似て非なる者で在るために
萬田 竜星
その名は私のものではありません。
朝、日も昇らぬ時間に、私は目を覚ました。柔らか過ぎず、硬過ぎない、何時間寝ようと疲れそうにないような、上等で快適なベッドでの目覚めは、今日で何回目だろう。私の記憶が正しければ、9回目のはずだが、どうにも慣れないでいる。
どうも先程からばたばたと喧しい。階下で両親が慌ただしく動いているのだろう。理由は察しがついている。今日は誕生日。祝いの準備をしているというわけだ。おそらく、朝起きてくると、装飾が施されたリビングで、クラッカーでも鳴らして、祝いの言葉を浴びせられる。といった筋書きだろうか。
想定されている起床時間は約三時間後。しかし、それに合わせてやる義理も無いので、私は体を起こした。起きたのだから起きれば良いのだ。
私は部屋を出て、寝巻き姿のまま、長い黒髪を揺らして階段を降りて行く。一段の奥行きが足より少し小さい造りは見映えの問題なのだろうか。正直使いにくさを感じる。その代わりとばかりに用意されている手摺りを持って、一段一段慎重に足を動かす。
廊下を歩く音が聞こえたのか、リビングと廊下とを隔てる扉の曇りガラスから見える両親の動きが、急激に慌ただしくなった。クラッカーでも取りに行ったのだろうか。私は構わず扉を開ける。私にとって、部屋の飾りつけもクラッカーも、さして重要な事ではない。
「おはようございます。私は起床しました」
入室と共に、両親にそう伝えた。
「あら、おはよう沙羅。ずいぶん早いね。」
母親が笑顔で挨拶をする。平静を装っているが、私の想定外の早い起床に、少し焦っている様子が見てとれる。
「私はあなた達の出す音によって目を覚ましました。」
「あらそう。ごめんね、うるさくしちゃって。お父さんったら、すっかり張り切っちゃって……」
「私に謝罪をする必要はありません」
そう伝えると、母親は私に何か飲むかと尋ねてきたので、私は水を要求した。座っていて良いと言うので、椅子に腰かけていると、奥の部屋から父親が出てきた。
父親は、赤と黄色の縞模様の円錐形の小さな帽子を被り、ちょうどそれを更に小さくしたようなクラッカーを手にして駆け寄ってきた。恰幅の良い父親の小走りは震動を生み、家具を揺らしていた。
「十六歳のお誕生日おめでとう! 沙羅!」
父親はそう言うと同時に、クラッカーの紐を勢いよく引っ張った。破裂音と共に、リボンや紙吹雪が舞い、それらは私の頭に被る。直後に漂う火薬の匂い。音にしろ匂いにしろ、寝起きに浴びるには気持ちよくないものだった。
母親が差し出した、コップ一杯の水を飲み終えると、父親は満面の笑みで話を始めた。
「いやあ、沙羅ももう十六歳かあ。早かったような、長かったような……」
「もう、お父さんそれ毎年言ってるじゃない。でもそうね。もう十六歳、まだ十六歳……こうして無事に育ってくれて、お母さん嬉しいわ」
そう言うと、母親は私に歩み寄り、強く抱き締た。
だが、私はそれを受け入れられなかった。
「やめて」
そう伝えて、私は母親を引き剥がした。
「あ……ごめんなさいね。そっか、沙羅はもう十六歳だもんね。ちょっと恥ずかしかったかな?」
困惑しつつも、両親は共に一貫して笑顔だったが、その笑顔はひどくひきつっていた。
ケーキはいつ食べるか、夕飯はどこかへ外食に行こうか、様々なことを両親は訊いてくる。私はそれに対して、何も答えなかった。どれもこれも、私には魅力的に感じられなかった。私が唯一反応したのは、プレゼントの話だった。
「お父さん、お母さん。私は今欲しいものがあります」
やっと興味を示したことに安堵したのか、両親は一気に明るい顔になった。
「おお、なんだ? 何が欲しいんだ? 言ってみなさい」
「そうそう。何でもいいわよ。遠慮しなくていいのよ」
椅子に座った私の両横に両親は立ち、肩に手を乗せて私の顔を覗き込んでくる。私は二人の顔をしっかりと見て、欲しいものを言うために、一旦椅子から立ちあがって両親の方に向き直った。
「お父さん、お母さん。私に名前をください」
それを伝えた瞬間、両親の顔は青ざめて、呼吸は荒くなり、手足が震えだした。
