いをゴザの上に落とし又、飛んで行く。

 其れから、更に一杯飲んでいる時に玉が帰って来た。

「オウ、玉ちゃん、頑張れ!ええぞ、ええぞー」

 しゃもじを置いて又、駆けて行く。

「然し、鉄も玉もラー助も人間では到底考えられん程の鼻と目と耳をしとるんじゃのう。今、やっとる嗅覚を利用した宝探しにしても学者が言うには、狼犬は人間の何千倍も有るらしいんじゃが、大将ほんまかいな」

「ハイ、鉄に関して言えば、何の臭いにも敏感に反応するのです。一山二山、向こうで有ろうとも確実に見つけて来ます。玉も優れていますが、何もかもとはいきません。自分の好きな物に対しては反応が良いのです。でも離れた距離では無理な様です。今日の宝探しの距離が限度でしょう。ラー助は今日の場合は嗅覚に頼るのでは無く、上空からの桁外れの視覚に専ら頼ります」

「今、言われた何千倍という数値に関しては全く分かりませんが、感覚としては分かります」

「浅田屋のお嬢さんが誘拐された時、脅迫状に糊替わりに付けていた一つの飯粒を嗅がせると、此れを書いて出した犯人の処の住まいに辿り着きました。店から通り二本を隔てた奥まった長屋でしたが、此れがその感覚ではないでしょうか。それを玉がやったのです。鉄ならその何倍も出来るのです。

