東渡りのジグ人 ~ある意味、女難の相がある男の物語~

buchi

第1章 ふたつの王国

第1話 尼僧院の庭で

 ても短いプロローグ

 それはたまに見る、生々しいドキドキする夢で、まるで本当みたいだった。


 彼女は走ってきて、リョウを抱きしめ、彼の顔を見上げた。

 こんなひとは、一度見たら絶対に忘れられない。

 きらきら輝く長い髪、大きな不思議な色の目。

 まるで海のようだ。

 純粋な、ちっとも茶の混じらないとても明るい青と緑。その目には、涙があふれていた。


 彼女は彼の目を見つめ、微笑んだ。

 きゃしゃな指が腕をつかみ、彼女はリョウにキスした。あたたかく柔らかなその感触。


 これは夢か?ああ夢だった。


 だが、その時、不吉な音が空を切って、肩に熱い衝撃を覚えた。

 彼女が叫び、彼は倒れ、土と踏みにじられた芝と血の匂いがした。


 この、短い一瞬のシーンが、それから長く長く続く彼の物語の始まりだった。




 次の日の朝、ごちゃごちゃした夢の切れ端がまだ頭の中で渦巻いていた。

 その夢の感触はまだ残っていて、あたたかくて柔らかくて、思い出すだけで何かドキドキした。

 すごく、なんか、よかった。

 ただし、自分は死んでたっぽい。

「死ぬのはごめんだが、すごい美人だったよな。」

 会えるものなら、もう一度会いたい。

 起き出そうと顔をあげて、リョウは凍りついた。


 自分の部屋じゃない。


 全く違っていた。

 見たこともない世界だった。

 自分は着替えさせられていて、持ち物は何もなかった。


「まだ夢…なのか?」

 ここはどこだ?


 そのとき人声がし、リョウはぎくりとした。

 誰かがいる。

 半身を起こしたまま、彼は声のするほうを見た。

 見たこともない少女と、いかつい黒づくめの中年の女が入ってきた。

 彼の目は、少女のほうに釘付けになった。

 夕べの女性に似ている。

 いやおんなじだ。同じ目だ。同じ青と緑だ。

 だが年が違う。この子はまだ12歳くらいだろう。あの女性の妹だろうか。

 それがリーア姫との最初の出会いだった。


 この美少女は誰なのだろう。

 ここはどうやら尼僧院のようなところらしかった。彼女は、身分はとても高いらしく、女たちは彼女に会うと誰もがひざを折って頭を下げた。服も高そうなものを着ていた。


 だが、リョウは一度、物陰からお付きの中年女に彼女が叱られているのを見たことがある。

「何回言えばわかるのです。午前の祈りの時間にぼんやりしていたそうですね。」

 リーア姫が何か答えると、女はきつくさえぎった。

「罪を犯したとき、言い訳はしてはなりません。それも何度も申し上げました。」

 お付きの中年女が片手を伸ばすと、傍らの尼僧が待ってましたと言わんばかりに短い鞭のようなものを渡した。

「手を出しなさい。」

 リーア姫がひるむと、お付きの女は乱暴に少女の手をつかみ、鞭をふるった。

 ヒュッという音がして、リョウは思わず目をつぶった。

 次に目を開けると、リーア姫は涙目になっていて、鞭を渡した尼僧がニンマリしているのが目に入った。


 リーア姫が毎日彼を森へ連れ出す理由はそれだった。

 最初、こんな中年のおっさんと二人でどこへ?何しに?と相当不安だったが、どうしても尼僧院の中にいたくない理由があったのだ。


 最初は言葉がわからなかったが、わかるにつれて、だんだん事情が呑み込めてきた。折檻の件も後からリーアから説明を受けた。リョウは怒ったけれど、彼女に優しくすることしかできなかった。

 そして、最初からとても気になっていたことを聞いた。

「お父さんとお母さんさんは?」

「いないわ。死んだの。」

 そうか。まあ、そうだろう。

 彼らは、尼僧院から少し離れた森で、事情があってやむなく、ロマンチックなピクニックをしていた。

「あなたの声はすてき。うっとりするわ……」

「ありがとう。」

 リョウは弾きながら横目でリーア姫をながめた。本人はどう思ってるのか知らんが、うっとりするような美しさだ。

「やっぱり本物の東渡りのジグ人だったのね……」

 それだ。

 それはいったいなんなんだ。

 尼僧院の中で、女どもは決して彼の目を見なかった。猛烈に感じ悪かった。

 彼が通り過ぎると、女たちはささやいた。「東渡りのジグ人、悪魔の使い」と。

「俺は東京から来た36歳。ジグ人なんかじゃない。」

 少女は笑い転げた。

「あなたはわたしより5歳くらいしか上じゃないわ。ヴィードより年下よ。」

「おにいさんじゃないよ。おじさんさ。ヴィードて誰だい?」

「ヴィード・リップヘンは、従兄弟よ。それに、そんな場所は聞いたこともないわ。」

「だから、ジグ人てなに?」


 彼女は説明を始めた。これには長い時間がかかった。

「ジグ人と言うのは、ある日突然やってきて、突然いなくなる人なの。楽器を弾いたり歌を歌っていろんな所をさまよう外国人で、先のことを教えてくれるの。これから起こることを全部知っているの。」

 さっぱり要領を得ないが、さまよえる占い師なのかな。

「ジグ人は王族のところへやってくることに決まっているの。だからあなたは私のところに来たのよ。」

 リョウは一瞬首をひねった。

「ご両親は王様ですか?」

「私のおじいさまは二人とも王でした。」


 王様ですか。

 それはまた、高貴なご身分でいらっしゃる……。なのに、なぜあんな仕打ちをされているのだろう。

「ジグ人が来てくれてよかったわ。ジグ人は悪魔の使い、言うことを聞かないと呪われるの。森へ毎日出かけろとジグ人に言われたと言ったのよ。尼僧院から出られて、せいせいするわ。」


 犯人はお前か。冗談じゃない。どうやって呪えばいいんだ。

「呪いなんか出来ないよ。ジグ人なんかじゃない。」

 リーアは急に真剣になった。

「ジグ人じゃないの?それならどうして悪魔の印をつけているの?」

「悪魔の印?」


 リョウにはわからなかった。だが、この会話は尼僧院からあわてた様子の女が迎えにやってきて中断された。

 後からわかったことだが、この尼僧院には、尼僧院長とも言うべき大元締めの女がいて、その女がリョウの知らないどこかから帰ってきたのだ。


「大広間でお待ちになってらっしゃいます。急いでお戻りくださいませ。」


 リーアが一瞬青ざめたように思った。

 明らかに彼女はその大元締めの女のことが嫌いで、おそれていたのだ。

 しかし、急き立てられて、二人は尼僧院に戻った。

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