花瀬理佐の遠鳴り 其の二

 街に並ぶ木々は、赤色に染まる葉を地に落とした。引越ししたときに使った段ボールの箱から、厚めのコートと発熱機能を持った長袖の下着を数枚引っ張り出した。

 住んでいた街を背にして、新しいキャンパスライフと新しい街に足を踏み入れた。そして、初めての冬が来る、いや、街を歩けば既に風の冷たさで分かる。

 実家からそれほど遠くない大学を理佐は選んだつもりだ。だから、風邪をひかないだろうと思っている。


 理佐は、コートのポケットに手を突っ込んで肩を縮める。ビルのデジタル看板に目を向けると、四時二十五分。夕日が沈もうとしている。夕日の影に落とされた灰色の街並みは、どこか殺風景で寂しさを覚える。

 しかし、そんな寂しさはすぐに消えるだろう。


「ここであってるのかな」


 スマホを片手に周りを見渡す。そして、目的地を見つけてカウンターの取っ手を握り、押し出した。扉を開けた瞬間、室内の温かさがじわりと皮膚を伝う。扉を閉め終えたときは、コートの内側まで伝い、自分の体温に馴染んでいく。

 暖かなオレンジの照明にリラックスされるようなウッドデッキのチェアーとテーブル。オーガニックな雰囲気を醸し出すカフェに、苦いコーヒーがほのかに香る。広々とした室内を見渡すと、理佐の方を向いて手招きしている人がいる。

「そこにいたのね」

 その人の前に歩み寄り、目の前の席に腰を掛けた。


「分かりづらかった?」


 目の前に座ってコーヒーカップを片手に持っているのは、理佐の恋人である月山諒。

「うん。GPSでもここは分かりづらいって」

 彼は笑いながら「そうか」と言った。

「バイト早く終わった?」

「そうなの。あの後、お客さんがあまり来なかったから早めに上がらせてもらった」

 大学生になってから、理佐と月山は同じバイトを始めた。有名なコーヒーショップで緑のエプロン着て働いている。

「何か頼む?」と月山はメニューを取り出し、理佐の目の前に差し出す。

 それに目を通して「そうね」と言いながら唸る。

「諒は何飲んでるの?」

「これ? 普通のコーヒー」

「美味しい?」

「うん。美味しいよ」

「じゃあ、私もそれにする」


 コーヒーを頼んだ後、彼はテーブルの上に置かれてあった単行本を手に取り、

「これ、読んでみて」

 と理佐に差し出した。

 施されていた茶色の紙のブックカバーを取り外すと、一冊の本が露わになる。

「ツルゲーネフの「片恋」? 珍しいわね」

「たまにはね。読んでみたかったんだよ、その本」

「丁度良かった。私も読みたかったの」

「だと思った。その本、探すのにすごく苦労したよ」

「私も探したけど見つからなかったよ。どこで見つけたの?」

「行きつけの古本屋」

 古本屋という言葉だけで理佐の眼は輝く。月山は笑って、

「そんなに行きたい?」

 と試しに行ってみる。

「うん。すっごく行きたい」

「じゃあ、この後行こうか」

 理佐は嬉しそうに「やった」と小さくガッツポーズをする。

「ねぇねぇ、「片恋」読んでいい?」

「いいよ。どうぞ」と月山はその本を理佐に渡す。受け取った理佐は、ブックカバーをもう一度施し、ページを捲り始めた。

「こういうところは、素直だよな」と言った声は、届かないようだった。


 月山は思う、理佐もここ半年で変わったなと。髪は少し切り、ゆるくパーマをかけて一つに縛る。ちょこんと撥ねているのが少し気になる――コンタクトになって、白い肌が目立つ――誰かに取られたりしないだろうか。性格は変わっていないはず。

「どうしたの?」

 単行本から覗くぱっちりとした眼に月山が映る。そこには吹き出した彼がいた。

「え? どうした? 面白い要素あった?」

「何でもない。ハハッ、何でも、ない」

「いや、明らかに笑ってるよね!?」

「全然、そんなこと、ないって。ははっ」

「気になるんだけど」

「説明できないから、そっち続けて」

 理佐は不毛そうに、口を逸らす。「はーい」と言って本に目線を戻す。隣の椅子に置いてあったバッグに月山は手を伸ばし、スマホを手に取った。


 本を読むふりをして、月山に目を向ける。

 大学生になって多少、いやかなり月山はお洒落になった気がする。自分に似合う服が手に取るように分かるようだった。あと、変わったとすれば、眼鏡を掛け始めたころだろうか。元々視力は落ちていたが、生活に支障をきたす程度ではなかったが、大学生になったこの機に何と無く眼鏡をかけたくなったというのが理由らしい。

 四角い細長のフレームなしの眼鏡のおかげで、少し月山の表情が見えづらくなったのはたった一つのデメリット。理佐は月山を観察して、しみじみとそう思った。


「あ、そうだ。ここのスイートポテト美味しいんだって」

 そう声を掛けたのは月山だった。

「そうなの? じゃあ、食べようかな」

「スイートポテト好きだったよね?」

「うん。甘いもので唯一食べれる」

「そう、スイートポテト食べさせたくて呼んだのを思い出した」

「珍しく呼んだのは、そういうことだったのね」

「いや、他もあるんだ」

 すると、

「お待たせしました。コーヒーです」

 と言って店員がボールに乗せたカップをテーブルの上に乗せた。

「それと、本日限定のミニスイートポテトです」

 小さなスイートポテトと生クリーム、ミニフォークが白い皿に乗せられていた。

「今日は何かあるんですか?」

「えぇ。このスイートポテトが人気で、別売り販売を始めたんです。その記念に、オーダーをした方にサービスしています」

「そうなんですね」

「もしよろしければ、レジに置いておりますので、手に取ってみて下さいね」

 にこやかな店員は、パンプスの乾いた音を立てて何処かへ行った。

「よかったね。スイートポテト」

「今日はラッキーね。諒もいる?」

「いや、いいよ」

 クリームをスイートポテトに乗せて、一口サイズに切り、口に運ぶ。温められたそれの程よい甘さと冷たいクリームが口の中に広がる。

「お、美味しい……!」

 これぞ幸せなひと時。帰りにスイートポテトを買おうと理佐は決心した。


「ねぇ、理佐。話があるんだけど」

「え、何?」

「良い話と理佐次第による話の二つがあるんだけど、どっちから聞きたい?」

「どっちでもいい」

「じゃあ、良い話から。スイートポテト欲しい?」

「欲しいです」

「分かった」

「もう一つは?」

「もう一つは……」

 月山は急に話を濁し始めた。理佐は嫌な予感がする。

「怒らないから言ってみ?」

「いや、怒るという問題じゃないんだけど」

「どういうこと?」

「バイトのスタッフルームでさ」


 月山は平然とした様子で、眼鏡の位置を直し、コーヒーを一口すする。

 理佐は息をのむ。


「橋波さんが、好きな人いるかって聞かれた」


「橋波さん」と「好きな人」というパワーワードに稲妻が走る。いや、感情を表に出すのには早すぎる。第一、この月山諒という人間は、超が付くほどの鈍感野郎なのだから。理佐は深呼吸をする。


「は?」


 その瞬間、月山の背筋が寒くなった。

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