第10話 ジョーズ・フェスティバル

「おい、何が起きている。開始の合図はどうした?」


 一向にレースが始まらないことに、領主は苛立っていた。この海神杯は海祭りの目玉なのだ。失敗などあってはならない。


「コースで何かあったようですが……」

「お前、見て確認してこい」

「は、はいっ」


 領主の命令を受け、副官は状況を見に貴賓席から出ていった。


「何が起きたんだ?」

「わからねえ。魔石でも積んでたのか?」


 状況がわからないのは、観客たちも同じだった。突然、コースに船が乱入してきたかと思ったら、そのまま沈んでしまったのだ。サメの姿に気付いた人間はほとんどいなかった。


「俺は見たぞ! でかい魚が飛び出してきて、船をぶっ壊しやがった!」

「ウソこけ、魚が船を襲うなんて、そんな訳あるかい」


 ほんの数人は、サメを見たようだが、その言葉を周りは信じない。この世界で魚が人間を襲うなど、聞いたことがなかったからだ。そのため、多少ザワついてはいるものの、逃げようする観客はまだいなかった。

 同様に、レースの参加者も、どうすればよいのか見当がつかず、まごついていた。


「父ちゃん、なんか変じゃねえかい?」

「そうだな……帰ったほうがいいかもしれねえ」


 一番弱気なのは、リザードマンのドルトーン一家だった。川なら無双できる彼らだが、海の経験は浅い。


「ハッ、おいおい、山トカゲ共はこの程度でションベン漏らしちまうのか? 情けないなぁ、この程度、海じゃあ日常茶飯事だぜ?」


 それを、ゴライアスが嘲り笑う。


「まあ、残っても帰ってもどっちでもいいぜ? 俺が勝つのは確実だからな!」

「んだとぅ……!?」


 ドルトーンは今にも殴りかからん勢いでゴライアスを睨みつける。

 次の瞬間、凄まじい水柱が吹き上がった。一同が何事かを思い目を向けると、アルザスの船が跡形もなく吹き飛んでいた。


「え?」

「なんだ……?」


 直後、水中に睨みを効かせていた水先案内人のヘリッジが、鋭い叫び声を上げた。


「何かいるぞ! 水中に、大きな魚だ!」


 釣られて、他の参加者も海を見るが、ヘリッジほどの視力を持ち合わせていない彼らには、サメの姿が見えない。


「おいおい、なんの冗談だよ……」

「冗談であるものか。おい、船を出せ! 逃げるぞ!」

「ハァ? 今帰ったら失格になるぞ? 今更になって怖気づいたか、腰抜けが!」


 ゴライアスが煽り立てるが、彼には構わず、ヘリッジは船を岸へと向かわせた。


「ハッ、情けねえ……スタートはまだかよ、あぁ?」


 ゴライアスは呆れた様子で、船縁に腰掛ける。ドルトーン一家は不安げに顔を見合わせるが、まだ動こうとはしなかった。エルマイザーは腕組み直立不動姿勢のまま、沈思黙考している。

 その間に、サメは大きく動きを見せていた。アルザスを船ごと食い殺したサメは、水中を泳いで、岸へと一直線に向かっていった。道中に浮かんでいた遊覧船や泳いでいた人間は、煽りを食って転覆し、あるいはサメの牙の餌食になった。

 そしてサメは、イーリスの水上住宅街に辿り着いた。そこには桟橋に詰めかけた大勢の観客がいる。サメは彼らに容赦なく襲いかかり、桟橋を押し潰した。大量の飛沫と共に、血と肉片が辺り一面に飛び散る。


「キャアアアアッ!?」

「なん、何が起きたぁ!?」


 隣の人間が肉片に変わったことへの悲鳴が、腕や足をもぎ取られたことによる絶叫が、そこかしこで響く。サメはそれに、二度目の跳躍と捕食で答えた。

 ここに至って、人々はようやく理解した。これは、人を襲う魚であり、自分たちは捕食対象なのだと。


「きゃあぁぁぁっ!」


 誰かの悲鳴が合図になって、人々は一瞬にしてパニックに陥った。人々は我先にと、サメから逃げ出した。

 不幸にも、サメが最初に壊したのは、水上住宅地と陸地をつなぐ大桟橋だった。桟橋の上で祭りを見物していた人々は、陸地に逃げることが難しくなり、大半が海側へと押し込まれることとなった。

 しかし、サメが最初に牙を向いたのは陸地だった。大桟橋につながる海岸広場。そこは祭りの中心部で、最も多くの人々が集まっていたからだ。サメは陸地に身を乗り上げ、そこにいた数人を丸ごと噛み砕いた。


