顔のない女

阿瀬みち

 大事な人が死んだ。奪われた。ある日突然に。


 私は彼を愛していた。彼が私を愛していたかは定かではない。今はもう失われてしまったから、尋ねる機会もないのだ。彼はある女の手によって、私のところから、あるいは彼の家族の元から、永遠に遠ざけられてしまった。

 それはまさしく強奪と言ってよかった。強奪、奪取、搾取、あらゆる感情がワイドショーの中では薄められてしまって、「別れ話のもつれから」「殺された」可哀想な男だということになってしまった。

 私はどうしようもできなかった。ただ彼を好きだった気持ちがぽっかりと宙に浮いて、行き場をなくしている。


 終わったものは、きちんと箱に入れて記憶の中にしまっておける。でも私の恋は終わりを知らない。だから私はその感情を名付けることができないまま、持て余している。

 彼のゆっくりだけど慎重な言葉の選び方、ビアノを弾く手の繊細で伸びやかなさま、読みたい、と私が何気なくこぼした本を貸してくれたこと、具合が悪い時にお手製のサンドイッチを差し入れてくれたこと。お母さんと仲はいいけど心置きなく話せる関係ではない、ということや、友達が海外で活躍していることに焦りのような感情を抱いていること、父親とはもう何年も会っていないこと、それでも昔にもらった十徳ナイフを捨てないでカバンにしまっていること、ナイフが銃刀法に違反しないように刃を潰していること、なんかをあのやわらかい声色でいつまでも聞かせてほしかった。

 

 なぜ? 女はなぜ彼を殺したのだろう。

 事件に関する記事をいくつか読み漁った。けれども真相は遠のくばかりだった。むしろ読めば読むほどわからなくなる。女の言っていることを理解したい、と思ったところで、裁判での供述は二転三転し、とうてい真実が語られているとは思えなかった。女ははじめ、別れ話を切り出したところ、彼の方がナイフを持ち出してきて、もみ合いになった、殺すつもりはなく、正当防衛だった、と主張した。しかし彼の負った傷はあまりに多く、女の凶暴性を証明するのに十分なものだった。女の力が足りなかったせいなのか、多くの傷口はどれも致命傷には至らず、死因は失血死だった。ということは、女が手当てなり救急車を呼ぶなりしていれば、あるいはそもそも、ナイフを振り下ろす手をどこかで止めてさえいれば、助かったこともありえたのだ。女は彼を刺した後なにを考えて、なにをしたのか、意識の遠のく彼を目の前に、なぜ処置をしなかったのか。女の言う通り、彼が殺されるに値するような下劣な行動をとったことがあったのか。

 私も証言台に立った。彼の人柄を証言してほしい、と頼まれたのだ。私は正直に、「付き合っている人はいるが彼女との将来を想像できない」「別れるべきだろうか」と彼から聞いていたことを話した。彼は誠実で、思いやりのある、まともな人で、話の通じない人ではないし、むしろよく人の話を聞こうとする人だ、という旨を話した。そのあいだ女は怖いくらい無表情だった。まるで何も感じていない、ガラスのケースに隔たれているような感じさえした。

 あの女の前に立つと、なぜだか感情が逆なでされて、怖い。激高と絶望が同じ強さで交互に襲ってくる。私もひどく体力を消耗した。「人前で話すということはそれだけで疲れるものです」と慰めてくれた人があったが、そうではない、それだけではないのだ。あの女の目を見ていると、ひどくむなしい気持ちになる。憎しみと憎悪を打ち消すほどの空虚さがあった。思い出すと涙がにじむほどだ。


 結局、女の口から謝罪の言葉が出ることはなかった。いかに自分が被害者で、混乱していたか、彼が暴力的で非人間であったかを、言葉を変えて繰り返した。人の命を奪っておいて、言い訳がましいことばかりを並べ立てる女の正気を疑った。女の証言は何度か覆され、また裁判員からいくつかの質問がなされた。裁判は最高裁までもつれた。何を争うつもりだったのか、私には本当に、女の考えていることや、言っていることがわからなかった。途中で法廷に赴くこともやめた。ほんとうに、身も心も疲れ切ってしまうから。彼のご家族のことを考えると、胸が痛くなる。あの女の虚言に最後まで付き合わさせられるのだから。