「なるほど。然し、大将は、夫々の動物の特徴を上手に引き出すなぁ」

 色々、話している間、時間が経っても鉄だけが帰って来ない。

「鉄ちゃんは、どうしたんじゃ。まだよう見つけきらんのかのう」

「そうですね。苦労しとるようですね」

「大将、ワシの勝ちじゃのう」

 わいわい、ヤイノ、ヤイノ、師匠の賑やかな事、子供の様にはしゃぎながら応援をしている。

 やがて山裾の木陰から鉄が現れた。

「鉄じゃ、鉄じゃ、遅かったがようよう帰って来たぞ」

「鉄ちゃん、頑張れ!頑張れ!」

「あれ、じゃが二つ咥えとるでぇ」

 そしてすぐ後に玉が追って来る。 互いに決勝点迄の駆け込みだ。

「鉄行け!、玉、頑張れ!」

 師匠の大きな声援に皆んな一生懸命だ。

 少し先を鉄が行く。だが、決勝点手前の十間辺りの処で口から弁当箱を落とした。

 その間に玉が足袋をゴザの上に落として座り込んだ。

「やった!やった!玉ちゃん勝ったぞう」

 玉はプィと上を向き尻尾を立てて勝ち誇っている。

「ワオゥ、ワシの負けじゃ」

「玉が勝つとは思わなんだな」

「然し、完全に大将にやられたよ」

「じゃがのう、大将は鉄が勝つと、はっきりと言わんかったが、どうして分かったんじゃ」

「わざと玉に勝たせたんじゃないのか」

「其れは分かりませんが、鉄の大らかな性格と優しさが出たのでしょう。

 自由気ままな性格の玉を、自分の子供の様に思っているのです」

「そんな玉が巣から落ちていた雛鳥のラー助を拾って来て育てたのですから、鉄にとっては可愛いくて仕方ないのです。顔は怖いですが本当に心優しい狼犬なのです」

「いやはや、大将の動物の性格と特徴を見抜く眼力には恐れいったよ」

「ワシはほんまにええ勉強をさせて貰うたよ」

「其れはええが、ラーちゃんが帰って来んが何をしとるんかのう。もう負けたんが分かっとらんのかのう」

「呼んでやりましょう。まだ探しとったら可哀想ですから」

 師匠がカラス笛をひと吹きするとすぐに飛んで帰って来た。

「カッタ、カッタ」

 の声を出しながら師匠の肩に止まった。

「ラーちゃん、勝ったんじゃなくて負けたんじゃろうが」

「シミマセン」

 と言ってペコと頭を下げた。スの発言が出来ないのだ。

 此れには二人とも笑い転げたのである。

「ヘヘヘェ」

「ご苦労さん、皆んなよう頑張ったな。さあ、師匠さんに頂いたご馳走を皆んなで頂こうか」

 ゴザの上に広げたご馳走に、鉄も玉もラー助も目の色を変えている。

 日頃は、丁稚奉公で気持ち程度の給金しか貰っていないので、贅沢が出来ないのだ。

 麦飯に少々のおかずを添えただけのお粗末な食べ物だが、皆んな美味しそうな顔をして食べてくれる。

 会う度に、何か持って来てくれるお師匠さんが好きな筈だ。

 やがて宴が終わる頃、お師匠さんが真顔になり呟いた。

「実はな、今日は皆んなにお礼がしたくて来たんじゃ」

「今更、何ですか。二度と其れは言わないと申し上げたではないですか」

「じゃがのう、ワシは大将と知り合ってからそんなに長くはないが、この間に三度も生命を助けて貰うた。一昨日などはラー助が助けてくれなかったら弓矢にやられて今はこの世に居なかったで有ろうよ」

「前の時も大将は命を賭けて迄、ワシと一緒に戦ってくれた。其れに鉄と玉に物凄い活躍をして貰うた」

 と言いながら、重そうな木箱を前に差し出した。そして姿勢を正して

「大将、是非受け取ってくれるか」

 と蓋を開けたのである。

 こちらへ来る時にお師匠さんが背負って来て、両手には弁当の包みを持って来た時に薄々気づいていたのだが、まさか其の中身が小判だとは想像もつかなかった。

「何ですか!これは!」

 途端に与作は腰を抜かさんばかりに驚いた。大枚の小判がぎっしり詰まっているではないか。

「冗談じゃありません。受け取る事は出来ません。全く恐れ多い事で御座います」

「大将は、ワシの生命の代償がこれより安いと云うのか」

「とんでも御座いません。私も鉄、玉、ラー助もそんな気持ちは毛頭有りません。只、お師匠さんと顔を合わせて、可愛いがって頂けるだけで十分なので御座います。私を含めて皆んな、お師匠さんが好きで好きで堪らないのです。お気持ちを頂くだけでお金は一切要りません」

 こうした与作の欲の無い本当の気持ちに接し、おいおい大声で、男泣きしたのである。

「大将!頼む、受け取ってくれ。ワシは今も賭けに負けたではないか。其れと思って受け取ってくれるか。頼む!」

 ゴザの上に平伏して頭を下げたのである。

 与作は、あまりにもの師匠の所作にびっくり仰天し、相対して師匠の目の前に平伏した。

「分かりました。お手をお上げ下さい。有り難く頂戴致します」

「ほんまか!大将、受けてくれるか」

 与作はこっくり頷き互いに両手を上げると

「有難う、有難う」

 そして一家を見渡し、「鉄ちゃん」「玉ちゃん」「ラーちゃん」と名を呼びながら頭を丁寧に優しく撫でている。

「頑固なご主人様がようよう承知してくれたよ。皆んな良かったな」

 こうした天下の大殿と丁稚奉公の与作との、とてもじゃないが常識では考えられない男の友情に、実は一番満足していたのは尼子国久公であった。

「ええ気分じゃのう。ドンドン食ってくれ、ワシもほんまに酒が美味うてやれんよ。もう一升持って来りゃよかったのう」


 専正寺


 与作は貰った大金に思案をしていた。何せ百姓あがりの丁稚奉公と、中国地方を支配する天下の大殿とでは、まるで金銭感覚が違うのだ。

 子供時代、百姓の我が家で、小判を見た事など一度も無く、ようやく目にしたのは専正寺さんや、おっちゃんと三次の町に一緒に買い物に行く時、目にしただけなのだ。

 自分は、浅田屋勤めをしており、僅かばかりではあったが給金を貰っており、贅沢をしなければ食うに困らない。婆ちゃん子である与作は常に「物は大切にせえよ、人の物は盗るなよ、人の役に立つ人間になれよ」と常に言われて育っていた。