「うわあぁぁぁっ!」

「腕が、俺の腕がぁっ!」


 血の雨を被って狼狽える群衆を尻目に、サメは全身を使って陸から海へと這い戻る。そして、助走をつけて、さっきよりも奥の群衆に食らいついた。


「な、な、なんだあの化け物はぁっ! 衛兵、何をしておる、衛兵っ!」


 血飛沫は貴賓席にまで届いていた。領主はうろたえながら、手近に居た衛兵を盾として前に押し出す。そんなことをせずとも、市民を守ることが彼らの責務だ。怪物の巨体に気圧されながらも、槍を構えて上陸したサメに近付いていく。


「くそっ、この野郎!」


 衛兵たちは槍でサメを突くが、サメ肌は固く傷一つ負わせられない。逆に、サメの牙であっさりと切り裂かれてしまった。


「ぐえっ!」

「……もうダメだ! ええい、そこをどけ、私は領主だぞ!」


 領主は貴賓席を降り、逃げ惑う人々の群れの中に飛び込んだ。前を遮る市民を押し倒し、自分だけの道を作り、少しでも海から離れようとする。

 一方、傷つかなかったとはいえ、攻撃されたことはサメを悪い方向に刺激した。海に潜ったサメは、先程以上に勢いをつけて、広場に身を躍らせた。

 その時、不可思議なことが起こった。

 サメのスピード、海水と血液で濡れた広場の石畳、サメの腹のぬめり。それらの要素が奇跡的に組み合わさり、サメの体がまるで氷の上にあるかのように地面を滑っていったのだ。

 進路上にいた逃亡者たちは、陸に上がってきたこの殺戮生物に為す術なく、噛み殺されるか吹き飛ばされることしかできなかった。サメの巨体は滑りに滑って、建物にぶつかった。その角度がちょうど斜め45度だったため、サメはピンボールのように直角に左折した。その先には広場の出口があり、そこに殺到する人々がいた。


「ああっ!」

「ぎゃあっ!?」

「おうっ!」


 サメは芝刈り機の如く、進路上の人々を狩り尽くしていく。そしてまた、建物に斜め45度の角度でぶつかり、サメは直角に左折した。今度は、海から陸へ逃げようとする人々に正面から突っ込む形となった。


「ええい、どけぇっ!」


 家族連れを突き飛ばした領主の目の前に、サメの巨大な顎が現れた。


「ぐえっ!?」


 領主の体がサメに跳ね飛ばされる。宙を舞い、放物線を描いて落下する領主。着地直前にサメが滑り込んできて、その体は更に高く跳ね上げられた。


「ぎゃあっ!?」


 滑り続けたサメが最後に向かったのは、貴賓席だった。階段状に作られた貴賓席は、サメにとってのジャンプ台であった。サメの巨体が席に乗り上げ、勢いのまま空中へと射出された。栄光への架橋が幻視されるような、見事なジャンプであった。

 打ち上げられ、宙を舞っていた領主の体は、そこでようやくサメの顎に捉えられた。三段コンボに耐えられず、領主の体は四散した。

 そして、落下地点にはダンサー船があった。


「あっ、いやあああぁぁぁっ!?」


 サメの落下により、ダンサー船もろとも水着のダンサーたちは噛み砕かれた。


「もう駄目だぁ! おい、船を出せ! あの魚とは逆側に逃げるぞ!」


 海上でサメが暴れる様子を見ていたドルトーン一家は、とうとう恐れをなして逃げ出した。


「おい、てめえらっ……あっ!?」


 ゴライアスが見ると、エルマイヤーもいつの間にか海岸に向かって漕ぎ出していた。


「逃げるのか!?」

「状況判断だ」


 とうとう、ゴライアスは海上に一隻で取り残されることになった。

 そのころ、海に戻ったサメは、桟橋に取り残された人々に目をつけていた。勢いをつけ飛び上がると、桟橋の木材ごと人々を喰らう。桟橋だけでなく、水上住宅地にも突っ込み、逃げ込んだ人々を容赦なく平らげていく。縦横無尽に暴れ回るサメによって、イーリスの水上住宅街は瞬く間に破壊されてしまった。

 しかし、地獄はそれだけに留まらなかった。破壊された屋台や家の中から、火の手が上がった。恐らく、料理をしている最中だったのだろう。炎は木造の家や桟橋に沿って燃え広がる。


「火だ、火が来るぞ!」

「おい、押すな! 海に落ちたら怪物がぁ!」


 水上の炎と、水面下の怪物。両方に追い詰められ、いよいよ群衆の恐怖は頂点に達しつつあった。火の中に飛び込めば、丸焼けの死体になる。火を嫌って水に飛び込めば、怪物の餌になる。残った人々は、いよいよ追い詰められつつあった。

 その時、1艘の船が港の入口に現れた。それは、難破船を調査していた、フカノたちの船であった――!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る