世界平和はお金で買えるのか ~お前ら全員サイコかよ編~

竹内緋色

世界平和はお金で買えるのか お前ら全員サイコかよ編

世界平和はお金で買えるのか お前ら全員サイコかよ編




 亜嵐美喜久はいつも通り家を出る。その途中、テレビのニュースが流れていた。


『脱走した死刑囚×××××は――』


 世の中物騒になったものだ、などと他人事に考え、美喜久は家を出て行く。


「よ。おはよう。」


 駅のプラットホームで美喜久は声をかけられる。


「おはよう。心美。」


 幼なじみの満引心美であった。混んでいるプラットホームでも美喜久と心美は必ず互いを見つけることができた。何故なら、いつも同じプラットホームでどちらかが待っているのだから。


「そろそろ、台風が来るらしいよ。」


「もうそんな頃か。」


 上着が無ければ肌寒い季節になっていた。きっと今年最後の台風になればいいな、と美喜久は考えていた。


 電車が来たので、美喜久と心美は電車の中に入る。いつもと同じ満車。美喜久は吊り革を握っている人の手首についている、銀のブレスレットを見つけた。


「最近、よく見るよね。あれ。」


「うん。どうも宗教らしいよ。」


 周りに聞こえないヒソヒソ声で二人は話した。二人は傍から見れば、恋人のように映るかもしれない。だが、二人は互いにそんなつもりはなかった。恋心を抱いたことがないと言えばうそになる。ときどき、互いに男女であることを意識することもあるが、あまりにも近すぎて、恋人などという関係になるつもりもなかった。互いに別の恋人ができても二人はずっと一緒なのだろうと互いに考えていた。今さら、恋人になる必要もなく、今のままで満足しているという感じであった。


「今日、英語の単語テストだよ。」


「お前のところ、鳥渕だろ?最悪だな。」


「ほんとだよ。」


 二人は他愛もない話をしていた。




「朗花ちゃんおはよう。」


 心美が知り合いと思しき生徒に話しかけたので、美喜久はそっと心美から離れる。昔からあらぬ関係と疑われるので、二人は自然とそうしてしまうのであった。


 美喜久は心美のことを見ず、一人教室へ向かう。




美喜久は一人、教室でボーっとしている。クラスメイトの多くが話をしているが、美喜久はその輪には加われないでいた。その理由の一つが心美であることは間違いなかった。心美は明るく誰とでも仲良くなれた。その心美と長くいると美喜久は友達を作る努力を怠るようになった。心美の幼なじみというだけで話しかけてくれたからである。それに、心美がいれば寂しくはなかった。今でも時折心美の友達が話しかけてくれるが、それは美喜久の友達ではなかった。


「やっぱり私わー、ぜい肉と彼氏でガガトスバントスだと思うの。」


「マジウケるー。それはマジパナいっしょ。」


 よく分からない話を美喜久の近くでされる。美喜久は少し鬱陶しかった。その女子二人の手首にも銀色の三角を縁取ったブレスレットがされていた。美喜久が目を向ける先には必ず銀のブレスレットがあった。


「授業始めるぞ。座れ。」


 教師が入ってきて言う。教科書をトントンを叩いたときに、手首に銀色に光る何かが見えた。美喜久は怖くなった。しかし、どうせ一時期の流行なのだろうとすぐに結論付け、恐怖はどこかへ飛んで行ってしまった。




 美喜久が一人寂しく昼食を食べていた時、傍らに誰かが忍び寄った気配がした。


「亜嵐くん。今、ちょっといい?」


 とてもいい匂いがした。爽やかな感じの香水なのだろうか。美喜久に声をかけてきたのは美澄美麗であった。


「何か用?」


 美喜久は美麗に密かに恋心を抱いていた。いつも清楚で、成績も優秀な乙女である。そして、それが淡い恋心であることも承知していたから、部屋の片隅でひっそりと観葉植物のように眺めているだけで十分だと思っていた。そんな憧れの少女に声をかけられたので、美喜久は動揺した。


「放課後、二人で話せないかな。」


 一体自分の身になにが起こったのだろうと、美喜久は自分の足を手でつねる。痛いのだから夢ではないらしい。


「う、うん。いいけど。」


「じゃあ、教室に誰もいなくなってからね。」


 耳元でささやかれた言葉はひどく甘美であり、官能的であった。




 美喜久は放課後、誰もいなくなるまで辛抱強く待った。台風の影響なのか、空は赤紫の気味の悪い色をしていたが、それも耐えることができた。


「亜嵐くん。待った?」


 廊下から教室を覗くように美麗が顔を出す。揺れる黒髪が見事である。


「ごめん。廊下で話さない?」


 美喜久はすぐに立ち上がり、はやる気持ちを抑えながら、平常を装い廊下へ出る。


「何の用なの?美澄さんが僕に用事なんて。」


 少し声が上ずったのを美喜久は恥じた。


「これ。」


 美麗は自分の右手首を美喜久に見せるように出す。そこからたらりと銀のブレスレットが現れた。


「ああ。最近みんなしてるよね。それ。流行りなの?僕、そういうのに疎くってさ。」


「そうよ。すっごく流行り。」


 美麗の瞳は妖艶な光を帯びていた。


「亜嵐くんは持ってないよね。」


「うん。」


 美喜久は美麗の話が頭の中に入っていなかった。話せるだけで至福であり、満足してしまっていた。


「亜嵐くんも入信しない?」


 そこで、美喜久はようやく事態がおかしな方向へと向かいつつあることに気がつく。


「どう?」


「いや、ちょっと、そういうのは・・・怖いし・・・」


「いいえ。少しも怖くないわ。メレンゲ教の素晴らしい教えを受ければ恐怖も忘れてしまうもの。」


 美麗は美喜久の手首をがっしり掴む。その手が女の子らしくすべすべであることよりも底冷えするように冷たいものであることが美喜久は気になった。


「世界平和を実現するためには是非とも亜嵐くんにも入ってもらわないと。全人類が争うこともなく、悲しむこともなくなるなんてすばらしいと思わない?」


 今まで美しいと感じていた美麗の面持ちが精巧すぎて人形のように恐ろしいと美喜久は感じた。


「ご、ごめん。美澄さん。」


 美喜久は凍り付く手を振り払う。


「そうなの。教えを受け入れられないのね。」


 美喜久は自分の目を疑った。美麗がスカートのポケットから取り出したのは小さめのナイフだったのだ。


「じゃあ、生きている価値なんてないわね。」


 カキンという音とともに、美麗の持っているナイフに火花が散る。美麗と美喜久との間に何者かが鉄の棒を振り下ろしたのだ。美麗は器用にもナイフで鉄の棒を受け止めていた。その時になってようやく、鉄の棒は美麗を狙ったものなのだと美喜久は気がついた。


「しゃああああ。」


 まるで獣のような声。それは鉄の棒を持っている少女が出した声だった。その少女の表情を見た瞬間、美喜久は小便を少し漏らしてしまった。その顔は、人のものとは思えないくらいに歪んでしまっていたのだ。口も目も、裂けんばかりに見開かれている――


 美麗はその細い足からは考えられないほどの跳躍力で軽やかに後ろに跳ぶ。鉄の棒は行き場を無くし、廊下へと大きな音を立てて振り下ろされる。響く音は美喜久の鼓膜を破ろうとしているかの如くであった。


 美麗は顔を上げる。その顔は獣の少女と同じく獣の顔であった。今までの精巧な人形のような顔は、息を荒くし口からだ液を垂らす、化け物の顔である。


「な、なんなんだ。」


 美喜久はこれ以上の声を絞り出せそうになかった。喉がひどく乾いている。


「ふぁあああああ。」


 獣の少女は美麗に向かっていく。長い鉄の棒を容赦なく叩きこんでいく。美麗は防戦一方であったが、器用にナイフで鉄の棒を受け止め、攻撃をかわす。獣の少女はそのやりとりに痺れをきらしたのか、頭の上から大きく鉄の棒を振るう。


 カキン。


 美麗がナイフで鉄の棒を受け止めた音だった。衝撃が強かったのか、美麗の手からは一筋の血液が流れた。ナイフで鉄の棒を受け止め、少女の動きが止まった隙を見て、美麗はがら空きになった少女の胴体へ蹴りを入れる。体勢が悪かったので、威力はなかったが、少しの隙はできる。少女が気がついたときにはもう美麗は姿を消していた。


「ちっ。窓から逃げるためにわざと押されてるように見せかけたか。」


 少女は苛立って鉄の棒をブルンと振るう。鉄の棒は美喜久の髪をかすめる。


「なんだお前。」


「それはこっちのセリフだよ。」


 美喜久は少女の顔が普通の人間のようになっていることにまず安心した。悪い夢でも見ているようだった。よく見るとその少女に見覚えがあるような気がした。


 少女は美喜久にはなんの興味も無かったらしく、鉄の棒を肩に掲げて廊下を歩いて去っていく。少女が見えなくなったころ、美喜久はその少女が心美が今朝声をかけていた少女であることを思い出した。


 名前は覚えていなかった。




 何もかもよく理解できないながらも美喜久は家に帰ることにした。とぼとぼと歩いて帰っているうちにだんだんと冷静になり始めた。きっと何かの見間違いに決まっている。美喜久の出した答えはこうだった。


 家に入った時にまず感じたのは安堵だった。そして、異臭。少しつんとする、どこかで嗅いだような匂い。目の前がぼんやりしているのでなにか煙を出しているものがあるのではと美喜久は見当をつける。


「ただいま。母さん、何してるの?」


「お帰り。」


 きっとキッチンで料理でもしているのだろう。母の声は遠くの方からした。美喜久はキッチンへ向かう。部屋を進んでいくと、煙が濃くなってきて、頭がぼうっとした。


「これ、なに?」


 吐き気を堪えながら美喜久は言う。


「お香よ。」


「香?」


 母はダイニングを指さす。そこには今は誰も使っていない灰皿があり、その中に火のついた何かが入っていた。


「頭がくらくらするよ。換気しようよ。」


「あら。」


 美喜久の様子を見て母は初めて異変に気がついたらしい。急いで香を消し、空気を入れ替えるために大きな窓を開ける。


「そんなにひどかったかしら。」


「ヤバかったよ。」


 怒ったように美喜久は言う。


「今日ね、これ貰ったの。」


 母が手首の袖をめくって見せたのは銀のブレスレットだった。


「それ、どこで――」


「美喜久の分もあるのよ。」


 母はポケットから同じ銀のブレスレットを取り出す。


「ただいまあ。」


 父の声がして、美喜久は安堵する。父も一緒に、母に宗教など入るのを止めさせようと思ったのだ。


「なにやってるんだ?」


 異臭に気付かない様子で父は大きなとどのような体を出現させる。


「父さん。これ。」


 美喜久は母のブレスレットを指さす。


「ああ。」


 父の様子は少しおかしかった。


「実は、俺も大分前から。」


 父もスーツの袖をめくり、銀のブレスレットを見せる。


「香を焚いてたんだな。」


「嘘だろ・・・」


「いや、美喜久お前が考えるほどに危ないところではないんだよ。まあ、取引先の方々も同じ様に入信してるし、話が合うから――」


 美喜久は父の話など聞こえていなかった。薄れてきた香の匂いは爽やかな清潔感を感じさせる香りへと変化していく。美喜久はその匂いをどこで嗅いだのかを思い出していた。美麗と同じ匂い。美喜久は放課後の惨状を思い出し、トイレへ駆け込んだ。