 其れから与作は毎日毎日思案に暮れていた。この大金をどうすればいいものかと勤め先の浅田屋でも家に帰っても難儀していた。

 そうした時、浅田屋の使いで志和地の庄屋の山田屋に用事があり出掛ける事になった。その日は昼過ぎには到着した。

 此の当時、まだ薬を手に入れるのには庄屋の世話により薬種問屋からまとめて仕入れしていたのだ。後の富山の売薬業者が全国各地の家々を訪ねて置き薬を配置することになるのだが、其れ迄は貧しい家々の為に庄屋が一括仕入れをして面倒を見ていたのである。

 玄関先で「ごめんください」と一声かけるとハナが中からから出て来た。

「オウ、ハナちゃんか。久し振りじゃのう。無事勤めておるか」

「お兄ちゃんこそ何用よ」

「庄屋さんに渡すもんがあって来たんよ」

「ご主人夫婦は、葬儀に出掛けているよ」

「そうか、其れじゃ渡しといてくれるか」

「うん、わかったよ」

「そりゃええが、ハナちゃんお土産の饅頭。ハイ!」

「ワァ、有り難う。此れは志和地の店には無いからね。美味しいんよ」

 ハナは其れからお茶を出して来た。縁側に腰掛けながら二人で挨拶代りの世間話を始めていた。

「ハナちゃんよ。実はな、ワシはどうしてええか困っとる事が有ってな。何か方法はないかなあ」

「何よ、兄ちゃんでも困る事があるんね」

「ワシは今な、何百両という大金を持っとるんよ」

「えっ、今、何を言ったの」

「どうしたの、店の金を盗んだんね。そんな事はお寺さんの伴僧までしとったお兄ちゃんはせんよね」

「当たり前じゃ」

「実はな、有る事で尼子の大殿様の命をお助けして、褒美で頂いたのよ」

「それにしても考えられん金額よね」

「ウン、丁稚奉公のワシと天下の大殿様じゃ天地の開きが有る程の金銭感覚じゃ」

「そりゃ困った大変な事よね」

「身分不相応という事もある。ワシには全く必要が無いお金じゃ」

「分かった。お兄ちゃんの純な心は仏様の教えを説いて下さった専正寺に有り。其れじゃ其の使い道は、専正寺さんにしますか」

「今ね、お寺さんも修繕が大変な様なのよ。何せ建物が古いでしょ。じゃがね、ご住職様も檀家さんに迷惑をかけられんと気を遣っておられるのよ」

「よし、分かった。早速、今度の非番の日に顔を出してみるよ」

「ハナちゃん、ええ事を教えてくれたな」

「ハナちゃん、お礼に少しだけじゃが残しといてやるよ。お前が嫁に行く時の花嫁道具一式は揃えてやるよ」

「ワァ〜、嬉しい!さすがお兄ちゃん!有り難う」

 ご主人様が留守の間、兄妹は饅頭を食べながら久し振りの逢瀬を楽しんでいた。

 ハナも、今は庄屋さんや村から給金をもらって少々だが貯金をしているとか、専正寺さんよりお兄ちゃんを通して学問を教えてくれた事に感謝して写経を続けているとか、昔はお寺さんが怖かったが今は喜んで御院家様や奥様と話しをさせて頂いており、奥様には私の代わりに伴僧をやってもらえないとか言われたけど、自分は百姓の小娘だから断ったのと、とに角、よく喋る。

 でも、与作はハナの話しを聞いていて心地良かった。

 最後に与作は

「ワシはボチボチ帰るが、ハナちゃんよ、今話した事じゃが絶対に内緒だぞ」

「分かっているよ。私はお寺さんの子供の子供だもん。仏様の教えは忠実に守りますよ」

 其れから程なくして非番の日がやって来た。

 たまの休みを鉄、玉、ラー助もよく知っており外で会議を開いている。

 処が今日はお寺さんに顔を出す日で鉄も玉も連れて行く訳にはいかない。鉄に帰って来る迄は留守番をする様に頼んだ。

 本当に賢い。寂しそうにしていたがすぐに聞き分けてくれるのだ。

 与作は木箱を風呂敷に包み背負って山道を駆け下りた。

 押し掛け小僧みたいに入り込み、お世話になり、更に学問を教えて頂いた、大恩ある和尚様に是非お会いしなければ。

「ハナの話しでは寺の修復普請に、金が要ると聞いている。だから和尚様に相談してみるか」

 専正寺へは何時以来で有ろうか。丁稚奉公に出てから何年も来ていない。

 我が家には立ち寄らず、通り越して田んぼ道を進むと、目の前に寺が見えて来た。

 何度も突いた鐘つき堂が懐かしい。一礼をして境内に入り庭を眺めると砂絵が描いて有るではないか。与作が何時もいたずら半分でやっていた事だが、今は和尚様がやっているのではと思っていた。