「お、面白い冗談だなぁ沙羅! 何かからの引用かな? いやあ難しい事を知ってるなあ。お父さんは若い頃からあまり本を読まなかったから……あはは」
「冗談ではありません。私は真剣です」
「何を言うの沙羅! あなたには、染井
沙羅っていう素敵な名前があるじゃない!」
母親が私の両腕を掴み、前後に揺さぶりながら訴えかけるが、私の意思は変わらない。
「私は染井 沙羅と同一の存在ではありません。私は染井 沙羅のクローンです。オリジナルは死亡しました。私は彼女の代わりにはなり得ません。よって、私は染井 沙羅として生きることを拒否します」
母親は力なく膝を折り、床に突っ伏して泣き始めた。その光景を眺めるのは、恐ろしく気分が悪かった。これが沙羅が言っていた、心が痛むというものなのだろう。
「ううぅ……うああ! ぐすっ……うぅ……ごめんなさい、ごめんなさい。やっぱり無理よね……たとえクローンでも、沙羅の代わりなんて、この世に誰一人としていない。そんなこと、最初からわかっていたはずなのに……」
泣き叫ぶ母親を、私はどうすることもできない。ただただ見ていることしかできない。果てしなく気分が悪い。
「ふざけるな!」
父親の怒声が、母親の慟哭を引き裂いた。
「沙羅は死んでなんかいない! お前は沙羅なんだ! ここにいるじゃないか! お前は、沙羅はこれからも、今までと同じように愛されて、幸せに生きていくんだ!」
この父親を見ていると、涙が溢れてくる。とても息苦しい。
「では、私はあなたに質問をします。染井 沙羅は、言語学習が不十分であることを理由に、テレパシーによる会話を余儀なくされていましたか?」
私のテレパシーは、言葉ではなく意志を直接的に伝え、受容する側が言語化して受け取るというものだ。培養液から出て数週間の私には、沙羅が行っていたような豊富な語彙表現を伴うテレパシーは不可能なのだ。
「うう……黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れえええええええ!うおあああああああああああ!」
父親は泣き喚きながらコップを床に叩き付け、砕け散ったそれを踏みつけだした。足にはガラス片が深々と刺さり、痛々しく血まみれになるが、それでもなお止めない。
「お父さん、やめてください。血がたくさん出ています」
「うはは! ああふひぃ! おほぉああぁはははははぁあああああ!」
目の焦点があっておらず、最早テレパシーも通じていない。どうやら完全に発狂してしまったようだ。
父親は目に見えるものを手当たり次第破壊し始めた。見かねた私は彼にサイコキネシスを使用することにした。
私が念を送ると、狂乱状態の父親の体は浮き上がり、空中でもがき始めた。更に強く念を送り、全く身動きが取れないように縛り上げる。父親はそれでもなお変わらず暴れようとする。私は彼の体を少しずつ捻り、締め上げるように力を加える。しかし、脊椎が破損する寸前まで力を加えても、彼が大人しくなることはなかった。
残念なことに、私は情に訴えるような話術は持ち合わせていない。かといって、放置しているといつ人に当たり始めるかわかったものではない。拘束し続けようにも、暴れる相手への拘束は長くは持たない。彼を止める方法は、気絶させるしかない。私は締め上げや捻りの念を解き、彼の体を壁に叩き付けた。抵抗をしなくなるまで、床に、天井に、机に……ありとあらゆる場所に猛烈な速度で父親の体を叩き付けた。彼の全身は毒々しい青や紫の斑模様になり、そしてついに念力への抵抗が無くなった。
私は動かなくなった父親の元に歩み寄り、テレパシーで語りかけた。
「お父さん、私は沙羅ではないということを認めてください。沙羅は私のようにサイコキネシスは使えなかったはずです。実の父に攻撃を仕掛けるようなことはしなかったはずです」
「うぅ……沙羅……沙羅ぁ……すごいなぁいつの間にかこんなことも出来るようになったのかぁ……」