 ぐえっ、ぐえっ。


 体が生きることを拒絶しているようだった。震えて、どうしようもない。


「どうした。大丈夫か?」


 トイレの外から父が声をかける。


「ごめん。調子悪い。今日は寝る。」


 それだけ絞り出すと、吐き気に溺れ、再び便器と顔を合わせることになった。




 美喜久はベットの上で呆然としていた。何かがおかしくなっていると思い、でも、それほどおかしくともないのではないか、とも思った。明日、教室で美麗と顔を合わせなければならない。あれは自分を殺す気だった。俺は殺されるかもしれない。銀のブレスレットを持った人間にいつ襲われるかもわからない。親から殺される――それは考えすぎだと何度も自分に言い聞かせていた。美喜久はこのまま自分は寝てもいいのかと思った。寝ている間に殺されてはいないか。だが、そう考えているうちに眠たくなり寝てしまっていた。




 朝、目が覚めて、生きている自分に驚き安心し、呆れる。今日、学校に着くとみんながドッキリでしたと言って安心させてくれるはずだと自分に言い聞かせた。母も父も三角を縁取った銀のブレスレットをつけていたが、気にしないように心掛けた。早く家を出たい衝動を必死で堪えながら、朝食をとった。




 プラットホーム。いつもの時間に心美は来なかった。この電車に乗らなければ間に合わない。心美も顔を見れば何もかも嘘だったと思えたのに、と美喜久は落ち込む。今日は休みなのだろうか。昨日のことを思い出し、美喜久は不安になった。電車は心美を乗せずに出発する。人々の手首が気になって仕方がなかった。老若男女銀のブレスレットをしており、していない美喜久の方が珍しいようだった。全員普通の生活を送る、普通の人々だった。




 教室に入るといきなりドッキリでした、という展開がなく、美貴久は安心する。精神が疲労気味なのか、少しの刺激も心臓に悪かった。


 さらりと軽く撫でられるような匂い。その香りに気付いた時にはもう声を掛けられていた。


「亜嵐くん。おはよう。」


 その透明感のある声に体全体を撫でられた気がして美貴久は飛び上がる。


「安心して。」


 美麗は背後から声をかけているようだった。昨日までの美貴久にとては昇天するようなすばらしいできごとであったかもしれない。しかし、今は違う。美麗は美貴久の背後から美貴久の隣の空席まで移動し腰を下ろす。


「別に襲うことはしないわ。昨日のはちょっとした誤解。」


 少女が助けてくれなかったらどうなっていただろうかということを美貴久は再度考える。


「ああ、あの子のことなら心配しなくていいの。整朗花ちゃん。あの子はあんまり学校に来ないの。」


 鉄の棒の少女のことなのだろう。美貴久は横目に美麗を見る。人形のような整った顔立ち。昨日の獣のような醜き面とは大違いな美しさに美貴久は思わず油断しそうになる。美麗の右手に包帯が巻かれているのに美貴久は気が付いた。


「手、大丈夫なの?」


 普通の会話過ぎて、美貴久は不思議な気分になった。


「ええ。すぐ治るけど、ノートは取れないわね。お風呂に入るのも一苦労。」


 お風呂。美貴久は美麗の華麗な裸体を想像し、自分の下半身に血液がめぐるのを感じる。


「じゃあね。」


 美麗は去っていく。美麗が自席に差し掛かるとき、予鈴が鳴った。


 授業中、美麗がけがをしてノートをとれないことを教師は考えて、授業をしているようだった。クラスメイトも美麗のためにもう一冊ノートを用意して渡してあげるなどの親切な行動をしていた。


 その教師の手首にも、クラスメイトたちの手首にも、銀のブレスレットが輝いていた。




 授業後の美貴久はクタクタだった。この後も部活動に励んでいる生徒たちがいると思うと正気を失う。美貴久は決して真面目な生徒ではなく、授業の内容などまるで覚えていないというのに。帰りの電車の中、眠ってしまわないように何かを考えていた。次の駅で降りる。駅に着いたら心美の様子を見に行こうと思った。




心美の父親は警察官であった。昔家に遊びに行ったとき、無愛想な顔がひどく怖かったことを覚えている。母親のほうは父親に似合わず柔和で感情豊かな人だったが、同じく警察官であったことに幼い美貴久は驚いたものだった。


 幸せの象徴ともいえる一軒家のインターホンを押す。何度も押したが返答はない。心美の母親は警察官を辞めて、主婦になっていたので普段は家にいるはずだが、夕刻ということもあって買い物に出かけているのだろうと、美貴久は帰ろうとした。そのとき、玄関の扉が少し開いていることに気が付く。鍵をかけずに外出することはおかしい。昨日のこともあってか美貴久は不安症になっていた。玄関の扉を開け、声をかける。


「おばさーん。美貴久だけど。」


 美貴久の声は静かに響く。おばさんはいないようだった。心美は寝ているに違いないから、玄関が空いていては危ない。もしかしたら心美の身になにかあるかもしれないと思い、入ることに決める。その時になって、美貴久は家の中に充満している匂いに気が付く。息もできないほどの悪臭。肉を腐らせたような、生温かな臭い。


 美貴久は靴を脱がず中へ踊り要る。廊下を走っている途中、滑ってこけてしまった。足になにかが当たってつまずいた気がしたので、何に当たったのかと足元を確認すると、一メートルほど前方に肌色と赤の筒が落ちていた。それがなんであるのかを認識した瞬間、美貴久の心臓の鼓動は今までに感じたことのないほどに早く動いた。


 若い女性の腕が廊下に転がっていた。


 悲鳴を上げようにも、のどが変になってしまって声が出なかった。声を出そうと息を大きく吸ってしまい、のどの奥まで入り込んできた悪臭が美貴久の胃を刺激した。


 うげっ。げっ。


 のどが胃液に侵されても異臭は消えてはくれなかった。美貴久はほとんど機能できなくなった頭で、奥まで進む。そこはリビングであった。美貴久は廊下で引き返さなかったことを後悔した。


 廊下には三人の死体が転がっていた。二人は心美の両親だと分かった。まだ原型をとどめていたからである。その顔は血で半分汚れていた。ひどかったのは心美である。辺りに人の部品と思しきものが散乱している。カーペットを汚すように乾いた血が湖を作り、浮島だよと言い張るように腕が、足が、腸が、内臓が散乱している。頭部は、テーブルの上に安置され、打ち首のように、装飾されていた。その顔は心美であると思えないほどに皮が垂れ、苦しみに満ちていた。


「あ、あ、あ・・・」


 美貴久は言葉も忘れ、膝をつく。心美の体に衣服がなく、裸にされて腹をかきまわされたかと思うと、涙が頬を伝う。心美が死んだという現実が受け入れられず、屈辱的な行為をされたということだけが脳裏に染みわたり、犯され死んだことに怒りとそれを覆すほどの悲しみでいっぱいいっぱいになる。


「おやあ、仲間が来ると思ったらただのガキか。」


 美貴久のうつろな瞳には赤く染まった青い服が映った。頭を短く刈った男。その姿は警察官である。


「まあ、せっかく罠を作ったんだから、今ばれちゃあ困るわな。」


 男を前にして美貴久は胸の中に何かがぽとりぽとりと落ちていく感覚を得た。男は美貴久に拳銃を向ける。美喜久は脱兎のごとく逃げ出す。美喜久の心の中に恥じがなかったわけではない。恥より目の前に突き付けられた恐怖の方が怖く、大切な人を守れなかったという無念のみが美喜久を逃走へと駆り立てた。現実からも自分からも逃げたかったのだ。


 ばきゅん。


 背後から銃声が聞こえる。美喜久は自分が撃たれたかもしれないと思いながら、走るのをやめなかった。数歩走り、玄関から出た頃に自分が撃たれていないことを認識する。後ろを振り向き警官の様子を探りたかったが、その途端に殺される。何より警官に狙われているという恐怖に体がすくんでしまうであろうことを美喜久は分かっていたから、振り向かなかった。


 玄関を出ると、すぐに三叉路になる。美喜久は迷わず真っ直ぐ進む。立ち止まったら死ぬ。だが、それがミスマッチであったことを直に知ることになる。


 ばきゅん。


 次は音とともに美喜久の体を衝撃が襲う。痛みは大分後になって襲ってきた。地面に転がって、足をすりむいたとき、すりむいた場所の痛みと、その近くに、途方もない空洞のような鈍痛が襲ってきていることにようやく気付く。足を撃たれたようである。撃たれたのは右足で、しびれたようにコントロールが効かず、ろくに歩けはしない。美喜久が後ろを振り返ると、警官が美喜久の頭に拳銃を向けていた。無情にも引き金に指をかける。美喜久は目をかっぴらき、口を唖然とさせることしかできなかった。


 と、一瞬警官の首に赤い色の光が走った。警官の喉元から噴水の如く赤い液体が噴き出る。糸の切れた人形のように警官は美喜久に倒れかかってくる。服から浸透してくる血液は生温かく、温水プールに入ったかのようだった。警官が倒れたと同時にその背後に隠れていた人物が姿を現す。まず目に付いたのは刃渡りがニ十センチ以上はあるであろう見るからに重量感のあるナイフ。刃は血で赤黒く照っている。それを持っているのはジーンズ姿の女性だった。その顔は愉悦に歪み、今殺した警官の血の味を味わっているように見える。年頃は美喜久に近いと見受けられ、少なくとも成人はしていないだろう。


