残花
@uta-tane
第1話
彼女の世界は美しかった。三百六十度、彼女の周りには花が満ちていた。蒼、紫、紺、ピンク・・。色彩が尽きることはない。しかし、その花園には違和感がある。そこには季節感という物は存在しないのか、どんな時期にもアサガオしか咲いてはいない。ただただ咲いて、本来ではあり得ないほど長く咲いて。しかしいつかは散る。そんな夢のような彼女だけの花園が、彼女にとっては恨めしかった。憎かった。
アサガオはたった独りの主のために今日も咲き続ける。アサガオの花言葉は儚い恋。これは叶わぬ恋の話。
六月末のうだるような暑さも午後十時ともなれば幾分はましになる。昼間の暑さが何かの冗談とでも言うようなちょっと涼しげな夜の街を俺は愛車(ただのママチャリ)で駆け抜ける。ここ八前市はベッドタウンだ。特急列車が停まる駅もあれば駅周辺には大規模デパートもあり、この時間であっても活気がある。居酒屋で飲んだくれたおっさん達に、家族の元へ急いで帰るサラリーマン。そんな駅前の群衆に逆らいながら俺はペダルを踏み続けていた。俺の家があるのは八前市とは願い大橋を挟んで隣の香蘇町。人口減少に高齢化が危惧されている田舎町だ。本来、塾くらい家の近辺に通いたかったのだが、香蘇町に存在しないのだから仕方がない。よって仕方なく毎週木曜日、こうして学校から直接向かい夜遅くに帰る生活を続けていた。
自転車で一〇分、周囲の喧噪は完全に消え去った。駅周辺から1.5キロ。交通量のほとんどない闇夜のなか、願い大橋はあった。
人通りの少ないこの橋はよくでることで地元民から有名である。なんでも、この橋で以前に起きた飲酒運転事故、それから毎晩のようにセーラー服の幽霊が橋を闊歩しているだとか何だとか、よくある怪談である。そんなの半年間こうやって塾を行き帰りしている分には一度も見たことないというのに。そもそもそんなのいちいち真に受けていては体が持たない。そう思い直してペダルに力を込めようとしたそのときソレを見て俺はとっさにブレーキをかけた。
現実ってのは本当にわからないもんだ。ソレは一瞬、俺の雑念が生んだ幻影のようにも見えたが、いや、確かにソレは存在した。ソレは女子高生の姿をしていた。噂通りのセーラー服にスカート。黒いつややかな長髪が風になびく。両手を静かに広げバランスをとるようにしてソレは橋の手摺りの上を静かに歩いていた。ここからでは背中しか見えないがその様は一枚の絵画のように幻想的で、この世の物とは思えないほどに神秘的で、近づくことすら憚われた。動けない、何もできない、もしかしたら呼吸することすら、忘れてしまっていたのかもしれない。それほどまでに俺は、完全にソレに見入っていた。ソレの挙動のどれをとっても俺を惹き付けた。もしかしたらソレはここに住み着いたものではなく俺の心にとりついた幽霊なのかもしれないようにも思えた。
時間の流れを緩慢に感じる。ソレはゆっくりと河に向き直った。ソレを照らす街灯は逆光で表情一つ判断することができない。ただわかることは、ソレの真下には大きな大きな闇が口を開いていることだけ。永遠にも感じられる刻の歩み。長い、とても長い逡巡のあとソレはひと思いに宙へ身を投げ出した。風に揺られる華奢なシルエット。そして一瞬だけ垣間見えた・・・瞳。
「ふざけんな!」
俺の体は無意識に駆け寄って、空中で彼女の腕を捉えた。身を乗り出した体が軋む。運動不足気味の細腕が今にも持って行かれそうだ。だが、それでも俺は無我夢中で引っ張り上げる。全身に痛みが走っているはずなのだが、アドレナリンのおかげか今だけは何も感じない。
グッと力強く踏み締めるローファー。足から腰に、腰から肩に、力がしっかりと伝わっていく。ガッチリと握りこんだ両手は彼女の腕を掴んで離さなかった。それはのサッカー部時代の努力の賜物か、それとも俺自身ですら理解できてない激情によるものかわからない。
「俺の前で死ぬんじゃねえ!命くらい大切にしろ、このばか野郎!」
掴んだ腕が小さく震える。俺はかまわず勢いよく引っ張り上げた。彼女の体は羽のように軽く難なく持ち上がった。
二人して手すりの側に倒れ込む。コンクリートにたたきつけられた衝撃が、生きているという実感を与えてくれた。暗闇の中、街灯が二人をスポットライトのように照らし出す。一六二~三センチと言ったところの身長、引き締まったボディーライン、そして極めつけは人間離れするほどに整った顔立ち・・・瞬間、俺は頭を思いっきり殴られたような衝撃をうけた。こいつは・・
「なんで自殺なんてしようとしたんだ・・・久城さん」
久城朱璃。俺と同じ三年一組のクラスメイト。美しい外見と冷たい態度とが相まって周囲と距離がある謎の多いやつだ。多くの男子が気にかけてはいるものの誰一人として仲良くなれた者はいないのだとか、告ったら最後こっぴどく振られるのだとか、とにかく噂の絶えない女。女子達と話しているところは見かけなくはないが、友達や仲間とは違う気がする。そもそもそんなやつがどうして・・・
「よりにもよって・・・貴方に・・・」
なにか小声でボソボソ言う久城、だがそれに構わず俺は言った。
「どうしてこんなことしたんだよ。この河がとても浅いことくらい地元民なら知っているじゃないか。もしかしたら、いや確実に死んでたぞ」
詰め寄る俺、しかしそんな俺に目すら合わせず彼女は突き放すように言った。
「そんなこと貴方には関係ないでしょ。私が何をしていようが、どこへ行こうが、いつ死のうが、私の勝手でしょ」
「そんなわけない。クラスメイトだろ。無関係なわけない」
そう、無関係なんてあり得ない。それが誰であろうと。それすらわからない久城さんじゃないだろうに。何が彼女を追い詰めている?力強く見つめた俺の視線を避けるように久城さんは俺から背を向けた。
「ともかく、ここであったことは誰にも言わないで頂戴。少しでも話すようなマネをしたら許さないから。」
