魔女と木こりの7days

ぽこまる

■第一幕 『開始』

〇 …… 断崖の魔女

◆〇 …… 断崖の魔女


 男は、恐る恐る、といった歩調で、ゆっくりと崖の端に近付くと、下を覗き込んだ。

 断崖絶壁。そんな言葉が良く似合う、見事なまでの急斜面だった。目を凝らしても、崖の真下は死角になっており確認できない。

 男は呆然とした表情で立ち尽くしながら、先程、目の前で起こった情景を回想する。


 男――ミシェルは、辺境ではあるが、国境の監視員だった。

 許可なく国境を侵す者がいないか、常に見張り小屋から目を光らせ、時折小屋の周辺をパトロールする。そして、月に一度、報告書を纏めて、上に提出する。それが任務である。

 もし、国境付近で不審者を発見した場合、すぐさま捕えて騎士団に引き渡さなくてはならないと規則にはあったが、この人里離れた深い森の奥に、不審者などそうそう姿を見せるものではない。

 国境の向こう――隣国リールとの関係もそれなりに良好であり、国境を巡る軍事緊張などという言葉とは縁遠かった。

 おまけにこの森は、迷いやすい、道幅が狭い、崖が多い、と三拍子揃っており、進軍ルートとしては問題外。従って、何ら戦略的価値のない場所である。

 よって、ここに派遣(或いは左遷)された監視員たちも、緊迫感とは無縁の、呑気な日々を送っている。

 腰に挿した金属製の警棒は、支給されて以来一度も活躍の機会はなく、そのまま錆びて使い物にならなくなるのではといった有様で。

 相棒のジュリアンなどは、パトロールなど一切行っていないのに、さも行っているかのように報告書を捏造する始末だった。

 それでも、今日に至るまで何も問題は起こっていないのだから、まったく平和なものだとミシェルは思う。

 この日もミシェルは、いつものように、退屈なパトロールを愚直にこなしていた。とは言っても、ミシェルは責任感が強いわけでも、職務に忠実なわけでもない。

 ジュリアンのように、一日中小屋に籠っているのが我慢ならないだけである。たまの『散歩』まで怠るようでは、体が腐ってしまう。だから、パトロールは欠かさない。それだけのことだ。

 木の影からこちらを窺う何者かの気配に気付いたのは、周辺を一通り歩き回り、小屋に戻ろうと踵を返した時だった。

「誰だ……!?」

 ミシェルの言葉に反応したのか、木の影に潜んでいた気配が動く。ミシェルから逃げるように、生い茂る草を掻き分けて走り出す。

「おっ、おい! 待て!」

 ミシェルは、反射的にそれを追った。声をかけられて逃げ出すということは、何かしら後ろ暗い事情がある人間だという証拠だ。流石に無視するわけにはいかない。

 ミシェルが思ったよりも不審者の足は速かったが、決して追いつけない速度ではなかった。徐々に、追う者と追われる者の差は縮まっていく。不審者の背中が見えた。薄気味の悪い、漆黒のローブを身に纏っているのがわかる。

 もう少しで不審者に手が届こうかという処で、視界を遮っていた草木が途切れる。開けた場所に出たのだ。不審者は、そこで立ち止まった。

 ミシェルも同じようにして立ち止まる。不審者の行く手には、崖が立ち塞がっていた。

 ついに追い詰めた。もう逃げ場はない。

「お前は何者なのか、何故逃げたのか。聞かせてもらおうか」

 そう言いながら、ミシェルは、じりじりと距離を詰める。不測の事態に備え、腰に挿した警棒に手をかけておくことも忘れない。

 不審者は観念したのか、天を仰ぐと、後ろを振り向いた。ローブのフード部分を取り去って、素顔を晒す。長い髪が風に舞い、たなびいた。

 ミシェルは面食らった。不審者の正体は、年端もいかない少女だった。追っている時は必死で気付かなかったが、こうして落ち着いて向き合ってみれば、背丈もかなり低い。

「…………!」

 不審者は――いや、少女は、口を動かした。ミシェルに向かって何かを言おうとした。だが、それがミシェルに伝わることはなかった。

 崖の先端が、脆くも崩れ去った。少女の体が、後方へと傾く。ミシェルは危ないと叫びながら少女に向かって手を伸ばしたが、文字通り手遅れだった。少女はそのまま、崖の下へと落ちていった。