父親は意地でも沙羅の死を認めたくないらしい。気持ちはわかる、などと軽々しく思うべきではないのだろうが、私も彼女の死を未だ受け入れられずにいる。私にとって、彼女こそが私が生き、そして死ぬ理由だったのだから。そして、だからこそ私は沙羅として生きるわけにはいかない。
「あなた達に私の新たな名前が用意できないというのならば、私は私自身の名前を自分で付けることにします。私はその為に、この家を出て行きます。私は沙羅の友人として、彼女の死を含めた人生を否定したくないのです」
両親にそう伝えて、私は自分が先程まで寝ていた沙羅の部屋へと向かった。返事は無く、ただただうめき声と慟哭が聞こえてくるのみだった。その大きさが、生前の彼女がいかに深く愛されていたかを物語っているようだった。
私は部屋のクローゼットを開き、白いワンピースを取り出して着た。当たり前だが、サイズはぴったりで、寸分の狂いも無く私の体を包む。その他の衣服や下着をいくつか取り出し、キャリーバッグに詰め込む。本人の承諾を得ずに物を持ち出すことに抵抗を感じる。これらは全て借り物なのだから、いつかは返しに来なければならないな。そんなことを思いながら、私は玄関に移動してヒールの少し上がった靴を履いた。
「さようなら」
返事が返ってくることなど期待していない。ただ、言わねばならないような気がしたのだ。
私が出ていこうとしたその瞬間、母親が力無く駆け寄ってきた。引き留めに来たのだろかと思ったが、彼女は何も言わず、私の手に十数枚の紙幣を握らせた。この図柄は、たしか一番価値のあるものだったか。いったい何のつもりか、と問いかけても、返事はなかった。推測でしかないが、謝罪のつもりだろうか。必要になるであろうものなので、受け取ることにした。
「私は今はこれを受け取りますが、いつか返しに来ます」
背を向ける母親にそう伝え、私はテレポーテーションを使って、どこか別の場所へと移動した。
適当に移動したものだから、一体どこなのかはわからないが、少なくとも屋外ではあるようだ。この力も沙羅は使えなかった力だ。もしかすると、私は沙羅には使えなかった力を積極的に使用することで、自分が沙羅とは異なる存在であると自分に言い聞かせているのだろうか。
テレポーテーションの直後は、短距離移動でない場合、急激な環境変化のためか、視覚や聴覚がうまく働かない。立ちくらみが起きたように視界が白く染まる。だがそれも数秒で収まり、徐々に感覚が戻ってきた。どうやらどこかのビルの屋上に出現したようだ。周囲に人影はなく、強風の轟音だけが存在する。あまり良い環境とは言い難いものがあるので、早々に別の場所に移動したくなってきた。
しかし一体どこへ移動したものか。テレポーテーションは場所の具体的なイメージがあれば、そこへ正確な移動が出来る。だが、私はこの世界をよく知らない。具体的なイメージが出来る場所と言えば、それこそ染井家の敷地内か、その周囲を歩いて回った程度の範囲、そして私が生まれた施設程度のものだ。
そうこう考えている間にも、容赦なく風は私のか細い体を叩く。サイコキネシスで体勢を維持しているが、正直疲れてきた。私はとりあえずこの場を離れることにした。視界の範囲内であれば、初めて見る場所でもテレポーテーションは使える。私は辺りを見渡して、視界に映る一番遠くのビルの屋上へと移動した。同じように、少しずつ低いビルへと移り、最後は地上へと降りた。
私は何故行き先も決めずにテレポーテーションで移動をしたのだろう。当てもなく移動するのならばサイコキネシスで浮遊すればいいというのに。人目につくのが嫌だったのか、あるいは一刻も早くあの場を離れたかったのか。
答えの出ない自問自答よりも、状況の把握の方が先だろうかと思い直した私は、軽く周囲を見渡してみた。まず最初に目に入ったのは、テレポーテーションで出現した私を見て驚く人々の顔だった。さすがに生で超能力者を見るのは珍しいのだろう。それ以前に、急に目の前に何かが現れたら、驚くのは当然だ。
次に目に入ったのは、大きな噴水。身の丈の数倍の高さの水柱が、開けた空間の中央にある。水しぶきによって、時折虹が姿を見せている。所謂憩いの場というものなのだろう。休憩には丁度いいと感じたので、私は近くのベンチに腰かけることにした。
