安達太良の彩
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安達太良の彩
一.
赤みを帯びた桃色の冬瓜のように伸びた頭には、濡れた産毛が捩れて張り付いていた。
五歳の私は、不思議なものを見るように目を見張り、息をのんで新生児の傍らに立ち続けていたと、母は時折、彩(あや)の出産の思い出を語る。
春とはいえ、盆地を囲む山の斜面にはまだ雪が残る会津若松の実家に、私を連れて戻った母は、私の妹を出産した。
夕刻から始まった陣痛に父もかけつけ、朝の産院で私達は産声をあげた赤子に対面した。
父は、黒々とした髪と今は紅だが生来は色白と思える肌を持ち、目鼻立ちが優しそうな娘の誕生を喜んだ。
乱れ髪でベッドに寝ている母は、少しやつれて見えたが、隣に横たわる娘を見て満足そうに微笑を浮かべ、父がかけた労いの言葉でさらに安らいだ。
産院の窓から見える天守閣は、暁の朝焼けを過ぎて、灰白色の雲に溶け込んでいた。
郊外には、そろそろ花芽をつけている剪定された背の低い桃の畑が見える。桃は「天下無敵 チャーミング 私はあなたのとりこ」という花言葉を持っていると入院前に母が教えてくれたことを私は思い出した。
会津では桃の開花は彼岸よりも先だが、実家は新暦の三月三日で雛を祭っていた。
母が臨月を迎え実家へ戻ったときには、既に今年の雛祭りは終わっていて、母は子供のときから親しんだ優雅な雛が仕舞われていたのを少し残念がった。
生まれてくる子が女の子と知っていた母は出産前に雛を見たかったのかもしれない。
祖母は雛祭りに供え、わずかに残ったあんこ餅を、私に焼いてくれた。
母の実家は造り酒屋だが、江戸時代は会津藩の廻(かい)米(まい)奉(ぶ)行(ぎょう)だった。
明治維新を迎えた時、会津の第十代藩主は徳川十五代将軍慶(よし)喜(のぶ)の弟の松(まつ)平(だいら)喜(のぶ)徳(のり)であった。第九代の松平容(かた)保(もり)は藩主を譲ったあと京都守護職を務めていた。二人の藩主はともに維新で職を追われ、実家も危うく離散しかけた。当時の若い廻米奉行の当主が武家を捨て、たまたま跡取りがいなかった遠い姻戚の造り酒屋を受け継いだ。
それまで藩出入りの米問屋達との取引で、多少は得ていた商いの知識と、杜氏や三役を初めとした蔵人に支えられ、初代の当主はなんとか店を切り盛りし、二代目、三代目も酒造税の度重なる引き上げなどの厳しい時代をくぐり抜け、昭和のはじめには素封家となった。
今は祖父が株式会社の社長として取り仕切り、母の兄が社長秘書として支えている。
鶴ヶ城のすぐ北側に酒蔵を構え、資料館も開設しているので多くの観光客が見学に訪れる。醸造に使う井戸水は、磐梯山の伏流水で灘の名水に極めて近い水質であった。
また米も地元農家との契約栽培で安定した品質を確保し、昔ながらの「造り」にこだわり、地元に愛される酒を目指してきた。
「人の口に入るものには嘘はつけない」
何時からか、当主や蔵人頭が折りにつけ口にしてきた言葉が、純米大吟醸に代表される芳醇で香りが高く、端麗な味の薫酒を生み出した。
また、先代の曽祖父が観光との共存をはかり、昭和三十年代当時は珍しかった、酒蔵の見学や試飲販売を取り入れたことは酒造りにもよい影響を与えた。観光客を呼び込むだけではなく、客の酒への反応を目の前で見ることもできた。祖先達の苦労が実り、今では東日本でも指折りの酒蔵に発展していた。
母は幼いころから幾つかの習い事をしていたが、そのなかでも上達したピアノの才能に本人と家族が期待し、ピアニストを目指して東京の音大に進んだ。大学院にも進みディプロマも取得したが、プロで生計を立てるまでは至らず、将来に逡巡しているときに、突然目の前に現れた銀行員の父と結婚した。
しかし、ピアノをあきらめたわけではなく、音大関係の伝手などでセミプロ的な立場で演奏は続けていた。
また会津時代のピアノの恩師が主催する演奏会にも、折に触れ参加していた。妹を出産する前の年の春にも、恩師から呼ばれプロコフィエフやショパンを演奏した。
学生時代には正確ではあるが硬質であった演奏は、人妻となり母となったことで、凛とした面を残しつつ、女性らしく柔らかな耳になじむ優しい音に変わっていた。特に母は、音楽に対し正直でまじめな思いを生涯変わらずに貫いたとされるプロコフィエフが好きだった。
私は以前からピアノを弾く母を誇らしく感じていたが、さらにその母が懸命に妹を生んだことにも感動した。
産院からの帰り道に父は、
「優しそうで、何か華のある気もするから、女性らしい名前にしよう」
と、私に聞かせるように独り言を言った。
私は、男女の区別も分からないような妹の紅から桃色に変わりつつあった顔をぼんやりと思い浮かべた。
そして、この赤ん坊が私の中に明瞭に存在し始めたことを感じた。
鈍い薄曇の空に青空の切れ目ができ、暖春の訪れを予感させる日差しが北の飯豊山を照らしていた。
実家の側を流れる堀川べりには、山吹が一メートル位の枝を伸ばし、葉の鋸歯が目立ちはじめている。
城から延びる広い通りに面した町屋は、木造二階建ての切妻で、軒を格子と漆喰壁が支える。
一月に吊った杉玉はまだやや青みを残してはいるが、新酒造りはそろそろ仕上げの火入れの時期を迎えていた。
彩は母と一緒に退院し、実家で祖父達に囲まれながら、命名された。
父が「華のある名前を」と言っていたので、私は花の名をつけるのかと思っていたが、母や親戚など誰もが、可愛いい、女の子らしい、この子に合っていると「彩」という名前を気に入った。
久しぶりの女子誕生で、造り酒屋の祝宴は盛況だった。
赤飯や山(さん)椒(しょう)漬け鰊(にしん)、赤腹と呼ばれるウグイのお吸い物、馬刺し。
手(て)汐(しお)皿(ざら)という小振りの漆塗りの椀に盛る汁の意が訛って、「こづゆ」という会津の代表的なおもてなしも、もちろん振舞われた。
こづゆは、乾物が中心で、七または九種類の具材の数が、奇数で縁起が良いとされる。糸こんにゃく、人参、椎茸、里芋、木(き)耳(くらげ)、豆麩、大根、牛蒡、鶏腿肉などが、貝柱と鰹の出汁で煮込んである。
私は子供なので朱塗りの手汐皿だが、祖父達は腰高の汁椀で食べる。
実家の飲み口の軽い吟醸酒と相性が良い。
酒はもちろんいくらでもある。
最初は組盃で祝い、蒔絵の入った小盃になり、そのうち面倒になって漆塗りのぐい呑みになる。
歌は、もちろん小原庄助さんの「会津磐梯山」が、ひとしきり繰り返され、次は詩吟つきの「白虎隊」の剣舞。
五人の蔵人が竹光を振り回して見得を切る。
お城にお殿様がいれば叱られるぐらいの大騒ぎである。
私は、大人達が日頃からは想像できないほど心置きなく宴を楽しんでいることで、興奮した。
そして彩の誕生は、大切な宝物を授かったことなのだと思った。
二.