彼女は歩き出す。そこから先は有無など言わせないとでも言うように。
「ここでは何もなかった。貴方は何も見ていない。それじゃまた明日。さようなら」
「ちょ・・・マジかよ」
そのか細い背中には追求しないでという拒絶の意思もまた感じられた。久城の姿が見えなくなる、その瞬間まで彼女から目を離すことはできなかった。
ザーー、と静かに流れる河の音。彼女のいたことが嘘みたいに静まりかえる願い大橋。手摺りに体を預けながら満天の星を見て、静かにため息をついた。
昨晩のことが忘れられなかった俺は彼女のことが気になって全く眠れなかった。何度もフラッシュバックするあの光景、あの言葉、そしてあの瞳。気になって仕方がなかった、どんなことでもいいから彼女のことを知りたかった。だからこそ朝一番に学校一の情報通である大内健哉に声をかけたんだが・・
「久城朱璃のことを教えてくれだと?何だ、よりにもよってあんな高嶺の花に興味を持っちまったのかい。後で後悔しても知らないぞ」
「違う健哉、俺は単に気になってだな」
「良いってことよ。堅物な架君がついに女に興味を持ったんだ。素晴らしいことじゃないか。俺は応援するからな」
もうすでに相談相手を間違えた気がしてならない。あー頭が痛い、額を押さえる俺を完全無視して健哉は話を進めた。
「まあとはいっても、俺に協力できることなんてほとんどないけどな」
「お前がうちのクラスの女子のことで知らないことなんてあるのか、意外だ」
「なあ架。前々から聞きたかったんだが、俺のことを何だと考えてんだよ」
「助平衛・不埒者・性欲の塊」
「甚だしく心外だ」
「まだまだ有るぞ、聞きたいか?」
「お願いだから許して。俺、泣きそうだわ」
下手くそな泣き真似を決める健哉。うん、実に気持ち悪い。やはりこいつに頼ったのは間違いだったか・・
「そういや久城朱璃は独り暮らしらしいぞ。高校生なのに珍しいよな」
「え、どうして独り暮らしなんか・・」
「知るかよ、そういう個人のデリケートな部分は触らぬ神に祟りなしってな」
「まあ、そんなものか」
そんなもの。
あいつとはほとんどしゃべったこともなくただ昨日出くわしただけ、ただそれだけ。だから踏み込むべきではないし知ったことでもない、それが正解のはずなのに。飛び込む瞬間に垣間見えた彼女の、誰かに助けを求めるような瞳を思い出しては心がざわついて仕方なかった。
朝、いつも通りホームルーム直前ギリギリに現れた久城朱璃は静かに席に着く。場所は実は俺の隣の席だったりするのだが、そうなると当然、しゃべったことなんてないとか嘘だと思われるかもしれない。だがしかしだ、これは悲しいほどに事実であるのだ。挨拶をすれば無視され、プリントを渡そうとすれば礼の一つもなくぶんどられる始末。俺が一体何をしたと言うんだ。常に彼女からは壁が作られているような気がしてならない。そしてそこに昨日のアレである。いやいや、昨日のことは気になって仕方はないんだけれども、もう正直、彼女と話すことすら厳しいと感じていた。だが・・・
「体育祭のクラス代表実行委員は黒場架と久城朱璃さんに決定!皆拍手!」
どうしてこうなった・・。
司会の健哉と目が合う。
(どうよ俺の扇動力!完璧なシチュエーションを作ってやったぜ!)
(ウン、アトデオボエテロ、オマエ、マジコロス)
(怖!?)
謎の演説から始まりーの、久城さんと俺の長所の述べまくりーの、最後は多数決で決定。この流れるような話術にはヒトラーもびっくりだろう。とりあえず健哉の死刑は確定したんだが、これからどうしたものか。こうなってしまっては仕方ないし、やるしかないのだけれども。俺は自然に隣人の顔色をうかがう。相変わらず読めない無表情を貼り付けている久城さんは議会そっちのけで読書をしてらっしゃる。俺は無意識にため息をついた。こうしてみるとやはり美人だと思う。大きく透き通った瞳、整った睫毛、ロングストレートの艶やかな髪は見る者を惹き付けてやまない。普通にしてれば可愛いのに、なんて独りごちるのだった。
「というわけで初日である今回の実行委員会の活動を終了する。それでは解散」
地獄の時間は実行委員長である近藤静香の力強いかけ声で終了となった。俺は机に突っ伏して考える。正直、こんなに消耗するとは思わなかった。いやたいした活動をしたわけでもなければ率先して発表したとかそんなわけでもない。今回に関して言えば、ただクラス代表として話を聞いていただけ、なんだけど、ただ久城さんが真横に座っている、それだけでしんどかった。だって昨日あんなことがあったんだ。意識するなという方が難しいだろ。
「どうした架。今日の会議なんてたいしたことなかっただろうに。大丈夫か?」
話しかけてきたのは親友であり生徒会長である比賀凛太朗。
「ああ大丈夫だ。ちょっと気がかりなことがあったんだが・・いやなんでもない。心配かけたな」
言えるわけない。だって先に廊下に出たはずの久城さんがずっとこっち視てるし。いや絶対無理。言ったら確実に殺される。そんな気がしてならない、なぜだか理由はわからんが。
「別にかまわんが。本当に心配しているんだぞ、体のこともあるし。相談にはいつでものるから。お前はもう少し俺に頼ってくれて良いんだ」
「ありがとう凛太朗。その気持ちだけで十分だ」
本当に凛太朗は良いやつだ。どんな悩みも秘密も真剣に答えてくれるし、まあだからこそ今回のことを言えなかったことに多少の罪悪感はあるのだが。健哉みたいな巫山戯たやつとは大違いだな、うん。とりあえずは待ち伏せしてる久城のもとへいかねばな。はぁ~、しんど。
「貴方、生徒会長と仲良くしゃべっていたわね。できればどんな話題だったのか知りたいのだけれど」
優しい言葉遣いではあるがだまされては危険だ、目が笑っていない。
「お前の嫌がることはしてねえよ。ただの世間話だよ」
「ふーーーん」
こっちを完全に怪しんでいるような眼。こいつ絶対俺を信用していない。彼女はぐいぐい迫ってくる。
