第5話 美和様の誘拐

 何時も、浅田屋の一人娘、美和様の稽古事や買い物のお供は、丁稚の与作の役目で有った。

 だがこの日は、北へ二里以上有る布野村に、昼過ぎから薬の配達や集金に出掛ていた。

 この当時、布野村は陰陽交通の要衝の地で有り布野宿と云われ 、国境番所や

 番屋、庄屋に商店、薬の小売店と宿場町を形成しかなりの繁栄ぶりであった。

 元来この道は古代神話の故郷、出雲大社へ続く神話街道と云われていた。山陽筋から老若男女が出雲詣でをする重要な街道だっのである。然し、街道とは名ばかりの険しい峠が何箇所も有り出雲詣で客泣かせであった。其れだけに御利益があろうというものではなかったのか。

 特に赤名峠は曲がりくねった急坂で旅人泣かせであった。

 中世に入ると大森銀山が発掘されたその銀や銅がこの道を通って荷車で瀬戸内に運ばれる様になると銀山街道と呼ばれ重要な街道となった。

 その為、峠の双方に国境番所が設けられていた。

 莫大な儲けを生ずる此の山の利権を巡って何度も戦さが繰り返されてきた。その為に現在、国境を接する三次藩の尼子軍と毛利軍が衝突していたのだ。

 与作は遅くに浅田屋を立った為に忙しく何軒も用達しをしたが夕方迄に帰れそうにない。

 村の集落から左に曲がり小さな祠の前を右に進むと小さな山道に入っていく。帰る途中の山家という処に旅人の歩く目安となる一里松が有る。其の峠に差し掛かった時には日が暮れ掛けており、険しい山道で、道標の有る側の大きな石の上に腰を掛けていた。

「今日はどうにも美和様をお迎えに行けそうに無いな。しゃないか、誰かが代わりをやってくれるだろうよ」

 とブツブツ独り事を言いながら一休憩をしていた。

 こんな道を通らなくても布野村から三次の町の尾関山にかけて布野川が流れ側をなだらかな小道が有るのだ。此の道を通れば距離はかなり近い。ただ、途中に何箇所か川まで迫り出した断崖絶壁が有り、今日の様に背中に荷を背負っていると何時、川の中に転落するとも限らない。実際に何人もの人が落ちて亡くなっている。其れで帰り道を変えたのであった。

 此の場所は、赤名峠ほどにはないにしろ山坂が急で、昔から山賊が出ると言われていた。然し、犯人は今迄に捕まった事がなく、多分、近在の貧しい農家の若者か誰かが手拭いで顔を隠して襲ったもので有ろう。其の為、大金を狙うのではなく

「殺されとうなかったら、なんぼでも置いてけ!」

 と脅している。常に相手が弱そうな大人や女性を付け狙っていたのだ。

 其れで今回も与作が標的にされたのであろう。

 煙草を吸うでなく湧き水を竹筒に汲んで来て飲みながらのんびりと辺りを見回していた。

 すると、まもなく後ろの林の中からガサガサ音を立てながら、訳の分からん奴等が出て来たではないか。

 一瞬、熊か猪かと思いびっくりしていると、いきなり背中を棒切れで叩かれた。

「何をするんですか!」

 相手は悪餓鬼みたいな頰被りをした三人組で、何処で手に入れたか、脇差しの刀の柄に脅しのつもりか手を掛けている。

「コラッ、此処は地獄の一丁目でぇ、挨拶料ぐらい置いていかんかい!」

「こらえて下さい。私は町の薬屋の丁稚で今から帰る処です」

「じゃかましいや、くどくど抜かすな、命が欲しゅうはないんかい ! 」

「丁稚!、ワレは集金して帰りょうるんじゃろうが。全部とはいわん、ワシ等に置いて行け」

「お助け下さい、この金を盗られたら店を首になりますから」

 相手は、与作の前垂れ姿の身なりを見ると、弱そうで簡単に脅しがきくと思ったのであろう。

 そこへ正面の男が再度、棒で脳天めがけて殴り掛かって来た。

 与作は次の瞬間、振り下ろした棒を躱すや相手の男は面打ちをくらい其処に伸びてしまった。居合の一手で有る。掛かって来た右腕を掴み返すや、自分の右手を添えて、その棒で相手の脳天を一撃していた。目にも留まらぬ早業である。

「コラッ!まだやるか ! 此れがほんまの刀じゃったら此奴は、お陀仏だぞ」

 其れを見た他の奴等は一目散に藪の中に駆けり込んだ。

「二度と弱い者いじめをする悪さをしたら承知せんぞ!」

 早く帰ろうとしたが要らぬ手間が掛かってしまった。速足で掛けだしたがどうにも美和様のお迎えには行けそうにない。しょうがないな、代わりに誰か行ってくれるだろうと諦めた。

 その頃、店では与作がどうにも帰れそうにないのが分かると主人は

「おい、春三、代わりに美和を迎えに行って来てくれるか」

「はい、分かりました」

「暗うなりょうるから気を付けて行けえよ」

 日が暮れるのが早く辺りは真っ暗になっている。

 春三は荷物を小脇に抱え、提灯を美和様の足元にかざしながら帰り道を急いでいた。

 細い路地裏を歩いている時、誰とも出会う事はなかったが、暫く行くと建物の物陰から何故か人の気配が感じられた。というより小さな話し声が聞こえたのだ。其れは美和も気付いていた。

「何時もと丁稚が違うぞ、一寸、待てや」

 暗い路地で、すぐ近くに来るまで確認が取れなかったのであろう。

「おい、丸浅印の提灯じゃ、間違いない、やれ!」

 そして次の瞬間、暗闇から頰被りをした二人組に襲われた。

 美和は声を出し叫ぶ間も無く、いきなり当て身を喰らわされた。

 春三は、後ろから足を払われてひっくり返され馬乗りになられ、鳩尾を刀の柄でおもいっきり打ち付けられたのだ。春三は浅田屋への繋ぎの連絡用で有ろうか、切り殺される事はなかったが、其の場で完全に気絶してしまった。

 屋敷と屋敷の狭い塀の小径で、全く人通りが無い。

 何刻経ったで有ろうか。仰向けに倒れている処を通行人に見つかった。

「おい、どうしたんじゃ大丈夫か。飲み過ぎたんか、此処へ寝とっちゃいけまぁが」

 提灯をかざしながら

「起きいゃ、あれ、酒は飲んどらんようじゃのう」

 様子が分からず心配した通行人は、何度も身体を揺すったり、頰を叩いたりしたが一向に目が覚めない。

 そうしている時、暫く経っても戻らない美和を心配した主人が代わりの者を使くり いによこしたのだ。手代が迎えに走って来て、丁度、其の現場へ出会した。

「あれ、春三じゃないか」

「此の人は浅田屋さんか。さっきから起こしょるんじゃが気絶しとるんかのう。息はしとるで」

「おい !春三、どしたんじゃ、起きろ!」

 胸ぐらを掴み手代が何度揺すってもウンもスンも無い。

「こりゃ埒が明かんな、水でもぶっかけるか」

 とすぐ横の用水路に手拭いを浸けて冷水を含ませて顔に投げ付けた。

 其れに春三は「ハッ」と目を覚まされた。

「おい、気が付いたか、お前!どしたんじゃ」

「美和様は何処に居られますか」

「誰もおりゃせんよ」 「大変だぁ〜、美和様が拐わかされたぁ」

 と大泣きしだした。

「こりゃ大事でぇ、すぐに主人に知らせんといけん」

 襲われた場所が浅田屋より二本裏道であったのですぐ近く、手代と見つけてくれた人とで両脇を抱えながら店迄連れて帰った。

「旦那様!美和様が二人組に襲われて拐かされました。すみません! すみません! 」

 丁度、此の時刻になると通いの奉公人の半分以上は既に帰宅しており与作も帰り仕度をしていた処に玄関先でバッタリ出合ったのだ。

 予期せぬ事の重大さに、主人、奥様や奉公人の番頭や手代達も顔色が青ざめ、全く為す術が無かった。

 普段は此の時刻になると、玄関先の灯りは消すものだが、皆んな気が動転しており戸も閉めず提灯が点いたままだった。与作は帰ろうにも帰れず、かといって何もする事が出来ない。皆んなと同様に、ただ無言のまま暫くじっとしていた。