私と妹は大きな患いもなく、神奈川の家で成長し彩は五歳になった。
夏になり、母と私達はいつものように会津の実家へ里帰りした。
会津へ行けば避暑かとも思われるが、実際は盆地なので関東より暑い日も多い。
彩は描いてあった祖父母の画を持参して「おみやげだよ」と二人に渡した。
祖母は、水玉のワンピースを着て、大きな黒い瞳を輝かせている彩を膝の上に抱き、微笑んでいる二人の画を何度も眺めて喜んだ。
私は、入ってはいけないと言われている酒蔵の仕込み部屋で、梯子を登ったり、鴨居にぶら下がるいたずらを繰り返した。
居並ぶタンクの上部の口を囲む梁を、杉の丸太を削った柱が支えている仕込み部屋はジャングルジムのようだ。
彩は私の後をついてくるが、仕込み部屋の入り口で立ち止り、
「お兄ちゃん、だめだよ」
と、言う。
かまわず遊び続ける私を待ちくたびれてしゃがんでいたが、やがて母が教えた「夏は来ぬ」を歌いだした。
「うーのはなの におうかきねに
ほととぎす はやもきなきて
しのびねもらす なつはきぬ」
一番の歌詞だけをおぼえているらしく、何度もくりかえす。
やがて、酒蔵に響く歌声を聞きつけて、とおりかかった女性社員が彩に気付き、梁の上に乗っていた私を見付けた。
母に叱られた私は、仕方なく風のない蒸暑さを避けて、鶴ヶ城内の桜の木陰や堀端で遊んだ。
城内には武徳館も残っている。
私は、師範代をしていた祖父から勧められ、小学生から剣道を稽古していた。神奈川の剣道教室に通っていたが帰省の折には、武徳館で行われる剣道の暑中稽古にも通った。
道場では薙(なぎ)刀(なた)も稽古していて、暑中稽古の最後の日には、恒例の薙刀対剣道の試合が行われた。小四になっていた私は、剣道組の先(せん)鋒(ぽう)で出ることになった。例年、試合を見てはいたが、薙刀とは立ち合い稽古もやったことはなく、まして試合は初めてだった。
薙刀を稽古している子供は男女同数位いるのだが、私の相手は近くの漆器店の同学年の娘だった。少し細身だが、私より頭一個分くらい背が高い。かわいい顔をしていると思っていたが、試合を控えて口を真一文字に結んでいる。瞑想でもしているのか、しばらく目を閉じて座っていたが、立ち上がり礼をすると、獲物を狙う猫のような鋭い目つきで私を睨んだ。
気圧されながら、どうしようかと考えているうちに、始めがかかった。
普通に相中段で打ち合うと、長さが違うので竹刀は届かない。
払うか巻き落として攻めるか、受けて返すしかない。
出ばなや抜き技は、薙刀がどういう軌跡で打ち込まれるか読みにくいので、迂(う)闊(かつ)には打てない。
とりあえず、気合をかけ、少し左右に振りながら、出方をみる。
相手は薙刀を振り上げ、振りおろし、竹刀を払ってメン、左に開いてコテと盛んに打ってくる。
普段聞いたこともないような、強烈な気合の入った声である。
やはり、竹刀が届かない。捨身で払い籠手、払い面しかないか。
剣先で少し払ってみるが、切っ先に振れても隙はない。
さらに厄介なことに、薙刀は石突という柄の一番下と切っ先を前後入れ替えて、振り返しで受けたりするので、攻めこんでも返しの打ち込みがくる。逡巡しているうちに、間合いを詰めてきたので、剣先を上げ、応じて打ち込む気配をみせた。
私が上げた籠手を、相手が打ちに来ると予想し抜いてメンを打とうとした途端、薙刀が振り下ろされて、
「おースネー」
審判の旗が三本とも揚がった。
確かに脛に防具はつけて、有効打突であることはわかっていたが、打たれてみて、何とも言いようがない初めての感覚だ。
右足の弁慶の泣き所が痛い。
少し右足をあげケンケンしたが、すぐ二本目の開始である。
背が低くても薙刀は不利ではないのに、長身の女子に上下から打たれては竹刀で防ぐのがやっとである。
そのうち、また「おースネ」と振り下ろされ、片足を上げてよけ、動きが取れないところで、今度は籠手を、
「おーコテー」
とやられて、完敗である。
薙刀組の女子は大拍手、剣道組の男子はみんな俯いたり、首を振ったり、先鋒がやられただけなのに、もうひどい落ち込み様である。
礼もそこそこに、籠手と面をほどいて、手拭いで汗をぬぐい、ため息をつく。
胡坐(あぐら)をかき、そばで見ていた祖父が顔をそむけている。
背中が上下に揺れている。
すると彩が、
「おじいちゃん、なんで笑うの、お兄ちゃん負けちゃったのに」
と、祖父の背中を肩たたきのように叩きながら、半べそを掻いている。
母は笑ってこそいないが、唇を結んでこらえているようだ。
彩が「ひどい、ひどい」とやめないので、母が見かねて抱き上げた。
「おじいちゃんを叩いちゃ駄目でしょ。泣かなくてもいいのよ」
しかし大恥をかいた。祖父はまだにやにやしている。
彩はやはり会津の女なのだろう。
兄を敬い、侮辱する相手には、祖父であっても毅然としている。
控えめで辛抱強いが、情に厚い。
戊(ぼ)辰(しん)戦争の際には会津の城下に突入した官軍を目の前にして、敵に辱めを受けるくらいなら、と多くの婦女子が自害して果てた。
また、自ら薙刀をふるって戦った女性達もいた。
武勇を尊ぶ会津の武家の男達は、「女の手を借りるは後世の恥」と止めたらしいが、結局は彼女らの気迫が勝って、何人も城内に立てこもり、徳川のため、藩のため、家族のため、戦ったという。
汗をぬぐいながら試合前とは別人の様な笑顔を浮かべている漆器店の娘を見て、私は会津の女は強いから仕様がないのだと言い訳を考えた。
越後山脈から降りて来るフェーン現象で湿った暑気が続き、私は彩も巻き込んで母に外出をねだった。
盆地を囲む奥羽山脈や越後山脈、飯豊山系の山々や猪苗代湖に足を運べば、東北のさわやかな夏が楽しめる。
母は子供のころから、幾度か家族や友達と訪れた、会津と中通を隔てる安達太良山に私達を連れて行くことにした。
会津若松側から登ると沼尻温泉のスキー場から登山道へ入り、白糸の滝を左手に見て、稜線に達し、硫黄で薄黄色になっている沼ノ平の谷底を眺めおろす。
船(ふね)明(みょう)神(じん)山(やま)を経ると左右切れ落ちた狭い稜線になるが、やがて安達太良山頂直下の開けた気持ちの良い登山道が続く。
母はこのコースを取るつもりで祖父に報告した。
「沼ノ平を回るのは、女子供だけではやめたほうが良い」
普段は淡々と話す祖父が、沼尻スキー場からと聞いて、造り酒屋の当主らしく隙を与えない口ぶりで言った。
「大丈夫よ、何度も行ってるし」
女子供といわれ、母は少し気色ばんだが、祖父が凝然と見返したのを見て、
「まあ・・・、そう、ロープウェイに子供達を乗せてあげようかしら、あだたら高原から行きます」
と如才なく、思いついたように変更した。
「くろがね小屋に泊まれば子供達も星とご来光も見られるし」
「沼尻からは昔は列車もあって、賑やかだったがな。今は精錬所もないし、道が危ないだけだ」
「山越え 谷越え はるばると・・・」
母が高原列車のメロディーを口ずさんだ。
母が四季折々の登山で何度か滞在したくろがね小屋は、安達太良山の二本松側中腹にある。
二本松から安達太良山に向かう途中にある岳温泉は、江戸時代の初めは源泉に近いくろがね小屋付近で栄えていたが、明暦年間に大きな地すべりで多数の死者が出たことから、現在の場所近くまで移った。
また、戊辰戦争の際に二本松藩が官軍の拠点になるのを嫌って焼き払ったので、更に現在の場所まで下りて復活した。
岳温泉と反対側の山腹では、明治三十二年と三十三年に、水蒸気噴火・爆発が頻発し、沼ノ平火口が形成された。
火砕サージが西側斜面の沼尻鉱山を襲い死傷者が出たが、硫黄が豊富なことから鉱山はしばらくして再開された。
「黄色いダイヤ」と呼ばれた硫黄は、医薬品やマッチなどの原料として採掘されていた。鉱山の西の精錬所から硫黄を運ぶために、沼尻と川桁の間に大正二年に全長十五キロ余の軌道が開通し、ドイツの「コッペル蒸気機関車」が活躍した。鉄道は硫黄だけではなく、湯治やスキーの客も乗せ、五十六年間に渡り力強く走り続けた。
しかし石油精製での安価な硫黄が出現して、昭和四十三年に廃坑となり、鉄道もなくなった。
福島県小野町出身の作詞家・丘(おか)灯(と)至(し)夫(お)は、小さい頃から身体が弱く、父親に連れられ軽便に乗って湯治に来ていた。
その頃を思い出して作られた「高原列車は行く」は、やはり福島出身の古(こ)関(せき)裕(ゆう)而(じ)が作曲し、昭和二十九年に大ヒットした。
軽やかなメロディーは鉄道の思い出とともに、今も人々の心に刻まれ歌い継がれている。
安達太良山は活火山として人々に硫黄や温泉の恵みを与えたが、一方で爆発やガスなどで悲劇をもたらした。
平成九年九月十五日に沼ノ平火口付近で、硫化水素ガスにより登山者四名が亡くなった事故があった。
一行は早朝から会津若松側から登り、稜線にたどり着いたが、霧に迷い沼ノ平の沢に下りた。付近では卵の腐ったような強烈なガスのにおいがして、最初の二人は駆け抜けたが、それに続いたメンバー三人が次々に倒れた。三人を助けようと駆け付けた後続者一人も倒れた。
硫化水素は人間が吸い込むと一~二秒で泡を吹いて絶命するという非常に危険なガスで、爆発の危険性も高く空気より重い。