 最終的に、女の望んでいた執行猶予はつかなかった。結審を傍聴するべきか考えたけど、どうしても足が向かなかった。怖かったのかもしれない。その代わりに、スマホをじっと眺めてニュースをチェックしていた。事件の扱いは小さかった。世間の人はすぐに死人のことなんか忘れてしまうのだ、としみじみ感じ入った。


 彼の母親、都美子さんのところに何度か花を届けに行ったことがある。一度目は彼の葬儀、二度目は仏前に、それ以降は彼女自身に花を贈るようにしている。少しでも気が晴れるように、彼の育った家が明るく生に満ち溢れた場所になるように。

「どうして」

 という言葉を、都美子さんも私も必死にこらえていた。こらえていても、ときたまあふれ出してしまう。でも「どうして」の言葉はあの女の前では空虚な砂の偶像に代わってしまう。尋ねれば尋ねたぶんだけ答えが返ってくる。でもそこに中身はない。毎回変わる返事に私たちは都度心をかき乱され、体を引き裂かれるような痛みに焼かれた。

 だから私は、ただ美しい花を持って、彼の家に通った。そのくせ、私はまだ一度も彼のお墓に参ったことがない。彼の骨がそこにうずめられているのかと思うと、どうしようもなく悲しい気持ちになる。ほんとうはまだ信じられないでいるのだ。いつかふらっと帰ってきて、私のスマホに連絡があるのではないか。私の家の玄関を尋ねてくるのではないか、そういうふうに思えてしまう。いっそのこと気でも違って幻覚でもいいから彼が会いに来てくれたらいいのに、と思う。

 けれども私は正気を保ったまま、今日も家族向けのアミューズメント施設で働いている。ときどき家族連れの中に彼の顔を探してしまうのだ。似た背格好の人を見ると、まさか。と思って顔を確かめようとしてしまう。彼に似た人が、かわいらしいお子さんを連れているのを見ると何とも言えない気持ちになる。

 先のことなど考えたこともなかった。私と、あるいは別の女性と、彼が子供を持つことはあったのかもしれない。彼が生きていたら、きっと子供のことを可愛がるいいお父さんになっていただろうに。でもそんな未来は、もう。彼の人生は二十七歳の誕生日を迎える直前に、絶たれてしまったのだから。


 ある日都美子さんからメールが来た。「あの女から手紙が届いたんだけど、怖くてまだ開けられないの。明美ちゃん一緒に読んでくれない?」少しでも出所が早まるように、反省をアピールしたいだけだと思ってるんだけど、と都美子さんは続けた。「私あの人の言うことはどうしても信じられないの。初めて会ったときに、なんだかすごく、嫌な感じがしたのよ」

 初めて会ったときに、か。

「わかりました。今度の休みに伺います」返事を送ってから、瞼を閉じると脳裏にあの女の顔が蘇ってきた。不思議なことに記憶の中のあの女の顔は、顔だけがぽっかりと空洞なのだ。誰でもあって、誰でもない。そもそもそんな女が本当にこの世に存在していたのだろうか。ときどきわからなくなる。すべては妄想で、幻覚で、虚構なのではないか。いつか悪い夢から目を覚ますと、正行さんの生きていた世界に戻れるのではないか。そんなことをまだ、考えてしまう。



 休みの日に、すこしだけきっちりした服を着て、彼の家に赴く。

「ごめんなさいね、忙しいのに。いつまでも明美ちゃんに頼っちゃいけないと思って、それは自分でもよくわかっているつもりなんだけどね」

 都美子さんがそう言って出迎えてくれるのを、私は笑って受け流す。仕方のないことだと思う。突然一人息子を失ってしまったのだ。誰かに頼りたくなるのは、当然のことだと思った。