移動してからしばらくは、私のことをちらちらと見る人が多かったが、次第にその関心は薄れていき、最終的には見向きもされなくなった。
噴水広場を利用する人々の中には、恋人同士と思われる者も多く見られた。仲睦まじく手を繋ぐ者、抱き合うもの、食べ物を分かち合う者……
私はふと、沙羅の言葉を思い出した。彼女とはテレパシーを用いて度々会話をしていた。彼女は様々なことを私に話してくれたのだが、その中に、彼女が思いを寄せる男性の話もあったのだ。自分にとても優しくしてくれた、という旨をたいそう恥ずかしがりながら話してくれたのを、よく覚えている。名は、奈切 開斗と言うのだそうだ。
沙羅は病状の悪化をきっかけに、十四歳の時に転居し、それきり彼とは会っていないと言っていた。思い切って告白しておけばよかったかな。と彼女は言っていた。彼女は想いを伝えることなく、この世を去ったのだ。
私は開斗に会うことにした。彼に沙羅の死を伝えなければならないように思えたのだ。理由は全くわからない。もしかしたら、全く意味の無い行動かもしれない。しかしなぜか私は動かずにいられなかった。
テレポーテーションには、場所をイメージする以外に、もう一つやり方がある。物や人をイメージして、その近くに移動しようとする方法だ。開斗と直接あった事はないが、沙羅がやけに熱を入れて話していた特長や人物像、さらにそれらを画像化して伝えてきたため、鮮明にイメージできる。私は現在彼が居る場所へと移動した。
移動が終了すると、例によって立ちくらみに似た症状が現れる。霞がかったような視界が晴れると、鏡と大きな椅子が目に入ったが、開斗が居る場所へと移動するというだけなので、私にはここがどこなのかわからない。雰囲気としては洗面所に近いが、大型の椅子など設置するだろうか。
一体何の場所なのか把握しかねるので、私は小物類にも注目してみることにした。すると、細身の鋏や櫛、剃刀などが置いてあることに気がついた。どうやらここは理髪店のようだ。
「あれ? 誰か居るんですか?」
奥の方から声が聞こえてきた。若い男性の声だ。
「うち、今日は定休日で、電気とかがついてるのは、俺がカットの練習してたんですよ。いやあ、紛らわしくてどうもすみません」
頭をかきながら一人の少年が姿を現した。間違いない。彼が奈切 開斗だ。
彼は私より一回り背が高い。百七十センチメートル前後と言ったところだろうか。特に筋肉質でも肥満体型でもないが、腕はよく使うのか、やや引き締まっていた。私が初めて会う彼に対して、特に何の条件も無く良い印象を抱いているのは、私の遺伝子情報が、沙羅に限りなく近いからだろうか。
私が開斗の方に向き直ると彼は目を見開いて固まった。
「沙羅……? 沙羅、だよな? お前、病気は? もしかして、治ったのか? 会いに来てくれたのか!?」
開斗は私のそばに駆け寄ると、優しく、それでいて力強く私を抱き締めた。中肉中背の彼だが、それでも少しごつごつしていて、筋肉が生む熱を感じる。
私は彼の腕に包まれることに、本能的な幸福感を覚えた。このままでいられたら。そう考えずにはいられない。しかし私はこの腕を払いのけなければならないのだ。
「沙羅……?」
私の様子がおかしいことに気がついたのか、開斗は腕の力を緩めて、私の顔を覗いた。私は首を静かに横に振り、彼を念力を使って押し退けた。
「私は沙羅ではありません」
「何を言って……」
「私は沙羅を元に造られたクローンです。オリジナルの沙羅は死亡しました」
「死んだって、そんな……」
それを伝えた瞬間、開斗は思考力を抜き取られたようにその場に立ち尽くした。私はきっと沙羅を知る人物に会うたびに、この光景を見ることになるのだろう。
固まって涙を流していた開斗だったが、しばらく経ってから我に返ったのか、腕で涙を拭って、微かに口を動かし始めた。
「なあ、なんでお前は自分が偽物……クローンだって教えてくれたんだ?」
「私は沙羅の代わりとして生きることを望んでいません。確かに、私が沙羅ではないと宣言をしなければ、私は沙羅として生きて行くことが可能です。しかし、それは沙羅への冒涜に他なりません」