「いやあ、君。運がいいねえ。私も銃を持った警官相手は久々だったから、満足しちゃったよ。君の喉を掻っ切るまでもない。」


 女の言葉に美喜久は警官に銃を向けられたとき以上の恐怖を感じた。口が動くたびに首の回りに巻き付いた蛇の小さく細い下で嘗め回される感触を得たからである。美喜久を助けたわけではなく、殺すのに興が乗らなかっただけであって、自分は幸運でもあり、また、未だ命の危機に瀕していることを美喜久は再認識する。


「ああ、君。銃弾が足の中に入っちゃってるねえ。でも、救急車は呼ばない方がいいと思うなあ。状況的に君が殺したことにされる。そもそも、どうしてポリなんかに殺されそうになってんの?興味あるなあ。」


女は美喜久のそばによる。美喜久は暴れて抵抗するが、背中に衝撃が走ったかと思うと、息ができなくなり、体が自然と動かなくなる。


「暴れたら手元狂うからさあ。大丈夫。大動脈は切らないように努力するからさ。多分。」


 美喜久のマヒした右足の感覚でも、金属の触れるひんやりとした感触がわかった。直後焼けるような痛みに変わる。痛みに悲鳴を上げようにも上げられなかった。気を失うほどの痛みを感じ、足が切り開かれていく感触を味わい恐怖で気が違いそうだった。


「病院で糸と包帯をかさらってきたけど、こんな時に役に立つなんてね。一度やってみたかったんだよ。外科医ごっこ。」


 この女は親切で美喜久を助けているのではない。自分の楽しみのために気まぐれに体をおもちゃにしているのだ。ぐるぐると包帯を巻き終わった後、女は立ち去り際に言う。


「少年。殺さないと殺されるぞ。もう、ここはお前の知ってる表の世界じゃない。」


 女はナイフを輝かせながら美喜久に背を向けた。




 意識を失うことができなかった自分を美喜久はひどく疎ましく思った。お蔭で女に体を引き裂かれている時も痛み苦しみが伝わってきた。手術が終わってもまだ痛みはひかない。包帯から垣間見るに出血は少ないことから、存外しっかりと施術はしてあるようだが、消毒も何もしていないということが美喜久を震え上がらせる。


 美喜久は路地の垣根を伝って、歩き、家へ帰った。女の言う通り、救急車を呼ばなかった。もう、銀のブレスレットを信じることができなくなっていた。ここ最近でブレスレットをしていなかった人間を思い浮かべると、先ほどのジーンズの女と、放課後の少女、そして、心美しか思いつかなかった。心美の首がフラッシュバックする。美喜久はひどく落ち着いていた。心美は死んだ。殺された。殺した人物であろう警官は殺された。その一連の流れによってすべてが終わった気がしていた。


 家に着いた美喜久は、何も言わず、自分の部屋に籠る。母親が、帰ってきたの、とキッチンかリビングから言っていたが、今の美喜久には答える気力がなかった。女の言ったように美喜久には殺人の容疑がかけられるだろう。現場にはきっと美喜久の血液が残っている。だから、明日には町を出て、どこか遠くへ逃げよう、と考えた。




美喜久は音に敏感であった。寝ている時に大きな音がすればすぐに目を覚ます。何を聞いたのか、何を感じたのかは美喜久にはわからなかった。目が覚めてしまったことだけは確かなようだった。目を開いた先に人影があった。部屋がくらいので誰がいるのかも、何人いるのかも分かりはしなかった。口元に何かを押し付けようとしているのが分かり、美喜久は反射的にそれを払いのけ、ベットから飛び降りる。無理な動きをしたせいで、右足が軋むように痛んだ。


「あら、美喜久。怖がらなくてもいいのよ。」


 弁当などにソースを携帯するための小さな入れ物のようなものを持った母親が言った。美喜久にそれを飲ませようとしていたらしい。容器に入った液体は緑色であった。


「そうだ。お前はこれで許されるんだ。」


 何に?父親らしき声に美喜久は疑問を持つ。その意をくんでか、父が語りだす。


「お前は我らメレンゲ教の敵を駆逐する戦士を殺してしまった。だが、この聖水を飲めば魂は浄化され、罪は許される。」


「美喜久も私たちと同じになるの。」


 近づいてきた二人の目は、どこか虚ろで、意思の損なったような印象を与えた。まだ、終わっていなかったのだ。何もかも。美喜久はここで両親に身を委ね、楽になろうかと考えた。そうすれば元の平和な生活に戻ることができる。その時、心美の生前の笑顔が甦った。


「メレンゲ教の敵って何?心美のこと?」


「あの満引家は警官の家だ。彼らは教えを受けていなかったばかりか、我らに悪事を擦り付け、駆逐しようとしたのだ。それは決して許されぬ。」


「何言ってるんだよ。心美だよ?父さんと心美のおじさんは子どものころからの友達だって行ってたじゃないか。」


「だから、私に教えてくれた。自分はメレンゲ教を摘発するつもりだと。俺に教えから遠ざかるように言った。俺はそれを信徒様方に報告した。」


 つまり、それは間接的に満引家を皆殺しにしたことになる。父親はそれがさも当然のようによどみなく語っていた。


美喜久は逃げた。両親は追いかけてくる。右足は不自由。階段まで辿り着くと、美喜久は意を決し、体を丸め、階段を転げる。体中痛んだが、玄関の扉まで転げていくことができた。扉を開けて、外に出る。どうせどこまでも逃げられないのを美喜久は分かりきっていた。だが、恐怖に立ち向かうよりは襲ってこられた方がマシであった。と、身動きが取れなくなる。誰かが美喜久を羽交い絞めにした。両親にしては早いと思って顔を見ると、隣のおじいさんだった。やはり手首に銀のブレスレット。


「ありがとうございます。坂口さん。これで我々も救われます。」


 両親はおじいさんに礼をした後、美喜久の前に立つ。


「これで苦しいことも悲しいこともなくなるわ。」


 そう言って美喜久の口に液体を流し込もうとした時、母親は急に倒れた。倒れた母親の背後から現れたのは放課後の少女であった。あの時と同じく鉄の棒が握られている。美喜久が事態を把握する間もなく、父親が頭に棒を振るわれて倒れる。おじいさんは美喜久を突き飛ばし、少女にぶつけようとしたが、少女は軽くかわし、おじいさんの胴へ、足へ、肩へと棒を振るう。容赦はなかった。最後は一回転して身動きが取れなくなったおじいさんへ渾身の一撃を頭部へ横なぎに振るう。おじいさんの目から少量の血液が漏れ出し、叩きつけられた右側の目玉はぽとりと路上へ落ちた。


「おい。父さんと母さんになんてことするんだ。」


 少女は美喜久に鉄の棒を突き付ける。


「これは罠だったのかしら。」


 周りの家からぞろぞろと人が出てくる。銀のブレスレット。美喜久は絶望的状況にも関わらず、少女の声を初めて聴いたことに興奮を覚えていた。


「あらー。面白そうなことになってんじゃん。」


 どこからともなくすとんとジーンズの女が落ちてきた。


 二人は会話を交わしたわけではないが、同時に動き出し、塞がった一本道の片方をそれぞれ切り開くように人々を殺していった。少女の方はリーチが長いのを生かし、頭を叩きまくる。だが、長いものを振り回すと確実に隙が生まれる。その隙をうまく利用し、攻撃されたのをかわしてその躱す瞬間にカウンターとして頭をかち割っていく。ジーンズの女は軽い身のこなしで少しも人々に動きを与えず、背後に回り、赤いナイフで喉を掻っ切る。その時の目はやけに真剣で、快楽に埋もれていた時のものとは違った。殺しはジーンズの方が早く終わり、女は少女の殺戮を眺めていた。少女もほどなくして終わったようだった。大きく息を吸って吐く。息は切れていない。


「もうちょっと殺しやすい武器を使った方がいいんじゃないか?」


 女が少女に言う。


「余計なお世話よ。」


「つれないなあ。私たち、仲間だろ?」


「何時から仲間になったのかしら。私はあなたの名前さえ知らないわ。」


「一人ではこの状況をどうにもできないのは分かりきってるだろ?私たちはまんまとおびきだされたみたいだし。私は清水鏡。」


 鏡はナイフを持っていない手を差し出す。


「私は名乗らないわ。」


「私の名前は廻吉歌ですわ。ダーリン。」


 路上で腰を抜かしている美喜久の腕に抱きつくものがいた。見知らぬ少女であった。吉歌の感触は柔らかかった。


 そして美喜久は少女たちに巻き込まれていく。




 一行は美喜久の家へ入って行った。屋外の死の匂いが嘘のように、そこは美喜久が暮らしていた平和の象徴そのものだった。少しきつめの香を除いては。一番初めに行動を起こしたのは鉄の棒の少女だった。灰皿に置かれている煙草をゴミ箱にぶちまけると、リビングの香もゴミ箱に入れ、次々に引き出しを開けていった。美喜久の平和の象徴はみるみるうちに汚されていく。美喜久はただ呆然と見ているだけだった。美喜久以外の二人、清水鏡と廻吉歌も美喜久と同じようにリビングのソファに腰を下ろし、無言で虚空を見つめていた。少女の鬼気に誰も口を挟む気力はなかったのだ。


 少女が仕事を終えてリビングに入ってきた。そこで美喜久は話を始める。


「なあ、一体何がどうなっているんだ。」


「私は詳しい状況なんて知らないねえ。ただ、目の前に私を殺そうとするやつがいるから殺してきたってだけだし。」


「私も存じ上げませんわ。」


 こいつらはとんでもない奴だと美喜久は思わずにはいられなかった。


「そうね。細かいことは不要ね。」


 美喜久はせめて自分が追われている理由さえ分かればいいと思った。そうすれば、命乞いができるかもしれない。この殺人鬼どもと行動を共にしていればいつかは命を落とすことが目に見えていた。