この事故でくろがね小屋から鉄山へのルートと、鉄山から沼ノ平経由で沼尻方面に下るルートは廃止され、今では通れない。
岳温泉の源泉はこの廃止になったルート上にあり岳温泉までパイプで湯を引いている。八キロはあるが、硫黄の湯の華がパイプの中にこびり付き、源泉の温度から二度程度しか下がらないので、湯元より遠くてもかけ流しの名湯が楽しめる。
無論、くろがね小屋では小屋番が適温に管理した、絶好の湯が楽しめる。四季を通じて、再訪する登山者や湯治客が多い。
会津若松ICから東へ向かうと、会津盆地を出る峠を登る。
左手に磐梯山が屹立し、右手に猪苗代湖の広い湖面が輝く。
眩しく美しい青空を車窓越しに、直射日光を避けながら眺めていると、下りにかかり、九十九折の道を母は柔らかなハンドルさばきで快適に降りていく。郡山JCから東北道を北上し、すぐに二本松ICでおり、岳温泉に向かう。
「あれが、安達太良山よ」
母はいくつかのピークが並ぶ稜線の左側の突起状になった山頂を示した。そして、
「光る阿武隈川はここからは見えないけど」
と、つぶやいた。
温泉街を通り抜けてあだたら高原スキー場に着くと、標高は千メートルになる。ゴンドラリフトに乗ると、千三百五十メートルの八合目に達する。
幼稚園年長の彩は、覚束ない足取りではあったが、初めての登山と晴れた朝に広がる夏空の魅力にはしゃぎながら、私と抜きつ抜かれつしながら登っていく。
五葉松や石楠花(しゃくなげ)など母の背丈よりやや高い潅木に囲まれた木の階段を上り詰めると、平坦だが岩の点在する展望地にさしかかった。
見上げると、目の前の尾根の先にぴょんと突き出たようなピークが見える。
「あれが頂上よ」
「あと、どのくらい?」
「今、半分くらい来たところ」
ペットボトルの水を飲み、揚げもちをかじりながら安達太良山の右の方を見ると、なだらかな傾斜のはるか先に尖った山頂がある。
そのまた右には細長い箱を置いたような、岩と低木で覆われた台状の山が見える。
再び登り始めると小さな鈴蘭のようなピンクの花が次々に現れる。
母は彩に花の名前を教える。
「この小さな鈴のような赤い花は、裏白瓔珞、ほら葉っぱの裏が白いでしょ」
「ラジオローラ?」
「ウラジロヨウラクよ」
躑躅(つつじ)のような白い花を葉先につけた群生は、細長い緑の肉厚の葉がやや不気味だ。
「これは石楠花」
上品な白の花弁の中に、細長い雄蕊が十本以上ある。
散りかけもあるが、まだ沢山の花が広がっている。
「石楠花は地下水の流れ落ちる傾斜に茂ることが多いから、木の下は危ないのよ。滑落することがある。花言葉も『危険、警戒』。葉っぱには毒もあるのよ」
彩は、母の説明はそっちのけで「ラジオローラ」と繰り返しながら、まるで蝶か蜂のように花を移りながら登っていく。
すれ違う何組かの登山客が、私達に優しく楽しげな挨拶を投げかけ、下りていく。
やがて、両側を覆っていた林を抜け出て、山頂の広場に登り着いた。
なだらかな裾野から盛り上がっていく女性的な穏やかさとはうって変わって、頂上は荒々しい表情を見せている。
繰り返されてきた火山活動のせいで、硫黄色の小石や黒茶けた花崗岩しかない。
乳首山と呼ばれている山頂の溶岩の突起に攀(よ)じ登り、展望すると、北に胎(たい)内(ない)岩(いわ)・鉄山・船明神山に囲まれた沼ノ平の火口が広がっている。
東には登ってきた岳温泉の先に二本松の街並みが見えるが、阿武隈川は判然としない。
南には和尚山がなだらかに、気持ち良さそうな稜線を流している。
西には会津若松盆地が見えるが、猪苗代湖は霞んだ雲が覆っている。
その右には磐梯山の鋭い山頂が立っている。
その右の奥に吾妻連峰が見える。
山頂には小さな祠があった。
母は何を祈るのか、祠の前にたたずみ手を合わせていた。
コンロとクッカーを出し、湯を沸かす。
蕗(ふき)味噌の味噌汁とおにぎり、生姜で煮込んだ椎茸、鰊の山椒漬け。店の酒を付け込む前の酒饅頭。
日差しは強いが、風が心地よく体を冷やして、高い空と眼下に広がる緑が昼食に劣らないご馳走だ。やがて、北の分岐に向かう。
山頂を少しコルまで下りると、点々と道標代わりの白いペンキの丸印がつけられた岩が続く。背丈以上のケルンも幾つかある。
間隔の短さが霧や雪の天候時の厳しさを物語っている。
「お兄ちゃん、あれって鯉のぼり?」
魚の眼のようなマーキングを見て、彩が尋ねる。
私は、なだらかな道を先行する彩を追いながら分岐についた。
彩は左に折れていく軽い下りを駆けていった。
私は名前を呼びながら彩を追う。
硫黄色に染まった深い沼ノ平に鋭く切れ落ちるキレットの手前で、彩は立ち止まっていた。追いついた私にも、谷底から上がってくる硫黄川の沢の音が聞こえた。
「そっちじゃないわよ」
母の声が響き、彩と私は分岐まで戻り、反対の東側に下り始める。
また先行した私は、母の姿を確認しようと途中振り返ると、乳首の山頂が背後に見える。
今度は道を間違えてはいないと母が小さく肯く。
十五分位歩くと、勢(せ)至(し)平(だいら)とくろがね小屋のルートが分かれる。
矢印を描いた道標が何本も短い間隔で続き、先行する彩はその都度、私に、
「こっち?」
と、指差しながら進んでいく。
やがて夏の強い太陽が少し薄らいだように感じられ、下る先から白い霧がまだらに吹き上げ始めた。
途切れ途切れに上がってくる雲は、塊が大きいので緩やかにみえるが、間もなく私達を真っ白に囲み、山頂も隠し、もう景色は見えない。
標高を下げてくると樹林帯が広がり、道の右側の沢は隠れ、瀬音だけが響く。ウソや鶯(うぐいす)が囀っている。
松、ミネザクラ、カエデ、ナナカマド等が入れ替わり現れる。
低木だが子供には高い林が白い霧の中に続く。
遠くで雷が響いたようだ。
白い花を緑の肉厚の葉先につけた群生を見つけた彩は、その花の真下に近づいていく。登るときは多かったが、下りではあまりみかけなかった花は、細い登山道から二、三歩、少し谷に踏み込みかけたところに広がっていた。
群生の奥が切れ落ちているのに気が付いた私は、
「彩!危ない」
と、叫んだ。
その瞬間、花の下にたどり着いた彩は私を振り返ったが、群生のなかに引きずり込まれるように落ちていくようにみえた。
急いで近づいた私は、切れ落ちた谷を下の沢にずるずると滑って行く彩を見つけた。
「つかまれ、木につかまれ」
彩は頼りなげな笹をつかんだが、落下は止まらない。
ゆっくりだが崖を滑り落ちていき、沢の岩に当たって、倒れこんだ。
私はこの傾斜なら行けると思い、斜面に寄りかかるように腰を引き下降し始めた。半ばぐらいまでずり降りたところで、斜面はむき出しの固い岩盤になった。すがるものもなく、足を滑らせた私はそのまま倒れている彩の側まで転げ落ちた。
母は、峠の分岐からなだらかな坂を降りながら、大学一年の夏、くろがね小屋で過ごした一夜を思い出していた。
久しぶりに集まった高三の同級生女四人で宿泊した。
小屋定番のカレーの夕飯のあと、それぞれが持ち寄った惣菜や菓子をつまみながら、夏の夜のテラスで高校の同級生の噂や大学などの新生活について語り合った。
夜ふけて部屋に戻ったが、寝付かれず一人でかけ流しの湯に浸かった。
テラスに吹いていた夜風で冷えた身体を、白濁した軟らかい湯が芯から暖める。隣の湯室から湿った戸の重そうな鈍い音が壁を伝わり響いた。
額にうっすらとにじんだ汗をタオルで拭い、浴室から食堂に出ると、日没間際に小屋に遅く着いた兄の同級生が、やはり湯上りの汗を拭いながら何か飲んでいる。
夕食時には偶然の再会を喜び互いの近況を話したが、食後は同級生だけの団欒に移ったので気がかりだった。
縁なしの眼鏡にやや長めの髪がかかった横顔がこちらを向いた。
「オウ」とも「やあ」とも聞こえる小声の挨拶とともに、長身が立ち上がった。
中学・高校のとき幾度か兄の部屋に来て二人でよく話していた当時の、純粋な面影が残ってはいるが、顎の辺りには青く髭が浮かんでいる。
彼は家業を継ぐべく福島の医大に進み、もうインターンになっていた。
少女の時、彼に初めて会って感じた胸の鼓動がよみがえり、誘うようにテラスへのドアを開けた彼に続くと、星が輝いてはいるが、山肌は深い闇に包まれていた。言葉をかけられたが、つまずきそうになり彼の腕を掴む。少し強くなった谷風がまた何かささやいた彼の言葉をかき消し、問いかえす。白いミネヤナギの綿毛や山百合の花が風に煽られて、母の気持ちのように浮き沈みした。
母は、下っている登山道に霧が立ち込め、行く手の見通しを遮っているのに気がついた。子供達は見えなくなったが、道を外れるわけはない。
そうは思いつつも、自然と足を速めていた。
「この雲は、夕立になるかも」
考えた途端、光は見えなかったが雷鳴が響いた。小屋まではもう二十分はかからない。
「彩ーっ、お兄ちゃん」
と、呼んだが返事はない。
やがて大粒の一滴が下り坂の木段に落ち、滲みたかと思う間もなく、二粒、三粒、見る見るうちにざあっというしのつく雨となった。
転げるように小屋に駆け込んだ時には、雷火が雲を割るように照らし、いかにも凄まじい雷鳴が轟き渡った。
懐かしい顔の小屋番が迎えた。
「いらっしゃい。あれ、子供達と一緒じゃないの。どうしたの?」
「えっ!」