開斗は微かに口角を上げて静かに頷いた。頭が振れると同時に、大粒の涙が彼の目から零れ落ちた。
その後、彼は奥の休憩室へ私を招き入れると、椅子へと座るように促してきた。私はそれに応じ、彼と向き合った。彼はしばらく伏し目がちになり、ため息を繰り返していたが、やがて顔を上げると、彼は私にいくつかの質問があると言ってきたので、私はそれに答えることにした。
「聞きたいことは色々あるけれど……じゃあ、まず、君はクローンって言ってたけど何のために造られたのかを教えてくれるかな?」
私は小さく頷き、脳内にある情報を整理してから彼に送った。
「私は沙羅に移植する臓器を育てるためのクローンでした。超能力者の臓器は、通常の臓器複製では適合する臓器を作れません。故に、私というクローンが作成されたのです」
「移植のためのクローン……ということは、もし沙羅が生きていたら、君は……」
彼は何か言いかけたが、それを塞き止めるように唇を噛んで、首を横に振り、次の質問に移った。
「さっき、手を使わずに俺を押し退けたけど、あれは一体? あれも超能力? たしか、沙羅が使えるのはテレパシーだったはず……」
「先程の力はサイコキネシスです。私は健康体として育つように、いくつかの遺伝子操作が行われています。なので厳密にはクローンと言うよりも、人造人間と言った方が正しいかもしれません。遺伝子操作の影響で、私は沙羅には使えなかった超能力――サイコキネシスや、ここへ来るのに用いた、テレポーテーションが使えます。他に質問はありますか?」
彼が私の言葉を受けて、何を思ったのかはわからない。やろうと思えば覗くこともできないわけではない。しかし理由はわからないが、あまり気が進まないので、そういったことはしないようにしている。
「なあ」
しばしの沈黙の後、彼は唐突に口を開いた。私は彼の次の言葉に耳を傾けた。
「君にとって……沙羅はどういう存在なんだ?」
「沙羅は私の元になった……」
「そうじゃなくてさ、こう、なんというか……」
私は彼の質問の意図を理解した上で、答えるのに躊躇していた。その質問に答えるに当たって、私は平静を保つことができる自信がなかった。
「……」
「ごめん。話しにくいんだったら、無理しなくてもいいよ」
「いいえ。私は大丈夫です」
私は今にも泣きそうで、喉が絞まっているのを感じた。もし意思の疎通を喋って行っていたら、声が出なくてまともに会話ができない状態なのだろう。
「沙羅は……私の最初の友。私が生き、そして死ぬ理由だった。直接会ったことはありませんでしたが、彼女は私とよく話してくれました。私は沙羅のことをすぐに好きになりました。私は……彼女を……救…………生……ほしい…………」
雫が頬を伝うのを感じる。呼吸も乱れてしまっている。恐らくテレパシーも正確に送れていないのだろう。私は血が出そうなくらいに掌に爪を食い込ませて、脳裏をよぎる、ある考えを掻き消そうとする。なぜ生きているのは私なのか。
ふと気がつくと、開斗が私の手を握っていた。彼の表情に憐れみが含まれているのを感じる。自傷紛いの行動をし出したのを見かねたのか、あるいは無意識に先程の思考を発信してしまったのだろうか。
「ごめんなさい。私は大丈夫です。手を離してください」
そう伝えると、開斗はそっと手を離し、私にハンカチを渡した。手を広げてそれを受け取ろうとしたときに、爪が食い込んだ痕が目に入った。弧を描いた爪痕の周囲はほのかに赤くなっていて、きっと時間が経ったらとひりひりと痛むことだろう。
私が落ち着くのを待ってから、開斗は口を開いた。
「ごめん……本当に。君が辛くなるのなら、もう何も話さなくていいよ」
やはり彼は良い人だ。そう感じると同時に、私は何か引っ掛かりを覚えた。
「それは、私のためですか? それとも、あなたが耐え難いからですか?」
「……両方かな」
「それは、私が沙羅と同一の外見であることが関係しますか?」
「そうかもしれない」