「まあ、私にもあんたらが何を目的にしているのかは分からないからね。ことに、二人。外には殺すことができるほどの混乱はあるかい?」


 鏡が言う。物騒な言葉に美喜久は肝を冷やすが、吉歌と少女は同じではなく、冷静に鏡の言葉に耳を傾けていた。


「私は愛する人の傍に居れたら、それだけで幸せですの。」


「それだ。一番無視しちゃいけないのは。君は一体誰なの。僕は君なんて知らない。」


「外のことなんて分からない。でも、ここよりかは荒れてはいないでしょう。」


「私があなた様を好んだのですわ。そこに理由は必要かしら。一目惚れです。」


「外が荒れていないってどういうこと?」


 疑問が次々に襲ってくるが、よく分からない少女の色恋よりも自身の身の安全を守るべきであると考えた。


「アンタ、色々と詳しそうだね。」


「私の名前は朗花。藤崎朗花。」


「まあ、私も詳しいことは分からないが、どうもこの町は軽く包囲されているみたいだ。」


「この町ってわけじゃない。平野全体が包囲されていて、ここが平野の末端の町だったってだけ。」


「じゃあ、逃げようぜ。こんな危ないところ嫌だよ。」


「却下。」


「私も。」


 朗花と鏡は即座に否定する。


「ダーリンもしっかりしてくださいな。すぐに逃げるなんて男の恥ですよ。」


 常に腕に抱きついていて、吉歌から伝わる温かさは心地良いものであったが、柔和な笑顔から時折発せられる殺気のようなものはひどく恐ろしかった。


「ほんと、分かりやすい目印を作ってくれたね。まるでゲームみたいだ。私はこの平野の銀のブレスレットを全員殺すまでは降りないよ。」


 鏡は愉快であるという風に言った。


「私も、信者を殺しつくす。」


 朗花の顔には信念がにじみ出ていた。


「三角形の奴ら、何かの宗教なの?」


 鏡が訊く。


「メレンゲ教。世界平和を掲げる宗教組織。その枝葉は日本だけじゃないわ。むしろ、日本が一番遅いくらい。」


「なおさら虐殺せずにはいられないなあ。」


「待てよ。危ないって。自分の命が大切だろ?」


「勝手に逃げなさい。」


「私も賛成。」


「私もですわ。」


 現実的に手負いの美喜久が包囲網を突破できる可能性は皆無だった。このやり取りから、自分は殺人鬼についていく他は生きていく道がない事を美喜久は悟った。


「とりあえず、これからのことを考えようぜ。今晩ずっとここにいてはまずい。だから、別の場所に行くことを提案する。」


 鏡が言う。


「どこかあてがあるの?」


 朗花が訊く。


「ああ。場所は教えるが、行動を共にするかは自由だ。それに私は仲間意識なんてこれっぽっちも持っていない。手負いのものが殺されても放っておく。これは常識だ。」


 鏡は美喜久に向かって言っているようであった。


「そうね。そうしましょう。」


 朗花の無情な言葉が美喜久をパニックにする。


「大丈夫ですわ。私がダーリンの杖となりますから。」


 美喜久の腕がさらに深く、吉歌の胸に入り込む。どこまで入り込むのか美喜久には予想できなかった。




 宣言通り、鏡と朗花は美喜久のことなど考えもせず、先に行ってしまう。その場所に行くには徒歩では遠かった。だが、歩いていく他ない。車などでは目立つし、美喜久は免許を持っていない。吉歌が肩を貸してくれて、歩けるくらいである。


「なあ、廻さん。」


「なんですか?ダーリン。」


「その呼び方だよ。やめてくれないかな。あの二人は少しも気にしてないようだけど、恥ずかしいから。」


「照れてるんですの?」


「誤魔化さない。そもそもどうして、ダーリンなの?」


「私、ダーリンのお名前を存じ上げておりません。」


 ますます珍妙だな、と美喜久は思った。


「僕は亜嵐美喜久。」


「どちらが苗字か分かりませんわね。」


「よく言われる。」


 吉歌は笑っていたが、美喜久はそんな気分にはなれなかった。


「で、どうして?」


「何度も申しました通り、一目惚れですわ。」


「おかしいよ、そんなの。僕みたいな冴えない男に君みたいな可愛らしい娘が――」


「私にだって分かりませんわ。それに、恋には難しいことは必要ないのではないですか。」


「君、人を殺したことある?」


「ありますわ。」


 顔色変えず吉歌は言った。


「君はどうして逃げようとしないの?」


「それは・・・」


 顔が曇ったので美喜久はたじろぐ。まだあって間もないのに立ち入ったことを聞いてしまったかと考えた。


「あの二人は何者なんだろうね。」


 吉歌も含めて不思議な少女たちだった。


「私はダーリンのこともよく分かりませんわ。」


「僕は・・・普通だよ。」


「普通、ですか。一番難しくて簡単な答えですのね。」


「そうなのかな。」


「鏡さんのことなら分かりますわ。」


「え?」


「彼女は数年前、戦後最悪の殺人事件を起こした犯人ですもの。」


「そうしてそんな人が――」


「昨日脱走したみたいですわ。まさかこんなところにいるなんて思いもしなかったですけど。」


 嘘みたいな話だと思った。美喜久は吉歌を信頼している訳では決してない。だが、今の状況ではそんな嘘みたいな話が妙に現実味を帯びてくる。


「大丈夫なの?」


「分かりませんわ。今は共闘したいみたいですけど、いつ気が変わるか。」


 平然と話している吉歌が美喜久は信じられなかった。


「陽が上るまでにはたどり着きたいですわね。」


「どうして僕が狙われなきゃならないんだろう。」


「難しい話ですね。私にも分かりません。一つだけ言えるのは、教えに従わない者を殺しているってことですわ。」


「ねえ、廻さん。今からでもメレンゲ教に入ろうよ。」


 吉歌の足はピタリと止まり、美喜久は急ブレーキをかけられた気分になる。


「嫌ですわ。」


 周りに響くほど大きな声で言ったので、誰か出て来はしまいかと美喜久は怯える。


「あの方々は私を愛してくれませんもの。私を愛してくれていた人も入った途端、私を愛してくれなくなりました。」


 ヒステリックにそう叫んだあと、吉歌は再び歩き出す。美喜久はそんな吉歌の顔を見ることができなかった。吉歌の顔は見てしまうと逃げ出してしまうほどに恐ろしいものに変貌しているように思ったからである。




 その場所はビルであった。廃ビルには見えない。ビルだと逃げ場はないのではないか、と美喜久は思ったが、美喜久には分からない。今は殺人鬼たちと行動を共にするほかない。


「よう。待ってたぜ。」


 鏡は美喜久と吉歌を出迎えた。ビルの中に入ると、もう嗅ぎ慣れた死の匂いが漂っている。


「この人たちは?」


「私が全員殺した。」


 凶悪犯であることは間違いないみたいだった。銃を持っていない日本人はどうやっても抗うことはできないのだろう。


「警察は?」


 殺されそうになると当然通報などを行ってしかるべきだろう。


「多分、されたんだと思うけど、来なかった。」


 警察機構が機能していないということかと思うと美喜久は背筋が凍る。吉歌は何のためらいもなく入って行く。


「まあ、一か所に集まっておいた方がいいだろ。」


 電気が止まっているらしく、階段で十二階まで上る。美喜久の右足はまだマヒしているので重労働であった。


「ほら。ここだ。」


 ちょっとしたオフィスという感じの部屋であった。デスクは乾いた赤黒い血で覆われている。死体は廊下に投げ出されてあった。その部屋の窓際のソファに朗花は座って月を見ていた。


「あなた、早く死になさい。足手まといよ。」


 少しも笑えぬ冗談だった。部屋にはよく分からぬ箱が多数置いてあり、箱の中から覗くものから、それらが全て兵器であることがわかる。


「これ、どこから取ってきた。」


「警察署。」


 この混乱は鏡の仕業ではないかと美喜久は思った。


「ほら。アンタにやるよ。どうせここの誰も使おうとしない。」


 いきなり拳銃を投げつけられて美喜久は驚いてやんわりと受け取る。銃は暴発するかもしれない。


「リボルバーだから大丈夫だよ。玉はそっち。適当にポケットに突っ込んどきな。使い方は分かるだろ?打ち方は慣れていけばいい。」


 僕に殺しをさせるつもりなのか、と美喜久は怒りがこみ上げるのを感じる。そう、両親や地域の人々を殺したのもコイツらなのだ。どうして自分はこんな気狂いと一緒にいるのか分からなかった。