 暫く眺めていると庫裏の方から声がする。

「与作ではないのか」

「アッ、和尚様、お久し振りで御座います。ご無沙汰致しまして誠に申し訳け有りません」

「何の、何の、与作も元気そうじゃのう。真面目に勤めておるか」

「まぁ上がれや。それにしても随分変わったな」

「おい!与作が来てくれたぞ」

 と声を掛けると、奥から奥様が顔を覗かせた。

「あら、与作さん、いらっしゃい。よく来てくれましたね」

 と奥の離れの部屋へ案内してくれた。

「和尚様の教えを忠実に守り、浅田屋で少しでも役に立てる様に頑張っております」

「そうじゃろう、そうじゃろう。お前の事じゃ、必ずや信頼されておる事じゃろうて」

「与作さん、随分、立派になりましたね。後ろから見ていましたが、風格が有り堂々としていて感心しましたよ」

「奥様、買い被らないで下さいよ。私はまだ丁稚奉公の身ですから」

「いや、与作よ、ワシには分かるんじゃ。お前は、いずれ世の中の役に立つ人間になれると言ったが、ワシの読みに狂いはないよ」

 和尚様と奥様は懐かしさのあまり、子供時代から無報酬で寺に尽くしてくれた与作に対して、長々と回想しながら話しかけて来た。

「与作よ、お前が去ってからワシらは、寂しゅうて、寂しゅうて狼狽えまくっとったよ。特に女房はしょっちゅう泣いとるのよ」

「お父さんこそ、毎日、ボケッとしてたじゃないですか。鐘は突き忘れるわ、法事、法要の案内をするのを忘れるとか、もう大変だったんですから」

「すみません、本当に申し訳け御座いませんでした」

「でも今は大分慣れてな、与作がええ道を創ってくれてからは、後輩が育っとるのよ」

「さっき、庭に入った時、砂絵がありましたが、今は和尚様がやっとられるんですか」

「違うよ、ワシじゃないよ。今はな、与作の後輩が描いてくれとるのよ」

「近郷近在の方に評判がようてな」

「ワシも与作が去ってから暫く寂しゅうてな。寂しさを紛らわせる為に、武士や町人の子供を集めて寺小屋を始めたのよ。なんぼ、戦国の世の中とはいえ、学問の場が必要と思うてな」

