意味のある7時53分

橙 suzukake

意味のある7時53分

 晴れていても、雨が降っていても、雪が降っていても、何も変わったことがなければ僕はアパートを7時42分に出発していた。

 別にその時間でなければいけないわけではなく、ましてや、好きな時間というわけでもない。これだけ歳をとると、朝起きてから玄関を出るまでにやることは決まっていて、それに掛ける時間も不思議と毎朝同じになってくるものだからだ。

 車のエンジンを掛けると同時に、ダッシュボードの真ん中のデジタル時計が映画「マトリックス」みたいな緑色に浮かび上がる。そして、それは決まって【7:42】だった。


 デジタル時計の表示とほぼ同時に、いつもの地方FM局の、いつもの“いってらっしゃい番組”がスピーカーから聞こえてくる。パーソナリティは毎日、女で、曜日によって2人が交代して務めている。2人とも聞き慣れた声ではあるけれど、名前も顔も僕は知らない。


 7時42分は、この番組の2曲目の音楽が流れている時間だ。日によって邦楽だったり洋楽だったりするけれど、大概は知っている曲が流れていることが多い。この番組を聴いている多くのリスナーが僕みたいな年齢の、僕みたいに車で通勤している者なんだろう。番組中の「トラフィック・インフォメーション」のコーナーでは、『渋滞が出ている箇所がありますが、今朝も心に余裕を持って安全運転でお願いします』みたいなパーソナリティの一言が付け加えられる。

 そして、その交通情報が放送されるのは、僕が駅近くの踏切で決まって停まらされている7時53分だ。

 いつも決まった時間に自宅を出発して、渋滞もなく信号もほとんど無いド田舎の細い市道を走って、出勤時間の20分前にはデスクについている僕にとってはパーソナリティのこの一言は何にも心に響いてこないけど、渋滞に巻き込まれながら命がけの車線変更を繰り返すことで致命的な遅刻を回避しようとしているドライバーにとっては、まったくもってイライラさせる一言ではないか・・・ なんてことを思いながら遮断機の赤の点滅を見つめる僕だった。


 そうこうしているうちに、駅に近づいていることで減速した電車が踏切を左から右に走っていく。煙草の灰を灰皿缶に落として正面に視線を戻すと、電車の車両の真ん中の乗降ドアに立っている女子高校生がこちらに向って手を振っている姿が僕の目に映った。僕は、バックミラーで、そして目視で後ろ、左右を確認したが、他の車も歩行者も居なかった。前を向き直ったときに2本の遮断機が上がって、電車がいなくなった向こうから自転車に乗った2人の中学生とゴミ袋を持ったおばさんが踏切を渡ってきた。僕はブレーキを戻して少し車を進めた後に停車し、この3人を踏切から渡らせた後にアクセルを踏んで次の交差点まで車を走らせた。


 実は、この場面に出くわしたのはこれで3回目だった。一番最初のときは、女子高生がなにやら手を振っているように見えたけど、なんだろな… って感じだった。2回目は、1回目のシチュエーションのことを薄らぼんやり思い出しながら通過する電車を何気なく見ていたら、1回目のそれをそっくりなぞっているかのように同じ女子高生が同じドアの所で手を振ったのだった。そして、今回が3回目・・・。


(いったい、どういうことなのだろう?)

 わずか数秒のこととはいえ、2回目と今回の3回目ではっきりと確認した電車の女子高生の顔に見覚えは無かった。しかし、彼女の手を振る対象が僕だとして、二つまげで、背が高く、可愛らしい顔した女子高生が満面の笑顔で手を振ってくれること自体を薄気味悪いとは思わなかった。踏切を渡って数分後には職場の駐車場に着いているのだが、なんだかウキウキ気分になっている僕のお目出度い存在は誰にもわからず、そして、僕だけがはっきりと自覚していたのだった。


 そうなると、まったく意味も無いひとつの習慣に過ぎなかった“自宅を7時42分に出発→7時53分に踏切につかまる”ことが俄然、意味あるものに変わってくる。あの踏切に差し掛かるまでに数箇所ある交差点の信号のひとつひとつに。あの交差点で右折しようとする車が何台居て、そのためにどれだけ僕の車が待たされるのか。交差点を曲がれるのか、それとも、信号をひとつやり過ごさなければいけないのか。朝早くから仕事をしているゴミ収集車がどれだけ僕の車を停車させるのか。そして、あの踏切にいつものように僕の車が先頭で停車できるのかどうか…

 まったくもって、自宅から出発してからのわずか11分間に起こる出来事のひとつひとつに意味が生まれ、渋滞らしい渋滞がないド田舎の市道を走っているのにも関わらず、猛烈な焦燥感に包まれてしまうようになった。


 無事に先頭で踏切前で停車できた4回目で、その日も手を振る彼女に僕は思い切って笑顔を作って応えてみた。彼女の姿が右側の住宅にさえぎられる前のほんの僅かな瞬間、彼女の笑顔がさらに際立ったものになったように僕には見えた。

 (やっぱり、対象は僕か!)