「そう言えば、アンタ。足が不自由なの?」


 朗花は言った。


「いや。どこかのお姉さんに手術された。」


「私はまだ十九だ。お姉さんなんて歳じゃねえ。」


 怒ったように鏡は言う。そんなことで怒っている場合ではなかろうに。


「見せなさい。」


 朗花はすたすたと歩み寄る。それを吉歌が遮る。


「ダーリンには指一本触れさせません。私が治して見せますわ。」


「いや、藤崎さんに見てもらう。」


 きっと怪我に詳しいから申し出たのだろうと美喜久は思った。


「それはどういうことですの?私よりこの小娘のほうがいいってことですの?」


 吉歌は早口にまくしたてる。


「いや、そういうわけじゃ――」


 今度は朗花が不満そうな顔をする。


「私を愛して下さらないのね。」


 なにが起こったのか美喜久には分からなかった。分かった時にはうめき声を上げていた。痛みが襲って来るところに触れてみる。そこには見事な包丁が刺さっていた。


「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる――」


 すぐに鏡が吉歌を羽交い絞めにしたので、切り口は開いていない。だが、痛い。


「動かないで。」


 朗花は美喜久に近づき指示する。


「麻酔は?」


 鏡に向かって聞くが、鏡は頭を横に振る。また痛いのか、と美喜久は観念した。鏡は無理矢理吉歌を廊下に連れ出す。


「糸と包帯はある。消毒薬、手袋はない。死んじゃったらごめんね。」


 患者にかける言葉ではない。抗議しようと思った矢先、一気に包丁を抜かれ、気を失いかけた。


「多分、内臓には達してないわ。すぐに傷口を塞げば大丈夫。」


 もう決してけがはしないと美喜久は心に誓う。朗花は手際よく傷口を縫い、包帯を巻いていく。


「こっちの方は――縫い方は粗いけどなんとかなるでしょ。ここ数日安静にすることね。」


 右足の包帯をするすると解き軽く眺めた後に言う。そして、包帯を戻していく。


「包帯、変えてくれないのかよ。」


「限りはあるから。」


 初めての会話がこんなものだとは、少しも嬉しくはなかった。


「ごめんなさい。」


 どうして朗花が謝るのか美喜久にはわからなかった。


「心美を殺したのは私よ。」


「どういうことだ!」


 起き上がろうとすると、腹が痛み、動けなくなる。朗花は静かに立ち去って行った。




 厚い雲は月を隠していた。美喜久は咳をする。その際に再び腹が痛んだ。窓際には鏡がいた。煙草を吸っている。


「起きたのか。」


 自分は寝ていて、煙草の煙に咽たのだった。痛みは鏡のせいとなる。


「もうすぐ台風が来る。」


 落ち着いた鏡は鏡でないようだった。


「でも、直撃にはもうニ三日はかかるんじゃないのか?」


 気象情報など碌には見ず、人づてに聞いたのみであるから美喜久は確証を得たわけではなかった。


「君はニ三日眠ってたんだ。もう目覚めないかと思ってた。」


 投げやりに言った。


「廻が喚くもんだから、手錠でつないでるよ。藤崎にまで手を出そうとするんだから、困ったもんだ。」


「どうして。」


「君の浮気相手だからさ。」


「そんなつもりは――」


「痴話げんかで殺されるヤツはみんなそう言うな。」


 美喜久は再び咽る。奇妙な香とは違い、粗雑な匂いなのがせめてもの救いだと思った。


「煙草、消してくれないか。咳をすれば腹が痛む。」


 鏡は窓の桟で火を消す。


「腹はもう塞がりかけていると藤崎が言っていたんだが、幻肢痛か?もしくは内臓が腐ってると言ったっけ。」


 けらけらけらと鏡は笑うが、少しも笑えない。美喜久は呆気に取られていた。


「清水さんは思った以上に普通なんですね。」


 鏡は目をぱちくりさせた。そして、気が狂ったように笑う。


「私は少しも普通じゃないよ。」


 鏡は再び煙草に火をつける。


「この煙草はさ、私の好きだった人が吸ってたものなんだ。」


「なんて名前ですか。」


「平和(peace)さ。この黄色いパッケージのオリジナルフィルター。ロングピースって呼ばれてる。」


 まるで好きなおもちゃを自慢するように嬉しそうに語った。


「奴らは教えにより、夜は出歩かない。今じゃコンビニもやってない。夜に動くのは異端者か戦士だけ。明日、台風が直撃する。」


 耳を澄ますと強風が吹いているのが分かった。


「どうしてそんなに親切なんだ?」


 特別な意味を求めている自分がいるのを感じて美喜久は言う。


「どんなヤクザにも可愛がる子どもや奥さんがいる。会社でお人好しなサラリーマンも家の中では暴力を振るう。そういうことだよ。」


 鏡は部屋を去り際、痰を吐くように言った。


「いつかお前をぶっ殺す。」


 今までの和やかな雰囲気をぶち壊した殺伐とした一言に、美喜久はまだ自分の命が殺人鬼によって握られていることを再認識した。




 月夜に照らされた雲が早く通り過ぎていく。それは風が強まっている証拠だった。


 メレンゲ教の信者は夜中で歩かない。そして、こんな場所にいてもいつか殺されるだけだ。それなら、いっそ――


 美喜久は旅立つ決意をした。みんなに背を向けることはもう後ろから刺されてもいいということでもある。足はまだ痛むが数日前ほどではない。成長期というのはありがたいと思った。赤く染まった足の包帯を見る。中身をほどいて確かめる勇気もなかった。


 部屋には誰もいない。それぞれがすでに部屋を決めていて、美喜久が寝泊まりしているのは共有スペースみたいなものだった。


部屋には無造作に鉄の棒が立てかけてあった。朗花が愛用していた、血まみれたものだった。美喜久はそれを手に取り、杖代わりとする。ポケットを確かめる。そこには鏡に渡された拳銃があった。小さな女性用の護身銃だった。


美喜久はコツコツと鉄で階段を叩きながら降りていく。響く音に皆が起きてしまわないか心配だったが、構わない。自分が逃げた所で彼女らには特しかないように思えた。




ビルを出て丁度正面にコンビニがあった。コンビニは暗い。そもそもに、町全体が暗かった。雲によって見え隠れする月明りがないと碌に活動できそうになかった。夜は発電所も動かそうとしないのだろうか、と美喜久は奇妙な気分となった。


コンビニで、ジャンプを盗む。今週はどうなっているのだろう、と気になったが、見ることはしなかった。内容がメレンゲ教関連だと、絶望的な気分になるからだ。好きだったマンガが汚されている姿を見たくはない。


美喜久はジャンプを服の中に入れる。またも吉歌のように突然刺してくるやつがいるかもしれない。


美喜久は平野の外を目指す。平野は山に囲まれている。だから、その山を越えれば安全なはずだった。この平野全体を帝都と言った。




街灯もない道を行く。電車も走っていない。それ故に、陽が上るまでに山まで行けるかどうかだった。そして、陽が上ったら、山を越える。不眠不休になるが、殺されるのなら我慢できる。日中、山に登る人間はいないだろう。別に登山で有名であるわけではない。


「あら、亜嵐くんじゃない。」


 声を聞いた瞬間、背筋が凍った。今、一番聞きたくない声だった。


「美澄、さん・・・」


 美喜久は振り向く。そこには美麗と、壁を作るように立ちふさがる黒い装束のニンジャのような男たちがいた。


「あら。覚えていてくれたのね。嬉しいわ。」


 美喜久は今まで自分が向かっていた方角を見る。そこにも音もなく男たちが壁を作っていた。


「ごめんなさい。この前は、少し強引だったわ。反省してる。少し不穏分子が混ざっていたせいで、教祖サマの計画が狂いそうだったから、気が気でなくて。でも、きっと私たち、話しあえば分かり合えると思うの。」


 美喜久の憧れた、無垢な笑顔。しかし、今は何を考えているのか分からない、狂気を隠した笑顔にしか見えなかった。


「今日は私たちの活動を知ってもらいたくて。それから決めてくれればいいと思うの。付き合ってくれるでしょ?」


 輝かしい笑顔。だが、この場面では強迫としか受け取れない。


「分かった。」


「良かったわ。あなたはあの女たちと違って話が分かるから好きよ。」


 男たちは影のように去っていく。


「さあ、行きましょう?」


 美麗が向かったのは美喜久の目指していた方角だった。




 そこは見た目は工場のような場所だった。そこからはこの世の終わりのような悲鳴が聞こえている。


「ここが私たちの教会。教えを受ける場よ。」


 処刑場の間違いではないかと美喜久は思った。


「さあ、行きましょ。」


 美喜久は美麗についていく。美麗は玄関に入った後、ろうそくに火をつける。


「ねえ、美澄さん。」


「何かしら。」


「明かり、点けないの?」


 すると、美麗は目をかっぴらき、美喜久を見る。ろうそくに照らされたその顔は、どんなホラー映画よりも生々しく、恐ろしかった。


「私たちの教えでは、戦士以外夜に出ることを禁じられているの。だから、必要ないの。人は自然の明るさの中で生きていくべきだわ。どう?いい教えでしょ。」


「そ、そうだね。」


「でしょ!」


 美麗は無邪気な子どものような笑顔で美喜久を見る。


「ここが一番初めの区画。ここで、神の教えを受けるの。」


 そこはとんでもない場所だった。みな同じ服装をし、耳にヘッドホンをつけている。彼らのどれもが目を赤くし、かっぴらいている。何かよく分からない言葉を口走っているモノさえいる。


「これは?」


 美喜久はこみ上げてくる不快感をなんとか飲み込んで美麗に聞く。


「こうやって眠らずに七日間教えを受けるの。そうすればどんな人だって敬虔な信者になるわ。」


 疑うことを知らないのか、美麗はこれが素晴らしいことのような口ぶりで言う。


「別に怖がることはないわ。みんな満足しているもの。ほら。これが七日間研修を受けた人たちよ。」


 部屋の外のベンチを指して、美麗は言った。そこには部屋の中と少しも変わらない人々がいた。耳にヘッドホンを当てていないだけで、涎を垂らしながらうわごとを呟いている。


「本格的に入信するのなら、まずはこれね。」


 美喜久は逃げ出したくなった。自分はとんでもない過ちを犯したのではないか、と脱ぎきれぬ恐怖に慄いた。


「じゃあ、次、行くわよ。次は七日間研修を受けた先。希望者だけが進むのよ。」


 この先があることに、手足が震えて止まらない。立っているのもやっとだった。杖代わりの鉄の棒を握りしめて、やっと立っていられる。


「ここは聖なる秘薬を授かるところよ。戦士候補生みたいなものね。」


 そこは先ほどよりもっとひどかった。人々は手術用の机に乗せられ、体を縛られている。そして、白衣を着た男たちがその人々に青色い注射を打っている。それを打たれた途端、突如として縛られた人は大声を上げる。これは、薬物注射ではないのか。


「ほら、あそこ。」


 美麗が指さすが、部屋の奥なのでよく分からない。


「行ってみましょ。」


 美麗は美喜久の棒を持っていない手を引っ張って、奥へと連れて行く。途中、怪物のような悲鳴を上げる人々の洗礼を受けた。


「ほら。」


 美麗に見せられた時、美喜久の心臓は止まるかと思った。そこに寝かされ、口から泡やら、よく分からない粘液を噴き出しているのは、美喜久の両親だった。生きていたことを素直に喜ぶべきなのかもしれない。しかし、今は迫りくる恐怖に、何も考えられなくなっていた。


「二人は罪の償いに、と戦士に志願したの。少し頭が潰れていたから、すぐにこっちに移ってもらったわ。きっと、両親はいい戦士になってくれる。」


 何を当然のことのように言っているのだろう。これは、自分を育ててくれた両親なんだぞ。美喜久はそんな怒りより、こみ上げてくる吐き気に抗えなかった。呼吸をするように、胃液が口から零れる。胃液に晒され、痛む喉など気にしてはいなかった。


「あら。こんなところで、ダメじゃない。早く、次に行きましょ。」


 美麗は苦しんでいる美喜久などお構いなしに手を引いていく。


 美喜久が最後に連れられたのは檻のある部屋だった。


「ここは?」


 朦朧とする頭は何も考えられなくなっていた。晒された衝撃に、自分自身を見失いそうになる。


「戦士になる試練の部屋よ。戦士になれる人は限られている。ほら。彼女は失敗作。」


 檻の中には白いワンピースを着た、髪の長い女性がいた。その顔は髪に隠されていた。髪はよく分からない粘液でてかっており、ぼさぼさであった。人というよりも、それは――


 女は美喜久たちを見ると、獣のように檻から顔を出し、潰れた喉で怨嗟の雄たけびを上げる。


「静かにしなさい。AX―2被検体。」


 美麗は無慈悲にも檻を蹴り飛ばす。だが、女はより一層暴れる。


「よりにもよってあんたが適合者だなんて。」


 そう檻の女に向かって言い捨てると、くるりと向きを変え、美喜久に振り返る。


「ここでは戦士の肉体に変化させるの。今まで見たのは、このための前段階ね。ここで多くの人が脱落してしまうけど、きっとあなたの両親はいい戦士になれるわ。」


 どうしてこの子は笑顔なのだろう、笑顔でいられるのだろう、と美喜久は思った。これは彼女が辿ってきた道でもあるのだ。もしかしたら、彼女は自分に救って欲しがっているのではないか、と美喜久は思ってしまった。だから、言った。