「何だよ。俺は何も知らないし、何も見ていないんだ。もういいだろ」
「ええ、その返答が聞けて満足だわ。さようなら黒場君」
やっと信じてくれたのか、くるりと背を向け颯爽と去って行く久城朱璃。その姿があまりに力強く、昨夜のどこか痛々しい印象の彼女とは同一人物かどうかを疑うレベルである。その姿を一言で表すなら、そう、凛々しいといったところか。
「ああそうそう、影でこそこそ人のことを嗅ぎ回るのは言い趣味とは言えないわよ。それじゃ、また来週ね。黒場架君♪」
前言撤回、そんな生やさしい物じゃなかった。不気味な笑みを浮かべる様はまさしく悪魔そのもの。俺はどこか背筋が凍り付くような感覚に駆られた。いやなんで知ってんだよ、恐すぎるだろほんと。もう二度と、俺は彼女を敵に回すまいと、心から誓った。
時に俺は部活動していた頃の充実感に満ち満ちていた日々を思い出す。あの頃も筋トレやら試合やらで常に時間に追われてこそいたが、そこにはスポーツ特有の気持ちよさがあったもんだ。皆で助け合い庇い合い励まし合い、そうして培った友情の中にこそ勝利があって。どんな困難も皆となら乗り越えられると信じていた。あの頃がなつかしいなあ。久々にサッカーしたいよ。はぁ~。
「何を勝手にセンチメンタルな雰囲気を醸し出しながら黄昏れていらっしゃるのかしら。ため息つく暇があったら手を動かすべきではないかしら」
実行委員会に割り振られた部屋の一角、書類の山の中で項垂れていたところに、腕組みして仁王立ち姿の久城は現れた。
「少しくらい良いだろ、ただひたすらに書類を書く作業でこっちは頭がおかしくなりそうだ」
「この程度でキャパオーバーになる貴方の脳みそは一体何バイトかしら」
「その毎度おなじみの罵倒さえなければもっと作業効率は上がるのに」
「あら、これは応援のつもりだったのだけれど。私の言い方が間違っていたのかしら」
「そんな声援しかできないのは性格がひねくれすぎだ!」
「そうやって言い返す元気があるのなら仕事をしなさい。今日こそ最終下校時間までに帰るわよ」
「へいへい」
そう、さすがに今日こそは早く帰りたい。七月二日から始まった体育祭実行委員会活動。その全貌は人数不足によって常に時間を追われるブラックな接客業のような有様だ。正直きちんと回っていると言えるかどうかわからない。山のようなデスクワークに各クラスへのアンケート、さらには各委員会との連携会議などやることが多すぎてひどい状況、実際俺と久城さん、そして実行委員長である近藤静香はいつも学校の最終下校時間プラス三〇分まで作業していた。
「今日は二人とも帰れ。さすがに疲れただろ」
近藤さんは会議終わって帰って来るなり俺たちに告げた。
「だげどそれは近藤さんも同じだわ。私たちだけ帰るのは不公平よ」
言い方はアレだが彼女は彼女なりに思うところがあるらしい。実際俺も委員長に丸投げにするつもりはなかった。
「なに、皆でやればすぐに終わるさ。さっさとやって帰ろう。」
「すまないな。本音を言うと、とても助かる。」
ごつい体格に似合わない、少女のような万遍の笑顔を見せる近藤。こんな顔をする人だとは今日まで知らなかった。ゴンザレスのあだ名で知られる砲丸投げのインターハイ連覇の豪傑をより近く感じた瞬間だった。
ちなみに、本日もまた最終下校時間に間に合わなかった。
学校から1.5キロ。人通りの少ない夜の道を走る二つの自転車の影があった。軽口を言い合うその影は静まりかえった周囲からあまりに浮き出ていて、二人だけの空間ができたようだった。最も、その会話にはロマンチックっさの欠片もないのだが。
「そもそも貴方の作業効率が悪いのよ。もっとどうにかならないのかしら」
「どうにかもなにも俺は限界までやっているぞ。これ以上は無理だからな。ただでさえこういうデスクワークは嫌いなんだ。同じ姿勢をしすぎて腰も痛くなってるし。後は人員をこんなに少なくした担当教員に言えよ」
担当教員・・・つまりは頼りない風貌の眼鏡男を想像する。
「そうね、たしかにそれも一理あるわ。田中のやつは一体何を考えているのかしら」
ため息交じりに彼女はつぶやく。
「その言い方、田中先生とは妙に親しいんだな。そんなため口で、あんな頼りないなりでも一応俺らの担任だぞ」
久城さんは急にブレーキをかけ、空を仰いだ。星の輝き一つ許さない分厚い雲の天蓋が覆い尽くす空。重々しい、そんな印象すら抱く。
「あいつなんて嫌いよ、大嫌い。世界で一番嫌いだわ」
柄になく感情的になる久城。その眼はどこか悲しそうで、今にも泣きそうだった。
願い大橋から五分。香蘇町でもまだ八前市側に面したところに彼女のマンションはあった。全二十階の高層マンション。正直独り暮らしの学生が住むにはあまりにも場違いなほどに高級だった。
「ここまで送ってくれてありがとう。優しいのね、黒場君って」
柄にもないことをいう久城に何だかペースが狂う。直接目を合わせるのもなんだか恥ずかしくなった俺は視線を外した。
「そんなことないよ、もう遅いんだしこのくらいは当然だ」
「それでも優しいわ、貴方は」
外した視線の先に回り込んだ彼女は、静かに、さっきとは違う雰囲気で続ける。
「本当は聞きたかったはずよ、どうしてあの日、あの時、あんなことをしようとしていたのか。さっき、願い大橋を渡ったときは特にそう。どうして橋から飛び降りて自殺をしようとしていたのか、気になって当然だった。追求されることは必然だった」
震えながら、言葉を続ける彼女の姿はあまりに、痛々しかった。
「だけど貴方は何も聞かなかった。何も訊ねなかった」
そんなの聞けるわけがないじゃないか。誰にだって人に言えない事情があり、悩みがある。それをわきまえずに土足で踏み入れる訳がない。
「だからこそ貴方のことを優しいと感じたの。架君」