 この高さから落ちたんだ……助からない。助かるわけがない。

 ミシェルは、強い罪悪感に襲われた。不可抗力とはいえ、自分が少女を殺す形となってしまった。その上、少女が何者だったのかもわからないままだ。実に後味が悪い。

 どのくらいの時間、崖の下を覗き込んでいただろうか。風に吹かれて舞った木の葉が、頬を掠めた。それでようやく、ミシェルは顔を上げた。

 いつまでもこうしていても仕方がない。とりあえず、小屋に戻ろう。そう思った。あまり長い間戻らないと、ジュリアンが心配するかもしれない。

 ミシェルは重々しい足取りで、その場を後にする。大した距離を走ってきたわけではないのに、小屋までの道のりが、嫌に長く感じられた。


「間違いない、そいつは魔女ですよ」

 ミシェルが昼間、パトロール中に起きた出来事を打ち明けると、開口一番、ジュリアンは言った。

「身に纏った無地の黒いローブが、何よりの証拠です。おそらく、教会への連行中に逃げ出し、森を彷徨っていたのでしょう」

 見張り小屋での、ささやかな夕食である。古めかしい木製の机の上には、籠と皿がそれぞれ一組ずつ置かれていた。籠の中には細長いパンが入っていて、皿にはスープが湯気を立てている。中央に設置されたランタンが、それらをぼうっと照らし出していた。

「魔女?」

 ミシェルが問い返すと、ジュリアンはパンを千切る手を止め、ミシェルの顔をまじまじと見つめた。

「……先輩、魔女を知らないんですか? 城勤めなのに?」

 まるで、珍獣でも発見したかのような口調だった。

「俺が、他国からの流れ者なのは知っているだろう? この国……アミアンの事情には詳しくないんだ。それに、城勤めとは言っても、実際に城に顔を出したのはたったの数日間。以降は、ずっとここで働いている」

 町外れで、盗賊に襲撃されていた城勤めの男フランクと、その娘シルヴィを助けたのが、そもそもの始まりだった。ミシェルは二人にいたく感謝され、自宅まで招かれて、食事をご馳走になった。その席で、酒の入ったミシェルは珍しく、自分の境遇を饒舌に語った。この国に入ってからは、あまり人と話したりはしていなくて、会話に餓えていたこともあるかもしれない。

 ミシェルが、様々な国や地域を転々とする流れ者であること……路銀が尽きたからここで働き口を探していること……それらの事情を知ったフランクは、城勤めのつてを利用して、君さえ良ければ、何かしら、城での仕事を斡旋しようと言ってくれた。

 万国共通、城の仕事は金払いが良いことで有名である。ミシェルは、二つ返事でフランクの斡旋を受けることにした。

 数日間城に通い、剣術技能と一般教養のテストなどを受けた。そして配属されたのが、この森というわけだ。

 フランクは、こんな仕事しかなくて済まないとしきりに恐縮していたが、ミシェルは満足だった。給料は一月で4000ゴールド。ミシェルが今までに旅してきた様々な国、そこに定住する一般市民の平均月収が1500ほどであることを考えると、破格の待遇と言えるだろう。ここで半年程度働けば、当分旅の資金には困らない。