「美澄さんは辛くないの?」


 その時、空気が一変したのを、美喜久は感じた。一気に鳥肌が立つ。これを総毛だつのだということに美喜久は気が付いた。


 あの時と同じだった。急に雰囲気の変わる女たち。それは一変して狩るものに変わる合図――


「あんたに、あんたなんかに何が分かるっていうのよ!」


 言葉の最後はほとんど咆哮に近かった。人がこんな声を出すとは信じられないほどの、恐怖。


「よりにもよって、よりにもよって!」


 美喜久は逃げなければならないと感じた。しかし、体が石になったように動かない。ここで、殺される、と思った。


 次に起こったのは、美麗がその場から吹っ飛ぶという信じられない光景だった。今しがた美麗が立っていた場所に、檻に囚われていたはずの女が立っている。


「くそっ。檻をこじ開けるなんて、なんてバカ力。」


 壁を突き抜けた美麗は傷一つないかのように、開いた壁から身を乗り出す。そんな美麗に容赦なく女は襲いかかる。それは怒りの獣の如き所業だった。そこに理性があるとは思えない。どすん、どすんという轟音。美喜久は壁の向こうを見る。穴はずっと先まで、何個もの穴を開けて、外まで続いていた。


 逃げるチャンスだと思った。


 女が開けた穴から隣の部屋に入る。そこは美喜久の両親が薬物を打たれていた場所だった。白衣を着た男たちは、我先に退避しようとしている。美喜久は一瞬両親を助けようかと迷ったが止めた。もう、あれは人ではないと思ったからである。


 美喜久は次に部屋に。その七日間部屋の人々は何が起きてもお構いなしに、研修を続けていた。女の通路となった人々は、まるでトラックにでも轢かれたかのように手足があってはならない方向にねじ曲がっている。美喜久は構わず外に出た。


 そこには女と相対している美麗がいた。五体満足なのは戦士として強化されている故だろう。


「許さない、許さない、許さない。」


 美麗は両方のスカートのポケットから小型のナイフを取り出した。女が吼える。一方の女は素手である。二人の周りには壁を作るようにシノビ装束の黒い男たち。どちらにせよ、自分が生き残る道はない、と観念した時だった。


「私の棒。返しなさい!」


 そんな声とともに、まあるい月から人影が飛び降りてくる。それは朗花であった。朗花は長い得物、太刀を下げていた。


 と、美喜久の腹部に衝撃。そして、血の流れる生温かく嫌な感触。


「殺す殺す殺す。」


 吉歌が美喜久の腹部に刃物を突き立てていた。しかし、傷は浅い。ジャンプが身代わりになってくれたのだ。


「私を裏切った男はみんな殺すの!」


 そんな吉歌を美喜久は両手で抱きしめる。吉歌の包丁を握る手が緩む。


「ごめん。吉歌。僕が悪かった。許してくれるか?」


「ダーリン。」


 周りの殺伐とした雰囲気には似合わなかった。


「あなたはずっとわたしのもの。ずっとそばにいてくれる。」


「ああ。僕は君のものだ。だから、敵を倒してくれるね。」


「うん。だって、私はあなたと幸せになるもの。」


 吉歌は美喜久の体に刺さった包丁を引っこ抜く。


「そういうのは後でやってくれない?」


 鏡がつまらなさそうに頭の後ろで手を組んで言っていた。


「どうして来たんだ?」


「いや、あのお嬢さんがあんたからその棒を取り戻すって聞かないからさ。ああ、場所はずっと吉歌ちゃんがつけてたから。」


 つまり、美喜久は常に命の危険にさらされていたわけだ。


「話している余裕はないわよ。あんたたちは雑魚。私はあの女。」


「へいへい。」


 鏡が頭から手を離した瞬間、場は静寂に包まれる。聞こえてくるのは、女の荒い獣のような息だけ。


 初めに動き出したのは鏡と吉歌だった。二人は黒い壁めがけて走って行く。


 きん、きん、と金属のぶつかる音。朗花の太刀と美麗のナイフがぶつかる音だった。


 朗花の太刀にナイフでは太刀打ちできないというのに、美麗は絶妙なナイフさばきで、攻撃を避けていた。そんな二人の間に女が割って入る。


「なぬ!」


 体勢を崩していた美麗に女の拳が突き刺さる。美麗はそのまま宙を彷徨い。肉の壁の向こうへと姿を消した。後にはナイフが二本、地面を転がる音がしていた。


「なんなのよ、この女。」


 朗花はそう言いながらも、迫りくる男たちに向けて太刀を振るう。女も男たちを蹴散らしていた。


 吉歌が真正面から包丁で突き、鏡は男たちの背後から影のように忍び寄り、首を掻っ切る。女はその暴力的な力で男たちの体を無茶苦茶にする。そんな中、月光に照らされて、長い刀身は美しく輝いていた。舞い上がる血飛沫も、物騒ながら、太刀を握る少女の姿を妖艶に醸し出している。この時、美喜久は朗花を心から美しいと思った。




 圧倒的な戦力差であったにも関わらず、決着はついてしまった。残ったのは無数の、男たちの残骸。美麗の姿はなかった。


「ごめん。これ、探してたんだってな。」


 ふらつきながら、美喜久は鉄の棒を朗花に差し出す。


「別にいいわ。ただの棒だし。」


「でも――」


「あんたには必要でしょ。」


 朗花は太刀を一振りし、刀身についた血を吹き飛ばす。そして、背中の鞘に納める。


「ダーリンっ!」


「うわっ。」


 突然美喜久に吉歌が飛びつく。


「他の女と話しちゃダメ。殺すよ。」


 おっかない笑顔だった。


「ただの友達じゃないか。それに、吉歌。お嫁さんになるなら、もうちょっと我慢しなきゃ。」


「もう。ダーリンはずるいんだから。でも、そんなところが好き。」


 一同は溜息を漏らす。


「早いうちに戻ろうか。」


 鏡はそう言って、女を一瞥する。


「これ、どうすんの。」


「まあ、敵ではないようだし、放っておけば?」


 そう言って一同はビルへと帰っていく。女は何も言わずついてきた。




 美喜久は共同スペースにいた。見張りのためである。そのことに不満はなかった。あの中で戦闘をこなしていないのは美喜久だけであった。


「でもなあ。」


 共同スペースにはもう一人人間がいた。いや、それを人間と表現していいのかわからない。お化けのような髪をした、獣の娘――


「あんたは一体何者なんだ。敵なのか?」


 だが、帰ってくるのは猛獣の如き唸り声である。女は眠らないらしかった。


「あれは、眠らない体を作る為のものだったのか。」


 美喜久は施設の惨劇を目の当たりにして、それを思い出して、吐き気に襲われる。あれは一体何だったのか、美喜久には分からない。悪い夢のようにしか思えなかった。そして、メレンゲ教が何を考えているのか、それだけが疑問であるが、美喜久にそんなことを考えている余裕はない。まだ、この数日の気持ちの整理ができていない。


 心美が死に、両親が化け物となり、町の人が美喜久を襲い――


 夢であるのなら早く冷めてほしい気分だった。


「わ、わたし、は――」


 急に女がしゃべり始める。


「こども、を、ころされ、た――だから――」


 それきり女は人語を話そうとしなかった。


 女が戦う理由はそれなのだと美喜久にはわかった。だが、自分にはそんな理由はない。美喜久はただ、逃げるだけだ。幼馴染を殺されても、湧いてくるのは怒りではない。もう、恐怖という概念の臨界を越えた何かだ。美喜久は徐々に自分の心の枷が外れてきて、恐怖を恐怖と認識できなくなっている気がしてきた。


「さあ、交代よ。」


 帰ってきて三時間で交代になった。


「休んでなくて大丈夫なのか?俺は一晩中起きてても大丈夫だ。」


「眠れないのよ。」


 朗花は腹立たし気に言った。


「それは――」


「あなた、やっぱりあそこで見たのね。感想はどう?」


 美喜久は必死で吐き気を抑える。だが、美喜久の意思に関係なく、彼の胃は痙攣を起こしていた。


「そりゃそうよね。」


「朗花はあれを見たのか。」


「気安く名前を呼ばないで。まあ、いいわ。この際だから。ええ。私は初めから何もかも知ってたわ。」


「どういうことだ。」


 美喜久の中に疑念が湧く。それは朗花がみんなを騙していたのではないか、というもの――


「私はね、教祖サマの子どもなの。」


 瞬間、何もかも止まった気がした。美喜久の耳には女の荒い息も聞こえなくなっていた。どこか遠くへと飛ばされる奇妙な感覚――


「実の子ではないわ。何人もいる養子の一人。私はこうなることを知ってた。お父様から聞かされていたもの。でも、どうすることもできなかった。」


「だから、心美が死んだのも自分のせいだって――」


「心美は転校してきて友達のいない私に優しくしてくれた。だから、なんとしても守りたかった。でも、遅すぎた。私が動き出そうと思ったときには、もう、計画はどうしようもないところまで進んでいた。」