「私も、ここに来れて嬉しいです。なんだかまだ、この家に正行さんが帰ってくる気がして、不思議なんですけど、お邪魔するたびに、落ち着くんです」

「そう? そうなの……。私はもう駄目よ。何度も帰ってくることを夢に見たけど、諦めちゃったからね」

 あらでも、と言って都美子さんは私を見た。

「明美ちゃんはまだ若いんだから、いつまでも、あの子のことを引きずらないで、次の人を、ちゃんと見つけてほしいわ」

「私にとってとても大切な思い出であることには変わりないので」

 話もそこそこに、仏間へ通してもらって、仏壇に手を合わせ、お線香をあげた。それからふたりでリビングに移動する。彼の前で手紙を読むことには抵抗があった。



 受け取った封筒は、よく見る薄くて白い事務用の封筒だった。緊張が都美子さんに伝わらないように、何食わぬ顔をして封を切る。手紙は二枚、そんなに長くない。意外と繊細そうな文字で綴られていた。私は早速文面に目を通す。

「なんて書いてある?」

 都美子さんがしわの増えた手で顔を覆って聞いた。かいつまんで伝えるために、速読、と言っていい速度で手紙を読んだ。

「……一時の激情に身を任せて犯行に及んだこと、反省していますと」

「そんなこと思ったこともない癖に」

 都美子さんが声を荒げる。

「あ、、、ごめんなさいね。興奮してしまって」

「いえ、当然です。私もその、ならあの供述は何だったのかと、なぜそれを、裁判で発言しなかったのかと、あの正行さんへの人格攻撃は、なんだったのかと、」思ったものですから、という言葉は涙ににじんでしまって発言できなかった。暴力的な嗜好の有無や、日常生活でのちょっとした激情、家の中での態度、ありとあらゆるデリケートな情報を晒してまで、行われるべき弁護だったのだろうか? とてもそんな風には思えない。罵倒され損ではないか。死人に口なし、とはよく言ったものだけど、到底やりきれなかった。私たちの感情はどこにもっていけばいいのか、わからない。絶望や怒りや悲しみは、どこにぶつければいいのか。

「他には、なにか?」

「あとは、思い出話ですね……正行さんとあの女がどうやって出会ったかとか、」

 そこまで言って、声が詰まった。どういう脳の回路を使えば、自ら殺した男をこんな風に語れるのだろうと思った。

「私も、読んでみようかしら。なにか怖いようなことは書いてなかった?」

「攻撃的な文面は、特にないみたいです」

 便箋を手渡す。攻撃的な文面は、すくなくとも、都美子さんに対して攻撃的な文面は、確認できなかった。


 都美子さんが手紙を読んでいるのを、落ち着かない心持で、緑茶をすすりながら待つ。時計の音が大きく聞こえる。時間が過ぎるのが遅い。謝罪の言葉は確かにあった。遺族への、都美子さんへの謝罪。でもそのすぐあとに、自分を正当化する文言が並べ立ててあって、ああ、あの女だ、と思った。

 被害者の無念、というようなことにも、ほんの少し触れてあった。そう、彼はまだ若くて、将来有望な若者だったのだ。でもそんな彼を、どこの馬の骨とも知れない女に明け渡すのが我慢ならなかった、ともあった。馬の骨、きっと私のことだ。


 女の発言は二転三転している。はじめは、殺す気はなかったのだ、と言い、なぜ救命措置をとらなかったのか? と問われれば、気が動転していて怖かったのだ、と言う。ところが、彼の側でタバコを吸っていた形跡を追及されれば、今度は、「記憶にない」ととぼけだした。

 動機についても、彼が得体のしれない女、ようは私のことであるが、としきりに連絡を取り合う様子が気に入らず、問い詰めたところ口論になった、とあった。ところが自身の多情を暴き立てられた段階になって、嫉妬ではなく独占欲だった、と言い出した。殺してしまえばどこにも行けないだろう、と思ったのだと言う。もうわけがわからない。聞けば聞くほどさっぱりわからなくなっていくのだった。