表情を変えた母は、小屋のテラスに飛び出し、岳温泉へ下る尾根道を目を凝らして見た。しかし、雷雨とそれがもたらす靄(もや)が立ち込めている。
「お兄ちゃん、大丈夫、お兄ちゃん」
薄れていた意識から、彩の声で目覚めた私は、沢の両側を見上げた。
下から見る崖はひどく急峻で、私は急に強い悔恨に襲われた。何も考えずこんな急な谷をくだってしまった。彩は額を岩で傷つけたのだろう、出血がなかば凝固していた。
「大丈夫か?痛いか?」
「足が痛い」
額の裂傷を確認したつもりだったが、彩は右足の大腿骨を上から包むように両手で押さえ、痛みをこらえている。
沢に落ちるときに太腿をとがった岩にぶつけ、倒れこんだのを思い出した。
「立てるか?」
手を差し伸べ両脇を抱え、引き上げようとした。彩も立とうとしたが、
「痛い」
と、目に涙をあふれさせ、泣きながら答える。
右足が使えない身体は少し腰を浮かせたが、二人とも倒れこむ。
彩の上に載りかかりそうになった私は、体をひねってよけようとしたが、反動で二人とも沢の河原の上で半身ぐらい回転した。
彩の泣き声がまた谷底に響いた。白い霧はいつの間にか濃い灰色に変わっている。まもなく闇がやって来る。
寒気を感じて、私も彩も濡れ鼠になっていることに気づく。
落ちた時に気を失った。何時間たったのだろう。その間に雷雨を受けたのだ。
母はどうしたのか。すぐそこに登山道があるはずなのに、誰か通らないのか。
「お母さん」と叫びそうになったが、しゃくりあげながら泣いている彩の姿が、私を黙らせた。
私は出がけにかけられた祖父の言葉を思い出していた。
「お母さんと彩を、ちゃんと守りながら登って来い。
もう十歳なんだから、分かってるな」
祖父が十歳と言ったのは、これまで私に語ってきた会津の教えにちなんでいる。
会津松平藩の若松郭(かく)内(ない)に上士が構える屋敷は、約八百戸あったという。
祖父は今に伝わる江戸時代の子供達への教えを説いた。
上士の子息は十歳になると会津藩校の「日新館」に入学するのだが、六歳で地域毎に作られている「什(じゅう)」という遊びの仲間に所属し、「什の掟」を躾けられる。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
三、嘘言を言うことはなりませぬ。
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
五、弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、戸外でものを食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです。
年長者を敬う心を育て、自らを律することを覚えさせ、集団生活に慣れさせる為の幼年教育だった。最後に、
「ならぬことはならぬものです」
と子供達に有無を言わさず刷り込んでいる。
それは、将来会津藩を担う者達には、理屈抜きで守らなければならない規範が必要だからだった。
今の小学校では教師が「駄目なことは駄目だ」などといわない。子供達にすぐに反発される。現代では説明できることしか教えない。
会津では「先輩への畏敬」「虚言・卑怯な行為・弱者いじめの禁止」「礼儀等の順守」をくどくどと理屈では説明しなかった。
社会・人間の基本だからだ。これができない子供は「什」の子供同士で制裁を受けた。一番軽い処罰は「無念でありました」と、お辞儀をしてお詫びする。
「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、誠に残念であります」
と、いう意味だ。
より重い制裁は、手のひらか手の甲に「しっぺ」を加える。仲間だからと力を抜けば、什長はやり直しを命じた。
一番重いのは「絶交」で、父か兄が付き添い、什長と什の仲間に深くお詫びをするが、許されなければ、再び什にはもどれない。
子供達自身で、「会津武士の子はこうあるべきだ」ということを互いに約束し励み合った。
祖父は昔ならば什に入っていた年頃の私に、何度も言い聞かせてきた。
教えに背いたわけではないが、私は祖父の期待を裏切って、彩を守れなかった。
失神したためか、浮遊感で足元が覚束なかったが、彩を助けなければいけないという気持ちが、私を緊張させた。
雨は止んだが黒くなった雲は二人を安達太良山の谷に閉じ込めている。
私は闇に目を凝らし、水量を増した沢の流れを確かめ、下って行けば母に辿りつけるかもしれないと考えた。私の怪我は打撲・擦過傷だけなので歩くことはできる。小屋は、多分下流にあるはずだ。
「彩、助けを呼んでくるからここでじっとしていて」
「どこへ行くの、いやー、置いていかないで」
「大丈夫」
「お兄ちゃん、彩を置いていかないで、やだ、やだ」
私は彩が見える範囲で、少し沢を下ったが、小屋の在り処どころか登山道の手掛かりも見つからない。これ以上彩から離れることはできない。
もどって彩の手を握った。
冷え込んでいく沢でかばうように抱き合っていた私達の上に、吹き始めた風がやがて雲を追いやった。
星が輝き十三夜の月が南中する頃、私と彩は、二本松の警察・消防、会津から駆けつけた兄と蔵人達によって、夜半に強行された捜索により発見された。
彩の右足は重傷で外傷性ショックもひどかったが、伯父が救助を頼んだ親友の医師に救急措置を受け、なんとか早朝搬送されるまで小康を保った。
私は、彩を抱いた母があんなに泣いたことを忘れられない。
三.
怪我から回復はしたものの、右足を引きずる後遺症が残った彩を、母は絵画教室に通わせた。
彩は教室で行なわれる静物デッサンや野外写生を楽しみながら、次第に上達した。
一番好きなのは空想画だった。手近な素材を描きそれからイメージを膨らませ、想像の世界を描く。
小一の秋に写生会があった。
土曜の午後から始まり翌日も午前中引き続き描き、完成させる日程だ。
高台にある富士山が見える公園で行なわれた。
マリーゴールドや芙(ふ)蓉(よう)の花が咲いていた。付き添っていった母は彩に「繊細な美 しとやか」という芙蓉の花言葉を教えた。
芙蓉の掌状に浅く分かれた葉は、表面に白い短毛があり、直径十~十五センチ程度の赤や白の花をつける。何個かの花を写生し、翌朝から色付けする予定だった。
彩が翌朝公園に行くと、描いたはずの花は咲いていない。代わりに別の枝に咲いている。さらに昨夕の赤い色とは異なり真っ白だ。
彩は、
「あれー、ほんとだ」
と、言ったものの、何も気にせず紙の上の花に白や鮮紅色を塗り分けた。そして、
「こっちが朝、こっちが夕方」
と言いながら、朝陽と夕陽を描いた。
母は芙蓉は一日限の花で、朝から夕に変色することも教えていた。
描かれた白い花には赤いトンボが、赤い花には白い蝶が止まっている。
花の下には兎がいる。花や昆虫や小動物が好きな彩は、想像しながら彼らの仲間を増やしていく。空想部分は、太めの単純な線と素朴な色で描く。写実したところと、空想したところが融合して不思議な印象を与える。私はでき上がった絵の、想像で描かれた部分のストーリーを彩に尋ねた。
「この大きなかぶと虫さんは、蟻さんと喧嘩してるの。蟻さんが大きくて運べない餌を、かぶと虫さんが運んでくれるって約束したのに、お酒ばかり飲んで、約束を守らないの」
「かぶと虫さんがお酒を飲むの?」
「内緒なの、お兄ちゃんには教えてあげる、誰にも言っちゃだめだよ。
でも、本当はかぶと虫さんも大変みたい。ならの木に毎晩登らなくちゃいけないから」
「トンボは?」
「山の上から、ずっと飛び続けて、やっとここまで来て、兎さんに山のことをお話してるの」
翌年の春、フェルメール展が開かれ、母は私達を連れて行った。
「光の天才」といわれ左上から差し込む光が印象的だ。
青いターバンを髪に巻き、真珠の耳飾りをつけた少女が左を向き、肩越しにこちらを振り返っている肖像画があった。
下唇は明るく光り、ぬれているようにも見え、少し開き加減で、誰かに気付いて振り返った一瞬を捉え、微笑しているのか、何か言いたそうにも見える。左耳の真珠には輪郭線はないが、強い光の反射だけで直径二センチメートルはありそうな大粒の真珠を明瞭に描いている。
色の数が少ない。背景の黒、ターバンの青、頭の上から垂れるショールの黄色が目立つ。
私は、少女の微笑は確かに解説に書かれている「オランダのモナリザ」だと思った。
母は彩に感想を聞く。
「まわりが真っ暗で寂しそう。外に出たくないのかな」
帰宅して、母は昔買った美術全集の一冊をだし、
「印象派が好きになるかな?」
と言いモネの蓮を見せた。
しばらくページをめくっていた彩は、ルノアールの「ポンヌフ・パリ」に見入っている。
一八七二年頃に描いた「ポン・ヌフ」は、セーヌ川に架かるパリ最古の橋で、向こう岸にはアンリ四世の騎馬像とシテ島の街並みが広がっている。
明るい日差しの中、馬車が橋を往来し、こども連れ、兵士、恋人達など様々な人達が描き込まれ、当時のパリの活気と喧騒が感じられると解説に書かれている。
一八七四年第一回印象派展に参加した頃に、ルノワールは天才といわれ始めたのでその直前三十歳ころの作品らしい。
「それが気に入ったの?」
「お兄ちゃん、ほら、これ見て」
指は描かれている人の影を指している。