「でも、俺は生きてる。朗花が救ってくれたんだ。」


 朗花は鼻で笑う。


「あんたなんかに価値はないわ。ずっと逃げてるだけじゃない。私はあんたを守りたいんじゃなかった。」


 それは酷い言葉だった。だが、美喜久は辛くなかった。辛そうに話す朗花を見る方が辛かった。


「この世界を生き抜いて、ゆっくり心美の昔話でもしよう。」


「甘いのね。逃げてばかりのくせに。そんなんだと、また吉歌に殺されるわよ。」


 美喜久は想像して、鳥肌が立つ。


「あの子、あなたが来るのをずっと待ってるわよ。だから、早く行きなさい。そろそろ限界でしょうから、包丁を持って乗り込んでくるわよ。」


「ああ。急ぐ。」


 俺は鉄の棒を持って歩き出す。


「生き残れたら、心美の話を聞かせてよね。」


 すれ違いざまに朗花は言った。


 だが、みんな生き残れる未来などはなかった。




 美喜久は吉歌の部屋を訪れる。


「待ってましたわ。ダーリンっ。」


 吉歌はできるだけチャーミングに言った。


「ダーリンとの初夜ですもの。興奮して待ってられませんでしたわ。」


 吉歌は両手で一本の包丁を持っていた。美喜久は吉歌の両肩に両手を置く。


「ダーリン。」


 とろけるような目をして、吉歌は呟く。


「吉歌そういうのはよくないと思うんだ。」


「どうしてですの?私はダーリンの子なら産めます。」


「もっと愛情を深めてからだ。じゃないと、子どもが可哀想だろ。」


 吉歌は膨れる。


「仕方がないですわ。今日は添い寝で我慢します。だから、ずっと一緒にいてくださいね。」


 二人はベッドに入った。美喜久は緊張したものの、ずっと脳裏に映っているのは朗花の戦っている美しい姿だった。




「状況は最悪だわ。」


 起きて早々、朗花はそう言う。


「あっちゃー。囲まれてるねえ。」


 緊張感もなく、むしろ楽しんでいるように鏡は言った。


「でも、これが目的だったのでしょう?」


 吉歌は怖がりもせずに言う。


「ええ。ここで決着をつける。」


 ビルの周りには警官隊が透明のシールドを持って取り囲んでいた。


「さて、と。じゃあ、ここまでだな。みんな、楽しかったぜ。」


 そう言って鏡は女を窓から放り捨てる。それが合図だったかのように、朗花と鏡はビルの階段を降りていく。


「お、おい。」


「さあ、ダーリン。平野を抜けますわよ。」


「でも、あの人が。」


「あの女はもともと死ぬ気ですわ。未来に生きていない。でも、私たちには希望の未来が待ってますもの。」


「そう言うことではなくて。」


 美喜久はビルの窓から下を見る。女は潰れず着地し、警官隊を蹴散らしていた。確かに、この混乱なら助かるかもしれない。


「行きますわよ。」


 美喜久は吉歌とともに階段を降りる。




 ビルを出た時には、もう警官隊は絶滅していた。あるのは残骸だけだ。


「どこに行くんだ?」


「昨日の場所です。」


 美喜久はもうあの場所には行きたくなかった。


「きっとあそこはもう放棄されています。警備は手薄ですわ。」


 確かに一理ある、と美喜久は吉歌の提案に賛成した。




 ついこの間までは平和な町だった。しかし、美喜久の気がつかないところで、魔の手が進行し、平和は破られた。


 町の至る所から、人々が美喜久たちを襲いに来た。それを吉歌ひとりで撃退して行った。一般人は戦士ほど強くはない。だが、迫りくる数は度が過ぎていた。


 道から無数の、制服を着た生徒たちが迫ってきている。吉歌は美喜久を路地に隠し、言った。


「必ず帰ってきますから、一人で逃げないでくださいね。殺しますわよ。」


 だが、その口調がどこか湿っぽくて、美喜久は不安になる。もう、戻ってこないんじゃないか。そう美喜久は思ってしまった。


 濁流のように押し寄せた生徒を吉歌は一刺しで仕留めていく。胸へと刺し、すぐに引き抜き、次へ。少女ができる運動量を超えていて、息も絶え絶えになり、汗を垂らしながら、血飛沫をあげていく。吉歌の体は真っ赤になっていく。ぬめぬめとした光に照らされて、それは人であるのか判別できない。


 ごあああああ。


 獣の如き雄たけびを上げて、吉歌は力を振り絞る。そして、生徒の波を見事に蹴散らす。


 美喜久は吉歌に駆け寄る。


「はあ、はあ。やりましたわ。」


 吉歌は地面に尻をつき、駆け寄った美喜久に体重を預ける。


「ごめんなさい。ダーリン。私はもう、ダメみたいですの。」


「そんなこと――」


「少しの間でも私を愛してくれて、本当にうれしかったですわ。」


 吉歌は裕福な家に生まれた。だが、それ故に、吉歌は両親に愛情を注がれなかった。ベビーシッターが彼女の親代わりであったが、所詮は他人。心を通わせることができなかった。そんな悲しみを吉歌はずっとため込んでいた。それは次第に殺意に似た衝動に変わっていった。


 そんな折、彼女の両親は入信した。今まで、申し分程度に構ってきた親は、吉歌など存在していないかのように、教えにはまり込んだ。そして、刺した。両親を殺した時、吉歌が抱いた感情は、ああ、死んだなというだけだった。死んで当然や、罪の意識はなかった。もとより彼女にはそんな感情は欠落していたのかもしれない。それから、彼女は色々な男の所を転々とした。同年代の男や、父親よりも年上の男と寝たりした。だが、そのどれもが教えにのめり込み、彼女に見向きもしなくなっていった。だから、殺した。


 そして、いろいろと彷徨った挙句、新たな男を見つけた。それは目の前の惨劇に怯え、小動物のように震える獲物だった。


「逃げてください、ダーリン。」


「どうして。」


 吉歌にとっての最後の男は怯えた顔つきで吉歌を見つめる。


「一緒に暮らすって言っていたじゃないか。」


「ええ。私はダーリンの子どもを産みたかった。でも、ここでお別れです。」


 何人目かのダーリンであるかは忘れてしまった。だが、目の前の男は彼女にとって最高のダーリンだった。


「ただ、一度、ここでお別れなだけですわ。これ見よがしに他の女と一緒になってたら殺しますわ。」


 吉歌は美喜久の心が自分にないことをとうに知っていた。でも、殺すことはできなかった。吉歌もどうしてこんな男を好きになってしまったのかわからない。こんな、人間の弱さをそのまま形にした存在を。でも、美喜久の体は他のどの男よりも温かく、心地よかった。


 吉歌は血でぬめる包丁を握り直す。力の入らない手を気力を振り絞り、握る。そして、再び迫った人の波に突っ込んだ。




 美喜久は自分は最悪だと罵った。罵りながら、吉歌を見捨てた。本当かどうか分からないが、自分を好きになってくれた女の子を見殺しにしたのだ。最悪などという言葉で表せるものではない。


 そして、美喜久は教会のあった峠からとうざかることになった。見つからないように、山の方へと向かうが、向こうも美喜久たちの目的が分かっているらしく、山に進むにつれ、大勢の人たちが壁を作っていた。


 陽はもう天高く昇り、西へと傾き始めた頃だった。気持ちのいい青空が憎かった。暗い路地から眺める青空は、今路地を出ると何事もなかったかのように平和が待っている気がしてしまう。


「こんなところで休憩とは。余裕だね。」


「ひゃっ。」


 美喜久は怯えて声を出す。


「いやあ、そんな驚かれてもなあ。」


 美喜久の前に現れたのは死刑囚だった女。


「鏡――」


 鏡の体は逃げてきた美喜久とは違い、血で赤く染まっている。


「でも、思ったより多いなあ、こりゃ。分散したのは間違いだったか。」


 まるでお散歩でもしているかのように気楽に鏡は言った。


「鏡は怖くないのか。」


「全然。でも、疲れちまった。一人で全員殺そうかと思ってたけど、私も逃げることにするわ。あんたも逃げるんでしょ?どういうプランなのよ。」


「俺は、吉歌を見殺しに――」


「はあ。そんなことで悩んでんの。」


 呆れた、という風に鏡は溜息をつく。


「自分が生き残るために誰かを犠牲にするってのはそんなに悪いことなのかね。」


「でも――」


「さあ、早く逃げるわよ。ここで夜まで待ってんの?私らはあの戦士と戦うのを避けたかったから、こうやって昼間動いてるの。まあ、奴らも不眠不休みたいだから、ニ三人殺しておいたけど。」


 世間話をするように鏡は言った。


「ほら、行くよ。」


「どうして。」


「あん?」


「どうして俺を助けようとするんだ。」


「バカじゃないの?」


 鏡の目つきが変わった。


「あんた、勘違いしてる。自分が特別とか思ってるんでしょ。でも、違う。あんたは偶然こうなっただけ。そこらへんにうじゃうじゃいる気味の悪いのと大して変わらない。そういうの、お姉さん腹が立つっていうかさ。」


 鏡は頭をぽりぽりと掻く。


「でも、あんたは特別なんだろうね。あんたは死んでいった奴らの上に立っている、偶然選ばれた特別ってやつ。平和だった世界だって、本当はそういう犠牲の上に成り立ってるの。それに誰も気が付かなかったってだけでさ。ああ、もうめんどくさい。もう休憩終わったでしょ?行くわよ。」


 鏡は路地から見えた男に奇襲をかける。美喜久も路地から出ることを決意する。




「標的、一匹消滅、っと。でもなんだか嫌になってきちゃう。」


 美麗は崩さない笑顔で足元の亡骸を見る。その亡骸は美しかった。血にまみれ、目は空を向いている。今にでも動き出しそうな、そんな気配さえ感じさせる。


「死体がこんなに美しいだなんて。ダメよ。」


 美麗は死体の顔面を何度も何度も蹴りつける。ごり、ごり、という音が何度も響いて、彼女の頭蓋は跡形もなくなった。


「教会を目指してたのは間違いないけど、ねぇ。」


 美麗は近くに狂った女がいることを分かっていた。女は今にでも美麗に飛びつきそうである。


「あなたは、まだ私を憎んでいるのかしら。」


 美麗は腰に付けた短刀を引き抜く。それが合図であった。女は美麗に飛びつく。一閃。それだけで女の右腕が地面に転がる。しかし、女は勢いを止めない。そのまま美麗に向かって行って――美麗はひらりと女の突進を交わす。その際にまた一閃。女の腹から血が噴き出す。


「つまらないわ。こんなのに一度でも後れをとったなんて。」


 女は痛みに当てるように苦痛の咆哮を放つ。そして、またも無策に飛び込む。


「飛んで火にいる夏の虫か。こんな使い方するなんて知らなかった。」


 美麗の顔は無表情だった。それは彼女がとんでもなく退屈であることを示している。正面から飛び込んでくる女の頭を一太刀。これで終わるはずだった。しかし、女は向きを変え、美麗の左肩を狙う。


「ぐがっ。」


 美麗の一太刀は女の肩から骨を割り、そして、胴を真っ二つにする。でも、まだ女は生きていた。ぎりぎりと美麗の肩を噛み続ける。美麗は自分の肩の骨が折れる音を聞く。


「この、この!」


 美麗は自由な右手で首と右肩の一部しかない女を斬りつける。それでも女は美麗にかみついたままだった。


 だが、美麗は短刀を振るうことを止める。短刀を地面に捨て、女の頭を肩から引っこ抜く。めりめり、と筋線維が引き裂かれる音がする。それでも構わず、自分の体の一部を切り離した。


「こんな死に方をするなんてね。」


 美麗の体からはどくどくと心臓の鼓動と共鳴するように血が溢れ出る。


「私も長くはない、と。」


 だが、一日は動けるのであった。戦士の中でも完成品である彼女は深い傷を負っても戦闘は続行できる。


「折角、短刀を二本用意したのに、これじゃあ一本しか使いようがないじゃない。」


 女は美麗の左手を使用できないものにした。


「亜嵐くん。あなただけは私の手で殺してあげる。私の心に土足で踏み込んだ罪を償わせてあげる。」


 美麗はにやりと笑った。


「さて、どこに逃げたのかしら――」




 襲いかかってくる人々を鏡は倒していった。美喜久はその後をついていくだけだった。もうじき夕暮れ時になる。人々の群れをなんとか倒していった鏡だが、疲れが出ているようだった。