 然し、このまま何の対策を立てずにいたのでは、其れこそ何の解決方法にもならない。 事が事だけに生命に拘わりかねないのだ。

 多分、主人は後の事が怖くて役人に知らせる事は出来ないで有ろう。

 此の誘拐事件の責任の一端は自分にも有る。もう少し早く布野での仕事を終わらせ帰っておれば、こんな事にはならなかったで有ろうと悔んでいた。

「よし! ワシが絶対にケリを付けちゃる」と意を決したので有る。

 こうなれば与作は決断と行動が早い。普段、店ではグス、ノロマと云われる丁稚だが美和様を助け出す為に豹変したので有る。

 今迄は一度も店から鉄を呼んだ事は無い。何時も待ってくれている山の方を見つめながら、此処から呼ぶのは何んせ初めての事、

「気が付いてくれるかな。鉄、頼むぞ」

 と大きく息を吸いこみ一気に吹いた。高音で人間の耳には一切聞き取れ無い。

 やがて肌寒い暗闇の中、店の外で待っていた。この時刻になると本通りを行き交う人は誰もいなくてシィーンとしていた。

 此処から山の麓迄はかなりの距離がある。

「鉄ちゃん、聞こえたかなぁ」

 と心配になり再度吹いてみた。

「なんぼう、鉄が速いゆうても初めて来る道じゃけ分からんで迷うとるんじゃないかのう」

 だが、その時には、ひたひたと駆け付けて来る足音が聞こえてきた。

「おう、鉄ちゃんもう来てくれたか」

 笛に対しての反応は勿論、与作が通う道筋に残る臭いを敏感に捉え、浅田屋の店先迄、一気に駆け付けたのだ。

 日頃、山の中でやっている隠れんぼ遊びのつもりなのだ。

 声は一切出さず、おもいっきり尻尾を振っている。

 すると、又、暫く間をおいて息を弾ませながら、後から玉も付いて来たではないか。

「おやまあ、玉ちゃんも来てくれたんか。有難うよ」

 足元に擦り寄りながら小さな声でニャン、二ャン鳴いている。

 鉄も玉も頭や喉元を撫でられ大喜びをしている。

 ようやく呼吸を整えると、今、町中に呼ばれた事が理解出来るのだ。緊張して 来て「さあ、何するの」と互いに目で催促している。

 今日、来た玉は、動物的な直感が鋭く何時も何か有る事に予感が殆ど当たるのだ。

「一寸、此処で待っとってくれ、すぐに出て来るからな」

 と言いながら、物陰に隠れる様に座らせてから、与作は店の中に入って行った。

 此の時分には、番頭達や通いの者達も帰っており、店先は真っ暗で有った。

 主人夫婦は美和が囚われの身になっており、何時までも店先を明るくし奉公人がウロウロしていては犯人達を刺激すると思い早々に帰宅させたのだ。

 さあ、此れから宝探しの材料を手に入れなければならない。何にしょうかと木戸を開けて店の中に入り思案していた。

 誘拐された美和様の臭いの付いた物が店内にないか探し始めた。だが与作が入店以来、日頃に店先に顔を覗かせる事を一度も見た事がない。母屋が別棟になっており出入り口は他にあった。浅田屋の屋敷はかなり大きく奥座敷の前には築山の庭が有り裏の通用門は別の通りに面していた。

 だから履物、傘などは一切無いのだ。

「こりゃ、此処では無理じゃな」

 店内では美和様に関する臭いが付いた物が手に入れられそうに無いとなると

「ええい、ままよ此の際、止む終えん。躊躇している場合ではないわい」

 と灯りの点いている主人夫婦の部屋迄やって来た。そしていきなり障子戸をガラッと開けて

「奥様、美和様の身に着けていた物を何でもいいから一点貸して下さい」

 夫婦は一瞬、呆気にとられた。そして怒号が響いた。

「馬鹿野郎!丁稚風情のお前が何で此処へ入った来たんじゃ、出て行け!」

「何よ、此の阿呆は!馬鹿、ボケ、間抜けの助平野郎!」

 と有らん限りの罵詈雑言、其の上に奥様は目の前の火鉢に有った鉄の火箸で頭を叩きつけたのだ。

 与作の額から血が滴り落ちた。 其れでも怯まず与作は続けた。

「奥様、とに角、貸して下さい!即ぐにです、美和様の生命に関わる事なのです」

「お前に何が出来ると言うじゃ、ワレみたいな読み書きが、ろくすっぽう出来ん奴が何を抜かしおる」

「旦那様、こうして問答している間にも、狼みたいな奴等にどうされるか分かりませんよ」

「其の内、朝迄に身代金要求の脅迫状が来るでしょう。多分、犯人は娘が可愛さのあまり、親が代官所へ届けはしないと確実に読んでいますよ」

「ワレは犯人等の手先なのか、何で其処まで分かるんじゃ」

 と凄い剣幕で拳を上げたが流石に叩かなかった。

「今、此処で私を疑うのは結構です。幾らでも疑がって下さい」

「でも、一刻も早く美和様を助け出す事が先決です」

 与作は怯まず真剣な目で訴えた。

「溺れる者は藁をも掴む」心境の主人は、しょうがないと思ったのか

「持って来い」

 と奥様に命じた。早速、奥の美和の部屋に駆け込むと長襦袢を取り出して来た。

 与作は黙って其れを受け取ると、部屋を出る前に

「店の中に内通者が居るやも知れません。此の事は一切誰にも内緒にしておいて下さい」

 と言いつつ急いで出て行った。与作が部屋を出て行った後

「なんじゃ、あのボケカスは!偉そうな事を抜かしおってからに」

 だが夫婦は後は全く無気力状態で畳の上にへたり込んでしまった。

 奥様も流石に与作の頭を殴った事には沈み込んでいた。与作だって、美和の事を心配した上で何とかしょう思ってやった事なのにと反省し、そして誰に言うともなく呟いた。

「美和を助けて ! 」

 与作は長襦袢を受け取ると布袋に入れ、外で待っている鉄と玉に、

「さあ、行くぞ」

 と促した。

 処が鉄も玉も与作をジイッと見つめている。

「どうした、何か有るか」と目を確認をしてみると低くなれと催促している。膝を折ると顔を舐めて来る。先程、奥様に火箸で殴られた時の傷で血が滴り落ちていたのだ。

「有難うよ、でも別に大した事は有りゃせんよ」

 と手拭いで拭いて落とした。額に小さなたんこぶが出来ていた。

 早速、店の程近くで、春三が倒され美和が誘拐された路地裏の現場にやって来ると鉄と玉には襲われた現状が直ぐに推測できた。

 そして即座に犯人二人と美和様の臭いを嗅ぎ分け追跡態勢を整え出したではないか。

「ふ~ん、此処か。えらく近い処で大胆な犯行に及んだものよのう。此の路地の両隣は武家屋敷じゃのにな」

 此奴等の首謀者や美和を連れ去った二人組みの犯人は、地の人間じゃないとすぐに推測が付いた。

 布袋から長襦袢を取り出して鉄と玉に匂いを嗅がせた。

「此れが美和様の匂いじゃ、宜しく頼むぞ」

 と言うとお互いに張り合う様にじっくりと匂いを嗅いでいる。

「分かったな。よし行くぞ」

 日頃、炭焼き小屋の近くの山中で鉄、玉、ラー助が食べ物や手拭い、手袋などを隠して取ってこさせる宝探し競争をやっているのでお手の物で有る。

 近場の嗅覚ならば玉も並外れたものが有った。だが鉄は人間の感覚では到底及びもつかない、狼犬独特の恐ろしい程の嗅覚の持ち主で有った。

 案の定、すぐに地面に鼻を押し付け、嗅ぎ分ける様に歩き出した。玉も可愛いいもので分かっていたかどうか同様の素振りで並んで同道していた。

 誘拐されて、まだ時間がそんなに経っておらず、風も無く良い天気ときている。嗅ぎ分けるのには都合が良く歩く速度は早かった。

 街灯が消え、人通りも途絶えた真っ暗な街中を抜け、小さな橋を渡ると一面、田んぼが広がっている。その中にポツポツと農家が有りぼんやりと障子越しに薄明かりが漏れている。カタカタ鳴る水車小屋の前を通り過ぎて行くと細く小さなあぜ道だ。

