あの夏が飽和する。

藤咲はるた

第1話

  その日は、六月に入ったばかりの梅雨の季節で、雨が降っていた。

「昨日、人を殺したんだ」

 僕の家のドアに背を預け、涙と雨でびしょ濡れになったまま膝に顔を埋め、彼女は僕に向かってそう呟いた。

僕はどう答えていいものかわからず、おそらく今日も誰も帰ってくることはないであろう家の中へと招いた。


***


 「殺したのは隣の席の、いつも虐めてくるあいつ。学校の帰り道、歩道橋の階段でいつもみたいにからかわれた時、もう嫌になって肩を突き飛ばしちゃったの。そしたら階段から落ちちゃって、打ちどころが悪かったみたいでそのまま…」

 シャワーを浴びてようやく落ち着いた彼女は、僕が淹れたココアで体を温めながら、僕にそう話してくれた。

「もうここに居場所は無いと思うんだ。家に帰れないし、学校にも行けない。だって人を殺しちゃったんだ。私、ここから逃げて、どこか遠い誰の目にもつかない所で死んで来るよ。」

それを聞いて、僕は気がついたらこう言っていた。

「それじゃ、僕も連れてってよ。」


 それから僕は、財布とゲーム機、家にあるありったけのお菓子、ずっと書き続けていた日記、あの日の写真、そして最後にナイフを鞄に詰め込んで、携帯電話は履歴を削除してから踏みつけて壊した。彼女はというと、昨日一度家に帰った時に全て準備をしていたようだった。

「本当に君も行くの?」

「僕が嘘を吐いたことなんてないだろう。一度決めたことはしっかりやるさ。」

僕が本気ではないと思っていたらしい彼女に、目線を合わせてからそう言った。

「じゃあ、決行は今日だ。君は人を殺したんだ、早いほうがいいだろう。僕の家族は今日も帰ってこないし、人の目につかないよう、夜中にここを出よう。」


 僕の家は、親が共働きの一般的な家だ。ただ、父は仕事が忙しく常に出張でどこかに行っていて、母はというと、ほとんど家に帰ってこない。他の男の家に行っているようだ。そして大学生の兄が一人いるのだが、今は家をでて一人暮らしをしているので、いつも家には僕一人だけだった。

 この家で僕は、ダメ人間だった。いつも優秀な兄と比べられ、テストで百点を取らないと簡単に殴られた。僕の存在を認めてもらおうと自力で血が滲むような努力をして兄も通っていた県内トップの高校に受験したのだが、落ちてしまった。不合格だと分かった瞬間のあの両親の蔑むような目は、今でもしっかりと覚えている。

そこからだ。母が本格的に帰って来なくなったのは。今までも夜な夜な両親の喧嘩の声が聞こえていたのだが、僕が本当にダメ人間だったと気づいたようで、僕は母に見捨てられてしまったようだった。僕が勉強ができれば、僕がいい子だったら、僕が母の全てになることができたら、家族は今でも家族だったはずなのに。

 

 深夜0時半。夜も更けたので逃げることにした。最後に家に残っていた両親の金をあるだけ盗んで、僕たちは家を飛び出した。特に行く当てもなかったので、とりあえず人気のない公園に向かいながら、二人の旅のこれからを相談した。

 まず、どう死ぬかだ。決まったのは、落下死。僕らが通う学校の裏にある深い森に崖があるのだが、かなり高くて、落ちたところは救出不可能なうえ、そこから落ちたらひとたまりもなく自殺には丁度よかった。電車に飛び込むとは違って人に迷惑をかけることもないし、なにより二人一緒に死ぬことができるのですぐに決まった。次に、いつ死ぬか。これは、二人が死ぬ前にやりたかったことをやってからにすると決まった。

 公園につくなり、雨風がしのげる草の生い茂ったアスレチックの土管の中に二人で入った。小さい子用なので、高校生の僕らにはサイズが合わず、体を精一杯丸めないと入ることができなかった。僕たちは小さく狭いこの城で、持ってきたスナック菓子を頬張りながら、死ぬ前になにがしたいかを話した。