右奥から手前に向けて射している強い陽光が、石畳の路面や橋の欄干を黄色く光らせ、人影は黒ではなく、青く塗られている。
川面は、白い雲が所々浮いている空を映して真っ青である。
目に眩しい山頂のような空だ。
母は、
「おおぜいの人や馬車の活気があって、色も沢山使っているね。
彩はいろんな物や色に強い関心があるし、細かい所もよくわかるね」
と、ほめた。彩はさらに感想を言った。
「描いた人がきっとすごく元気なんだよね」
母にほめられた彩に、私は少し嫉妬した。
私は、モネの「蓮」より彩を引き付けているものは何かわからない、聞くのも恥ずかしい、絵ではかなわないと思った。
母は、
「絵だけではない、色んな人達のことや、毎日起こることを考える時も、何かする時も同じ」
と、言う。
人々は様々な考えで何かを言い行動する、描かれている景色や人や車などを見つめるのと同じように、それをしっかりとらえることが大切だと、母は私達に教えた。
私は、小六で剣道一級に昇級した。教室に通い始めた一年生の頃は、やんちゃ盛りで、稽古で相手を遠慮なく叩けることが楽しかった。
強い先輩にはかなわないが、小柄な同級生や年下の子には、面や籠手を竹刀でうまく打てるので面白かった。叩いても誰も叱らないのだ。什の教えも剣道は別だと思っていた。
しかし、しばらくして一人前に打てるようになると先輩達が容赦しなくなった。特に胴を狙った竹刀が外れて脇の下を打たれたり、籠手を上から薪割りのように叩かれるとひどく痛い。
熟練者が打つとどんなに早く強い打突でも、痛みはあとに残らないが、初級者に力任せに打たれると、時に体にミミズ腫れができ、青タンが残る。師範に竹刀の打ち込み方の指導を受けて、上達してくると、次第に殴るような打ち込みをしなくなる。
また、打たれることで、体の痛みを知るようになり、自分の技が相手にどの位の痛みを与えたか想像がつく。人の痛みを自分に置き換えて考えれば、痛めつけることが申し訳なく恥ずかしく感じる。そして意図せず傷つけたりすれば、それは「無念であります」となる。
やがて上達していき、叩くことではなく、技を決める心地よさを覚える。
格闘技は体がつらいので、互いに守るべきルールや、敬礼が自然と体に染み込んでいく。いつしか普段の生活でも、いたずらに暴力を振るわなくなる。
剣道場・剣道教室対抗の大会が、年何回か開催され、団体戦と個人戦が行なわれる。小六の私は、市の大会に剣道教室の代表チームの大将で参加した。チームは順調に決勝まで勝ち進み、優勝をかけた勝負は大将戦にもつれ込んだ。
私は先に出籠手をとったが、メンを二本立て続けに取られ敗れた。
師範は、「守りに入り正眼を外した」と指摘した。そのとおりだった。
二本目のメンは辛うじて相打ちに持ち込んだのだが、中心を外さなかった相手のメン打ちに、私の竹刀ははじかれた。
正眼は正中線を外さず真っ直ぐ詰めれば、咽喉仏を突き刺す必殺の構えだ。何故いつも稽古でやってきた正眼を外したのか、その時の私は分からなかった。相手が上回ったのか、何が差になったのか。
四.
安達太良山の遭難で傷ついた右足に残った後遺症は、彩の足枷になった。引きずる足取りが、意味のない好奇心と遠慮のない視線と有難くない同情を誘う。彩はあきらめて耐えた。次第にどんな相手に対しても、動揺しないための殻を身に付けていった。
だが安達太良の事故に対する悔恨を抱いていた母は、彩を深い慈愛で育み励まし、生来の強く優しいそして細やかに見つめ明るく振る舞う性格を取り戻させた。
彩はいつしか殻を脱ぎ、羽ばたき始め、賢く可憐な少女となって小学校を卒業した。
しかし、中学生になった彩の異変に母が気付いたのは、六月の半ば、伊豆の温泉に蛍を見に行った折だった。
いつもこんなときには喜んではしゃぐようになっていた彩が、夏めいた夕方の薫風の中で殻を脱いだばかりのトンボが、弱々しく草の穂にすがりついていたのを見て泣いた。
母は彩の涙には気付かず、穂先を見て、
「あら、随分こんなに早くトンボが。羽が光って、綺麗ね」
と、言った。彩はかろうじてうなずいたものの、息を飲み込んで答えない様子で、漸く母は気付いた。娘の理由の分からない涙をみて、消し去ったはずの黒い塊のような不安が母の胸によみがえった。
母は、かつて何度も両掌で頬を包み込んで励ましたことを思い出したが、顔を包むことはせず、涙の訳を聞いた。
しかし彩は顔を背け立ち上がり、せせらぎの傍らに輝く小さく残る炭火の様な光に歩み寄った。
蛍は幼虫から蛹(さなぎ)を経て成虫となるが、幼虫として水辺から陸に上がるとき、既に発光している。
ゲンジボタルは特に蛹になる前、陸に上がった途端の光が強い。
青黄色の蛍火を見つめながら彩は何を思っていたのか。彩も光を発していたのかもしれない。私には見えなかった。
しばらくして、母は中学の担任教師に相談した。
入学時の面談の際には三十台の男性の担任は、母が彩の障害と小学校での生活ぶりを説明してもあまり興味を示さず、将来の志向と学習塾通学の有無について質問しただけだった。
母は、中学にいくつかの小学校から進学してくる未知の同級生に、彩がなじめるか不安だったが、初めて会った事務的な教師に遠慮をした。
担任は突然訪れた母に、挨拶もそこそこにいぶかる様に用件を尋ねた。
「娘が最近ふさぎこむことが多く、学校で何か変わったことはないでしょうか?」
「別に思い当たることはないですね。特に変なこともないし・・・。
家ではうまくいっているのですか?
中一位の女子は父親とうまくいかないことが良くあります。そばによらない、顔もあわせないとかは普通で、体臭で吐いちゃう子もいるくらいですから・・」
「夫の居ないときも変なんですが・・・。」
「お母さんも中一の頃、思春期で不安定な時期はありませんでしたか?とにかく学校では何もないと思いますよ、一応気を付けときます」
母は、校庭の塀沿いに咲く紫陽花の移り気な瑠璃色をめでる気にもなれないまま帰宅した。
夏休みにはいつものように会津に帰省し、彩は絵を描き、私は剣道に汗を流して過ごした。母は故郷の夏が、彩に平静を取りもどさせた様に感じ、涙の訳を問いただすことはなかった。
秋になり中学が始まり、しばらくたったある日から、彩は塞ぎこみ自室にこもるようになった。二日ほど気分が悪いと言って休み、通学し始めたが、母は帰宅した彩の着衣の汚れや小さな傷を見つけた。
再三問いただしたが、転んだだけだ、いじめなんか受けていないと繰り返した。
秋の彼岸になり父の実家の菩提寺に墓参りに行った。
墓地では、曼珠沙華が赤い花を競っている。彼岸花とも呼ばれるこの花は「情熱 悲しい思い出 独立 諦め」という花言葉をもっている。
万両も実を硬くし始めている。
前日から母が父に頼んでいたらしく、父が彩に話しかける。
墓地から広い境内に戻りながら学校はどうなのかと尋ねる。
彩は足を引きずりながら小声で答える。
「大丈夫」
「友達はいるのか?誰かにいじめられたりしてないか?」
「いじめられてない」
「最近絵は描いているのかい?」
「あんまり・・」
「秋の花の絵でも見たいな、彩、描いてくれよ」
「うん」
しかし、翌週は一日だけ通学すると、登校しなくなった。
母が理由を聞くと、
「絵を描かなきゃ」
と答えたが、自室にこもってベッドにもぐり絵は描いていなかった。
不登校が三日続き、母はまた担任に相談に行った。
「同級生達とうまくいっているのでしょうか?いじめられてはいないでしょうか?」
「そういうことはないと思います」
「怪我をしたり、制服を汚して帰ってきたこともあるのですが、何か争いでもあったでしょうか?」
「お母さん、子供達は様々です。活発な子、おとなしい子。
また、興奮するとき、物思いで静かなとき、毎日お互いのやり取りで感情が変わりながら成長していきます。そのなかでいろいろなことが起こります。昨日までの親友と犬猿の仲になることもあります。
ですから、多少のトラブルはあって当然なのですよ。
子供達が大人になっていく過程なのですから」
「でも、学校へ行きなさいと言っても、部屋にこもって出てこないのです」
「登校しない理由は何故か、本人はなんと言ってますか?」
「絵を描かなければと・・」
「え、何ですか?」
「父親が絵でも描けば気晴らしになるかと思って、リクエストしたのです」
「そういうのは、登校拒否とは言いませんよ。いじめなんかないですよ。
私は担任としてちゃんとやってるんだから、変なことを言われたら困ります。冗談じゃないですよ、いじめがあるなんて教育委員会にでも伝わったら、とんでもないことになるんですよ。生徒のために一生懸命やってんだから」
「絵は小学校から教室に通わせて、これまでいつもちゃんと描いてきました。絵のために学校休むことなんて・・・」
「とにかく、学校へ登校させてください。
お父さんにも言ってもらって下さいよ、絵より学校が優先だと」
「もちろん、登校するように言っているのですが・・・」
「明日は、一緒に連れてきて下さいよ。いいですか」
「わかりました」
担任との話は終わり、母は校庭の隅の秋桜の上を飛ぶ赤トンボを見て、彩が見つめて泣いた脱皮したてのトンボを思い出した。
あのトンボは今も飛んでいるのだろうか?