 空は三日月に雲がかかっており辺りはよく見渡せない、然し、与作は夜目が効くので提灯など明かりは全く要らず、鉄、玉、同様で不自由しないのだ。

 暫く、なだらかな田畑の中の道を進んで行く。十町は来たで有ろうか、やがて低い山の麓の近くに辿り着いた。

 目の前に白壁の塀が有る大きな一軒家が有るではないか。

「何じゃ此処は!」

 約三年前に出来た薬種問屋、深澤屋の別邸だ。三次の町に昔から有った浅田屋の競争相手で四、五年前から進出して来ていた。

 とかく代官所との繋がりが有るのではと黒い噂が立っていた。

 正面から後に回ると同じ敷地内に小さな小屋が有り、暗い夜更けの中、鉄が立ち止まった。

 今夜は母屋に誰も住んでいる様子が伺え無い。

 すぐ横を見ると小屋の前で浪人者らしき二人が見張りをしているではないか。

「此の中なんじゃな、鉄、有難うよ」

 玉も同じ様に付いて来た。

「玉ちゃんもようやってくれたな」

 頭と首筋を撫でながら優しく褒めてやっている。

 鉄も玉も自分達が与作の為になっている事が嬉しくて堪らないのだ。

 与作は此の近辺の下見をしだした。別邸の周りをぐるりと歩くと、さらに四方に目を凝らした。少し広い道を西に進むとお寺さんが有る。すぐ近くだ。

 此処へは何年か前に、専正寺の使いで一度来た事が有り、庫裏の中に入って行き和尚様に会っている。

 もし美和様を連れ出して匿って貰うならば此処しか無いで有ろう。

 さらに、屋敷の壁伝いに裏に回って見ると、 北側の奥まった小さな離れの部屋に明かりが見える。多分、此の屋敷を管理している下男が居るので有ろう。

「ははあ、此れは深澤屋が二人組みが誘拐して来た美和と知っていて匿っているな」と悟った。

 座って待っている鉄と玉に近づき「ボチボチやるぞ」と態度で示すと、ランラ2ンと目が輝き出した。

 小屋の前で浪人者が松明の明かりの下で、のんびりと七輪の上で鰯の丸干しを焼いている。其の場に徳利が五、六本転がっていた。

「玉ちゃん、頼むよ、行け」

 暗がりからノコノコ歩き出し、七輪の前に近づいた。そして臭いを嗅ぎながら一人の目の前をウロチョロしだした。

 浪人は黒い猫に気を取られてしまい

「シィー、あっちへ行けぇ」

 と追っ払おうとした。処が玉も役者だ、七輪の丸干しを爪で引っ掛けて取ろうとするのだ。

 其の隙に鉄は木戸の隙間から中へ忍び込んだ。

 蝋燭の薄暗い明かりの下、小さな部屋に美和は猿ぐつわをかまされ後ろ手に縛られていた。

「長襦袢のお嬢さんだ」鉄にはすぐに分かった。

 浪人達は、まさか、こんなに遠く迄、誘拐されて捕らわれている美和を、見つけて来るとは夢にも思っていなかったので有ろう。全く油断しており、退屈そうに酒を飲み徳利がゴロゴロ転がっていた。

 真っ黒い大きな犬が音も無く中に入って来た時、美和は一瞬、ドキッと驚いた。

「えゝ、何でぇ」

 然し、ジィ〜と美和を見る目は優しく、尻尾を一杯振りまくるのだ。顔つきは恐ろしいのだが、舌を出して甘えた表情で地獄に仏の心境で有った。

 即ぐに近づいて来ると、後ろ手に縛られていた縄を簡単に噛み切ってくれた。

 後は美和が自分で猿ぐつわを解いて、縛って有る足首の縄を解こうとした。だがきつくて足に食い込んでおり、其れを見た鉄はガリガリ小さく噛んで足を傷つけない様にゆっくり外してくれた。

「頭、いいね」

「でも何よ、不思議な此の犬は。全然、知らない私を助けてくれている」

 鉄の目をみつめ声を出さずに口で「有難う」と、合図し頭を優しく撫でると

「マカセトイテ、コイツラヲヤッツケルカラネ」

 と犬が言っている様に感じたのである。

「まだ、もう少し助けてね」

 鉄は軽く頷いた。美和の言わんとする事が言葉や素振りで分かるのだ。

 其れから、小屋の外の浪人を気にしながら、入り口を閉じてる閂に手を掛た。

 然し、押せども引けども美和の力では外れない。

 其れを見ていた鉄は協力しようと、二本足で立ち上がり大きな口で引っ張った。

 開いたはいいが「ガタッ」と音がしてしまった。

「しまった!」

 幾ら飲んで酔っ払っていても寝てはいない。

 美和は、一目散に裸足ですぐ浪人の目の前を通り抜けようとした。だが立ち上がった途端に後から肩を掴まれ引き倒された。

「キャー、助けてぇ! 」

 然し、次の瞬間だ。浪人者は悲鳴をあげ、もんどりうって倒れ込んだ。中から飛び出して来た鉄に思いっきり、両足を噛まれたのだ。そしてもう一人も追って来たが後から飛び付かれ尻を噛まれて引き倒された。

 二人共、激痛がはしり立ち上がる事が出来なかった。

 暗闇の中でその様子を監視していた与作は、美和が外へ駆け出すのを見るや、先に下見していた、前方に有る寺を指差して鉄に案内してくれる様に目で合図した。後はうずくまって動けなくなった二人など敵ではない。役人に捕まえられる朝迄の間、眠って貰う為に峰打ちを喰らわせたのである。

 此の騒動は、田畑の中の離れた一軒家で有った為に、近辺の農家に聞こえる事は無かった。

 そして、鉄と玉は駆けて行く美和にすぐに追い付き、両側で挟む様に護衛しながら寺迄案内し門を入って明かりの点いている庫裏の前迄連れて行くと静かに去って行った。

 山門の外で見ていた与作は出て来た鉄と玉に

「よくやってくれたな、鉄ちゃん、玉ちゃん。お嬢さんを助けてくれて有難うよ」

「ほんま、頭ええなあ」

 と褒めて頭や首筋を撫でてやると大喜びしている。

 処が暗がりでよく見えなかったが、近寄って見ると玉が何やら口に咥えている。

「玉ちゃん、そりゃ何じゃ」

 というとポトッと下に落とした。

 何と浪人供が食べ残していた丸干し三匹だ。

「何というやつじゃ。 こんな緊張した時にも一番冷静なのは玉ちゃんじゃな、皆んなに持って帰って分けて食べるつもりなのか。ラーちゃんにもやろうな」

 一方、美和は庫裏前で明かりの方向に向かって大声で叫んだ。

「和尚様、助けて下さい!」

 女性の叫び声に勤行を続けていた住職はすぐに飛び出した。

「ありゃ、浅田屋のお嬢さんじゃないか、どしたんじゃ!」

「とに角、中に入りなさい」

 裸足で駆けて来て血が滲んでいる。怯えて震えているのを見た和尚様は奥方を呼び二人で落ち着かせようと励まし続けた。

「大丈夫、大丈夫、此処にいる限りは絶対に安全じゃ、心配するな」

 奥様は肩を撫でながら優しく励ましている。

「美和さん、一寸、足の手当てをしようね」

 奥様は井戸から水を汲んで来ると桶の中で足を洗い傷薬を塗り込んでくれた。

 そして奥の部屋へ案内してくれた。

 暫く怯えていたが奥様の優しい声掛けと時が経つにつれ美和も段々と冷静になって来た。

「おい、今夜は一緒に付いて寝てあげてくれるか」

 と主人が頼むと

「えゝ、勿論そうしてあげます」

 美和の不安な気持ちを少しでも柔らげてやろうと住職夫婦は一生懸命で有った。

 翌朝、浅田屋では奉公人達が昨夜の事件の事が有り、沈痛な面持ちで各人とも仕事が手に付かなかった。日頃、一番先に起きて来る気の弱い主人は、具合が悪いと云い寝込んで仲々店先に出て来ない。ましてや奥様は昨夜から一睡もしていない様で目が真っ赤で有った。

 与作は昨夜、鉄と玉で一仕事を済ませてから、遅くに炭焼き小屋の自宅に帰り着いたが、今朝は何事も無かった様に朝一番に店に顔を出していた。

 何時もの様に箒を持ち前の道の掃除を始めていると、誘拐事件の事を何も知らない近所の丁稚仲間が近寄っては、雑談を長々と始めては箒を振り回している。

 此の大変な事態の時に相変わらずの仕草に、店の中から出て来た番頭が、大声では無かったが

「馬鹿野郎!与作、えゝ加減にせんかい」

 丁稚仲間も、慌てて散り散りに各店に走り込んでしまった。

 他の者達も、苛立ちと怒りを与作一身に浴びせ「ボケ、カス、間抜け!」と罵りまくられた。中には箒を持って追っ駆け叩く者までいた。

 特に主人夫婦は、昨夜から続く恐怖と、与作の非礼な態度に怒りが頂点に達していた。

 店の中をウロウロする与作を見る度に

「此の馬鹿野郎!何をしとるんじゃ」

 と一挙手一投足が悉く気に喰わない。今にも「首だ、出て行け!」と叫びそうな雰囲気で夫婦揃って冷たい視線を浴びせていた。

 与作は昨夜の傷に小さな膏薬を貼り付けていたが、其れに奥様は何の反省の気持ちを一切、示さなかった。

 与作は店の中に居場所が無くて外で掃除する振りをしていた。

 すると、其処へ三軒先の呉服屋の店主がこっそりとやって来て、とんでもない物を手渡された。

「おい、与作、うちの店先の側溝にこんなもんが落ちとったぞ。主人に渡してくれ」

 と、四つ折りにした紙切れを手渡されると、路地裏に走り込み、店の中の誰にも分からない様にこっそり開いて見た。やっぱり脅迫状で有る。

「一千両と引き換えに美和を引き渡す、代官所に届けたり変な事をすると殺す、又、知らせる」

 と云った内容の文面で有った。中身は左手で書いた様な汚い文字で、筆跡を隠すつもりなのか。又、何で美和の名前を知っていたのか、裏には糊の代わりに飯粒が付いており、与作は咄嗟に気付き小さな飯粒を剥ぎ取った。