「かって、どんどん進歩していく与作を教えてから、はまってしもうたのよ。皆んなの日々成長していく姿を見ていると愉しゅうてな」

「其れにな、今は侍の子も来ておってな。町人の子達とも仲ようやっとるよ」

「順番を決めて掃除までしてくれとるんじゃ。庭の絵も我先にと競うて、季節毎にやってくれておるんじゃ」

「此れも与作が創ってくれた道のお陰だよ。ほんまに有り難う」

「其れは良い事を始められましたね。すると私が一期生ですかね」

「そうじゃ、そうじゃ、優秀な大先輩じゃ」

 和尚様は久し振りに与作と会ったことで嬉しく仕方ないのだ。奥様も側でニコニコしながら聞き入っている。

 尽きぬ話しが佳境の頃、お茶を飲みながらお菓子を頂いている時、与作はとんでもない話しを切り出した。

「和尚様、実は私がお寺を去る時に、はなむけの言葉に、お前は何れ途轍もない立派な師匠に巡り会うだろうと言われました」

「うん、確かに言うたよ」

「正しく、其の様な御方に遭遇致しました」

「何、もう巡り逢うたのか。早やいのう」

 和尚様も奥様と顔を見合わせ嬉しそうに

「して、其の人はどのようなお方じゃ」

「其の御方は、武術の達人で剣の修業をしてくれ、更なる学問の習得と心の大切さを教えてくれました。今現在も懇意にして頂いております」

「何い、今時、百姓育ちで丁稚奉公のお前に、そんな物好きな侍はおらんじゃろうが。戦乱の世の中で殺るか、殺れるかの世界だぞ」

「第一、お前に剣が持てる訳が無かろうが。もし百姓あがりのお前が刀を持っとるのかわかつてみい、たちどころに切り捨て御免じゃぞ」

「ワシには理解が出来ん。してその人とは何者じゃ」

 あまりにも突飛な事を言うもので、びっくりした顔をしている。

 だが和尚様夫婦は膝を乗り出し興味津々である。

「和尚様だけには言います。絶対に内緒にしておいて下さい」

「勿体ぶらずに早う言うてくれえや」

「其れはある事がきっかけで知己を得ました。中国地方の此の地を治める、尼子晴久公の叔父上にあたれらる国久大殿様で御座います」

「・・・・」

 和尚様は暫く絶句し、驚天動地の大事件の様な表情である。

 奥様は其のやり取りを、嬉しそうにニコニコ笑顔を浮かべて聞いている。

「何い!もう一遍言うてみいや。絶対に冗談じゃろうが」

「嘘をつくな!」

「私は嘘は付きません。嘘付きは泥棒の始まりと、和尚様に教わりました」

「じゃが、此の御方は八幡山城の城主や三吉のお殿様も足元にも及ばぬ立派な大殿様だぞ」

「だから、黙っておいて欲しいのです」

「考えても見ろ、武家社会の世の中で武士が幅を効かせる此の時代、一番上の更に其の上の天下の大殿様だぞ。町人の与作が、其れを世間に口にするだけでごみ屑みたいに斬り捨て御免で叩っ斬られるぞ」

「天と地ほどの身分格差が有り、其れが何で百姓の出で、丁稚奉公の身である与作が其れを言うんじゃ」

「独りよがりでは有るまいな」

「私は絶対に嘘は付きません。何度も言いますが内緒にしておいて欲しいのです。国久公に迷惑が掛かりますから」

「ウ〜ン」

 と大きな溜め息が和尚様の口から漏れた。

「ワシも志和地の城主とは懇意で何度も城に上がった事があり、その折に大殿様は、しょっちゅう常駐されているとは聞いた事は有るよ。だが出会ってご尊顔を拝した事は一度も無いよ」

「分かった、今迄の話しは一切聞かなかった事にする。絶対に他言はしない。其れこそワシの首も飛ぶとこじゃ」

 隣に座っていた奥様は只、二人の会話に聞き入っており、頼もしい与作の姿と話しぶりに聴き惚れていた。

「こんな事を言っちゃあなんじゃが、当てになる様でならんワシの勘働きも、ええ方に働いたのう。有り難う、有り難う。自信が湧いてきたよ」

「此れからも、和尚様、世の中の為に宜しき教えてを広めて下さい」

「分かった、ワシも与作の様に頑張るぞ」

「処で和尚様、話しは変わりますが、今日はお寺の修復普請に金が掛かると聞いて様子を伺いに来ました」

「ハハハァ、一遍に話しが下界に下りて来たな」

 と苦笑いをしながら

「今、難渋しておるところでな。方々が傷んで雨漏りするんじゃが、ワシが屋根の上に上がって直す訳にもいかんしのう。何せ建物が古いからな、檀家の皆さんにあんまり迷惑は掛けられんからのう」

「此の部屋を見てみい、あっちこっち畳が濡れとろうが。うちで一番大切な客間じゃで。其れに与作が子供の頃、何時も見とった本堂の天井の絵もシミだらけじゃ」

「大変ですね、和尚様」

「お父さんも少々低い処は自分で修繕をするんですがね。何せ年ですから、危なかっしくて見ていられないんですよ」

 と奥様が笑いながら言うと、与作が話しを切り出した。

「和尚様、奥様、私も大した事は出来ませんが、子供の頃から可愛いがって頂き、更に一番大事な学問を教えて頂き大変お世話になりました。少しばかりですが寄進させて下さい」