トンボは成虫になってから数ヶ月飛び続け、セミなどよりもはるかに長く生きる。だが冬は越さない。
母は翌日、首に縄を付けるように学校へ連れて行き、彩はその次の日も通学した。
しかし、三日目の抜けるような青空が広がった秋晴れの日、夕陽が没し薄暗くなり、家々の灯が闇に洩れ始めた頃、彩は中学の屋上から飛降りた。
職員室とは別棟の校舎だったが理科の教師が実験室にたまたまいて、ドンという落ちた音を聞き発見した。一命は取り留めた。夕闇であったため地表が見えなかったからか、コンクリートではなく花壇の側の雑草の上に落下したことが幸運だった。
だが、遺書もなく、本人はひどい錯乱状態で、自殺未遂の理由はろくに聞き出せなかった。
父と母は、原因はいじめではないかと学校を追及した。
学校が実施したアンケートに、
「いじめられている彩を、一人の男子生徒が助けたのを見た」
という、回答があった。
目撃した生徒の証言で、加害者は三人の女子生徒とされ、追及されたがいじめを認めない。ただ、ふざけていてちょっと転んだことはあったが、怪我もしなかったし、仲はいいという。
父は、彩を助けたらしい男子生徒に話を聞いた。
「足を引きずっているのをからかっていじめてた。頭を小突いて押し倒していた。左足を引っ掛けて転ばせていた」
しかし、担任も校長も教頭も男子生徒の証言は無視し、加害者達の否定を根拠にいじめがあったとは認めなかった。そして、自殺未遂の原因がいじめのはずがないと強弁した。
マスコミで報道され、取材が病院と学校と自宅に押しかけたが、何も解明されなかった。むしろ父と彩の関係が悪化していた可能性を、担任がほのめかしたことで、家庭の問題ではないかとさえ言われた。
いじめをみて助けたといった男子も取材には、口をつぐんでしまった。
男子の両親が彼の口をふさいだのだろう。
父は学校の決着の仕方に納得せず、追究を続けた。
加害者とされた三人の女子生徒の家を訪問した。しかし三軒の親は、いずれも子供達のいじめの事実は否定し、玄関先で父を追い返した。
「中学校の先生が言っているとおり、家の子はいじめてなんかいない、こちらも被害者じゃないか」
父は校門で三人を待ち伏せして、担任に排除され危うく殴りあいになりかけた。
父は学校と同級生の追及を続けようとしたが、結局は、彩の口から真実が語られなければ解明できない。
彩は沈黙したままだった。
祖父は母と彩を会津に引き取った。
彩は外傷と心的障害の治療を受けた。
会津での彩の治療は、伯父の同級生の医師に依頼していた。
整形外科が専門で三代目の開業医だった。
彼は安達太良山の遭難の際も、伯父の依頼で、夜半に山小屋に駆けつけて応急処置をしてくれた。
外傷と共にPTDSも専門医と協力し、治療にあたった。
しかし彩を襲った何かが、彩をショック状態に陥らせ、パニックを引き起こすことが続いた。頭痛や腹痛、吐き気が頻繁に発生するが原因が分からない。
そして、眠れないので感情が鈍くなったり、緊張感や興味・関心などが減退していく。ようやく眠りにつくと、変な映像や感覚を伴う悪夢に苛まれる。彩は見えないものを見、聞こえないものを聞く。行けない所に行き、できないことをしようとする。
治療は彩の精神を一部麻痺させることで、一時的に現状に適応させようとする。
原因となった事件前後の記憶を回避・忘却させようとする治療を続けるので、真因を探ることはより困難になる。
祖父は酔うと「什の教え」が必要だと繰り返し、半ば独り言で語っていた。
「日本はおかしくなっている。教育は最低だ。いじめは見つけて対処するものではない。理屈で防ぐものではない。刑罰を重くすることは根本治療ではない。子供には、絶対に暴力を振るってはいけない、どんなことがあっても弱いものをいじめてはいけない、そう教え込むのだ。
ならぬことはなりませぬ、そういうことを有無を言わさず叩き込まなければいけないのだ。優しい、たくましい、勇気のある人間を育てなければ日本はおしまいだ」
母は、祖父が酒に弱くなったように感じていた。
酔った祖父を見るのが嫌だった。
事件から半年がたち、彩は栃木県にある発達障害や不登校の学童を扱う特別支援教育の学園に中一として入学した。学園で母が付き添って暮らした。
学園の生活で彩の精神的な症状は安定しつつあったが、事件や神奈川の中学を呼び起こすようなことがあると、やはり呼吸障害やひどい動悸に見舞われ、しびれや痙攣を起こす。また、よくわからないが何かを見たり思い出したりして、突然症状が出ることもあった。
父は頻繁に会津に帰り、また栃木の学園にも行き、母と彩を労わった。
しかし一方で遅々として回復しないことに苛立ち、時折母と衝突した。
悲しみは一人ひとり違う、混ざり合うことはあっても溶け合うことはない。
母には母の、父には父のそれぞれの悲しみがある。
悲しみに色や形や音があるとすれば、それらが形作る組み合わせは千差万別なのだ。
やがて時がたち、同級生達は中学を卒業し担任も異動し事件については誰も語らなくなった。
五.
私は、大学に合格し法学部で勉強の傍ら、剣道に打ち込んだ。
そして司法大学院にすすんだ。
事件から五年が過ぎ、大学院一年の冬に、両親が離婚した。
両親の離婚という事実は、私を混乱させ憤りを何にぶつければよいのかわからなかった。
父は彩の事件の解明ができないことをいつも嘆き、あきらめて仕事に集中しようとした。しかし、彩の回復の遅れと母との衝突の繰り返しに、精神的に不安定な状態が続き深酒も頻繁になり、職場でも疎まれ、生活に疲れ切っていた
父は私に説明した。
「僕には、もう、彩を救うことはできない。彩を救おうとしているお母さんを助けることもできない。お母さんとは話し合ったが、もう無理だ。
僕は、どうして彩が自殺を図ったのか、その原因も調べられなかった。
そもそも、自殺しようとした彩に何も気づかず、防ぐこともできなかった。そして、彩を回復させることもできない。何もできない。助けるどころか、お母さんを傷つけてしまった。
このままでは、もっとひどいことをしてしまいそうだ。
僕にとってこの家庭はもう意味をもたない、修復できない廃墟になってしまった。お前には申し訳ないことだが、許してくれ。独立するまでの支援はする」
母は父の苛立ちに耐えようとしたが、自身も焦り苛立ち、幾度も諍いを重ね、やがて夫を拒むことが自分と彩を守ることになると感じていた。
「なによりも彩を救うこと、回復させること。そのためにはこうする方がいいのよ。大丈夫よ、私は絶対に彩を立ち直らせるから。この方がいいの」
母は、毅然として自分に言い聞かせているようだった。
母は、彩が落ち着けば実家に戻り彩と静かに暮らしていくことを望んでいた。
「過去のことは消せないのだから、いいの。彩がまた自由に羽ばたくように生きられるようになれば」
私は離婚に反対する気にもなれず、彩を襲ったなにかが時を経て増殖し、ついに夫婦をも蝕んでしまったことを覚った。
私は父と母にも彩にも、何もできなかった。私は何とかして、私の家族に何かができる力を獲得したかった。そして、私が彩と母を支えることが父を喜ばせることにもなるのだと考えた。
彩は栃木の学園で休学もしたため、通常より二年遅れの十七歳で中学を卒業した。さらに同じ学園で高校に進んだ。高一の時、休学し留年したが、皮肉なことに両親の離婚後、彩の高校生活は平穏に進んだ。
父と母は、彩の前で衝突をするのは避けていたはずだが、やはり母の気持ちが時折すさんでいたことが、回復に影響していたのだろうか。
治療と時の経過も後押しして、発作の頻度と発症時の症状も軽減されていた。
栃木の学園では、東京のNPO法人と協力して認知行動療法を実施していた。順調な社会生活のためには、人ごみや乗り物に対する恐怖を取り除かなければならない。そのために実際に出かけてみる。外出に徐々に慣れさせ、不安感を取り除いていく。
彩は何度かこの治療法を受け、付き添いと出かけて、平静を保つようになっていた。
また、彩が得意とした絵を描かせることによる治療も効果を生んでいた。
過去の楽しい思い出や想像を描くことで平安な時間を過ごさせる。テーマを与えず自由に描いたものの説明をさせる。胸の中にあるものが絵と言葉になって吐露される。心理療法士が説明を聞き、何が彩を縛り付けているのか、真因を探る。また、パニックを引き起こす言葉や過去の記憶も、絵というフィクションの中で何度か触れていくことで克服していく。縺れてしまった糸をほぐすように、胸の呪縛を解いていた。
母は、緩やかだが出口に向かっていると信じていた。
しかし長い間、彩を看てくれている女性の心理療法士には、気懸りなことがあった。若い男性に過剰反応することがある。
よく気をつけてみていないと分からないのだが、特定のタイプに反応するらしい。ただ救いは彩がそのことを、何とか乗り越えようとしていることだと彼女は語った。
飛降りたときの怪我の後遺症はなかった。
安達太良の事故の後遺症も身体の成長と共にほとんど消えていた。
だが、自殺を図った原因は依然として彩の心の中に隠れたままだった。
事件から八年目の春が来た。
彩は二十歳となり高校三年を迎えていた。
私は法科大学院卒業後の司法試験に合格し司法修習を終え、大学の先輩が開いている神奈川県の弁護士事務所に就職した。
事務所は地元の中小企業を何社か抱え、また主に資産家の民事相談もこなしていた。先輩の所長が、勉強のためといって、私に国選弁護の仕事をすすめた。裁判所からまわってきたのは、被告人弁護の刑事事件だった。