 又、左手で文面を書くのに紙が安定せず右手で押さえたので有ろうか、其の時、墨を押し付けた指紋が付着しているのをはっきり見てとった。

 昨夜は遅く迄、何人も店に居残り玄関先は開けたままになっており、早朝に誰かが貼ったものと思われた。

 夜半から何度も突風が吹いており、剥がされて飛んでいったもので有ろう。

 此れは確実に浅田屋の身近な者が書いた仕業に違い無いと思った。

 与作は何喰われぬ顔をして店の別棟の奥にいた奥様に

「今、呉服屋の主人が来て、此れを手渡してくれと言われました」

 と声を掛けると、紙を引きちぎる様に取り上げ、一読した途端

「お父さん!」

 と叫ぶと主人がウロウロしている奥の部屋に走り込んだ。

「何じゃ、又、厄病神が来やがったんか!」

「与作がこんなもんを持って来ました」

「一寸、貸して見いや!」

 主人は脅迫状の文面を見て、一千両の身代金の額に目を、白、黒させて卒倒し掛かった。

「お父さん、大丈夫ですか!」

 と側に駆け寄り支えたのである。

 与作は此の様子を障子戸の向こう側で伺っていて気の毒と思ったが、とに角、足早に其の場を立ち去った。

「あいつが犯人じゃないんか!」

 と主人の大声が店の帳場付近まで聞こえてきた。

 店先で開店の準備をしていた、番頭や手代までもが首をすくめていた。

 何はともあれこの事が他人に知られてはならない。気丈な奥様は即ぐに店を飛び出し呉服屋の店先に駆け込んだ。主人を呼び出すと

「実は、昨夜稽古事の帰りに美和が拐かされました。さっきの紙は脅迫状で、変な事をすると殺すと書いて有りました。絶対に誰にも話さないで下さい、お願いします!お願いします!」

「分かりました。絶対に誰にも喋りませんから」

 短かい時間の間に度重なる不幸な出来事に、主人は布団を被って寝込んでしまった。

 気丈なのは奥様だけで有ったが、如何せん手のうち様が無い。そうかと云って開けた店を閉める訳にもいかない。

 晩秋の肌寒い空気で、本通りを歩く人々の吐く息が白い。

 商店街も各店の丁稚供が、かじかむ手で暖簾を掛け始めた。やがて人の流れが段々と増えはじめ街中に活気が出て来だした。

 此の季節になると郡部から暗いうちから出て来て、まとめて買い物をする者が多い。秋の取り入れを済ませて一段落した農家の人々が、大きなビクを背負いながら繰り出すのだ。

 子祭りと云われる此の時期は、雪の降り出す少し手前で、長い冬を越す為の準備に取り掛かる 。

 国境にある赤名峠は七曲りの大雪の降る処で出雲街道とは名ばかりの難所で有った。

 此の時は、村人の何人かが協力して衣類、薬品、保存食等を仕入れに来るのだ。其れに年に一、二度の芝居見物を兼ねながら楽しみ半分で出て来る。

 そうした人達が朝一番に店の中に入って来た

「いらっしゃいませ」

 と番頭や手代の威勢のいい声が店内に響いた。

 いかにも田舎者と分かる人達に、何処から来たかと尋ねると、赤名峠を越えて来たと云う。

「道中、朝早くから出て来られ寒かったでしょう。お茶でもどうぞ」

 一寸した心遣いがお客様を和ませる。此れも丁稚供の役目なのだ。

 其れから何組もお客様を迎えていて、一刻、経った頃で有ろうか、数あるお客様の中にお寺の小僧さんが入って来た。

「いらっしゃいませ」

「すみません、和尚さんが風邪を引いて熱が出ました。薬を下さい」

 応対に出た番頭は、此のお寺さんは、日頃、奥様が婦人会の寄りで懇意にしているのを知っており、呼びに行こうと思ったが、美和様の件が有りどうしたもんで有ろうかと思案していた。

 其処へ、たまたま、近くの親戚に美和の事で、相談しに出掛けようと思って店先に出て来た奥様とバッタリ出会した。

「あら、いらっしゃい。和尚様の具合が良くないんですか」

「はい、熱が有るようです。此れ下さい」

 と紙切れを手渡した。

「承知しました。暫くお待ち下さい」

 其れを受け取ると奥様は調剤部屋に入って行った。

 主人は相変わらず布団を被って寝込んでいる為に、止む終えず、自ら調合しょうと紙を広げて一読した。

「ウワァー」

「其の中身を見ていた奥様は腰を抜かさんばかりに驚き奇声を発した。

 此の声に何事かと店先の番頭が駆け寄って来た。

「奥様、どうされましたか!」

「いえ、何でもないのよ。一寸、滑っただけよ」

「美和様は何事も無く、救出され寺で匿って上げています。安心して下さい。ただ、今すぐに帰ると身に危険が及ぶやも知れません。浅田屋さんは暫くじっとしていて下さい。又、連絡します」

 と和尚様が書いた文面が認めて有った。

 奥様は其れを何度も何度も読み返した。

「嘘、嘘、冗談でしょう。何でお寺に居るのよ」

 とに角、心の中で自問自答していた。そして喜び勇んで奥に駆け込んだ。

「お父さん、此れ!」

「何じゃ、馬鹿たれ、騒々しい!」

 床に臥していた主人は又、脅迫状が来たと思い込んでいたのだ。

「ちょいと読んで下さいよ」

「そんなもなぁ読めるか」

「ワシャ、寝る!」

「お父さん!違いますよ」

 と奥様は寝ている主人の目の上で紙を広げたのである。処が其れを読むと、パッと顔が明るくなり、現金なもので急にガバッと起き上った。

「ワシが出る!」

 と調剤室に駆け込み、見せ掛けだけの薬を調合して、店頭で待っている小僧さんの応対に出て来た。努めて冷静さを装いながら

「何時も有難うございます。処で熱が有るそうですね。丁度いい薬が入りましたから飲ませて上げて下さい」

 和尚様は小僧さんを使いに出す時、一切、本当の事は何も知らせていないのであろう。

 大事そうに薬袋を持って帰って行った。

「和尚様にはゆっくりお休み下さいとお伝え下さい」

 と丁寧に見送りをしていた。

 そして急ぎ奥の部屋に駆けり込んだ。

「母さん!母さん!良かったのう」

「お父さん!」

 奥様と手を握り合い涙を流しながら喜び有っていた。

「よかった、よかった。美和の無事が一番じゃ。金なんかはどうでもええ」

 奥様も此の主人の言葉を聞いて、如何に一人娘の美和が浅田屋にとって大切な存在で有るかを知ったので有る。

「じゃがな、どうして美和が無事にお寺さんにおるんじゃ」

「私に分かる訳がないでしょう」

「そりゃそうじゃ、なんでお前の仲のええお寺さんに駆け込んだんかのう。まぁ其の内分かるじゃろうて」

 然し、まだ誰が書いたか脅迫状の件が有るので、其れ以降の時間は、与作が言った様に店内に内通者がいるやも知れず、誰にも気付かれない様に沈痛な面持ちで仕事を続けていた。

 だが此の時も、与作が犯人の片割れではないかと夫婦で疑っていた。

 一方、誘拐現場では、朝早くに近所の百姓が、深澤屋の別邸のすぐ側の畑に鍬を持って野菜を採りに出掛けた処、小屋の内外に浪人者が倒れているのを見つけた。

「此れは大変だ!」

 とすぐに近所の農家に駆け込み、役人を呼んで来る様に頼んだのだ。

 だが現場と代官所を往復するには時間を要した。

 其の頃には、近所の住人が多く集まり遠巻きに高みの見物をしていた。

 此の時もまだ二人は気絶したままで、周りの皆んなは死んでばかりいるものと思っていた。双方の足は血まみれで有ったが既に固まっており、どす黒くなっていた。

 小屋の扉の閂が抜けており、中には切れた縄と猿ぐつわをした様な白い布、其れに若い娘用のかんざしが落ちており、此れは女性が監禁されていたに違いないと誰もが感じていた。