弱々しくも、可憐な笑みをこぼす。学校で見せたことのない心からの笑み。この瞬間、この時が永遠に続けば良いのにと不覚にも考える自分がいた。それはクラスのマドンナなんて言う陳腐な言葉ではあまりに不相応で、そう、それは朝露にぬれたアサガオのような美しさと儚さだった。
「いつかきっと貴方に話すわ。だからその日まで待って欲しい」
彼女の透き通るような瞳が射貫く。その嘘偽りのない純粋な様に心が惹かれた。
「それじゃまた明日、さようなら」
「・・ああ、またな」
かっこ悪い返答しかできなかった俺の様子にクスッと笑って彼女はマンションに入っていった。彼女を見送った俺は動けない。ただ呆然と、久城さんの去った入り口を見ていた。
その日を境に実行委員の活動後、一緒に帰ることが多くなった。とはいっても互いの仲が急速に接近したとか、そういうわけでは決してない。ただただ一方的にその日の活動内容に対してダメ出しされるような可愛げもないものであったが、それは以前のような無視や拒絶に比べあまりにも居心地がよいもので・・いつの間にかこの時間がくるのを楽しみにする自分がいた。
「おいおい架くんよう、この頃毎日のように久城さんと一緒に帰っているというのは本当かね?」
朝、開口一番、席に着くなり健哉は前のめりになりながら聞いてきた。とてもウザい。
「だとしたらなんだよ」
「なんだよじゃねえよ、お前らいつからそんな関係なんだよ。もしかしてあれか!実行委員会で一緒に活動するうちに恋が・・的なやつか。この野郎。この架の裏切り者!なんだかんだで俺とお前は独身同盟だと思っていたのに」
なんだその同盟、絶対結びたくないんだけど。というかそのマシンガンのように紡がれる言葉。こいつ、朝一からマジで元気だな。俺なんか途中からだるすぎて聞き流していたぞ。
「多分・・、健哉の思うような関係にはなっていないと思うぞ。そもそも俺は久城に嫌われていた節があるし、どちらかといえば、それがふつーにしゃべるようになっただけって感じだよ」
弱く微笑んで話す俺を見た健哉はなぜか大仰に肩を落とし、盛大に嘆息をついた。
「あーあー、クラスのマドンナを独占とはやるな、羨ましーー」
気を取り直した健哉は、おちゃらけた顔で話を続ける。
「それに比べて他の女子は筋肉ゴリラばっかだしな~もうどうしようもないよな~」
どうしようもないのはお前の失言だ。俺は必死にアイコンタクトを送るが、運命のいたずらか、それとも日頃の行いの悪さか、肝心の健哉が気づかない。
「そもそもうちのクラスの女子の誰をとっても久城とでは全くレベルが違いすぎるよな。もう論外すぎるよなあアハハハハハ・・?」
可笑しい?いや明らかにおかしい。こんなにこの教室は声が響いていたか?気づけばやけに静かなクラスルームで、俺らは殺意マシマシの女子達による包囲網で囲まれていた。彼女たちは各々シャーペンや物差し、コンパスや水筒、箒などで武装されていて、この状況で無事生還することは不可能に思われる。
「健哉・・強く生きろよ」
俺は静かに告げる。
「俺を誰だと心得る、大内健哉様だぞ。楽勝だ」
彼はいつになくかっこ良い感じで宣言した。そうか。俺は黙って頷くと、静かにその輪から離脱した。それとほぼ同時、一気に狭まる包囲網。奴らの目はもはや獲物を狙う野獣と化していた。時間にしてコンマ5秒。絶望的な距離まで詰められた健哉は、しかしながらその不適な笑みを崩さない。
「そこいらのゴリラに捕まるほど俺はお暇じゃないんだよ!」
獣たちのかぎ爪が健哉に届くかと思われるその瞬間、机を踏みつけ空中に躍り出た。永遠にも感じられる刻、彼は天井に着地するとそこからさらに天井を蹴りつける。その姿はまさしく閃光。くの字を描いて一気に視界から消えたかのように感じられたときにはすでに美しく地上に着地を決め、全力で教室後方の扉へ走っていた。
『あいつを止めろ!?』
健哉に追いすがる女子達もまた必死、だがあまりにも対応が遅すぎる。緩慢な時間の流れ。扉まで3メーター。2メーター。そして遂に健哉の手が扉にかかる。開かれる脱走経路。勝利を確信する健哉は、しかし目の前に現れた巨影に絶望する。
「お前はゴンザレエエフ~!?」
「失せろチンパンジー」
吹っ飛ばされる健哉はノーバウンドで向かいの壁にたたきつけられた。響き渡る轟音。一気に静まりかえる教室。扉の外にはひとり、近藤静香が腕組みして仁王立ちしていた。
「クラスが変わろうが学年が変わろうが成長してないようだな。大内!」
圧倒的なプレッシャー。見ているだけの俺ですら冷や汗が流れる。クラスメイトだけでなく獣とかしていた女子達ですらその姿に固唾を飲んだ。
「立て健哉!貴様にはまださきの侮蔑の謝罪の責務がある。そこでのびたふりをするな!」
何が起きた?普通なら全身複雑骨折していてもおかしくないこと、それだけ理解はできる。だというのに、彼は、健哉は、ふらつきながらも立ち上がった。
「どーして俺の教室の前にゴンザレスがいるんだよ。たく、運がないぜ」
「廊下を歩いていたら虫唾の走る声が聞こえたんでな。つい出会い頭にボディーブローを入れてしまったよ」
ボディーブロー?あれは交通事故のメイキングビデオかなんかじゃないのが驚きだ。
「俺じゃなきゃ死んでるつうの。ほんと脳みそ筋肉は恐いわーまじゴンザレスだわー」
ぶち。明らかにやばそうな音。発生源は近藤の額。浮き出た血管はマジギレの証か。
「貴様には理解できんだろうな!校内の同輩だけでなく後輩からもその忌名で呼ばれる気持ちがな!名付け親のお前にはな!」
爆音。近藤の姿がぶれたかと思ったときには健哉の目の前、ゼロ距離に現れた。全く目で追えない。あまりに速すぎる。健哉は急いで腕を盾にしようとするが遅すぎた。
「死ねえええエええええ」
うなる風切り音。迫る拳。一撃必殺にして完全必中の約束された勝利の拳が放たれる。響き渡る轟音、うなる気流が視界を遮る。何がどうなった?健哉は?健哉は生きているのか?健哉――――!?