「有り難う、有り難う。じゃが浅田屋の丁稚奉公では出世する迄の当分の間は、ただ働きみたいなものじゃろうが。気持ちだけでも嬉しいよ」

「気持ちだけは頂いておくから、与作の将来の為に其の分は貯えておってくれ」

「そうですよ。与作さん、あなたの優しい心根だけで充分ですよ」

 だが与作は、おもむろに風呂敷包みから木箱を取り出すと、目の前に差し出した。

「でも、ほんの気持ちですから、どうぞお受け取り下さい」

「ええんか、頂戴しても」

「はい、宜しゅう御座います」

「母さん、与作の志をお受けしようよ」

 和尚様は、気持ちは大変嬉しいのだが心の中で躊躇していた。だが強い気持ちの与作の厚意にまけ、姿勢を正し両手を合わせると一礼して蓋に手を掛けた。

 奥様も一緒にこっくり頷き頭を下げた。

 ゆっくり開けた途端、和尚様は大声で叫んだ。

「なんじゃ、此れは!」

 奥様もつられて奇声を発した。

「与、与作さん、どうしたんですか此の大量のお金は!」

 中にびっしり詰まっている小判を見て、びっくり仰天してしまった。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ。与作は浅田屋の丁稚奉公ではないのか。月になんぼうも貰うとらんじゃろうが、此れは一生掛かっても稼げん額だぞ」

「まさか、浅田屋の金蔵から盗んで来たのでは有るまいな」

「お父さん!」

 と諌める奥様の声、でも明るく非常に嬉しそうだ。

「すまん、すまん。此れは全くの冗談じゃ」

「私には必要のないお金です。是非、お寺さんの為にお役立て下さい」

 和尚様は大きな溜め息をつきながら

「尼子の大殿様の話といい、此の大金の事といい、ワシの寿命を縮める程、びっくりさせてくれるな」

「和尚様、此れは全くまともなお金で御座います。理由は申し上げる訳にはいきませんが、専正寺さんにお使い頂く価値が十分に御座います」

「ウ〜ン、どうしたお金か知らんが一切、聞くまいて。誠実で正直者の与作の事はワシが一番よう知っとる。此れは、村の皆さんにも寺の為にも大切に使わせて頂きます」

 と言いながら夫婦で、姿勢を正し丁寧に何度も頭を下げたのである。

「本当に有り難う御座います」

「和尚様、奥様そんなに畏まらないで下さい。今迄の様に普通にお付き合い頂け なければ、今後も来にくいでは有りませんか」

「分かった、分かった。今迄同様に付き合う事にするから」

「今後とも宜しくお願い致します」

 と与作は、お寺さんに対し今まで育てて頂いたお礼を述べると

「和尚様、今日は、私は此れでお暇致します。ご馳走になりました」

「一寸、待ってくれよ。まだええじゃろうが」

「ワシも女房も、久し振りに来てくれた与作と積もる話しが一杯有るでのう」

「今、女房が取り急ぎ飯の用意をしとるんじゃ、有り合わせのもんじゃが食って行ってくれるか。今日は此れから別に用事が有りゃせんじゃろうが」

「本当にすみません。其れではお言葉に甘えまして宜しくお願します」

「よかった、よかった。飯の前に与作殿、一寸、見といて欲しいんじゃ」

「和尚様、其の殿付けは辞めて下さいよ」

「いいや、其れではワシの気持ちが収まらん。今後は一切、此れでいく」

 と毅然とした態度で一声放った。

 与作も苦笑いをする他なかった。

 和尚様は与作を案内し座敷を出て懐かしい庭先が見える長い廊下を渡り本堂の中に入ると

「与作殿、何時も子供の頃、眺めておった天井絵もご覧の通りじゃ」

「シミだらけで、欠片が今にも頭の上に落ちて来そうですね」

「そうじゃ、危ないから早速にも修復させて貰うよ 」

「私が小さい頃、和尚様が説教されている間中、うろちょろ、うろちょろしながら絵の下に行っては絵取り頭の中に描いておりました。あの時分は迷惑を掛けて申し訳け有りませんでした」