私はその一言で、自分の心にある違和感の正体に気が付いた。私は沙羅であることを否定しながら、沙羅と同一の外見であることで恩恵を受けている。私はここに来てから、そのことに強い嫌悪を感じていたのだ。
「私は沙羅に由来する愛を許否します。沙羅が受けた愛は沙羅の物です。私の物ではありません」
彼は困惑の表情を見せるが、私の意思は変わらない。自分が勝手な物言いをしている自覚はあるが、これは私の信念なのだ。
外見の話をして思い出した。そうだ、そういえばここは理髪店なのだ。小さな店ではあるが、しかるべき設備はある。
「開斗、私はあなたに頼みたいことがあります。私の髪を切ってもらえませんか?」
開斗はうーむ、と唸り、つま先を上げては下ろす動作を数回繰り返してから答えた。
「わかった。引き受けるよ。ただ、お金は受け取れないよ。俺はまだ無免許だから、営利目的でやっちゃまずいからね」
彼はそう言うと休憩室を出て行った。実は私は彼にお金を払うつもりでいたのだが、免許のことを失念していた。無料で散髪するために彼に頼んだのではないか、と思われていないかと少し不安になってきた。彼が疑り深くないことを祈りながら部屋を出ると、私の顔を見た瞬間、開斗が苦笑いをして、気にしなくていい、と言ってきた。もしかしたら、私は考えていることが顔に出るタイプなのだろうか。
散髪用の椅子に座って待っていてくれと言われたので、私は言われた通りに座った。目の前には鏡があり、私の顔が映っている。艶があり、重力に従って真っ直ぐ伸びた長い黒髪に、銀色の眼。やはり沙羅も同じ顔をしていたのだろうか。髪を切れば、少しは変わるだろうか。だとすれば、これは私が沙羅とは異なる人間として生きるための第一歩になるのかもしれない。そんなことを考えていたら、開斗が私と同じ鏡に映った。
「あんまり豪華なセットとかはできないけど、どんな風にしたいとか、あるかな?」
「私は髪型の種類等はよくわかりませんが、短くしてほしいです。肩よりも上で切ってください」
そう伝えると、鏡に映る開斗の顔が、微かに曇った。
「ねえ、君はどうしたいのかを教えてくれないか?」
「私はあなたの質問の意図がわかりません。私の髪型の希望は先程伝えました」
「いや、君は本当にそうしたいのかなって思ってさ」
私は彼の意図がわからなかった。私が抽象的な表現をあまりよく理解できないのもあるだろうが、それにしても彼の問いは不可解だ。なぜ質問に答えた直後に同じ質問をするのだろうか。テレパシーがうまく行っていないのだろうか。
「君は、沙羅とは違う存在になることに固執し過ぎなんじゃないかって思うんだ。できるだけ離れよう離れようって……でも、そうやって決めた君は、本当に君自身なのかなって……」
そう言われて私はようやく開斗が言いたいことがわかった。彼は恐らく、私が自分の好みを無視して、無理をしてでも沙羅から離れようとしているのではないかと心配しているのだ。
「あなたの忠告に感謝します。しかし、私が私の髪を短くしてほしいと思うのは、自分自身の考えです。髪が長いと頭が重くなるのが、私はあまり好きではありません」
彼は安心したのか、肩の力を抜いて、そうか、と呟いた。実のところ彼の言葉を完全に否定は出来ないが、あまり彼に無用な気遣いをしてほしいとも思わないので、私はそう伝えた。
話が終わると、開斗は私の散髪を始めた。彼はまず、私に服や服の中に髪が入るのを防ぐための布を装着し、私の髪を櫛で梳かした。痛んでいない綺麗な髪だからよく櫛が通る、などと言っていたが、私にはあまり基準がわからない。なんでも色を染めたり、人工的にクセをつけると髪にダメージが入るのだとか。そういえばそんなことを沙羅も言っていた気がする。一時期興味があったけど、艶があるのが好きだからやらないと言っていた。肉体年齢で言えば十歳くらいの時だったか。当時はなんのことか全くわからなかった記憶がある。
私が物思いに耽っている間にも、作業は続く。少し余裕を持って長めに切り、そこから細かく調整するそうだ。形状は彼に任せたので、ここから私が口を挟むことは無い。私は目を閉じて、完成を待つことにした。