「私、線路の上を歩いてみたいんだ」

「どうして?」

「普段は入れない場所に入るのってわくわくするし、本当は犯罪だけどもう死ぬんだったらそういうの気にしなくてもいいじゃない。悪い子になってみたいの」

「なるほどね。僕もやってみたいかも」

そういうと彼女に「君は?」と聞き返されたので、

「僕?そうだなあ。僕は、君が本当にしたいことをしてるところが見たいかな」

と答えた。


 雨が降ってじめじめした暑さに包まれ、僕たちは目的地の森に行くまでにある線路を歩くことにした。線路わきの立ち入り防止のフェンスをに手をかけ、飛び越えた。

「意外と普通には入れるものなんだね」

「ここは田舎だし、終電もとっくに終わってるからね。もし見つかったら逃げればいいさ」


 僕たち二人は、誰にも愛されていない、ただそれだけのことでお互いを信じあった。彼女も、家庭内に事情を抱えていたようだった。母娘の二人家族で、父親は物心ついた頃からいない。母親は家計を支えるために夜の仕事をしていたようだが、気づけば家に帰ってこなくなった。生活費は置いていってくれるそうだが、その額は少なく、高校に入学せずに働きにでるはずだったらしい。だが、今の時代中卒で働けるところなどどこにもなくて、生活費を切り崩してなんとか高校に通えるようにしたようだった。そういう家庭事情もあってか、彼女はいつも虐められていた。

 僕らは手を繋ぎ、たくさん話しながら歩いた。彼女の手の震えも既に無くなっていた。家族のこと、虐められていたこと、嫌いな人、憎んでいるもの、好きな音楽、好きな漫画、尊敬している小説家。これまでのことを、これでもかというほど話した。たくさん笑った。今までの人生で一番楽しかった。幸せだった。僕は、本当にもう死んでもいいと思えた。

「小さい頃に観たアニメの優しくて誰にも好かれるヒーローの主人公ってさ、汚くなった僕たちのこともちゃんと見捨てずに助けてくれたりするのかな」

ふと疑問に思ったことを口に出していた。

すると彼女は、

「そんな夢なら捨てたよ、だって現実を見よう?『シアワセ』の四文字なんてなかった今までの人生で思い知ったじゃない」

と、今にも泣きだしそうな顔で微笑んだ。

そして、最後に吐き出すように小さい声でこう言った。

「自分は何も悪くないって、誰もがきっとそう思ってるんだよ」


 朝日はとっくに昇っていた。手は繋いだまま、僕たちは森の中を息を切らして走っていた。長い長い線路の上を歩いた後、森に向かうために道を歩いていたら、僕たちは道にいた警察官に見つかってしまった。今まで目もくれなかったくせに、親はなぜか捜索届を出していたようだ。僕たちはまずいと思い、すぐに逃げたのだ。

 後ろからは鬼のような怒号と、僕らを追いかける足音が聞こえていた。蝉は喚きだし、水も飲んでいないので視界は揺れ、時折足や腕に引っかかる木の枝で傷を作り、もう体力も残っていないのに僕たちははしゃぎながら走った。もはや何から逃げているのかわからなかったが、無邪気に笑う彼女の横顔を見ると、この上なく幸せだった。しっかりと繋がれた手に、力がこもった。

 その時だった。

彼女はおもむろに立ち止まった。僕は驚いて転んで、その時に手も離してしまった。

「何してるの、早く逃げないと!」

僕は振り返って叫ぶ。彼女は笑顔のまま言った。

「今まで君が傍にいてくれたからここまでこれた。君には感謝しかないよ、本当にありがとう。人生で一番、君の隣にいる時が楽しくて幸せだった。私、君にはずっと生きていて欲しいんだ、これからも。私の分まで生きて。だから、だから」

彼女は大きく息を吸ってから、こう続けた。

「死ぬのは私一人でいいよ」


そして、彼女は首をナイフで切った。赤い鮮血が目の前に噴き出す。僕は、まるで映画のワンシーンのようだとぼんやり思った。 

 それからは、何も覚えていない。気づけば僕は捕まっていて、君を探しても、もうどこにも見つかることはなかった。


***


 あれから時が経ち、暑い暑い夏は何度も過ぎていった。家族もクラスの奴らも、僕ものうのうと生きている。彼女が殺したと思っていたあいつは気絶をしていただけで死んでいなかった。いなくなったのは、死んでしまったのは彼女だけだった。彼女は何も悪くなかった。悪いはずがなかった。虐められていたのは彼女だ。彼女が罪悪感に潰されて死ぬ意味などどこにもなかった。

 僕は、彼女を忘れることは絶対にないだろう。彼女の分まで生きると決めたんだ。絶対に彼女の分まで幸せになる。いつか幸せになって彼女に会えたなら、大好きだって伝えると決めている。

 僕は彼女の笑顔で頭の中を飽和させながら、天国にいる彼女に語りかけていた。


__君は何も悪くないよ。「君は何も悪くはないから、もういいよ。投げ出してしまおう。」 そう言って欲しかったのだろう?なあ?

 






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あの夏が飽和する。 藤咲はるた @harufuji428

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