「何の、何の、あの頃から何処となく見所の有る人間じゃ思うとったよ」

 そして縁側の上に来ると懐かしそうに

「あれは小さい頃、与作殿が箒の柄で見よう見真似で字を書いておったなぁ」

「そうですね。其れを和尚様に見つかって、其れが学問を教えて頂くきっかけになりました」

「本当に有り難う御座いました」

「和尚様、其れにしてもええ庭で、それにふさわしい見事な砂絵ですね」

「そう思うてくれるか」

「庭を拡張してな、生徒の腕を競わせる様にしたのよ」

「此れを楽しみにしてくれる檀家の人が増えてな。与作殿はええ道を創ってくれたよ」

 余程、先輩が残してくれた事が嬉しくて見せたかったのてあろう。其処へ庫裏の方から食事の用意が出来たと奥様の声がした。

「すみません。わざわざ手間を取らせて申し訳け有りません」

「どうぞ、どうぞ、ゆっくりしていって下さいね」

「さあ、やってくれるか。与作殿、一杯飲むか」

「いえいえ、私は全く飲めません」

「そうか。其れじゃワシと女房だけですまんな。坊主の酒好きには困ったもんじゃ、ハハハ」

 と豪快に笑い飛ばしたのである。

「処でな、妹のハナちゃんじゃがな。今では村で無くてはならない人になっておられるのよ。与作殿と同様に全く優秀じゃ。ワシが上げた算盤のお陰かのう、此れは冗談じゃ」

「冗談では有りません。本当の事です。此れもみんな和尚様のお陰で御座います」

「和尚様に教わった読み書き、算盤をそっくり其のまま、復習がてら私が伝えたのを吸収した迄の事です。和尚様の子供の子供ですから」

「与作殿は上手い事を言いおるな。有り難う、有り難う」

「じゃがなぁ、美人で気立てが良うて頭のええハナちゃんに、嫁の貰い手が引く手数多でなあ。でも庄屋殿が離そうとせんのよ」

「そうですよ、ほんに困ったものですよ」

 といい和尚様と奥様は嬉しそうに話している。

「ワシらも世話を頼まれとるんよ」

「何せ、ハナちゃんは与作殿と一緒で御文書の経本無くしてな、スラスラ唱える事が出来るんじゃから。とてもじゃないが毎日お経を唱えとるのに出来ん事で」

「ワシは直接、ハナちゃんに御文書を一行たりとも教えとらんのに、この離れ業よ」

「並の坊主のワシ等には到底及ばぬ芸当よ。其れに算盤に至っては天才としか思われん。頭の中であっという間に暗算してしまうんじゃ」

「村の行事の経理の仕事は、安心して任せられると皆んなの評判よ」

「確かに算盤だけは絶対に勝てません」

「だけど、ハナが其処まで皆さんの役に立っているとは知りませんでした」

「只々、和尚様の教えの賜物で御座います」

「そう言うてくれると、ワシも鼻が高いわ」

「今じゃな、ハナちゃんはしょつちゆう顔を出してくれるんじゃ。子供の頃は寺が怖いゆうてよう来んかったらしいのう」

「そうですよ、私がいくら誘っても嫌!云うてましたから」

「色々、遅う迄引っ張ってすまんが、もう一つだけ聞かせて貰うてもええかのう」

「どうぞ」

「与作殿は国久公より剣の修業をして貰うたと言うたが、苗字帯刀は許されたんか」

「和尚様、実は此れも胸の内にしまい、内緒にしておいて欲しいのです。

「八幡山城の殿様も三男様も全くご存知無い事ですから。国久公は三次の城の三吉氏にしか言うとらんと笑われておられましたから」

「何度も立ち合い稽古の後、大殿様は突然腰から小刀を抜き取り其れを私に渡されました。

 私は何時も対戦する時は小刀で対峙しますから

「お前に此れをやる」と言われ

「私もびっくりして丁重にお断りしました」

「ええから、ええから心配するな。替わりは打てばなんぼでも出来る」

 と意に介さず

「大将、今日から苗字帯刀を許す。お守りで持っておってくれ」

 と言われました。

「家紋入りの備前長船で御座います」

「大殿様は、与作殿の事を大将と呼んでおられるのか」