 遮断機の上がった踏切にいつもよりもゆっくりと侵入しながら右側を見るものの、当然、彼女の姿は無く、見慣れた電車の後姿が見えるだけだった。


 勤務の無い土日の日中に彼女を思い出すことは無かったけど、日曜日の夜は、彼女が見せた際立った笑顔が頭にちらついてなかなか寝付けなかった。


 月曜日の朝。きっと、気が急いていたのだろう、7時35分には自宅を出発できる用意が整っていたけど、わざわざ煙草を一本吸ってから玄関を出て、7時42分ぴったりに車を出発させた。一つ目の交差点の赤信号のところですでに僕は心臓の鼓動が聞こえるくらいに緊張していた。というのは、いよいよ、今日は、手を振る彼女に手を振り返そうと思っているからだ。

 手を振り返す僕に、1秒あるかないかの短い間に彼女がどんな反応を示すだろうか。僕は、いくつかの彼女のリアクションを短く想像しては黒板消しで拭き取る作業をしながら車を走らせた。


 久し振りの雨だったけど、道中、僕を焦らせるような事態も無く、すんなり7時53分に遮断機の降りた踏切に先頭で辿り着いた。僕の後ろには後続車は無く、左右両翼にも歩行者や自転車も居ない。僕の心臓の鼓動はさらに高まり、誰に見られているわけでもないのにそれを隠すかのように顔は無表情を装った。


 いつもなら、遮断機が降りてから30秒ほどで電車が踏切を通過するのだけれど、この日はなかなか電車が来ない。いや、あまりに緊張しているから遅く感じるのかな・・・と思っていた矢先、左側から電車の先頭の顔が現れた、のだが、どうも様子がおかしい。駅近くということで電車は減速して踏切を通過するのだけれど、この日の電車はまさに今にも停まりそうなくらいのスピードで踏切に進入し、そして右から左にまるで歩いているかのように通過していく。そして、もうひとつ、いつもと違うのは、気温が低い中の雨のせいで車窓が白く曇ってしまっていて中の様子がわからなかったことだ。

 口をぽかーんと開けながら(あれれ…)といつもと違うこの情景を僕が見ていると、こともあろうに、電車は踏切のど真ん中で停まってしまった。

(ありゃりゃりゃ…)なんだか拍子抜けした僕は、視界に入っている白く曇った電車の窓ガラスのいくつかをただ右に左と目を往復させた。

 すると、視界の左側のドアの窓ガラスの曇りが手で拭かれてあの彼女が顔を出し、こちらの存在を発見してから目を丸くしてさらに飛び跳ねるようにしながらいつもよりも3倍くらいの大きさと速さで手を振ってきた。僕は、それまでの緊張が不思議と無くなっていて、ごく自然に(あっ、いたー!)って感じに手を振り返していた。

 よく見ると、彼女の横にはもうひとり同じ制服を着た女子高生が居て、二人は顔を見合わせて笑ったかと思うと、僕を見てまた手を振った。僕は、まるで、昔からの知り合いのように軽くお辞儀をしたり手を振ったりした。そうこうしているうちに、電車がゆっくりと動き出し、白く曇ったガラスの真ん中の彼女の顔と振った手は右側へ見えなくなった。

 手を振り終えた僕は、興奮よりも、なんだか意味も無く達成感に包まれているのを感じながらハンドルに手を戻してアクセルを踏んだ。



 踏切を通過してから二つ目の交差点で赤信号に停められたときだった。


 「まもなく8時になりますが、最後にもうひとつ、今、入ってきたばかりのメールを紹介しましょう。○○市のロザーナさんから。『おはようございます。ここんところ、朝の通学電車の窓からいつも同じ踏切で停まっている車のおじさんに手を振り続けていたのですが、ついに、そのおじさんが手を振り返してくれたのです。すっごいうれしかった!というのも、そのおじさんに一目惚れしてたから・・・ ではなく、一緒に通学している友達との賭けに勝ってアイスを一週間毎日おごってもらえるからで~す!』 ○○市のロザーナさん、アイスおごってもらえてよかったね。でも、あんまり朝から大人相手にいたずらしちゃだめよ~。さて、今日は雨の一日になりそうですが、季節の変わり目、みなさんは健康管理にはくれぐれも気をつけてくださいね!では、いってらっしゃい!」


 駐車場に降り立った僕が、いったいどんな笑顔で同僚に朝の挨拶をしていたのか、今も思い出せないのであります。




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