「大丈夫か?」


 美喜久は心配になり、声をかける。


「ちょっと遊び疲れちまったようだ。」


 いつもの笑顔で鏡は言う。


「血ってのは塩っけが凄いからな。体中がかゆいのなんの。」


 鏡の頬に染みついた血を大粒の汗が荒い流す。


「何か飲み物を取ってくる。」


「いいや、それは無理なことだな。」


 その時、どこからか音楽が流れてくる。子どもの頃、夕暮れ時に聞いた歌。ドヴォルザークの新世界より。


 美喜久は胸騒ぎがした。子どもの頃、この音楽が流れるとみんな帰っていった。そんな、楽しかった時間が終わっていく瞬間。


 そして、今まで町全体を支配していた活気がみるみるうちに引いていく。


「どうやら、雑魚どもはお眠の時間らしい。」


 そして、教会のある峠から降りてくる、二つの影。腕をだらりと下げ、サルのように歩いてくる。その姿は――


「父さん、母さん?」


 美喜久は二人を見る。その顔はかつての見慣れたものとは違っていた。何もかもが歪んでしまい、体の機能を人殺しのためにだけ残した姿。それはもう、人間ではない。そんな姿を見た瞬間、ふいに美喜久の目から涙がこぼれた。俺はなんてことをしてしまったのだと美喜久は今さらながら悔いてしまった。


「涙を拭け。美喜久。」


 鏡は立ち上がって、美喜久をかばうように二人に対峙する。


「何もかも終わった後に泣いちまえ。」


 鏡は身をかがめ、銃弾の如く美喜久の両親に向かって行く。


 父親が目前に迫った鏡に腕を振るう。風圧のすさまじさに、鏡の短い髪が舞う。だが、鏡はその振るわれた腕にナイフを走らせる。そして、その勢いのまま、回転し父親の胴を一閃。大量の血が鏡に降りかかる。そんな鏡を母親が腕で抱きしめるかのように捕まえようとする。


「っと。」


 鏡はバックステップで素早くかわす。父親は負傷を感じさせない動きで、鏡に飛び掛かる。鏡は父親の服を掴み、背中から転がるように地面に背をつける。その際に父親の首に一閃。そして、左手と両足で父親を自分の頭の方へと蹴り飛ばす。鏡は転がった勢いで態勢を立て直す。だが、その一瞬を狙われる。母親は腕を振るい、鏡を突き飛ばす。鏡は咄嗟にガードしたが、美喜久の足元まで転がっていく。その隙に父親は立ち上がっていた。


「首を掻っ切っても生きてるってのはどういう了見だよ。」


 鏡の呼吸は荒い。これまでの疲れが出ているのだ。鏡は早かった。しかし、美喜久の両親は鏡と同じくらい素早かった。両者の能力は互角。しかし、鏡はふたりを相手にしなければならない。


「止めときな。」


 鏡は美喜久の考えを読んで忠告する。


「銃をぶっ放せばお前を襲ってくる。あれはもう不死身の怪物だ。銃なんて役には立たない。」


 鏡は再び両親に向けて突進する。今度も父親の方へ。父親の目前で、鏡は地面をスライディングする。そして、左手で父親の足を掴み滑り込みを止める。父親が振り向こうとした時、鏡は体勢を立て直していた。そして、懇親の一撃。大きく振るわれた腕は父親の首を捉え、大きな軍用ナイフは父親の首を落とした。


 だが、背後ががら空きであった。母親は鏡の背中に腕を突っ込む。


 ずぶり。


 あまりにも簡単に母親の腕は鏡を貫いた。鏡はそのまま自らの体を顧みず、振り向き、再び渾身の一撃。無防備な母親の首は、父親と同じように地面に落ちる。そして、鏡の体から大量の血が噴き出す。鏡が身体を回転させたとき、母親の腕は鏡の体を引き裂いていた。


 全てに満足したように鏡は倒れて行く。


「鏡――!」


 美喜久は慌てて鏡に近寄る。まだ、息はあった。


「私はな、両親を殺したんだ。」


「しゃべるな。」


 美喜久はなんとか鏡を救おうと考えるが、もうどうしようもない。治療できないことがわかるほど、ひどいものだった。


「ある日うちに知らない男が来て、私を買うって言ったんだ。どうも借金の肩に売り飛ばすみたいでさ。うちの親はひどかった。仕事はしないわ、酒ばっか飲んでるわ。パチンコに行って一文無しになるわ。そん時、何もかも吹っ切れたのさ。で、私は気がつけば包丁で親も男も殺してた。」


 鏡の体からは血にまみれた内臓が出てしまっていた。美喜久は鏡から目を逸らす。


「その後、私は近くの家の奴らを殺して回った。別に恨みはなかったけど、止まらなかった。私を捕まえに来た警官も殺したよ。どうも私には殺しの才能ってのがあったらしい。でも、捕まって。で、死刑になった。私が中学の時かな。」


 鏡の目は虚ろで、機能しているとは思えない。美喜久ではなく、遠いどこかを見ているようだった。


「中学生ってのは少年法が適応されるから、無期刑になるはずだったんだよ。でも、死刑になった。お前は今日から成人だって言われてな。理不尽だよな。こんなこと、あるんだもん・・・なあ・・・」


 鏡は息を吸うことはなかった。全てをはききって、美喜久に自分のことを語った。


「なんでお前らはいつもそうなんだよ。」


 美喜久は泣いた。そして、すぐに物質になった鏡を捨てて歩き出す。静かな町には美喜久が鉄の棒で地面をつつく音しか聞こえてこなかった。




「しぶとく生き残ったのね。」


 教会後に朗花は立っていた。まるで何かを待ち構えるように。朗花の服は血で染まっている。顔も一面血だらけであるのに、それでも朗花は美しかった。


「吉歌も鏡も死んだよ。」


「そう。」


 何事もなかったかのように朗花は言った。


「朗花。お前はみんなと同じように死なないよな。ずっと俺といてくれるよな。」


「それは無理ね。だって、あなたも私に殺されるもの。」


 背後からの声。いつも最悪の時に彼女は訪れる。


「美麗。」


「あら、嬉しい。やっと名前で呼んでくれたのね。」


 美麗は左腕をだらりとさせながらもいつもと変わらぬ笑顔で語りかける。


「逃げなさい。」


 朗花は短くそう言った。


「あんたの相手は私よ。」


「ええ。いいわ。あなたを倒してから美喜久くんを殺してあげる。でも、わからないわ。どうしてあなたが教祖サマを裏切ったの?いいえ。裏切れたの?」


「待って。俺を一人にしないでくれ。」


 美喜久は今になって吉歌の気持ちが分かった気がした。


 朗花は美喜久の制止を聞かず、鞘を勢いよく投げ捨て、あらわにした刀身で美麗を斬る。


 キイン。甲高い音が響く。


 美麗は短剣で朗花の太刀を受け止めていた。


「どうして教祖サマの寵愛を受けたあなたが、教祖サマを裏切るの。」


 朗花は美麗の短剣に弾かれ、後ろに跳ぶ。美麗はそのまま朗花に突っ込む。


きいん、きいん。


美麗のラッシュに朗花は太刀で防ぐのが手一杯だった。


「成功例第一号のあなたが!どうして!」


「私を!その名で!呼ぶなあああぁぁぁぁ!」


 今度は美麗が朗花に弾き飛ばされる。そして、互いに互いの刃を何度も何度も叩きつける。それは一生続きそうに思えた。


 美喜久は走った。不自由な足でできるだけ早く、逃げた。


 涙で目の前が曇る。それでも走った。


 道もない山を登る。木々の幹を掴みながら、無様に美喜久は逃げていった。




 夜が明ける。


 全てが終わった。


 美麗は亡骸となって地面に転がっている。朗花はまだ生きていた。しかし、体中が傷だらけで、長くは生きられそうになかった。人々が迫ってくるのが朗花には分かった。


「きっと、また会えるわ。」


 朗花は真っ白な景色の中、息を引き取った。




 老人は嘆いていた。老人は世界を操るほどの富を持ち、世界平和のために役立てようとした。しかし、争いはなくならない。もうすぐ自分の寿命は尽きようとしているのに、世界は平和にならない。


 だから、老人はかねてからの計画を実行することにした。


 誰も争わない世界。それを実現するには、人々から争いを奪ってしまえばいい。争いを起こそうという考えを無くしてしまえばいい。


 それを実現するには人間の脳の機能を損壊させなければならない。赤子と同じレベルまで知能を落とさなければ、ならない。そのための薬物は開発済みだった。そして、不穏分子を一掃するための戦士も製造に成功した。


 あとは、実行するだけだった。




 メレンゲ教が世界を覆いつくしてから幾つもの時が流れた。世界はメレンゲ教のもとに、新たなる形に作り替わった。


 男が目にしているのは大きなツボのような建物だった。それが一つの国である。資源の枯渇を防ぐため、人はドームを作り、そこで調整され、家畜のように人間らしさもなく暮らしている。


 男が歩いているのは砂漠だった。白い砂漠。世界は大きく姿を変え、ここが以前の世界地図ではどこに位置するのか。そんなことは誰も知らない。


 男は錆び付いた鉄の棒を杖代わりとし、歩いている。口には煙草。背負っているリュックは全て煙草が詰まっている。ピース。平和を象徴するその銘柄は、男が持っているもの以外この世界には存在していない。


 男はそんな砂漠の真ん中で一人の少女に出会った。まだ幼く、歳は十にも満たないだろう。


 男は少女に近づく。


 こんなところでどうしたんだい、と男が全て言う前に少女は男の腹にナイフを刺した。


 少女が手にしていたのは、少女の手には合わない、大きな軍用ナイフであった。髪は獣のようにぼさぼさで顔は見えない。


 男は無傷だった。腹にもう絶版となった漫画雑誌を仕込んでいたからだ。


 男は、と言ってももう老人と形容すべき歳の、白い髪の男は、ハリのない皺だらけの手で、少女の髪を退ける。


 そこに現れたのは、いつか別れた少女によく似た、美しい顔だった。目は青く、強い意志で男を睨んでいる。


 男は少女を両手で抱き寄せた。


 この子を一生愛していこう。


 男はそう決めた。

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世界平和はお金で買えるのか ~お前ら全員サイコかよ編~ 竹内緋色 @4242564006

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