ほんとうに来てくれるとは思わなかったから、嬉しい。あなた、久しぶりに見たけどずいぶん痩せたんじゃない? だめよ、もとから細かったのに、もっと……もっと食べないと。ええと、そう、話、というのは。そうだね、何から話したらいいのかわからないけど、でもあなたが聞きたいことは理解しているつもり。彼のことを、私の口からなにか、聞きたいと思ってここに来た、違う?

 私が言いたいのはつまり、そうね、彼はあなたが思っていたような人ではなかった、ということ。彼みたいな人のことは早く忘れて、きれいさっぱり、それで、あなたは新しい人と幸せになるべきだと思うの。そんなことない?

 ああ、私には言われたくないって、それはそうだと思う。あなたの言うのはもっともだと思うよ。あなたはやっぱり私のことをずいぶんな嘘つきだって思ってるみたいね。そう。そう、そうよ。でも、それでも私みたいな女が話すことの中にも真実だってあるの、私だって四六時中嘘を吐いて暮らしているわけじゃないから。


 亡くなった人のことを悪くいうのは良くないって、まぁそれはそうなんだけど。でもそれは逆に、彼は今は私たちの記憶の中にしかいないってことでもあるでしょう。語られることで弔いになることもあると思うの。あなたが彼を素敵だと思ったように、私もそう思っていたんだから。はじめはお互いの、とにかくいいところだけを見て、交際が始まる、人間関係ってそういうものでしょう。でも一緒に暮らしているうちに、粗が見えたり、嫌なところが見えたりする。それでケンカをしたりするわけじゃない。だからっていちいち殺しあってたら人間なんかとっくに滅びてる? まぁそれは、そう。あなた意外と面白いこと言うんだね。私はまだ、あの事件のこと、冗談にしたりする余裕は、ないんだけど……。


 意外とね、そうそう。あなたの思っているよりは、デリケートなの。事件のことは、そうね、まああれは、事故みたいなものだし。あ、ごめんなさい、怒った? そうね、うん、わかってる。取り返しのつかないことをしてしまったって。そう。あなたの言う通り私は殺人犯で、今は罪をつぐなっているところだから。事故って言うのは、私の主観で、事実とは違うよね。そこはわかってる。大丈夫、理解してる。ごめんなさい、そういうつもりじゃなかった。あなたを傷つけようと思ったわけじゃないの。それだけは信じてほしい。

 あれからいろんな人と話したの。警察の人、検察の人、ボランティアの人とか、牧師さんとか、受刑者の人、色々。それでね、私もその、たくさんのことに気がつくことができたし、人に支えてもらうことの大切さとか、自分がいかに恵まれていたかとか、不幸だったとか、たくさんのことに気が付けたんだよ。それで、そう言う中で、出所した後ここに戻らないためには、うまくそういう人の輪の中に入れてもらうことが大事なんだって。教えてもらって、自分の中で整理がついたところもたくさんあるんだ。やりなおせるって、初めてそういう言葉をかけてもらった。嬉しかった。彼の命は戻らないけど、私は、生きていてもいいんだって。ごめんね、無神経だったよね。違う、今はそういうことが言いたいんじゃなくって。

 あなたの望みはわかってるの。わかっててはぐらかしてたわけじゃないんだけど、ただすごくデリケートで、難しい話だったから。今から話すことは、私にとっても大切なことだから。どうしても会って、お話がしたかった。


 あの夜手元に包丁があったのは、ほんとうに偶然みたいなもので、珍しく魔が差して料理をしていたの。ほら、私はずぼらだから、普段はあまり料理とかもしないんだけど、ふと思い立って何か酢の物を作ろうと思って、買い物をして帰ってたの。いつもはね、あの人に任せっぱなしだった。ごはんも、おつまみも。でもその日はとにかく、自分で何か作りたい気分だったから。それにあの人酢が苦手で、においがダメなんだって。だから自分で作ろうと思って、塩もみしたキュウリを刻んでて、そのあと魚介も切るつもりだったから、包丁も、刺身用の少し良いのを使ってた。根が不精だから野菜と魚で包丁を使い分けたりしないんだ。あの人はまな板とかも色ごとに用途を分けてたみたいだけど、私はわからないから、適当に一番近くにあったのを使ってた。もしかするとそれも彼が怒ってた原因だったのかも。


 その時ちょうど彼が帰ってきて、確か少し酔ってたかな。それで、いつものように口論になって、あの人ああ見えてカッとしやすい性質なの、お酒が入ると特にね。それに私もこういう性格だから、お互いに、手加減って言うものを知らないのね。どっちも全然引かないから。それで、最初に手を出してきたのは、あの人だった。掴みかかられて、それがね、強い力で、けっこう怖かった。で、そう、そこから先は、さんざん話してきた通りで、はじめはほんとに、事故みたいなものだったんだよ。

 もみ合ってるうちに、彼が手を切ったみたいだった。血を見て、すごく激昂した様子で、怒ってた。殺される、と思った。だからとっさに刃物を構えた。振り上げたときに刃があたったのは、首。首筋だった。首を、斬りつけた。そしたら、彼がたぶん包丁を取り上げようとしたんだと思う。もみ合いになった。だから私も、腕を振り回して抵抗した。包丁は握ったままだった。取られたら殺される、と思ったから。

 それで、気がついたら彼が床に腰を下ろして、もしかすると貧血か何かだったのかも。血まみれだった。もちろん私もね。どっちから流れてる血かわからなくて、怖かったのを覚えてる。死んじゃうのかなって、思ったから。私がね。実際はまぁ、少し腕を切ったくらいだったんだけどね。興奮してると痛みってほとんど感じないんだね。だからほんとに、わからなかった。


 手当をしなかったのはなぜ? 彼が絶命するまでの時間、何をしていたか? そこは、記憶があまり鮮明じゃないの。わかる? 動転していたから。ただすごく、血が出てた。たくさん。私にも彼の血がかかって怖かった。だからずっとシンクに水を流して洗ってたの。包丁と手を、ずっとね。タバコも吸った。なにか怖くなったり、落ち着かなくなったら吸いたくなるの。嗜好品って、そういうものでしょう。

 怪我人の前で悠長すぎるって、そう言いたそうな顔をしてる。なぜ部屋を移動しなかったのかって? そう、そうね。浴室に、行けばよかった。あそこならタオルがあったから。それにあの部屋、あんなにしたらもう住めないよね。大家さんにも悪いことをしちゃったなって、今はそうじゃない? そうか、あなたが聞きたいのはそこじゃないよね、ごめんね。

 理由はだから、これと言って何もないの。殺されるかもしれない、と思ったから、殺した。それだけ。自己弁護のために言ってると思ってるでしょう。信じてもらえないだろうけど、でも、本当なの。

 彼を愛してたか? 愛してた。でないと同じ部屋になんて、住めないよ。


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