被告人は二十二才の男性で準強姦および傷害で告訴されている。
横浜の拘置所で接見した。彼は既に少年時代を含めて、傷害、暴行などで三回逮捕・起訴されていた。しかし実刑はない。
「あなたは現在執行猶予中でしたが、この期間に何かあれば実刑確実ですが?」
「あの女が怒らせるから、つい・・。いや、でも犯罪になることはなんにもやってないよ」
「あなたは被害者のマンションに、三日間侵入し、準強姦、そして被害者に暴行して全治三週間の打撲傷を与えたということですが・・。認めますか?」
「強姦?あいつが誘ったんだ。怪我なんかさせてないよ、診断書でっち上げて」
「準強姦だから、正常な判断ができない状態だったのではないですか?暴行だけで致傷ではない・・。被害者は何度も殴られたと言ってますが、どうですか?」
「俺はあいつを助けてやったんだ、それをふざけやがって、こんなことになるなら、ほんとにぶん殴っておけばよかった」
「助けたとは?」
「店の女の男にいじられそうになって、女がヤキ入れてたのを助けてやったんだよ」
「うーん、店というのは、以前被害者が勤めていたキャバクラで、そこの同僚の女性の彼氏が、被害者に手を出した。それで同僚の女性に暴行された?」
「そうだよ、俺が助けてやらなきゃ、あいつは今頃、どうなってたかわからないんだ。その被害者ってのやめろよ。あの野郎、なんでマッポ呼ぶんだよ、恩てものがあるだろ」
「知り合ったのはキャバクラの客として二ヶ月前。助けた時は、彼女はどんな状態でした?混乱していませんでしたか?やめてとか、抵抗しませんでしたか?」
「なんで。俺は助けてやったんだよ、恩しらずだよ、あの野郎」
「少し落ち着いて。このまま裁判やると実刑の刑期が長くなりますよ」
「弁護士さん、とにかく助けてやったら、ありがとうとか言うから付き合った。それでちょっと喧嘩しただけなんだから、勘弁してくれよ、お願いしますよ」
再犯で、準現行犯逮捕で、執行猶予中、判事も酌量などしないだろう。
初めての国選なのに、被告が告訴の内容を認めないのでは手がかかりそうだ。
「金は?彼女から受け取りました?」
「ちょっと借りたけど、感謝したからくれたんだろ」
黒ぶち眼鏡をかけて隠しても、時折現れる狡猾な細い眉と横目の視線、非対称な口元と少し俯いても突き出す顎。頭の両サイドは刈り上げ、真ん中は染め色が落ち始めている金色の長髪、ワルらしいバランスすらもとれていない不整合な被疑者に、接見した私はどう弁護しようかと迷っていた。
拘置所の塀沿いの桜はとうに終わって、先端の分かれた花弁が長く伸びた、紫の野薊(あざみ)が咲いている。葉先や茎には触れば痛そうな棘が伸び外敵を防いでいる。
司法修習時代に刑事事件はもちろん研修していたので予想はついたが、実際直面するとなると少し勝手が違う。事務所で準備しようと地下鉄に乗った。
しかし、何か胸のどこかに引っかかるものがあった。良く分からないが変な予感めいた感覚があり、はじめての担当するための困惑なのだろうかと思った。
地下鉄を降り、地上に出て、いったん事務所の近くまで帰ったが、やはり気になって所轄署に行った。たまたま調書をとった刑事がいた。
「あいつね、随分少年で悪かったらしいよ、結構うまく逃げてたけど、今回はもうだめでしょ」
「いつごろから?傷害犯ですか?」
「中学からじゃないですか。傷害になってんだけど、被害者は女子だけですよ。被害者が傷害でしか告訴しない事案が多いから。
まったく相当悪いよ、あいつは。本当は、婦女暴行と強制わいせつ。
今回のもうまく近づいて弱みに付け込んだんだよね、忍び込んでとか待ち伏せとかやんないんだよ、だからうまく逃げてんだけどね、実際は性犯の常習。なんか困ってるとこ助けたり、やさしくして、安心させてどっか引きずり込んじゃうんだよ。あんまりいないタイプではあるけど、やっかいだね」
所轄署の記録で、被告の住所を確認し学歴をみた。
彩と同じあの中学だ。彩が一年のとき事件はおこり、彼はそのとき三年だ。苗字も思い出した。
「いじめられていたのを助けた」
父にそう言って、その後沈黙してしまった男子生徒と同姓だ。
私は安達太良のあの夜の様に、目の前に黒い闇が近づいてくるように感じた。彩の事件は、単なる同級生のいじめだけではなかったのではないか。いじめはきっかけでしかなかったのでは。彩が自殺しようとした理由はいじめではなかったのでは。
「刑事さん、中学のときからと言うことは、何か補導歴でもありますか?」
「少年課に聞いてみたんだよ。そしたら、中三の時に一件相談があって、高一の時二件、その一件は傷害で告訴があったが、少年審判で不開始処分になって、あとは高校中退してから三件かな、全部婦女暴行がらみだね。先生、国選でしょ、程々にしてくださいよ。こんなこと言っちゃいかんけど」
私は父に連絡し、当時助けたといった少年の名前と住所を尋ねた。
間違いなかった。私の推測は次第に確信に近づいて行った。
私は栃木に行き母と会った。そして、限りなく事実である可能性が高い、彩の事件についての推測を語った。母は、何も言わず聞いていた。
気づいていたのか尋ねると母はただ首を横に振り続けた。
聞き終わって、母は深い溜め息をついた。
「確かにそういわれれば思い当たることがあるわ・・・。
きっと間違いないわ。あの子は、私達家族のことも考えたのかしら。
私達が知ったら辛い思いをするだろうと自分の中にしまいこんでしまった。でも・・どうしたらいいのかしら。彩の気持ちは・・・。あんなにがんばってここまで来たのに・・・。
それにしてもなんであなたが弁護するの、ひどい偶然ね、逆でしょ」
「事件の真相がこのとおりだったとしたら、今からでもなんとかできる。
公訴時効は十年だからまだ間に合う。絶対に罰を受けさせるんだ」
「そんなこと、今さら、何の意味があるの。彩はもう少しで何とか普通に戻れるところまで来ているのよ。もう彩の心の中では、封印することができかけているんだわ。犯人は確かに憎いけれど、一番大事なのは彩なのよ」
「母さん、彩だってあいつを訴えてやりたいはずだ。彩や僕達をこんな風にしてしまった犯人を放っておく訳にはいかないだろ。僕がちゃんとやるから、告訴しよう」
「何を言ってるの、あなたは何を考えているのよ。やっとここまできたのよ、もう少し、もう少しなのよ。
お医者様も療法士さんも随分良くなったって言ってくれてるし。
だから、今さら事件のことが分かったからといって、色んなことが明るみに出て、彩がまた元にもどってしまったらどうするのよ。
告訴するって、彩を法廷に引っ張り出して、犯人に会わせて、忌まわしいことを証言させるの?あなたはこの八年の彩の苦しみを何だと思っているの。彩と私が積み重ねてきた努力をあなたはわかっているでしょ。
彩だけではないわ。証拠も証人も無理でしょ、今となっては」
「証拠は・・・」
私は、作ることはできないことではない、と言うのを思いとどまった。
加害者本人に喋らせればいい。被害者が直接やれば可能性は高い。
再会させて、何気なく事実をうまく認めさせ、録音すれば作れる。
被害は十三才未満だから暴行または脅迫を立証しなくても、姦淫の事実だけ認めさせれば犯罪は成立する。それがだめなら、私がなんとか聞き出すこともできるかもしれない。しかし、親告罪だから被害者が告訴しなければいけない。刑事犯はあきらめて民事という手もある。
それでも、法廷に彩を引っ張り出すことになる。母や祖父が承知しないだろう。いや、それよりも母の言うとおり、確かに彩が心配だ。
しかし、あいつに彩の苦しみの百分の一でも味あわせてやることはできないのか。私は何のために、弁護士をしているのだろう。妹を、母を、苦しめた男に何もできないのか。
「母さん、彩にはどうする、このまま知らなかったことに?」
「もちろん、そうするしかないでしょ。あなたも、このことはもう二度と口にしないで。彩のためなの、絶対よ、約束してね」
公判前整理手続きが開始され、訴因、罰条を確認し、公判での主張、事件の争点を整理し、公判期日を定めた。このままいけば予想通り、実刑が見込まれる。裁判が始まった。
被告人は準強姦については合意のもとであるとし、診断書の出ている傷害については被告の行為とは因果関係がないと完全に否認した。
検察は被害者に証言させた。
同僚の女性に乱暴されているところを助けられ、正常な判断ができないもうろうとしていた時に付け込んで暴行された。被害者のマンションに侵入し宿泊し、金も巻き上げられた。抵抗したが何度も殴られた。
私は主尋問が終わると被害者に反対尋問をした。
被告の言い分にそった内容で尋ねた。
被告が被害者を助けたことで感謝されて、誘われて親しくなった。ありがとうって言ってるから金も受け取った。確かに殴ったこともあるけど、ただの痴話喧嘩みたいなもので怪我するほど殴ったことなどない。告訴された傷害も、軽く押しただけで、勝手に家具にぶつかったのだ。
被害者は私の言った被告の主張に、意外にもしどろもどろになった。
助けてくれたときのことはよく覚えていない。誘っていないとは断言できない。確かにありがとうと金を渡したこともある。
被害者は「でも・・」と何度か言いかけたが、被告の方を見て口をつぐんだ。
私は所轄署の刑事が「うまく逃げてきた」と言っていたのを思い出していた。
検察側は予期していなかった展開に休廷を求めた。
六.