「魔女というのはその名の通り、魔力を持った女の総称ですよ。怪しげな呪術を使いこなして、人々を混乱に陥れるんです」

 ジュリアンは声のトーンを落として、さもおどろおどろしそうに説明する。

「呪術?」

 聞き馴れない言葉に、ミシェルは首を傾げる。

「そうです。魔力を持つ人間が行使する呪術は、あらゆる不幸を呼び寄せます。天災を発生させたり、疫病を蔓延させたり……」

 ジュリアンはそこで一度言葉を切って、パンを口に放り込み、スープを啜る。

「ですから、城は――教会は呪術の使用を固く禁じ、魔女を見付け次第、厳罰に処しているのです」

 ミシェルは、崖から落ちる瞬間の、少女の姿を思い出していた。

 小さな体に、虚ろな瞳……あの少女が、魔女だったというのか。魔力を持ち、呪術を行使し、あらゆる不幸を呼び寄せる、魔女だったと。

 弱々しい少女のイメージと恐ろしい魔女のイメージが、頭の中で交差して、混じり合う。

「魔女は死に抗う力すら身につけていると言われています。洗礼を受けた専用の処刑器具でなければ、完全には息の根を止められないとか」

「まさか……そんな。悪い冗談だ」

 口ではそう切り捨てつつも、ミシェルの顔はいくらか青褪めていた。

「僕は……酒癖が悪いです。酔うとすぐに冗談を言います。しかし、素面でこんな悪趣味な冗談を言ったりはしません。それに先輩は、我がアミアンの国王が、冗談で民を殺めるような方だと思うのですか」

 その台詞には、どこか有無を言わせぬ迫力があった。ミシェルは今更ながらに実感する。この国境近くの小屋に勤めている期間はミシェルの方が少しばかり長いとはいえ、ジュリアンはミシェルのような余所者とは根本的に違う。良くも悪くもアミアンの国民であり、城に忠誠を誓った者なのだ。

「ともかく。先輩が気に病むことはありませんよ。魔女は闇の眷属。崖から落ちたくらいでは死んだりしません」

 ジュリアンは断言する。ミシェルは押し黙った。パンを千切る乾いた音とスープの皿にスプーンが触れる小さな金属音だけが、小屋に響く。

 重苦しい静寂の中、ミシェルは唐突に思い出した。崖から落ちる直前、少女の唇が何かを伝えようと動いていたことを。

 脳髄に焼き付いて当分は離れてくれそうもない情景――少女が崖から落ちるその瞬間を、今一度克明に再生する。

 ――キ、オ、ツ、ケ、テ。

 ミシェルの記憶に間違いがないならば。少女は、そう口を動かしていた。

 何故、彼女は最後にそんな言葉を? 一体、何に気をつけろというんだ?

 いくら考えても、答えは見付かりそうになかった。


「……今日は疲れた。もう休む」

 ミシェルは食事を終えるとすぐに席を立ち、早々にベッドに横になった。

 薄汚れた枕に、頭を埋める。そろそろ洗ってこなければいけないか……そんなことを、ぼんやりと考えた。

「先輩」

 その背中に、ジュリアンが声をかける。

「なんだ?」

 ミシェルは、背を向けたまま応じた。

「用心して下さいよ」

「何に」

「魔女の、報復にです」

 ミシェルは答えなかった。目を閉じて、全てを忘れ眠ろうとした。

 瞼の裏側で、少女の唇が動く。

 ――気をつけて。

 何故、彼女は最後にそんな言葉を? 一体、何に気をつけろというんだ? ミシェルは先と全く同じ問いを繰り返した。

 ミシェルが破滅に追い込んでしまった少女の、最後のメッセージである。考えた処でどうしようもないとわかっていても、気にならない訳がなかった。

 ジュリアンの言うように、魔女からミシェルへの『このままでは終わらせない』との意思表示だとでもいうのか。

 あの少女が。

 人間で、死んでしまっていても。魔女で、生きていたとしても。

 どちらだったとしても嫌だ。まどろみの海に身を沈めながら、ミシェルは思った。


 ミシェルはその晩、悪夢に魘された。

 わけのわからぬまま、血のような赤黒い液体で満たされた、人間が何十人も入るような大釜に放り込まれて、溺れまいと必死にもがく夢だった。

 釜の外には、あの少女が立っていた。少女の顔に、表情はなかった。少女の瞳に、感情はなかった。

 ただ、ミシェルを見つめていた。


――――※――――

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