風が吹き止む。
近藤の拳は健哉の心臓を打ち抜く数ミリ手前で寸止めされていた。近藤の頬には薄皮一枚切られたような切り傷。そしてその直線上の壁には、深々と突き刺さったチョークが有った。
「はいはいケンカはやめてくださーい」
教卓の方から間延びした声。いつからいたのか、チョークを片手に持った田中先生がいた。この先生は風貌こそモブのなかのモブみたいな眼鏡なのだが、とにかく底知れない。化け物じみた身体能力を持つ近藤静香を律することができている時点で頭おかしいのだ。
「近藤さんはまだ体力が有り余っているようなので今日の部活のメニューは期待してくださいね~」
一気に青ざめる近藤。
「はい、すみませんでした」
拳を下げて深々と頭を下げた。震えているところを見ると、何か以前に恐ろしい経験でもあったのかと心配したくなる。
「ちなみに健哉君の方は後で生徒指導室まで来てくださいね~」
「ちょ、巫山戯んな!なんで俺だけ!」
その瞬間、走る弾丸。言い返そうとする健哉の足下にチョークが突き刺さる。いつの間にか先生の手の中にあったはずのものは消えていた。数秒の空白。刺さったチョーク達には亀裂が走り、粉々に砕け散る。青ざめる健哉。
「キテクダサイネ」
「本当にすみませんでした」
思いっきり地面に頭をこすりつけ、盛大な土下座をかました。
やっとが活気を取り戻した教室の扉を開く人影が一人。
「おはよう架君、この様子、何かあったのかしら?」
ホームルーム直前、やっと登校してきた久城は教室の異常な雰囲気を察して聞いてきた。
「ああ、田中先生のいつものアレだよ。」
「なるほど。理解したわ」
いつものアレで通じるほどには田中先生は有名である。ホントに何者なんだかな。知りたいようなそれでいて知るのが恐いと、しみじみ思うのだった。
「ちょー反省文書かされたし、もう最悪」
悪態をつきながら弁当を搔き込む健哉。それを俺と凛太朗の二人でなだめるのも最早日課となりつつあった。
「話は聞いたぞ。またあの先生に怒られたらしいな。よくやるよ。二組でも話題になっていたぞ。よくあの先生に突っかかれるな、俺は絶対無理だよ。恐すぎる」
凛太朗は肩をすくめながら言う。
「いやいやあんなのまだまだ大したことないぞ。一番ガチだったのは俺らが一年の時に不審者を捕まえたとき。あの時たまたま現場の近くで見ていたんだが、あの時の田中先生の目といったら忘れられねえな。ありゃ何人か人を殺したことのあるやつの目だよ」
あの事件は確か・・学校に侵入した不審者が生徒を人質に教室に立てこもったやつか。普通だったら間違いなく警察沙汰のそれを先生は単身で教室に入って、数分後には生徒とともに出てきたという伝説。ちなみに犯人の方は教室の真ん中で自失同然でひたすらすみませんすみませんと繰り返してただとか。何があったか知りたくもないな。
「あの先生は何者なんだろうな。ぶっちゃけ田中先生がレンジャー部隊のエースといわれても驚かないな」
俺のただの興味本位のつぶやきだったがそれを聞いた健哉の顔色は優れない。
「さあ、もっと恐ろしい物かもしれねえぜ」
「それはどういう意味だよ」
凛太朗もまた怖い物見たさの興味がわいたようだ。
「いや以前俺は家の力を使って学校のこと調べたことがあったんだよ。すると面白いことにこの学校の先生の中には数人、経歴不明の人たちがいたんだ。どこの大学を出て、どんな繋がりで今に至るかがすべて闇に包まれたある意味やべえ先生達」
「まさか・・」
「そう、三年一組担任の田中太郎もまたその一人なんだ、まあだからといったって皆きちんと先生している以上何か害があるわけでもないだろうけどな」
軽く笑いながら話す健哉。その内容に引っかかるところがある気もしたがそれ以上考えることはなかった。
「それよりこんな時間だ。早く体育の準備しないと遅れちまう」
ドタバタ弁当片付ける健哉を尻目に俺も体操着に着替え始めた。何か大切なことを見逃した、そんな違和感を心の片隅に抱えながら。
「明日から実行委員会は試験期間休みとする。各々、勉強に励むように」
先生のようなことをいう近藤の号令で今日の労働もまた幕を閉じた。俺は資料を片付けて他のメンバーに挨拶、そのまま部屋をあとにする。急ぎばやに向かうは駐輪場へ向かうための廊下の曲がり角、彼女はいつも通りそこに待っていた。
「遅いわ、一体何分待たせるわけ」
開口一番これかー。ちょっと機嫌悪いかな。
「本当に悪い。最後の資料整理が終わんなくてな」
「私は十五分前には終わっていたのよ、なんか奢りなさいよ」
ぐいぐい詰め寄ってくる久城、多分無意識でやっているんだろうが、うん、その距離があまりに近くて非常に困る。身長的にも上目遣い的な感じになって何だろう、悔しいが直視できない。
「わかったわかった、隣のコンビニで唐揚げ棒奢るからさ」
「そうよ。それでいいのよそれで」
最初は甘いお菓子とかそんなお上品なもののの方が好きなのかと思っていた。だが、毎日のように買い食いしては揚げ物やお惣菜を豪快に食べているところを見るとそうではないらしい。多分この子にとっては花より団子より肉といったところか。部活帰りの男子高校生のような女だ。
「テスト期間か、一番いやな期間だな」
「あら、架君は勉強は得意じゃないのかしら」
一見いつも通りの変わらない表情、しかしここ数日の付き合いでこの表情の違いが多少はわかってきた。今のこの顔は・・・馬鹿にしている顔だな。見てろよ。
「そうだな確かに苦手だな。特に数学は八十点しかとれなかったな、どうしよ~」
どうだ、一番やばそうな教科みたいな感じで話した点数が意外ととれていたら、さすがの久城も馬鹿にできないはず。せこいなんて言わせないぞ。
「それは確かにひどい点数だわ、論外だわ」
・・・・・ええ!?
「あの程度のテスト、満点以外に人権は望めないわ。貴方は授業中何をしているのかしら」
「今学校のほとんどの人の人権を侵害したからね!?」
まさかそんなに勉強ができたとは、久城をなめていたな。そんなにできるのであれば学年一位は当然か?