再開法廷に検察は別の証人を準備することになり、再開前の期日間整理手続きで、検察官が読み上げた証人の名前を聞いて私は耳を疑った。
彩だった。
検察官は八年前の中学での事件の経緯を、質問しようとしていた。
私は、何故彩が証人で出ることになったのか、理解できず混乱した。
いずれにしても、弁護人の妹が検察側の証人という異例の事態となり、
私は被告人からの解任を待たず、自ら申し出て裁判所から国選弁護人の解任を受けた。
裁判を傍聴した。
検察の意図が理解できた。
彩はいじめに遭い、心神耗弱状態で暴行された。
精神的な障害によって正常な判断力を失った状態にあり、心理的・物理的に抵抗ができない状態だった。
つまり、準強姦罪に当たる行為だった。今回の事件の被害者の事件と酷似している。
さらに被告人は、彩を助けたことと、暴行した事実で脅迫し、彩を再三暴行していた。
彩は更に、逃れるために自殺を図ったことも証言した。
被告人は、突然現れた八年前の被害者の証言に動揺し、今回の事件の公訴事実すべてを認めた。
何故、彩はこんなことができたのか。私は想像すらできなかった。
公判が終わって、私は母と彩と、地裁の近くの港に面したホテルのレストランで食事をした。
母は私の疑問に答えた。
母は伯父の友人の医師と栃木の学園の臨床心理士に事件の真相と推定される内容を話した。
相談を受けた二人は、彩の回復のためにどうすべきか検討した。
医師は、彩自身が真因を解きほぐし、乗り越えることが最良の結果をもたらすと言い、今回の経緯と自殺の原因の確認を行なうよう、母に勧めた。
女性の臨床心理士も医師と同意見だった。
彩の力を信じてあげてほしいと言った。
彼女は彩が描いた絵を見て、立ち直る力を確信した。
その絵には、遭難して傷つき、後遺症が残ったあの安達太良山が描かれていた。
荒涼とした山頂、その上に広がる夏の日の輝いた青い空、白い雲、そして緑の山腹に桃色の裏白瓔珞と白い石楠花。
臨床心理士は、遭難の話も何回か聞いていたから、意外に思ったが、彩の言葉を聞き納得したという。
「きれいな花はお母さんが教えてくれたの、お兄ちゃんは私を助けてくれたの。山が悪いわけではない。死ななくてよかった。もう怖くない、また行って見たい」
遭難し、後遺症がその後のいじめの原因になった山行を再度希望するというのは、安達太良山の美しい印象と家族の絆が与えた回復へのサインだと言う。
母はこれまでの積み重ねが水泡に帰すことを恐れ、二人の勧めを断った。
しかし、医師は否定した。
「彼女は突然姿を現した加害者のことをあなたが話しても、元の様な状態に戻ることは絶対にないでしょう。
何故なら、彼女の苦しみはこの事件の真相をあなた達が知り、辛い思いをするだろうという不安からだと思います。
あなた自身が、その気持ちを理解して母子の絆をしっかりとつなぐことによって、逆に彼女は完全に立ち直る。
確かに事件のことで心に傷を負っていることは間違いないが、彼女の障害は強いあなたへの愛の裏返しです。
あなたが彩の話をすべて聞いてあげる、痛みを分かち合うことが絶対に必要だ」
母は、なおも躊躇った。しかし、医師の言葉が決め手になった。
「あなたは、彼女の母だ。強靭さと優しさを備え、物事をしっかりとらえて強い意志で行動する、そんな彼女を育て上げた母だ。
自分が育んだ彼女を、あなたは自信を持って信じなさい」
母は覚悟をきめ、彩が立ち直ると自分に言い聞かせながら、あの加害者を私が国選弁護人として担当していることを話し、私が推測した内容を彩に確認した。
彩は大粒の涙を流し何度もうなずいた。その涙が今まで彩を覆っていた、厚い殻を洗い流し、医師達の予想通り彩は乗り越えた。
冷静に、過去の事件を振り返り経緯も話し、母を逆に慰め、感謝した。
母は加害者を告訴できる可能性を考え、私の微妙な立場を慮って内密に検察官に相談した。
立ち直った彩は検察官が依頼した証言も引き受けた。
母は説明を終えると長い吐息をついた。
「でも、本当によかった。こんなことが起こって彩がここまで良くなるとは想像できなかったわ」
彩の証言は毅然として力強く、内容も的確なものであったが、私はまだ一抹の不安をぬぐいきれない。
「お母さん、彩はもう大丈夫なんだね?」
母ではなく、彩が答えた。
「お兄ちゃん、私はもう気分が全然違うの。色んなことをやってみたい。
絵も描きたいし、会津のおじいちゃんのお店でお酒造りもしてみたい。そうだ、安達太良山にも登りましょう」
「え、酒造りをするのか?」
「うん、こないだ会津へ行ったとき、火入りしてない生酒をおじいちゃんが飲ませてくれたの。元気になったからって。
深く重なった香りがあって、口当たりはまろやか、飲んだ後すっきりして、さわやかでしょう。すごいなあって思ったわ。お米と水と麹だけで、自然の力が作り出すのよね。杜氏は、麹菌や酵母が働きやすいようにしてあげる。
神秘的だし、ちょっと温度や時間が違うと出来栄えが変わっちゃう。大変だけど、とても面白そう。
だから、まだおじいちゃんに言ってないんだけど、蔵で働きたい。
ねっ、お母さんいいでしょ?」
「もちろんよ、みんな喜ぶわ」
母は目頭にハンカチを当て、落ちかかった涙を拭いた。
「お兄ちゃんにも、そのうち私が造ったお酒を飲ませてあげるからね」
私は少女だった事件前の彩が、今、目の前に戻ってきたように感じた。
「証人って大変だったろう。
中には、緊張して答えられなくなる人もいるんだよ。
でも、彩はしっかりできたね。立派だったよ」
「そうね、証言は裁判を左右するものね。
でも、彼も、良くなってくれればいいけど」
「良くなる?」
「そう、罪を償っていい人生を送ることができるかしら?
きっと色んなことがあってあんなことを繰り返したんでしょう。
変わることができればいいけどね」
私はメンを打たれたような気がした。
彩は回復どころではない、成長していた。
「これ、美味しいね」
桃のジュレとフローズンベリーのデザートを食べている彩の黒い瞳には、ライトアップされた赤レンガ倉庫や、花火のようなイルミネーションの大観覧車が写っているようだ。
私は、彩の安達太良の事故も、自殺未遂も防げなかった自分の無力を、いつも胸の中に引きずってきた。
彩の悲しみを、自分の胸の中に移し変えられたらと、子供じみたことを思った時もあった。
正眼に構えていたつもりだったが、彩にメンを打たれた。
今、彩は障害を克服し、豊かで大きくなった姿を輝かせた。
私は、安達太良山を思い出した。
豊かな動植物を守り育む穏やかな山腹、荒涼とした沼ノ平を従え、福島の峰々や川や湖や人々を見守りながら、聳(そび)える山頂。
そして、幼かったころの彩の姿がよみがえった。
薙刀に負けた私をかばった優しい心。
活気に溢れ多彩な「ポンヌフ」を見出す目。
自然を切り取り、生物を想像し描く表現力。
障害を耐えぬいた力。
意志を貫く信念。
今、彩は穏やかだがたくましく生きる力をとり戻した。
これからは鮮やかな彩りに満ちた人生を創っていくだろう。
彩と母は会津に戻った。彩の実家で酒を造りたいという希望を聞いた祖父と祖母は、彩を抱きしめて喜んだ。
また夏が巡ってきて、私は母と彩と三人で安達太良山に登った。
母の嬉しそうな顔が、陽射しと同じように輝いている。
彩があの時のように花の側に近寄り、私達を振り返る。
「ラジオローラ」
「ははは、違うだろ」
楕円形の葉の表面は真緑、裏は白みを帯びている。
いくつもの枝に、桃色の釣鐘形の花が三輪から十輪くらい、束になって垂れ下がっている。
母は、
「明日のしあわせ 清らかな祈り」
という、裏白瓔珞の花言葉をつぶやいた。
「お兄ちゃん、安達太良山の上の青い空だけがほんとの空なの?」
私は空を見上げ彩の言葉を聞いた。
「そんなことはないよね。空はどこまでもつながっている。
会津でも栃木でも青い空はほんとの空よ。
でも安達太良の空が一番好きよ」
彩は涼風に髪をなびかせながら、気持ち良さそうに微笑んでいる。
トンボが飛び始めていた。
(了)
安達太良の彩 @ottow
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