 でも確かに、私の立場はあまり褒められたものではない。同居している女との関係に暗雲が立ち込めた頃に、彼に近づいたのも確かだったし、それが事件の原因だと言われれば、私は自分を責めるべきなのだとも思う。ほんとうにそうなら。そうだったなら。

 ところが女は女で数人の異性と懇意な関係にあり、肉体関係まで結んでいたというから、納得が行かない。私と彼はまだ、手さえつないだことすらなかったのだ。好きかと言うと、大好きだった。人のものを好きになってはいけない、と言われたらそれはもうどうしようもできないのだけど、彼はものではないし、意思をもった一つの個人なのだ。手順さえ間違えなければ、そしりを受けるいわれはない、そう思っていた。思っていたはずだったのに。


 憎々しげに、あの女呼ばわりされている文面を見ると、心が揺らぐのだった。女は、「私」がいなければ彼と平穏な日々が続いていたのであり、自分もそれを望んでいたのだという。確かに浮気はしたけれども、それは彼と言う本命がいるからこその行動であって、浮気自体は彼も了承していたのだ、とあった。ほんとうだろうか? 私と居たときの彼は、「同居している交際相手の行動が怪しい、自分が忙しい時期になると、あまり家にいなくなるようだ」とこぼしていた。彼が浮気を了承していなかった証拠なのではないか?

「明美さん」

 はい、と私は顔を上げた。都美子さんが申し訳なさそうに私を見ている。

「あ、いえ、違います、平気です、私なら」

「この手紙は嘘よ」

 嘘ばっかり、と言って都美子さんは便箋を引き裂いた。

「まだ私たちを振り回そうとしてる」

 都美子さんはふっと力なく私の方を見て微笑んで、ごめんね、と呟いた。

「いえ、そんな」

 私の方こそ、力になれなくてごめんなさい。と言いたかったけど、言えなかった。なぜだろう? あの女を前にするとひどく感情をかき乱されるのだ。決して冷静ではいられなくなる。それは手紙を通しても、同じことらしかった。


*******


 それからしばらく、ずっとあの女のことを考えていた。考えてもいいことなんてひとつもないのはよくわかっている。それでも、止められないのだ。どうやったら、顔のない顔を、あの声を、あの態度を、あの女を、頭の中から追い払えるのかわからない。まるで悪魔だ。

 仕事にもまるで身が入らない。接客もこなさなければならないのに、どうしても集中できないのだった。笑顔を一つ取り繕うのにも苦労する。だめだ、こんなんじゃダメになる。

 家に帰って私は、旧い便箋を取り出した。私用で手紙を書くことなんてもうほとんどなかった。子供の頃以来ではないだろうか。女に、直接聞きたいことがある。たとえそれが徒労に終わるとわかっていても、聞かずにいられないことがある。私は尖らせたえんぴつで女への手紙をつづった。



 前略 

 突然のお手紙、さぞ驚かれたことと思います。あなたもご存知の通り、私は正行さんと何度か一緒に食事に行きました。でもそれ以上のことはありませでした。ほんとうです。正行さんはあなたとの関係に悩んでいたようでした。交際を続けるべきか、そうでないか、ということについてです。


 すこしわけあって、あなたが、彼のおかあさま、つまり安藤都美子さんへ送った手紙を読んでしまいました。あなたは獄中で深く反省なされたそうですね。親の有難さや、肉親の支えのかけがえのなさに気がつかれた。ひいては、自分が奪ってしまったものの重さについて、考えることになった、とおっしゃられていました。

 私にはそれがどこまで本気で書かれたものなのか判断がつきません。あなたはなんども供述をひっくり返されました。そのたびに、わたくしたちは何度も騙されたような、狐につままれたよな思いをしました。あなたが本当に、過去の事件について反省なさっているのなら、どうかその動機を、正行さんへの思いを、その本当のところを、お聞かせ願えませんか。