「だけど私、テストの順位は学年二位しかとったことないのよ」
「え?なんで?満点なら確定一位でしょ」
「違うわ。この学校のテストふつーじゃないの。確かに与えられた点数は百点なんだけれども、そこからさらに解法次第では加点されることもあるわ。例えば数学で言うなら複数の回答方法の提示や美しい証明などがわかりやすいかしら。つまり、テストで先生達の予想を上回るプラスワンの解答を入れ込んでいけば、それ相応の評価がなされるの。それこそ、ずっと一位の彼はそれができると言うことなんでしょうけど」
「そいつすげーな、一体誰なんだ?」
「え?貴方知らないの?その人は・・・」
マジか、それは知らなかった、見逃していた。あまりにも身近で予想外すぎた。
それから一週間と数日後、すべてのテストが終わったその次の日、待ちに待った、或いは一生来なくて良い日が必ずやってくる。
「というわけで今回の成績を張り出しますね~」
間延びした田中先生の声は生徒の大半の人にとっては死刑宣告である。というのもこの学校は進学校という物に何らかの憧れでもあるのか、テストの度に総合得点を順位ごとに全員分張り出す。各科目で六割に到達していない物が一科目のある人は例え総合得点で上位者であっても赤文字で名前が記載されその翌週に再テストを受けることになる。テストの難易度的には一般的なそれと大差がないものの、その鬼のようなシステムのおかげで学校の実績は右肩上がりになっているからより質が悪かった。
俺は順位を最下位から眺めていく。まだここにはありませんようにここにはありませんようにありませんように・・・・唱えた呪文に効が有ったのか、予想よりも遅いタイミングでそれは見つかった。百八十六人中八〇位の成績で黒字の名前。これは週に一度塾に通ったかいがあったってもんだ。赤字じゃないのも救いで、正直走り出したいくらいうれしかった。
「あら架君、そんな成績順のど真ん中みたいなところだというに、貴方はどうして満足そうに笑みをたたえてられるのかしら、不思議で仕方ないわ」
成績表の端、上位の方から優雅に歩いてくるのは久城朱璃その人で・・成る程、これが王者の気風とやらか。何か無駄にかっこいい。
「久城こそどうだったんだよ。ちゃんと人権は獲得できたのかよ」
「当然よ。ただ・・」
表情があまり変わらない久城さんにしては珍しく明らかに悔しそうに歯がみをする。
「また負けたわ・・・大内健哉に」
そう、大内健哉。いつもチャラチャラしているあいつこそ学年主席だったのだ。いや気づかねえよ。日頃真面目に勉強しているとこなんか一回も見たことないし、テスト中も気づいたときには寝てるし。どんだけ余裕なんだって怒りたい。いや怒ろう。これは八つ当たりってわかっていてもやめられない。何だか無性にあの腐れ縁のダチを一回ぶん殴ってやりたくなった。
後日談というかその直後の話。彼の机を訪れると、テスト結果なんて分かりきっているとばかりにぐっすりと気持ちよさそうに寝ている健哉を発見、俺は流れるような手さばきで勢いよく彼の椅子を引き抜いた。
期末が終わり夏休みが来た。高校最後の夏休み、二度と忘れないような素晴らしい物にする・・・はずだった。というのも、体育祭は二学期始まって一週間後に開催される。つまり、実行委員には夏休みなんて存在しないのである。そう、この部署はあまりにブラック。労働基準法に縛られない労働時間にそもそも見返りはこの頑張った青春の記憶とか・・
「はあ~~~俺らを舐めてる」
「はいはい愚痴をこぼす前に手を動かしなさい。まだパンフレットの下書きが終わっただけなんだから。さっさとおしまいにするわよ」
テキパキとパンフレットに赤で修正点を加筆していく姿はできるOLのようだ。
「しかしだ、なにかこう、モチベーションアップにつながる物が欲しくてだな」
「それなら帰りにメンチカツを買い食いするとかどうかしら?私はそのことを考えただけで常時の三倍のスペックになれるわ」
「なんて安上がりな赤い彗星だよ。お前はそれでいいのかよ」
愕然とする俺。できるOLのイメージは消え去りメンチカツにがっつく久城の姿しか頭に浮かばなくなった。
「なら花火なんてどうだ。三日後にある願い橋花火大会に実行委員皆でいくというのは」
話の顛末を聞いていた近藤は言った。
『それは良いですね』『行きましょう』『決まりだー』
久々に盛り上がる室内。皆にはやっぱり息抜きが必要だったようだ。近藤を改めてすごいと感心した。これでまたしばらくは皆の志気が上がる。ただ一つ気がかりだったのは、久城があまり乗り気に見えないことだった。
三日後、つまり花火大会当日。待ちに待ったこの日だったんだがーー、俺は体調不良で寝込んでいた。いやあまりにも悔しい。何かふらつくと思い、朝、熱を測ったら三九度。ちょっと寝れば治るだろうと薄い期待こそしてみたものの遂に願いは叶わなかった。時間は午後七時。遠くで花火の音が聞こえ始めた。カーテンを開けたら、窓の外に小さく咲くきらびやかな花。皆が楽しんでいるのだろうと思った途端、なんだか妙に寂しくなってきた。
もう寝てしまおう。
そう思って電気を消し、布団にくるまったそのとき。
「ごめんなさい架君。今起きているかしら」
俺の部屋をノックする彼女の声がして、それがとても無性にうれしかった。
「近藤さんから聞いたわ、とっても心配したんだから。でもよかった、ただの風邪で」
本当に心配をしてくれたのか会場から走ってきたようだった。彼女は浴衣姿をしておりとても艶やか、普段の制服では感じられない大人の色気がそこにあった。濡れた瞳。彼女が流していたのは涙なのか。潤んだその目は想いの重さを入念に語っていた。
「本当によかった、貴方が無事で、本当に・・」
繰り返す言葉。あまりの心配のされようにうれしい反面、さすがに違和感すら覚えた。
「ありがたいけど、とってもうれしいけど、けどどうしてそんなに久城は心配してくれるんだ」
力なく、うつむく彼女。あの時のような弱さが、今は透けて見える。
「普通なら風邪ごときでここまで心配しないよ」
そう、普通ならそこまで心配はしない。だけどもし、あのことを知っているのならもしかしたら・・
直感めいた物を感じて俺は続ける。
「何か知っているんじゃないか、俺のこと」