 役人が到着するのに時間が掛かった為に、多くの住人が事前に誘拐現場を覗き込んで見ており、勝手に犯人推理をし、野次馬根性丸出しの状態で有った。

 此処の現場のすぐ裏手には下男がおったであろうに、此れだけの事件で大騒ぎをしているのに一切顔を覗かせる事は無かった。

 そうした処にようやく四、五人の役人が到着した。

「どけどけ!ワレ等、邪魔じゃ向こうへ行け!」

 役人が実況検分を始め出した。

「オウッ、此奴等、まだ息が有るじゃないか」

 倒れた側には 五、六本の徳利が転がっており、七輪の上には焦げた丸干しが残っていた。二人からは相当の酒の臭いがしている。

 暫くそこら辺を見分をする様に歩き廻っている。やがて集まって来ると

 一人の古参役人が、大声で、さも得意そうに推理を始め出した。

「酒の飲み過ぎでフラフラになり、野犬に襲われて咬まれて気絶したんじゃろうのう」

「足の怪我から見て間違いない」

「此奴等が勝手に住人が留守の間、此の小屋を利用したんじゃろう」

「然し、捉えられとったと思われる女は何処へ逃げたんかのう」

「オイッ、お前等、ここら辺に女がおった痕跡が他に何か有りゃせんか」

 と他の役人に尋ねると、皆んな首を振っている。

「そうか、誘拐した此奴等が気絶しとる間に自分で縄を解いたんだろうな」

「よし、此奴等を縛って連れて帰るぞ。牢の中へぶち込んどけや」

「後、白状さしたるわ」

 とに角、大きな声で状況を説明するものだから、遠くから見ていた百姓町人に話しが全部筒抜けなのだ。

 然し、かなりいい加減な役人達で有る。

 美和が拉致監禁されていた小屋の中に、七輪や火鉢があり徳利まで転がっている。犯人達が始めから勝手に忍び込んで、こんな物を用意出来る訳が無い。誰かが差し入れたものに違いないのだ。明らかに裏手に住み込んでいる下男と思われた。

 だがそんな事には全く探索もする気が更々無いのだ。

 そして、帰り際の最後に縄を掛けられていてもまだ気絶している浪人者に、頭から大きな桶で冷水をぶちかけた。

 だが其れでも目を覚まさない。

「ワレ等、何時迄寝とるなら」

 こん棒で顔から身体までを思いっきり殴っている。此れにはさすがに意識を取り戻した。

「引き揚げじゃ、朝早うから手間を取らせやがって」

 浪人者の二人は後手に縛られ、ちんばを引きながら役人達に追い立てられ代官所の方に向かって歩いて行った。

 美和が駆け込んだお寺の和尚は、実況検分の一部始終を高い鐘撞堂の上から見ていた。

「ははあ、あいつ等が美和さんを誘拐した犯人だったのか」

 然し、どうして浅田屋の商売仇の深澤屋の別邸の中で、事件が有ったんだろうかと思ったが、和尚には一切、何も経緯が分からなかった。

 美和に付いては、たまたま子供の頃から知っていた。此処の光照寺と浅田屋とはかなり離れており檀家では無かったが浅田屋の妻と此の寺の奥様が子供の頃から仲が良く、従姉妹同志で親戚付き合いをしていたのだ。その為、しょっちゅう美和を連れて来ていたのだ。

 今も婦人会の世話をしており繋がりが有る。

 まあ、犯人が捕まったので、美和さんを帰していいものかどうか、浅田屋に相談してみようと昼過ぎに、又、別の薬が欲しいと講釈を付けて小僧を使いに出した。すぐさま、浅田屋の主人は裏口に駕籠を呼び、店の誰にも分からない様に寺に向かった。暫くして境内に着くと和尚と奥様が待っていた。

「和尚様、奥様、有難うございます。此の度は迷惑をお掛けしまして本当に申し訳ございません」

「何の、何の、無事でよかったですなぁ。さあ、美和さんが待っておられますよ」

 と庫裏の方に案内してくれた。中から出て来た美和は余程嬉しかったのか主人の懐に飛び込んで来た。

「お父さん!」

「美和!」

 と泣き崩れた。父娘とも泣きながら暫く言葉にならなかった。

「おうおう、無事で良かったのう。心配しとったよ」

 ありったけの涙を流すと漸く落ち着いてきた。

「此れもお寺さんのお陰です。本当にありがとうございました」

 美和も涙ながらにお礼を述べていた。

「私も、あの時、和尚様や奥様に慰めて貰えなければ気が違える処でした」

「然し、町中からかなり離れた此処まで連れて来られ、深澤屋の寮に拉致されとったのを、誰が如何して分かって美和を助け出してくれ、お寺さんに案内してくれたんでしょうか」

 と浅田屋が和尚様に尋ねると

「美和さんが今朝方言うには、犬と猫が助けてくれたと言うとられるが」

「ほんまか、美和!」

「はい、間違いないなく黒い大きな犬と、真っ黒い猫が助け出してくれました。

 心優しい犬は、私に尻尾を振り振り優しい目を向けたまま縄を噛み切ってくれました。其れから夢中で逃げる時に、犯人に追い付かれ肩を捕まえられましたが、足に噛み付いて引き倒し、犬と猫が私を挟む様にしてお寺さんに案内してくれました。全く勇敢で頭のいい犬でした」

 此れを聞いた和尚様と主人は顔を見合わせた。

 二人共、全く信じられず誘拐された恐ろしさで、気が違えたのではないかと思ったのだ。だが其れはおくびにも出さなかった。

「そうかそうか、仏心の有る犬と猫じゃのう。此れも日頃の信心のお陰じゃのう」

 何はともあれ何事もなく、無事でよかったと安堵の表情を浮かべていた。

「時に、和尚様、まだ分からない事が有るんですが」

「其れは、何ですかいのう」

「実は、今朝方に誰の仕業か店の玄関戸に、こんなものが貼って有ったらしいんです。其れが昨夜の突風の為に、三軒先の呉服屋の前の側溝に飛んでって落ちとったのを主人が見つけて届けてくれたのです」

 と脅迫状を懐から取り出し和尚様に見せた。其れを読んでいたが

「此れは捕まった二人の浪人者が出来る事ではないぞ。此奴等は昨夜からずっと美和さんの見張りをしながら飲んどったからな」

「どう云う事でしょうかね」

「此処から一歩も離れてはおらんのよ」

「と云う事は、別に店の身近な処に内通者が居るやも知れんぞ」

 和尚様は早朝の犯人の逮捕劇を見ており

「犯人の主犯か片割れか知らんがまだ誘拐犯が捕まった事を知らんじゃろう」

「じゃから、此奴は又、脅迫状を投げ込むかもしれんぞ。浅田屋さん、とに角、今夜も美和さんの面倒を見るから安心していてくれるか」

「ご迷惑をお掛けしますが、何卒よろしくお願い致します」

 主人は美和を励ましながら帰って行った。

 一方、与作は浅田屋で何やかや騒動が有った一日を終え帰る準備を始めた。

 然し、実はこれから脅迫状を書いた犯人を捜さなければならない。

 誘拐犯の浪人者二人を代官所の牢の中に入れたので、後は此奴を炙り出さなければならない。そうしなければ浅田屋夫婦も美和様も安心して眠れない。

 与作は今夜も鉄を呼ぶには少し早過ぎた。時を潰す為に再度拉致現場に行って見る事にした。何か確証のある証拠物件があるものしれないと思ったからだった。

 そこら辺を隈なく目を凝らして見たが何も得るものは無かった。

 ならばと犯人達は何故此処を選んで犯行に及んだのかと思案してみた。

 此処は武家屋敷に挟まれた狭い路地道である。その一方は商店街に通じており誰の目にも晒されやすく必ず犯人が目撃されてもおかしくない。という事は反対方向から侵入した事になる。その道を出た所には代官所に通じている。

 此処は誰が犯人でもます通らない。するともう一つ別れた道から侵入した事になるのだ。

 その道を暫く行くと何と深澤屋の通用門に突き当たる。表通りが正面玄関で商店街の西の一番端っこにあたる。浅田屋とはかなり離れている。

 其れであれば美和が時たま通う稽古事の帰り道は何時も同じで襲いやすいのだ。

 与作は再度犯行現場に来てよかったと思った。

 其れから帰って来ると店先から犬笛を吹いた。感のいい鉄は今夜も何か有るであろうと、何時も帰りを待つ処より半分以上も浅田屋に近い場所迄に踵を向けていたのだ。

 すると速い速い、あっと云う間に足元に駆け付けた。処が玉が見えない。何時も並んで走って来るのだが、気まぐれな性格だから今日は来ていないのではと思いきや、鉄の背中からピョンと飛び降りた。