後髪が束ねられ、鋏を入れられる感覚が伝わる。金属がぶつかる音がする度に、少しずつ頭が軽くなる。少しの間だけ、重みが偏り、また均一になる。細かく鋏を入れられたり、前髪を弄られたりする時に、時折彼の吐息を感じて、少しくすぐったく感じた。
「――よし、できた」
首で固定されていた布が取り払われ、私は目を開いた。鏡に映るのは、髪型の変わった自分。特徴らしい特徴は無いが、注文通りのショートヘア。まるで違う人物とはいかないが、受ける印象はかなり違う。
「はは……結局無難な感じになっちゃった。変なことして失敗しても悪いからさ。気に入らなかった……かな?」
「いいえ。私はこの髪型を気に入りました」
そう伝えると、彼は胸を撫で下ろして、嬉しそうに笑った。
「そういえば、開斗」
私は片付けをする開斗に呼び掛けた。
「私は新しい名前を求めているのですが、何か良い案はありませんか?」
「ええ? あー……ごめん、ちょっと思い付かないな。俺はあんまりそういうセンス無いし、人の名前を考えるなんて、荷が重いことは……」
「そうですか」
一応訊いておこうと思ったのだが、やはりそうすぐに決められるものでもないのだろう。
「では、いつか決める私の新しい名前に、あなたの名前の字の一部を入れてもいいですか?」
その提案に彼は大層驚いた様子で、話をしながら動かしていた手がぴたりと止まった。
「私の感謝の気持ちと、尊敬の念を込めて。尊敬する人物に由来する名を付けることも多いと聞きましたので。いいですか?」
「い、いいけど……なんかちょっと照れくさいな。はは……」
目を泳がせて笑う彼の顔は、少し赤みを帯びていた。奈切 開斗という名の、どこを拝借するか。それはまた追々考えることにする。私はこれから先、尊敬できる人物に出会ったら、その名前の一部を自分の名に取り入れてみるのはどうか、と提案してみたが、珍妙な名になる可能性が高いのでやめた方がいいと止められてしまった。
そろそろここを離れると開斗に伝えると、彼は微笑んで頷いた。
「君はこれからどうするつもり?」
「私はまたどこか適当な場所へとテレポーテーションをして、そこで出会う人々と交流してみようと思っています」
「そうか。応援するよ」
私は彼が伸ばした手を握り、軽く上下に振ってから離した。
「私があなたと次に会う時には、少しは喋れるようにしておきます。私のテレパシーは、口語に比べて面白くないでしょうから」
「ああ、やっぱり、普段そういうしゃべり方をしてるわけじゃないんだ」
「はい。私のテレパシーは、私の思考、意思を受け取る者が言語化しているもので、通常の会話と比べて違和感があると思います。私は一応ある程度の言葉は沙羅に習ったのですが、あまり使えていません」
「そっか。それじゃあ、今度は君の声を聞かせてもらうのを楽しみにしておくよ」
私は小さく頷いて、彼に背を向けた。別に顔を見られているとテレポーテーションが使えないというわけではないので、背を向ける意味はないのだが、別れを惜しんでいるのが顔に出ているような気がしたのかもしれない。
私はすぐには移動せずに、しばらくその場に留まっていた。開斗がどうしたのか、と声をかけた瞬間、私は振り向いて、彼にこう言った。
「ぁあ、あ…………あり、が……と、う」
うまく発音できたかわからなかったので、なんだか恥ずかしくなって、彼の反応を見ることもなく、すぐにまた背を向けて、私はどこかへ移動した。
ありがとう……感謝の意。それは沙羅に教えてもらった言葉。よく使う言葉だからと、ご丁寧に発音方法のイメージまで送ってきたのをよく覚えている。これをよく使う言葉だからと言う辺りが、彼女の性格を表しているように思える。彼女はその人生で、何度この言葉を口にしたのだろうか。
視界が晴れると、当然またどこか知らない場所にいる。しかし不安は無い。むしろ期待の方が大きい。
また、いい人に会えたらいいな。
似て非なる者で在るために 萬田 竜星 @Ryusei_Manda
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