俺は優しく促す。そして待った、彼女が自分から答えてくれるのを。長い長い沈黙、彼女は悩んで悩んで悩み抜いた。噛み締めた唇からは血が流れた。俺は目をそらさない、しっかりと久城を見つめる。永遠だと錯覚する時間の果て、涙を拭い彼女は、久城朱璃は俺に向き直った。そして告げる。誰にも言えなかった、伝えることのできなかった、抱え込むしかなかった、彼女の秘密・・・
「黒場架君。貴方は一ヶ月以内に死ぬわ」
私には、久城朱璃には呪いのような力がある。それは人の命が視えるという力。力は命をアサガオの花で映し出す。蒼、紫、紺、ピンク・・無数に描かれる花々はどれもが不気味なほどに満開だった。そのはずだった。
その違いに気づいたのは十年前、まだ私が八歳の頃、父が仕事から帰ったあの日、お帰りなさいを言いに行った私が視た父に咲いたアサガオはいつもよりしぼんでいた。
「パパのお花がしぼんでる」
「はいはい、朱璃はお花が好きだね~」
幼いながらに抱いた危機感、しかしそれは確実に現実の物へと変わっていった。その三ヶ月後、願い大橋で事故が発生した。飲酒をしていた運転手が中央線を超え対向車に追突、飲酒した本人こそ軽傷で済んだものの、事故に巻き込まれた対向車はそのまま河に転落。ドライバーは即死だった。そう、私の父はその日死んだ。
母は再婚の妻でありながらよく血のつながらない私の面倒をよく見てくれた。かわいがってくれたし、支えてくれた。だけど、父が死に、私の力を知った頃には母は壊れていた。
どうして貴方はあの時のあの人を救わなかったの、ねえどうして、貴方ならわかっていた、救えたでしょ、ねえ教えて頂戴、ねえ、どうして・・・・
それがいつの間にか口癖になった。母とはもう一緒に住める状況になかった。
私はとある国家の研究施設で面倒を見られることになった。なんでも自分のような特殊な力を持つ子供達を保護する施設だとか。そんなもの信用できるかどうか自分にはわからなかったが、何も残されていない私にはもうどうでもよかった。毎日決められたスケジュールをこなすだけの真っ白な日々、誰とも出会わない、何も起きない、隔離された世界を繰り返すなかで、私の表情は死んだ。
研究施設のサポートのもと独り暮らしを始めたのは高校入学直前。高校のカリキュラムはあらかた施設の教育でマスターしている私にとって授業はつまらない物でしかなかったが、何よりも大変だったのは日常生活と人間関係だった。研究施設での隔離された空間とは大きく異なる人口密度。右も左も人人人、否が応でも彼らの花々が眼に映り込んだ。時には隣のクラスメイトの、時には保護者の、時には通学路で挨拶をよくするおばちゃんの死期を悟った。しかしそれだけ、私にある力は視る力だけ。そこに介入することも抗うこともできない。私が何をしようと何を願おうと命のアサガオは無慈悲に枯れ落ちた。
何十というアサガオの枯れる様を視た。散りゆく花びらはまるで私の心ですら有るようにも感じた。無関係な人々の死まで抱え込んだ私の心は消耗していった。
黒場架のことは高校一年の頃から一方的に知っていた。貴方のアサガオは今にも枯れそうだったから、眼に入るたび気になって仕方なかった。今日も学校に来た、また今日も来ている・・・明日は?日を重ねていくほどに増す死への恐怖、いつの間にか貴方を避けるようになった。もう貴方とは一切関わらない、そうしなければ私自身が耐えられない。しかし現実はやはり残酷だった。高校三年生のクラス替えで貴方と同じクラスになった。
黒場架は人当たりがよく、周りと距離を置いていた私にかまわず話しかけてくる。これが
私にとっては怖かった。死が訪れるとわかっていて一定以上の関係を築く事はできない、そんなことをすれば、貴方を失った悲しみが私を潰すから。もう、父を失った以上の苦しみを受けたくはなかった。貴方に話しかけられても無視を決め、できるだけ冷たい態度をとり、近づかれても逃げるようになった。
しかしこんな事に意味があるのだろうか、枯れゆくアサガオを視ながら私は思う。距離をとろうと意識すればするほど、その花が、貴方が気になっている自分に気づいた。そんなんじゃ、どうやってもどうあがいても私が傷つく未来しか予想つかない。私は苦しかった。もう止めにしたかった。
十度目の父が死んだ日、願い大橋で一人、私はそのときを待った。事故の起きた時間、午後一〇時一七分。私は父と同じように願い大橋で死ぬ・・・そのはずだった。貴方が来るまでは。
貴方は私に言った。
「俺の前で死ぬんじゃねえ!命くらい大切にしろ、この馬鹿野郎!」
いつもなら絶対にしないような怖い顔だった。少し驚いた。だけど正直言われた直後は逆ギレしてやろうと思った。私の苦しみを知らないやつに何がわかるとすら思えた。そんなやつに関わって欲しくなかった。
しかし時間がたてば立つほどに貴方の言葉の真意が掴めてきた。貴方は自分の先がないことを知っているのではないか、自分の命が残り少ないことを悟っていてその貴重な時間を大切に生きているというのに、目の前で命を粗末にしようとしている私を見てしゃくに障ったのではないのか、とすら思えた。たしかにそうであれば、貴方が急にサッカー部を止めた理由がつく。けれど、残り短い命とわかっているのにどうして普通の、平凡な生活をしているのか、そこだけが理解できない。
考えれば考えるほどに私は、黒場架のことをもっと知りたい、傷つくとしても、もっと理解したいと想いを止められなくなった。だから諦めることにした。貴方を避けることを。そして決めた。どんなに苦しい未来が待っていても、貴方と関わろうと。
「それからは・・・架君の知るとおりだわ」
長い長い独白。話しながら、彼女は泣いていた。もしかしたら彼女は、散っていく命を視ることしかできなかった自分の罪を懺悔しているのかもしれない。そのあまりにも痛ましい姿は俺の心を締め付けた。無言で彼女に肩を寄せ、静かに抱く。震えていた彼女は驚いたように跳ねたが、次には強く抱きしめ返していた。静かなときの流れ。部屋には彼女の泣きじゃくる音だけが響いていた。窓の外では小さく花火が光っていた。
午後十時、花火はフィナーレに入っていた。部屋の中から二人はその幻想的な花々を見ていた。