 共に真っ黒だからよく分からない。、

「玉と云う奴は」

 嬉しそうに「ニャーン」と甘えた声で鳴いている。

 小さな玉など鉄にとっては余りにも軽く楽々乗っけて来たので有った。

 全く嫌がっていないし本当に仲良しなのだ。すぐに鉄も玉も早く、早くと催促するのだ。

「一寸、待っとれよ今取り出すからな」

 と言いつつ袋から小さな米粒を一つ取り出した。

「こんなに小さいのでも分かるかな」と浅田屋の玄関先の戸の下で包みを開いて臭いを嗅がせた。

「こりゃ、流石に無理じゃろうのう」

 今も昔からも言われる事だが犬、猫の嗅覚は人間の何千倍も有ると思われている。玉は特に食べ物に強く、鉄は全ての物に対して嗅覚を働かせる。其れも桁外れなので有る。

 だが鉄も玉も鼻を擦りあわる様に暫く嗅いでいた。だが玉の反応が早かった。

 何時も残り飯を食べさせているので玉は特に大好きで敏感なのだ。

 其れは、どんな小さな一つの飯粒さえも鉄、玉にとっては証拠として成り得るのだ。

「オイッ、此れで分かるんかい」

 日頃、山中でやっている近場での宝探し遊びでは玉のお手の物だ。

 暗がりの中、浅田屋の玄関先から出発していきなり駆け出した。角を二度回ったほんの短い距離で近くの三軒長屋の奥の小さな玄関戸の前にやって来た。

 案の定、与作が睨んでいた通りの男の住まいで有った。

 事件があった翌朝のあの時、与作を追っかけ箒で叩いた男だ。

 此の男は、与作より大分先輩で、卸担当で三次から上下、庄原、東城方面に出向いていた。

 確か、東城村の出身ではないかと思ったが定かでない。東城は当時、三次よりむしろ繁栄していると思われ日本海、瀬戸内の海産物や鋤、鍬、鎌、鍋釜から刀剣等を作るたたら製鉄が有り陰陽交流の拠点地で有った。そうした場所に店を出させてやるからと声を掛けられたか、はたまた、何かの弱みを握られ、共犯を強いられたか、其れは与作には分からない。

「よし、鉄ちゃん、玉ちゃん、今日はこれで帰ろう。よくやってくれたな」

 鉄は「えゝ此れで終わり」と云う様な顔をしている。

 玉は与作の懐の中に潜り込み顔だけ出して勝ち誇った様な幸せそうな表情で有

 る。鉄も尻尾を上に巻いて体をくっ付ける様にして夜道を速掛けし、小屋に向かった。何と云ってもご主人様が一番なのだ。

「ラーちゃんが待っとるから早よう帰ろうな」

 翌朝、主人は早い時間にこっそり店を抜け出し、美和が心配で徒歩で寺に向かった。

「和尚様、何時迄もご迷惑をお掛け致しまして申し訳ございません」

「何の何の、美和さんも元気にしとられますよ」

「本当に有難うございます」

 と言いながらお礼の為の小包を差し出した。

「済まんですな、あんまり気を遣わんで下さいや」

「とんでもない。お世話のかけっぱなしで申し訳けございません」

「処で、昨日の浪人者は代官所の牢に入れられたらしいですな」

「はい、そう云う話しは聞いております」

「そうすると今頃は罪人として厳しい詮議を受けておるじゃろうて。直接手を下した奴等じゃけえ当然の事よのう」

「あれから浅田屋さん、何も繋ぎが来んのですか」

「はあ、一切、何の音沙汰も有りませんが」

「ハハァ、其れじゃ共犯の二人が代官所に捕まったのを知って今頃はビビリまくっとるな」

「主人が見せてくれた脅迫状を書いた犯人は、多分、店の中におるんじゃないかのう」

「私もそう思うとります。多分、出店をしてやるぐらいの誘いを受けたんじゃないですか。気の弱い奴でしょうよ」

「ただ此奴はうまく口車に乗せられただけで、美和さんには直接危害を加える事は無いじゃろう」

「美和さんも帰ってから暫くは外出せずに家族で目を光らせておく事じゃのう」

「分かりました」

「今日の昼からでも主人が美和さんと一緒に脅迫状を持って、代官所に出頭してみたらどうじゃろうかのう」

「店の者が共犯者なら代官所が追求したら、すぐに白状して捕まるんじゃないか。証拠になりそうな事が脅迫状に一杯有り、ワシでも読み取れたからのう」

「早速、美和を連れ帰り、その様に段取りをつけます」

 お寺さんは小僧さんを走らせ駕籠二丁を呼んでくれた。

 浅田屋親娘は大変お世話になったお礼を住職夫婦に述べて寺を後にし、昼前には店先に帰り着いていた。

 奉公人達は美和様の無事な姿を見て口々に「お帰りなさい」 と声を掛けている。

 主人と美和は玄関から中に入ると、何事も無かった様に皆んなに、にっこり笑いながら丁寧に頭を下げていた。

 後は、番頭を筆頭につとめて何もなかった様に振る舞い、店内は落ち着いた雰囲気で有った 。

 美和は廊下を通って奥の部屋にいた奥様の処に一気に駆けり込んだ。

「お母さん!」

「美和ちゃん!」

 二人は抱き合ったまま、ワンワン泣きながら後は声にならない。

 暫くの間、嬉しさのあまりに泣きどうしであった。

 やがて少しずつ冷静になってくると

「何も無く、無事で良かったね」

「うん、犬と猫に助けて貰い、後はお寺さんにお世話になっとったんよ」

「光照寺さんで良かったね」

「うちはね、春三と帰りがけに浪人者に暗闇の中で襲われて、鳩尾に当て身を食らわされて気絶したのよ。気が付いたら深澤屋の寮だったわ」

「両手、両足を縛られ猿ぐつわをかまされていたのよ。其処へ大きな犬が小屋の中に入って来て縄を噛み切ってくれたわ。そしてコソッと抜け出そうとして閂を引いた時に「ガタッ」と音がして気付かれ肩を捕まえられてね、其の時に犬が二人の脚に噛み付いて引き倒してくれて、それから夢中でお寺に駆け込んだのよ。

 その時も犬と猫が両側に付いてくれて庫裏まで案内してくれたわ」

「此れを和尚様とお父さんに言うと、私が気が違えたんではと言う顔をしていたわ」

「お母さんは信用できるよね」

「何処の犬と猫かね、うちには全く飼っとらんし美和ちゃんも知らんじゃろう」

「私も初めて見たわ」

「だけど、其れは必ず誰かが飼っとる筈よ。頭のええ犬じゃね」

「不思議な事じゃが、でも良かったよ、美和が無事で」

 其れから昼飯を親子三人で済ませると、

 暫くしてから主人と美和は一緒にそう遠くない代官所に歩いて出頭した。

 門を入って中庭を見ると誰も居ない。大きな声で

「お願いがございます。お取り次ぎ頂けないでしょうか」

 と声を掛けると、対応に出て来たのは下っ端役人で

「何用じゃ、ワシは今、飯を食うとったんじゃ後にせぇ」

 するともう一人が出て

「おい、何用じゃ、手短かに言えや」

 といきなり面倒臭そうで、ものぐさな態度で有る。

「お代官様にお願いがございます」

「代官殿は、御用繁多で町人供の話しなど聞いとる暇などないわい、ワシ等が聞 くけえ手短かに言えや」

「分かりました。実は一昨日の尾関山の麓の深澤屋の別邸で、誘拐監禁されていたのは娘の美和でございます」

「ワレか、朝早ようからワシ等の手を煩わせおって、眠たいのに叩き起こしゃがってからに」

「其れは其れはご迷惑をお掛けして申し訳け御座いませんでした」

「そりゃええが、ワリャ今、何を言うたんじゃ」

「おかしいではないか。早朝に出っ張った時には現場に居なかったではないか」

「ほんまにあんたが捕まっとったんか。ワシもその場に掛け付けて行っとたんで」

「えゝ、本当でございます」

「其れでは、ワシ等が行った時にはお前は何処に居ったんじゃ」

「・・・ 」

「現場状況から見て、もしもお前だったら、縛られ、猿ぐつわを噛まされとったのに、どおして抜け出したんじゃ」

「其れは大きな黒い犬と猫が助けてくれたのです」

「何!今、何を言うた!もういっぺん言うてみいや」

「でも本当なんです」

 すると役人はこそこそ耳打ちをしだした。多分、此の娘は頭がおかしいのではないのかと思ったので有ろう。そして

「あのなぁ、浪人供は見張りをしながら酒を飲んでいる時、野犬に襲われ噛まれて朝方迄も気絶しとったんだぞ。其れが、どおしてお前は犬と猫に助けられたと言うんじゃ。浅田屋が犬でも飼うとるんじゃなかろうが。其れとも野犬が一方に噛みつき、方や、お前を助けたとでも言うんか」