 これから寒くなりますが、どうかお体にお気をつけて。お返事いただけることを、心待ちにしております。             

                            須藤 明美



******


 書いて送ってみたのは良いものの、まさか返事が来るとは思わなかった。内容はおおむね女の近況についてだった。風邪を引いたとか、ご飯に飽きたとか、彼がどんな風に優しかったかを思い出すと胸が痛いとか、そいうことだ。女の文面が案外砕けているのに驚いた。あんなに憎々しげに書かれていたので、もっと尖った手紙が来ると覚悟していたのだ。

 どうやら女は獄中で退屈しているらしかった。もしかすると反応があるなら誰でもいいのかもしれない。もっと最悪なのは、私のことなど最初から頭の片隅にも止めていなかった、ということ。都美子さんへの手紙に私の存在を挙げたのは、単なるパフォーマンスだったのではないか、ということだった。事件自体については、ほとんど無視に近かった。故意だろうか、と勘ぐってしまうほど、触れられていない。

 返事はしないでおこうと思ったのだ。もうあの女に関わるべきではない、と本能が告げていた。それでも、夜になるとあの手紙のことが気になって仕方がない。なにか私が読み取れなかったメッセージが隠されているのではないか、まだ開かされていない、重要な事実をほのめかす文面はないか。裁判で語られてこなかったこと。彼女だけが知っている事実が、そこにあるのではないか。

 そう思って何度も読み返してしまう。気がつくと私はまた、引き出しから便箋を引っ張り出して、文字をつづろうとしているのだった。女からなにか、血の通った答えを引き出したくて。


****


明美さんへ


 明美さんは彼とはなんともなかったんですね。私は知りませんでした。てっきり浮気をしているのだと。一度だけ、街で、あなたと彼が歩いているのを見かけたことがあるんです。とても華奢な、可愛い人だ、と思いました。彼はきっと、あなたのことが好きだったのではないかと思います。あなたを見る目がとてもやさしかったから。だからいっそう、許せませんでした。私は裏切られるのが一番嫌いです。

 その晩彼を問い詰めました。けんかになって、話にならなかった。事件の晩ではなくて、その少し前。一か月ほど前の話です。


 私たちはよく口論をしました。大体原因はくだらないことです。夕飯のおかずがまずいとか、気に入らないとか、配慮のない彼の言葉遣いについて。彼はよく私を罵倒しました。君は頭がおかしい、くるっている、とかね。それって、すごく傷つくんですよ。でもなぜ別れなかったのか。それはきっと、私が彼を、あるいは彼が私を、愛していたからではないかと思っています。



*****


 どうしてこんな気持ちになるのかわからなかった。自分の心の中が、沈殿していた怒りや憎しみや混乱している感情の塊ごと、強引にかき混ぜられているように感じる。この女の文章にはなぜかひどく心をかき乱されるのだ。愛していたならなぜ、なぜ殺すことができたのか。なぜ、彼がこと切れるまでには十分な時間があったにもかかわらず、救命措置をとらなかったのか。救急車をもっと早く呼んでくれていたら、彼は助かっていた可能性が高いのだ。検察がそう言っていたのだ、間違いない。間違いないのに。なぜ私は、こんなにも怒って、悲しんで、いるのだろう。何度聞いても、女はその部分には決して触れようとしない。自分の都合の悪いことは聞こえていないかのようなふりをする。そして人の感情を掻きまわすのだ。


 女は事件のことについては語りたがらなかったが、見たテレビのことや、読んだ本の感想などは事細かに書いてよこした。私はあなたの友人ではないのに。どうしてこんなに図々しいのだろう。苦しくて、いっそのこと手紙をすべて焼いてしまいたくなる。焼いてしまうべきだったのかもしれない。都美子さんが破り捨てたように、私もそうするべきだったのだ、きっと。それなのに、私はときどき縋るように女の手紙を開いてしまう。もう二度と、クロゼットの奥にしまい込んで取り出さないつもりの手紙を、ときどき。


****

愛すべき明美さんへ


 文字で自分の気持ちを伝えるのはとても難しいことですね。何度も言っているように、私は正行さんを愛していました。私は幼いころに父を亡くし、養父もまた高校生の頃に亡くしています。母は乳児院の出身でした。ですから私に身内は母しかいないのです。その母も、二十歳になる少し前に行方をくらませました。天涯孤独の身です。

