最近の斉木さん

葵 一

第1話

 ウェストポーチとやや小ぶりなショルダーバッグを持ち、髪をアップにまとめサングラスをした女性は玄関のカギを閉め、その場から傍に駐車しているシビックタイプRのロックを解除した。すぐさま運転席に乗り込んで荷物を助手席に放り投げる。

「あーやばい、これは遅刻だな」

 口にする割には慌てた様子はない。むしろ、どこか大義名分を得たように口元は緩んでいる。

 目線のみだがミラーの確認を怠ることなくチェックするとエンジンをかけ、数秒のアイドリング。もう少しエンジンを暖めたいがご近所様に迷惑をかけるわけにはいかないので、シフトノブをニュートラルから1速に入れてアクセルを踏んだ。パーキングブレーキは自動的に外れ低音を響かせながら動き始める。

 ほぼ3速だけで器用に細い路地から幹線道路に並行するように通っている脇道を抜けていく。横目に見える幹線道路は案の定渋滞を起こしていた。

 五分程走ってT字路に差し掛かると信号待ちの列。一旦停止してウィンカーを出し列が流れるのを待つ。やがて信号が青に変わり流れ始め、列が徐々に動き始めると軽くアクセルを踏んだ。列の最後尾目指して走ってくる後続車を遮るように割り込ませてもらうが赤信号ですぐに列は止まった。次の青信号で副道から幹線道路へ合流し、渋滞の中へ。

 前を見たままハンドルから手を離し、手探りでウェストポーチから棒付きの球体キャンディを取り出すと包装を解いて口に入れる。包装は胸ポケットへ。微速前進させながら、今度はオーディオを触る。車内にワーグナーの『ワルキューレの騎行』が流れ始めた。

 ちなみにワルキューレの騎行は運転中に聞くと危険回避の動作が20%遅れるとイギリスの調査によって言われている。

 ワルキューレの騎行が終わるころ幹線道路から抜け出し、高速道路へと入った。料金所をETCレーンから通過し、シフトノブを滑らかに操作しながら徐々に加速していく。

 1区間を過ぎたころ、スピーカーから流れる穏やかなクラシックとは対照的に90km程度に抑えていたスピードが急速に上がり始める。アクセルを大胆に踏み込んでエキゾーストノートを響かせ、ステアリングは繊細に前方の車を縫うように追い越していく。途中、二度のオービスをやり過ごすために法定速度まで落とし、ほとぼりが冷めるとまた150kmくらいまで即座に踏み込んだ。

 20分ほど高速を駆け抜け、咥えていたキャンディもすっかり溶けたころ再び市道へ降りて職場を目指す。

 棒だけ咥えた状態で信号待ちで時計に目をやると8:48。

(よし、間に合う。)

 確信した。あと二分あれば職場に着き、そこから走れば5分前には着席できる。国道から土手沿いの道へ入り、憂いを断つため法定速度を順守して安全運転で走行する。

 だが、オーディオから『怒りの日』が流れると同時に後方から特徴的なサイレンが鳴った。バックミラーを見れば白バイが脇道から出てきていた。

「そこのシビック止まりなさい」

 正直、彼女は自分ではないと思いたかったが、後続車がいない上に指定されてしまっては勘違いでは済まされない。ウィンカーを出して少し広い路肩に停車するとBGMの音量を落としてからウィンドウを開いた。

「なんですか、急いでるんです。スピード違反もしてないし安全運手してましたよ。車両不備だってありません」

 サングラスをしたまま彼女は近寄ってきた白バイ隊員に毅然とした態度で意見する。

「うん、それは大丈夫。だけどここ、7:00から9:00まであっち側からだけの一方通行なんだ。つまり逆走。免許証出して」

「ぉふ……」

 声にならない悶えるような声が思わず漏れた。渋々、免許証を手渡した。

「えーっと、斉木鈴子さんね。では反則金を必ずここへ納付してください。急いでるとは思いますが9:00過ぎるまでここで停車して、それから移動してください」

 白バイ隊員は書類に名前と番号を控え、青切符と納付書をつけて免許証を返却しながらサービス精神の欠片もなく事務的に喋り、説明を終えると興味もなさそうに去って行った。

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