「馬鹿も休み休みに言えや、おかしげな事を抜かすな!」

 此れには美和も二の句を告げられなかった。

 そして、次ぎに浅田屋が脅迫状を役人に渡す間が全く悪かった。

 懐から紙切れを取り出し役人の前に差し出し

「でも、一昨日の夜中にこんなものが店の玄関先に貼って有りました」

 だが、役人は一切、中身を開けて見ようとはせず

「ワレが言うのは脅迫状じゃと云うんじゃろうが、馬鹿も休み休み抜かせ。遠く離れた処に居った浪人供が如何して書いて貼れるじゃ」

「どうせ、お前等、親子が後から取り繕った自作自演じゃないのか、ワレは役人を強請るつもりか」

「何なら牢へぶち込んでもええぞ」

 二人の役人は席を立って奥に引っ込んだ。そして中々出て来ない。

 浅田屋の主人は少々不安になって来た。お寺さんが言っていた脅迫状を代官所が見たら、簡単に共犯者を挙げてくれるだろうと思っていたが、全くの見込み違いもええとこだ。

 役人共は一切、見ようとしないのだ。ワシ等親子を気違い扱いにしゃがってからにと怒り心頭に発していた。

 然し、元はと言えば、美和の証言に有る。

 主人は不安な気持ちのまま美和の横顔を見つめた。頭が事件の衝撃で狂うたんじゃなかろうかと。

「う〜ん」

 だが、美和は涼やかな顔をし落ち着いて正座をしている。

「まともじゃ。でもどうして犬、猫が助けてくれたのじゃの理解不能な事を言うんかのう。誰がどう考えても訳くそ分からんで」

 主人は其の場で色々思案をしていた。そして暫く経って役人が出て来た。

「分かった、分かった、お前等の言う事には一々、付き合うてはおれん。あんまりおかしげな事を言うて御上の手を煩わせるな、こっちまで頭がおかしゅうなるわ、二度と来るな。帰れ!帰れ!」

 と言いながら今度は本当に席を立ってしまった。

 浅田屋親娘は、何ともやるせない気持ちで有ったが、如何せん相手が代官所だ。諦めざるを得なかった。

 其れにしても、仮に美和以外に他に捕らわれていた女性がいたならば探索するのが代官所であろう。それか事件を起こして、捕らえられて牢屋にいる浪人者二人に、誘拐した女は誰か正すのが筋であろう。其れをしようとはしない代官所に何かスッキリしないものが有った。

 反応の鈍い浅田屋の主人は何故、深澤屋の寮が犯行現場に利用されたかと言う事に対して何の疑問も持たなかったのだ。

 三次代官と深澤屋が手を組んで仕掛けた事など、後々迄も知る由も無かった。

 門前払いを喰わされた様な浅田屋は帰る途中、怒りが収まらず、大きな声で処構わず当たり散らしている。

「役人供の馬鹿野郎!ワシ等親子を気違い扱いにしゃがってからに」

「くそ腹の立つ下っ端役人め!」

「お父さん、お父さん、もういいじゃないですか、役人に何を言っても無駄ですよ。諦めましょうよ」

「いいや、ワシャ腹の虫が治らん!」

「其れよりもね」

「何じゃ」

「私は、捉われたが無事解放されて、こうして元気でお父さんと一緒に歩ける事が一番幸せなんです」

「そうか、そう言われてみると、そうじゃのう」

「 お前とこうして話しながら歩くのは、確か小さな子供の頃のお祭りの時以来かなあ」

「あの時、確か、かんざしとお菓子を買ってくれましたよ」

「よくもまあ、覚えておるなあ」

「お母さんばっかにお前の守りを押し付けてしもうたからな。ワシは仕事一筋で構ってやれなくてすまなんだなあ」

 此の美和の一言に主人は大分、救われた様な気持ちであった。

 懐かしい親娘会話をしながら歩いていて、あっと思う間に帰り着いてしまった。

 だが、まだ店に帰っても主人の怒りは収まらず玄関先で

「話しにならん、役人の奴等め、被害を受取るワシ等親子を気違い扱いうをしゃがってからに」

 店先にお客様が居るのにも拘わらず、大きな声で不満をぶちまけている。

 余程、腹に据えかねたので有ろう。其のうち、怒りの矛先が与作の方に向いてしまい、番頭に大声で名指しはしないものの

「丁稚供をよう見張っとれ!」

 外で積荷の荷造りをしていた与作の耳にもはっきりと聞こえてきた。

 然し、此の声にも全く何処吹く風で有った。

 何はともあれ、其の日は美和様が無事で帰って来た事により店も平穏な一日を終わろうとしていた。

 何時も店に内緒で、一人者の与作が、二里半を駆けて往き来するのは腹が減る で有ろうと、残り飯を包んでくれる台所方の女中達が近づいて来た。小さな声で

「与作さん、店の中で内通者は「あいつだ 」と噂されているのを知っている」 「ヘェ、そうですか、知りません」

「まさか、与作さんでは」

「そう思いますか」

「全然!違いますよね。誠実で正直者の与作さんですから嘘に決まっていますよ」

「有難う」

「旦那さんが、代官所で犬、猫に美和様が助けられたと言ったら、役人に気違い扱いされた腹いせに与作さんに八つ当たりしているんですよね」

「其れどころか、もしかして助け出したのは与作さんじゃないの」

「そんな馬鹿な、買い被らないでくださいよ 」

「でもね、与作さん云うたら、後ろから見たらシャキッとして、まるで侍の様に風格が有るよ。正面に回ると面白い人だよね、フフフッ」

「何じゃそりゃ、褒めとるのか、けなしとるのか」

 此の女中さん達とは日頃仲が良く、弁当のお返しに松茸や筍、山菜等、山の季節の味覚をあげていた。

「処で与作さん、犬と猫を飼っているの」

「何で」

「何時も洗って返してくれる風呂敷にたまに黒い毛が付いている事が有るよ」

「すみません。ご迷惑をおかけしています。でも此れだけは店の他の者には絶対に内緒にしておいて下さい」

 事件が有ってから、美和が無事に帰って来てからは再度脅迫状も来る事は無く、店の奉公人達は詳しい事情を知る人間は誰一人として無く、安心感が広がり通常の静けさを取り戻していた。

 だが、主人夫婦は美和とは一日中常に一緒にいて、店の者に目を光らせていた。

 やっぱり一番警戒されていたのは与作で有ろうか。朝晩の挨拶や日中顔を合わせても、一切、言葉を交わせようともせず、冷たい視線を浴びせていた。

 入店以来続けていた美和様のお供も外されてしまった。

 其れから四日目の昼過ぎの事で有る。与作にとって衝撃が走った。

 例の美和の誘拐監禁事件での犯人、浪人者の二人が代官所に於いて処刑されたので有る。

 狭い三次の町にすぐに情報は広まった。代官所が云うのには他にも多くの余罪が有り処刑に値すると云う事らしい。

 然し、おかしな話しでは有る。被害に有った人間が現場には居らず、殺された訳でも無く其れこそ被害者不詳では拉致監禁が実証される訳が無い。実際には美和が被害に遭っているのだが気違い扱いをされ却下されているので二人にとって罪など軽いものなのだ。

 其れに深澤屋が代官所に申し立てた理由によると、留守の間に勝手に建物に侵入されて事件を起こしたと証言している。仮にそうで有ったとしても軽微な犯罪だ。

 其れが何故処刑されるのか。

 完全に証拠隠滅を図り、事件をうやむやにして揉み消そうと云う三次代官と深澤屋の腹の内だ。だが代官所以外の部外者にとっては証拠を掴む術がない。

 此の情報は、すぐに浅田屋でも知る事となった。此の時、与作は、

 店先で自分が今迄夜なべをして作って溜めていた草鞋を十束ほど店先に掛けていた。遠来のお客様に無料で提供する物だ。

 丁度、其処へ呉服の三次屋さんが与作を見つけて手招きしている。

「おい、与作、美和さんはどうなっとりゃ」

「はい、元気にしとられますよ」

「へぇじゃが、ちっとも姿が見えんじゃないか。浅田屋が奥座敷に閉じ込めとるんじゃないかと世間の噂じゃでぇ。其れに人が言うのにゃとうとう狂うたんじゃないかと云うとるで」

「そんな事は有りませんよ。ただ、まだ親娘で警戒をされてはおられます」

「稽古事にも一つも出て来んと、うちの娘も云うとったからのう。其れならええんじゃが」

「処で与作よ、さっき聞いたんじゃが美和さんを監禁しとったと云う浪人者が処刑されたらしいで」

「何ですか、そりゃほんまの事ですか」

「代官所も嘘は言わんじゃろうて」

 与作は慌てて店の中に飛び来んだ。処がまだ主人も奉公人も誰も知る者は無く静かなもので有った。其れが知れたのは昼時の少し前に番頭が代官所近くまで薬の配達から帰って来て知れたのだ。

「旦那様、此の間の犯人が処刑されましたよ」

 大きな声で言うものだから、店中に響き渡ったが幸いお客様は一人もいなかった。

「何!そりゃほんまか、然しどう言う事なら」

「為して被害者もおらんゆうとるのに首を刎ねられるんじゃ」

「代官所の野郎は頭がおかしいんじゃないんか」

「旦那さん、声が大きいですよ。外へ聞こえますよ」

「そん事たぁ分かっとるわい!」

 此の時刻、小雨がぱらつき出したので与作は店内で雑用をしていた。

 共犯内通者と読んでいた奉公人の丸東は、此の日、地方への出張が無く伝票整理で店内にいた。

 他の奉公人達は此の話しで持ちきりで有った。

 与作は、何も知らない様なふりをしながらそれとなく丸東を見ていると、すぐに席を立って厠にでも行ったので有ろうか暫く帰って来なかった。

 やがて、戻って来ると自分の机に着いた。

 其の時、目が虚ろで焦点が定まらない。顔が青ざめ体が小刻みに震えているではないか。

「死人に口なし」と代官所と深澤屋が、あらゆる証拠を捏造して迄も強引に浪人二人を処刑に追い込んだ手口に来たからには、こちらが先に手を打ってやらねば、丸東は早めに消されるで有ろう。幾ら悪い奴とは云え、直接手を下したのでは無く、うまく口車に乗せられ利用されただけなのだ。