「私ね、実は花火は嫌いなの」
彼女は静かに続ける。
「花火は確かに綺麗、けれどね。打ち上がった後とても寂しくなる。だから私は嫌い」
そっと彼女の手を握る。そこから彼女の温かさを感じた。
「花火は一瞬、全力で煌めいて、散っていく。それは一年に一度、朝にしか咲かないアサガオの花のように」
彼女の手が震える。それを俺は、優しく包み込んだ。
「けどそれはけして悲しいことなんかじゃないんだ。彼らが輝いたのは確かに短い時間だったかもしれない、だけど覚えていてくれる人がいる。誰かの記憶の中で彼らは生き続けてる。だから決して、寂しくなんかないんだ」
俺は彼女を見つめる。彼女もまた見つめ返す。どこまでも吸い込まれそうな瞳。そこに写る悲しい記憶を少しでも減らすことができたなら。
「久城さんは覚えている。苦しみながらもずっと、死んでいった彼らのことを心に刻んでいる。それだけで彼らは救われていたんだ。だからそれ以上久城さんは背負わなくて良いんだよ」
抱き寄せ合い、二人はそっとふれあう程度の優しい口づけをする。もっと想いを伝え合いたくて。互いの熱を感じていたくて。少しでもその苦しみを溶かしたくて。永遠のような深みのあるひとときを二人は分かち合った。
唇が離れた。彼女は頬は朱に染まっていて、とても可愛らしい。いつものクールな感じとは違う様子におかしくて、つい俺は笑った。久城は拗ねてげしげし蹴りつけてきたが。
「だから約束、これ以上自分を責めないで。君にはどんな満開の花にも負けない笑顔があるのだから。さあ、笑って。笑顔を咲かせて、朱璃」
彼女は誓う。貴方の約束を守ると。そしてはにかむ久城の笑顔は、最後に打ち上がった特大の花火に照らされながらも、花火よりも、この世の何よりも負けない美しさを兼ね備えた、俺の記憶の、最高の宝となった。
楽しい時間は一瞬で過ぎていく。夏休みは猛烈な勢いで終わり、すぐさま始まった体育祭、準備の甲斐あって完璧に進行できた。そして体育祭が終わってから二日後、もう悔いがないとでもいうように急に架の病状が悪化。その三日後に架は帰らぬ人となった。私はこのときの架の安らかな笑顔を一生忘れることはないだろう。
私は彼の葬式が終わった後、外の風に当たりながら宝物である携帯のアルバムを開いていた。現れるのは輝かしいあの体育祭の思い出。近藤さんの厳つい選手宣誓。大内君の組対抗リレーでのごぼう抜き。退団式で泣きまくる生徒会長さん。そして、閉会の言葉をかみまくる架。なんで最後くらいちゃんとすることができないのかしら、貴方って人は、本当・・馬鹿、折角応援してあげたのに。ああもうやっぱり、どうしようもなく・・・寂しいじゃない。
自然にあふれ出した涙を拭っていると、目の前から見知った顔が、というか嫌いな顔が
やってくるのが見えた。地味な風貌にモブのような存在感。軽いノリはいつもかんに障る。彼もまた架の式に参列していたのか、似合わないブラックスーツを着ていた。
私は周囲を見て誰もいないことを確認した。
「話があります。田中先生、いや、超能力研究室長田中太郎」
田中の顔色が一変、いつものへらリとした雰囲気から人とは思えないほどに冷たい笑みへと変わる。
「何でしょう久城朱璃さん」
は虫類にも似た眼で射貫かれる、全身が今すぐここから離れたいと悲鳴を上げる。だが、ここで引くわけにはいかない。
「貴方のことよ、架から何も聞いていなくても残りわずかな命と調べがついていたのでしょ。どうして普通に学校に通わせるような危険なまねをしていたの。どうして特別な処置を施したりしなかったの」
少し考える素振りを見せた田中はゆっくりと話し出した。
「確かに知っていました。彼が不治の病にさいなまれていることも、部活を引退したタイミングで医者から余命一年の宣告を受けていたことも」
不気味な笑みを深めながらも続ける。
「しかし彼はそのような状況下であっても日常を望んでいました。ダメ元で新治療を試すことよりもこれまで歩み続けた日々を尊びました。だから私は何も知らない一担任として最後まで最期まで貫いたのです」
ずっと疑問に思っていたことが今やっとわかった。どうして架、貴方は死を覚悟しても、残りの命が短いとしても、変わらず笑顔で、何の変哲もない毎日を過ごせていたのか。それほどまでにその日常は大切で、どうしてでも守りたかったのね。少しだけ貴方のことわかった気がするわ。
「そう、ありがとう田中。もう用が済んだから私の視界から失せて」
強く追い返すように手を振る。そんな様子を見た田中は、元の軽い雰囲気に戻ってため息をはいた。
「そんな冷たいところは以前と変わりませんね~、先生としてはその言葉の使い方だけは直してあげたいところですが。それではまた明日です~久城さん」
遠ざかる担任の姿を見て、少しはましになってきた。あの担任は苦手だ。まあ彼だけではなく私からすれば、学校に八人いる元研究所員全員が気持ち悪くて、何考えているかわからなくて、ただただ怖くて、苦手なのだが。
震えた体を宥めるように、大きく息を吐く。すると、優しい秋の風が、頬をなでた。透き通るように晴れ渡った空は、私を優しく包み込んでいるように感じる。そのほのかな暖かさに、ふと彼が視えた気がした。
帰る途中、願い大橋に立ち寄った。昼間のここは車がちょくちょく通り、夜とは打って変わって少し賑やかだった。私はあの日と同じ場所で手摺りに体を預けながら、きらびやかに反射する河の水面を眺めた。キラキラと輝く水面は夜空に写る星を彷彿させ、あの日のことを思い出させる。
ここは父と別れ、そして架と出会えた場所。ちゃんと覚えている、私は覚えているよ。だから、これからは笑顔を見せなきゃだね。約束、忘れないよ。
橋を去って行く彼女の背中にはもう悲しみなんてない。ただ凜として咲く一輪の花の如き、強さと美しさがあった。
アサガオの花は今日も咲き乱れる。彼女の、朱璃の笑顔とともに。彼が守りたかったごくごく当たり前の日常の中で。強く、美しく、そして気高く。
アサガオの花言葉は儚い恋、そして固い約束。
これは彼と彼女とが交わした大切な約束の物語。
残花 @uta-tane
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