 そんな私に優しく接してくれてた正行さんのことを、私が愛していないわけがないのです。また、彼が心を惹かれていた、あなたと言う女性のことも、とても魅力的に思っています。お手紙からにじみ出るあなたのやさしさ、温かさ、心の美しさは、私の更生にとってとても重要なファクターとなりつつあります。日に日に心の中の、あなたからのお返事を待ち望む気持ちが大きくなっていくのを感じています。


                獄中から愛をこめて。


*****


「明美さんまた少しやせたんじゃない?」

 都美子さん心配そうに言う。ホテルのケーキバイキングに、一緒にどうかと誘われたのだった。一か月前から約束していた。私はむりやり笑顔を作った。

「この日のために、絞り込んだんです」

 都美子さんには、私があの女と手紙をやりとりしているということは話していなかった。心配を掛けたくなかったし、自分がなにかまずいことをしている、という意識もあった。私はどうであれ、せめて彼女には心安らかに暮らしてほしいと思う。

「あなたは若いし、正行のほかにも、きっといい人が見つかるわ」

 都美子さんの声に、私は微笑むことしかできなかった。あんなに優しくて素敵な人がほかにいるだろうか。自分でもこのままではいけないと思って、お見合いサイトに登録したり、他の男性を見る目を養う努力を心掛けてはいるのだ。それでも、うまく恋愛に気持ちをのせることができない。どうしても、できない。

「正行さん、モンブランが好きでしたよね」

 都美子さんが選んだケーキを見て、思わず口にしてしまった。

「よく知ってるわね」

「一緒に食べに行ったんです。男一人じゃ、抵抗があるし、彼女は甘いものが嫌いだから、って」

 彼はもう、ケーキを食べることもできないし、なにか他のことを楽しむこともできない。あの女はあと数年で出所して、元の暮らしに戻るだろう。好きなものを食べて、好きな男に抱かれて、自由気ままに、今までと同じように。

「もう、今日は悲しい話はなし、って約束したでしょう」

 都美子さんが私に栗の渋皮煮が刺さったフォークを口元に差し出してくれた。

「おいひいです」

 表面に甘酸っぱい杏ジャムの塗られたグラッセは、香りがよくてとても美味しかった。



 時々考えてしまう。同棲相手のいる男性と食事に行ったり、買い物に行ったりしていた私が悪かったのだ。私さえいなければ、彼とあの女の関係が悪化することもなく、今でも彼は幸せに暮らしていたのではないか、ということを。

 そのことが頭から離れなくなると、どうしても私はあの女からの手紙を開いてしまう。きっと私は、あの女に、「あなたのせいじゃない」と言われたいのだ。救われたいのだ。


*******


  ここしばらく女の返信が途切れている。日に何度もポストを覗いてしまう自分がいた。これまでは、遅くとも二週間以内に返事が届いていたのに、もう一か月も音沙汰がない。どことなく日々の暮らしに空虚さを感じている自分がいた。退屈している? それとも、この感情は、なんなんだろう。


 それから少しして、女から手紙が届いた。体調を崩して手紙の返事が書けなかったことを詫びる文言にはじまり、最後は、会いたい、と締めくくられていた。

 実はこれまでも面会に来てほしい、寂しい、ということは言われていた。そんなのは絶対に嫌だった。会いたくなかった。女のひまつぶしのために消費されるのは、嫌だった。それでも、女は、事件当時のことは書面では語れない、口頭でしか、伝えられないことだ、と繰り返した。きっと証拠に残るのが嫌なのだ、と思う。文章にして、相手がそれを持っている、という状況に耐えられないのだ。

 それでもここにきて、女が会ってまで話したがっていることは一体なんなのだろう、と気になってきた。なにか内容があることを語ってくれるのではないか、という期待。これまでに言葉にされていなかった感情を、語ってくれるのではないか。

私はとうとう、面会の手順を尋ねる内容の手紙を書いた。自分から女に会いに行くのは初めてのことだった。




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