 今迄、同じ釜の飯を食った仲で有り、消されるのは忍びない。

 其の日、夕方に仕事を終えると、与作は、丸東の為に事前に書いておいた証拠固めの書付を用意した。

 此れがこんなにも早く活用しなくてはならないとは代官所は相当焦っているな。ならばこちらが先手を打って仕掛けてやらねばならない。

 戌の刻になり、店の近くから犬笛を吹くと凄い速さで鉄が駆け付けて来た。

 相変わらず声は一切出さず大喜びをしている。此の日は玉は来ていなかった。

 朝、出掛ける時に冷たい小雨が降っており濡れるのが苦手なのだ。

「玉ちゃん、今日は来んでもええからな。ラーちゃんと一緒にいなよ」

「二ャーン」

 すぐに聞きわけてくれたのだ。

 鉄は少々の雨はお構い無しなのだが、濡れるのは可哀想なので、小さな蓑を着けさせていた。

 幸いにも、帰りを迎えに来る時刻になると良い天気になっていた。鉄は上手に蓑を外して来ている。

 雨や雪の日などの時、与作に呼ばれる迄は洞穴を棲家としている。此処は鉄、玉、ラー助にとっては別荘なのだ。

 又、与作のいざと云う時の持ち物が隠して有る。

「鉄ちゃん、今から別荘に行って来るからな。大切なものを取って来るから」

 と言うと一気に駆け出した。

「よし!競走じゃ」

 処が全く話にならない。あっという間に見えなくなってしまった。物凄く速い、早馬などでも直ぐに置いていかれるであろう。

 暫く行くと心配そうに座って待っている。本当に優しい狼犬である。

 別荘から引き返して来ると

「鉄ちゃん、此の前の所に行くからな、後は宜しく頼んだよ」

 丸東の住まいにはこの前に玉と一緒に顔を覗かせている。

 口に封書を咥えさせ、玄関戸の前に置いて来させる様に命じた。そして戸に当たってトントンと音をさせる仕草を態度で示した。

「よし、行け」

 本当に頭が良くて与作の命令する事が理解出来るのだ。

 三軒長屋の入り口に走って行き、云われた通りに其れをやり一目散に帰って来た。

「有難う、有難う。一寸、様子を見とろうや」

 すると間も無く、さっきの戸を叩く音に気付いて、こっそりと戸を開けて中から顔を覗かせた。キョロキョロしながら、目の下に落ちているのを拾い上げ戸を閉めた。

 今迄にも何度か同じ方法で深澤屋の誰かと繋ぎを付けていたのだろう。

 だが、今、見ると余程ビビッているので有ろう。ましてや直接面識は無いが共犯の片割れ二人が、簡単に抹殺されているのを聞かされて恐ろしくない訳が無い。

「よし、今日は此れでいいぞ。鉄ちゃん帰ろうか」

 鉄ちゃんは、えゝ此れでいいのと云う顔をしている。

「いいんだよ、此れで丸東の生命が救えるよ」

 封書の中身はこうだ


 丸東へ


 ・糊替わりに使った飯粒で、凄い嗅覚の犬がお前の住まいを捜し当てた

 ・近所の聞き込みで事件が有った其の日、朝方早く走って行く音と帰っ

 て戸が 閉まるのを近所の住人が聞いている

 ・脅迫状を書いた紙は浅田屋専用の物と紙問屋が証明しとる

 ・右手の指紋がはっきり分かる程墨の跡が付いとる

 ・文中には備中訛りの言葉が書いて有る

 ・何故、美和の名前を知っていたのだ

 以上の様に丸東が書いた証拠が一杯挙がっとる。

 此れをワシが明日にも三次代官所に持って行けば、すぐにでも脅迫状を書いた丸東を捕まえて、有りもせん罪を被せて消しにかかるぞ。

 何と云っても代官所と云うより一番悪いのは三次代官でぇ、そいつが深澤屋と組んどるんじゃ。

 とに角、奴等はほんまにビビリまくるで、何で当事者で無いものが此処まで知っとるんじゃとな。其れこそ、古い時代から代々伝わる三次の物の怪じゃ。姿は見えないのに真相を皆、知っとる。奴等は自分らがやった事を世間に知られるのが一番怖いからのう。ワシも其の場で殺されかねん。

 悪い事は言わん、今すぐにでも、何もかも放ったらかして早よう逃げろ。浅田屋なんかどうでもえゝ、考えとったら殺されるぞ。

 ー三次の物の怪よりー


 次の日、与作は鉄と何時もの様に暗いうちから山道を駆けて下り、町中に入る手前で別れて浅田屋に到着した。

 やはり今日も一番早くに出て来ている。其れから主人も顔を覗かせ玄関戸を開けだしたので

「おはようございます」

 と挨拶してもウンもスンも無い。与作は苦笑いをしながら

「まぁ、いいっか」

 と箒を持って前の道の掃除を始めだした。やがて多くの奉公人達が出揃いだすと一斉に賑やかになりだした。

 今朝も各番頭による輪番制の朝礼の訓示が始まった。

「此の最近は、色々な事が有り、少なからず店の中や奉公人の間で動揺が有りましたが、此れもご主人の冷静な対応により盤石な体制に立て直しを図る事が出来ました。私達は浅田屋精神に則り、社会に為に貢献しようでは有りませんか。其れが店の為にもなり奉公人の為になり生活が安定する事になります。本日も頑張りましょう」

 浅田屋主人も此の言葉を聞いてさぞや、面映ゆい思いをした事で有ろう。

「ワシはビビリまくっとっただけじゃがのう。でも、えゝ奉公人を持って幸せじゃのう」

 其れから朝礼が済むと、何時もの如く朝の準備で、てんてこ舞いの忙しさになってきた。

 各地の小売店に送る荷物を大八車に積み込まなければならない。其の為の荷の仕分けで手代や丁稚は走り回される。

 丁度、其の時に庄原、東城方面に配達を指示する担当の本人がまだ出て来ていないのだ。

「どしたんじゃ、丸東は。まだ寝とるんか、二日酔いか」

「馬鹿たれ、ええ加減にせんかい!」

 と大声で怒鳴りまくっている。

「おい、与作、ワレが行って叩き起こして来い!」

「はい、分かりました」

 と即ぐに呼びに走り出した。といっても浅田屋の裏道のすぐ近く、三軒長屋に着いて玄関戸をドンドンと叩いた。

「丸東さん、与作です」

 幾ら叩いても返事が無い。止む終えず戸に手を掛けると簡単に開いた。

 小さな部屋を覗いて見ると何も無いではないか、普段も荷物が少なかったが今は全く空っぽだ。

「よかった!」

 大きな風呂敷包みに、一括りにして持ち去ったのであろう。

「イエィ、イエィ!」と叫びながら与作は喜び勇んで店に走って帰って来ると

 先程の番頭に報告した。

「どうした、まだ、寝とったか」

「あのう、丸東さんは神隠しに遭って居られません」

「何い!馬鹿たれ、何をふざけとるんじゃ。ワレど突くぞ!」

 物凄い剣幕の番頭の声に店中はおろか、奥に居た主人迄もが飛び出して来た。

「どしたんじゃ、大きな声を出して、他所へ聞こえるで」

「すみません、与作が、神隠しに遭ったなぞふざけた事を言うもんですから」

「別に私はふざけてはおりません、ただほんまの事を言った迄です」

「近くですから、自分で行って確かめて下さい」

 とニコニコして云うもんだから番頭は更に頭に血が上った。

 然し、主人が目の前に居るもので、仕方なく膨れ面をしながら自分が確かめに行き出した。

「与作、ワレも大概にせえよ。首になりとうなかったら真面目にやらんかい!」

「すみません、今後気をつけます」

 丸東を夜逃げさせる事により、生命を助ける事が出来て与作は、浅田屋で仕事をしている一日中、心が晴れ晴れとしていたので有った。

 主人は、丸東が急に浅田屋を辞めた理由など全く知る由もなかった。

 然し、与作は仕事を終えて鉄と帰る道すがら自問自答をしていた。

「勝負はまだまだ此れからだ。三次代官と深澤屋は今後どう云う手を打って来るか、多分、色々仕掛けて来るで有ろうよ。ワシは絶対に悪者連中から浅田屋を救ってみせるからな」

「鉄ちゃん、今後も頼むよ!」

 鉄には与作の気持ちがすぐに伝わる、与作を見上げて

「マカシトケ」

「玉ちゃん、ラーちゃんが待っとるから早よ帰ろうな」

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