「しまった、口が滑ってしまいました」

「ええじゃないですか、其処まで信頼されているという事は」

「然し、与作殿、此れは自分だけでは無く、三次藩にとっても大変名誉有る事で すよ。何れ、三吉のお殿様からお呼びがかかるでしょうよ」

「でも、私は其の時、きっぱりと侍になる事はお断りしております」

 国久公は

「よいよい、好きな様にせい。お前の力を持ってしたら、何れ、何事に於いても三次藩の為に貢献するであろうよ。これからも精進してくれよ」

 と励まされました。

「道理でな。与作殿が寺に入って庭を眺めていた時の後ろ姿を見て、全く侍の様な風格が有ったよ」

「そうですよ。私も直ぐに其れを感じましたよ」

「今、考えて見るとワシが趣味を聞いた時に返事をせんかったが、その時頃から鍛えとったんじゃな」

「確か、城の三男様に可愛いがられとったよな。居合いの達人と聞いた事が有るが、その方の影響か」

 だが、何も返事はしなかった。

「今はな、ここを離れて三次代官所の次席をやっておられるよ」

「其れは薄々知っております」

「然し、与作殿は、今現在も国久公と懇意にしていると言ったが、どう云う関係なんですか」

 ただ、後は何も言わずニコニコ笑っていた。

 食事を頂きながら、取り留めのない話をしているうちに日が暮れてしまった。

 鉄、玉、ラー助が待っている。

「和尚様、奥様、私はボチボチ此れでお暇致します、今日は大変ご馳走になり有り難う御座いました」

「長い間引き止めてしもうてすまなんだな」

「処で一つだけお願いが御座います」

「何かのう」

「今度の寄進の事で一切、札に名前を書かないで下さい。其れに八幡山城やうちの家にも何も言わないで下さい」

「分かった、分かった。ワシの心の奥だけに記載しておく」

「奥様、今日は美味しかったです。其れにお土産迄頂戴して誠に有難う御座います」

「与作様、今日は大変なものを頂戴して誠に有難う御座いました。心から感謝致しております」

「奥様、一寸、そんな言い方堪えて下さい。今後、来にくくなるじゃないですか、今迄通りの与作でお付き合い下さいよ」

「分かった、何時でも気楽に顔を覗かせてくれよ。其れに、たまには後輩の勉学ぶりも見てやってくれよ」

「分かりました。私にさしたる事が出来ませんが、遠からず来させて頂きます」

「与作さん、遠からずと言わず近々、顔を見せて下さいね。話しを聞くのを楽しみにしていますからね」

 住職夫婦はわざわざ寺の門の外迄見送りに出てくれた。暗くなった夜道に奥様が

「提灯を持って行きますか」

 と声を掛けてくれると

「いえ、結構で御座います。私は朝晩の暗い山道を明かりがなくても通っておりますから夜目が効きます」

「あぁ、其れと今は家からではなく、此処よりも三次に一里も近い、奥屋に有る炭焼き小屋を一人住まいしております」

「そうなんですか、遠いのに暗くなる迄引き留めて、すみませんでしたね」

「いえいえ、心配しないで下さい。山道は全く苦になりませんから」

 住職夫婦は何時までも門前に佇み与作を見送ってくれていた。

 其れから八幡山城の近くの急坂を登り、なだらかな小道になった頃、両足に何かが当たった。鉄と玉なのだ。帰りが遅いのを心配して迎えに来てくれた。声を一切出さないのだ。

「オゥ、オゥ、鉄ちゃん、玉ちゃん遅うなってごめんな。さあ帰ろう」

 余程、嬉しいのだろう。其れから山の中を駆け回りながら「ワン、ワン」「ニャ〜、ニヤー」うるさいほど鳴きまくっている。

「ラーちゃんが待っとるから早う帰ろうな。今晩はご馳走が有るぞ」

 此れを聞くと、鉄は与作が手に持っていた荷物を取り上げ口に咥えて小屋を目指してまっしぐら、玉も後を追いかけて行く。

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