2章 日常は変わりゆく③
たくさんの人がビルの屋上に溢れ返り、朦朧とした意識のままでいると、次に目を覚ましたときには、病院のベッドに横たわっていた。
銃で撃たれたところを重点的に、全身を包帯で巻かれている。あくまで応急処置のようだが、痛みは先と比べて明らかに少なく、生きているという実感があった。
窓の外を見てみると、相変わらず雨は降り続いている。
この量だと、明日まで止みそうになかった。
「叶真、心配したのよ」
病室の戸がガラっと開かれ、中年の女性が顔を覗かせる。
「母さん。来たんだ」
母さんは巾着を手に持っていた。
「大丈夫? 全然帰ってこないから心配したのよ?」
「……ごめん」
「これ、夕飯を弁当にしてきたからよかったら食べて」
「ありがとう。けど、今はあんまり食欲が湧かないかな。あとで食べるよ」
「そう」
巾着を机の上に置いて、その前にあったイスに腰を掛ける。
「入院が必要なんだってさ。夏休みいっぱい頑張れば退院できるかもって」
「叶真が無事だっただけ、本当によかったわよ」
俺はもう一度心の中で母さんに謝った。自分がどれだけ危険なことをしていたのか、思い知らされるようだ。
「ビルの中に飛び込むんだなんて、あんまり無茶しないでね。叶真は昔っからそういう子だったから。こんなにケガしちゃって」
俺の存在を確かめるように母さんが頬をさすってくる。
こんな経験をするのは、小学生のころ母さんに迎えに来てもらったとき以来だった。
フワフワした気分になってくる。
「痛くない? 火事でケガしたんでしょ?」
「え……?」
しかし、そんな気分も次の瞬間には吹き飛んでいた。
俺が火事でケガをした?
……違和感がある。
たしかにビルの中に飛び込んだけど、ケガまではしなかったはずだ。そもそも母さんはそのことを誰から聞いた?
「どうしたの? もしかして痛かった?」
母さんは自分の行動を反省するように手を引っ込めた。
「いや、そんなことないよ。痛みは結構引いてる方。ちょっと触られるくらいならへっちゃらだよ……」
「ならいいんだけど」
合点がいかないという顔をしている。
それは俺も同じ気持ちだった。
母さんは俺が屋上でどんな目に遭ったのか知らないのか?
色々な考えが頭の中を回っていく。
母さんにとって、俺は火事の中に飛び込んでケガをしたことになっている。
だが、それは本来の事実とは違う。
今俺が全身を包帯で巻かれているのは、すべて銃撃によるものが原因なのだ。
「失礼します」
俺の思考は次なる来訪者で打ち止めされた。
俺と同年代くらいの、制服姿の女が入口の所に立っている。
「…………します」
しかもその後ろをついて行くように、物静かな女の子がもう一人。
雰囲気も見た目も、二人は真反対の性質を持っているようだった。
「あら、さっきの子じゃない」
「あっ、先ほどはどうも」
はきはきしている方の女が礼儀正しく頭を下げる。
母さんはその女と知り合いのようだった。
「彼のお母様だったんですね。実は私たち、彼の友人なんです」
「まあ、そうだったの?」
「え……?」
誰だ? 急に何を言ってるんだこいつ?
内心嬉しそうな母さん以上に、俺は女の発言内容に驚いていた。
二人がひとしきり上品に笑いあった後、女はまるで身内のように言う。
「お母様ひょっとして疲れてないですか? もう遅いですし、彼の世話なら私がやりますよ」
「あら、本当にいいの?」
「気にされなくても大丈夫ですよ。彼のために急いで駆け付けて来ましたから」
「まあ……」
母さんの表情が一気に変わる。何やら勝手な想像をしているようだ。
「それなら私はお暇した方がいいかしらね」
母さんは自分のバッグを抱えると、そそくさと出口の方に向かった。
「え、母さん帰っちゃうの?」
「この子の言うとおりもう遅いし、私も家のことをやらなくちゃいけないからね。彼女が面倒を見てくれるなら安心よ」
「はい、任せてください」
足音が遠くに消えていったのを確認すると、女は不敵な笑みを浮かべた。してやったりといった感じだ。
いい気分がせず、俺は敵意を剥き出しにしていた。
「お前は誰だ? 俺はお前みたいな奴と友達になった覚えはないぞ」
「私もなったつもりはないわね」
「君は?」
ずっと部屋の隅に立ちつくしたまま動かない物静かな女の子にも話しかける。
「…………」
しかしながら、無口なのか口を開こうとしない。
こっちの図々しい方よりはマシかと思ったがダメか。
「失礼するわね」
女は先まで母さんが座っていたパイプ椅子に腰を下ろす。
育ちがいいのかやけに所作が丁寧だった。
本当にいったい誰なんだこいつは? 何が目的でここに来たんだ? まさか……?
気になったことを単刀直入に切り出してみた。
「母さんがおかしかったのはお前のせいか?」
「……ふーん。さあね」
自分からやってきたクセに妙なはぐらかし方をする。俺は女の表情が微妙に変わったのを見逃さなかった。何かを探っているのだろうか。
「俺は火事でケガなんかしていない。これは全部桐生とかいう男にやられたせいだ。事実と母さんの記憶が食い違っている。どういうことか説明してくれ」
「……もしも私のせいだって言ったらどうするの?」
今度は真剣な顔つきに変わる。これが本来の彼女の姿のようだった。
「質問を質問で返すなよ。肯定ってことでいいんだな?」
「…………」
窓の外にある、雨に打たれる木を見つめだす。
何から話すか頭の中を整理しているように見えた。
「彼女に限った話じゃない。そもそも、あの屋上での銃撃自体がなかったことになってる」
それはどういうことだ?
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