第10話
梨奈ちゃんはゴミ袋を俺に出させ、それを広げさせると。彼女の目から見て要らなそうなものを次から次へと放り込み始めた。この時俺は女将さんが、かって言っていた言葉を思い出した。
『ねえ、あゆ。あの子が掃除をするって言う時は気をつけなよ。あの子の掃除は単に要らないと思う物を捨てるだけだからね。一見綺麗になったように見えるけど、大事な物まで捨てられてしまうからね』
そうだった。だから女将さんは、極力梨奈ちゃんには自分の部屋以外は掃除させなかった。尤も師匠の家の八割は弟子の俺が掃除をしていたし、小ふなが入って来てからは二人で掃除をしていた。ちなみに前座時代の俺の名前は『小あゆ』だ。今とあまり変わりが無い。
俺の部屋は六畳の洋間で、簡素な折りたたみ出来るパイプベッドが置いてある。ベッドの上には母の方針で「無圧ふとん」が敷いてある。
その反対側には学校に行っていた頃から使っている机。ここにはノートPCなども置いてある。その隣には本棚が置いてあり、ここには落語全集の他に色々な師匠の落語のCD等も置いてある。本棚の上には何年も使っているラジカセがある。
本棚の先はガラス窓でその下は俺の衣類がしまってあるタンスだ。このタンスは仕事で使う着物や襦袢、帯や足袋等がしまってある。普段着る洋服はベッドの脇に部屋の入口に近い場所に洋服ダンスがあり、そこにしまっている。
梨奈ちゃんは一番片付いていない机の上を見て
「凄い! よくこんなに積み重ねたね」
そう言って、机の上に置いてあった色々な落語会のチラシを片っ端からゴミ袋に捨て始めた。
「ああ、それ」
「なあに? これみんな要るの? 要らないでしょう」
ここで「資料だから要る」と言えば良かったのだが
「ああ、そうだね」
それしか言えなかった。でも彼女は
「信ちゃん。いや鮎太郎。駄目だよ!こんな人の落語会のチラシなんか貰って来ては」
そう強く言い放った。
「え、どうして?」
「だって、こんなもの溜め込んで見て、鮎太郎の落語が上手くなるはず無いじゃない。人の事を知るのは大事だけど、それは生の高座を見なくちゃ駄目だと思うの。机の上で他人の落語会のチラシを眺めているだけじゃ上手くならないよ」
そう言って俺を鼓舞する梨奈ちゃんに俺は女将さんと師匠の影を見た気がした。
「ねえ、バケツと雑巾。それに掃除機を貸して頂戴。ちゃんと掃除するから」
俺は言われた通りに用意して部屋に持って行った
「ありがとう。掃除が終わったら呼ぶから、それまでは下にでも行っていて」
「任せきりで大丈夫?」
「大丈夫。お母さんが言ったのでしょう。わたしが何でも捨てちゃうって」
「知っていたんだ」
「年中言われているからね。もう大学生よ。そんな事はしないし、気になるなら、わたしが帰ってから袋を点検すれば良いわよ」
確かに梨奈ちゃんの言う事は最もだった。
「じゃあ頼むね」
そう言い残して下に降りると母が買い物から帰って来ていた。
「あ、帰っていたんだ」
「まあね。本当に可愛くて綺麗な子ね。あんたには勿体無いわね」
母はそんな事を言いながらも息子の将来の嫁さん候補を見て満更でも無いみたいだ。
「なんか嬉しそうだね」
母の表情を読み取って、そんな事を言ってみると
「梨奈ちゃん。本当にあんたの事が好きなのね」
「何でそんな事が判るの?」
そうなのだ。母は梨奈ちゃんとはそんなに話をしていないはずだった。そんな所まで判るのが変だと思った。
「だって、わたしが怒った時にあの子迷わずに、自分が先に好きになった。と言ったのよ。それがどんな意味だか判る?」
「……」
「あの時、わたしの態度によっては大変な事になるかも知れなかったのに、迷わずに言い切ったと言う事は、これ以上あなたを不利な状況にさせたくないと言う想いだったと言う事よ」
「そんな想いが……」
「本音は咄嗟の時に出るものなのよ」
母は買い物の袋から二つの紅茶の缶を取り出した。
「オレンジ・ペコーとダージリンよ。梨奈ちゃんはどっちが好きかしらね」
そう言って目を輝かせた。俺はインスタントコーヒーをマグカップに入れるとお湯を注いだ。スプーンでかき混ぜ口を付けると母が
「それにしてもあなた、片付けてもいない自分の部屋に良く恋人を入れたわね」
俺は母の言ってる事が良く理解出来なかった。確かに多少は散らかっていたが、部屋に入れたく無いと言う程ではない。
「あの位なら」
「そんな事じゃないの。判らない? 思ったよりデリカシーの無い子ねえ」
益々意味が判らなかった。母は続けて
「考え方によっては自分の裸を見られるより恥ずかしい事じゃない。わたしなら最初では入れないな。逆に部屋に入れる時は本当に相手に自分の裸を晒しても良いと思った時かな。昔だけどお父さんとは、そうしたけどね。つまりあなた、あの子の前でパンツ脱いじゃった様なものなのよ」
極論だと思った。確かに、自分の部屋に恋人を入れる時……二人だけの空間に浸れる時間を共有すると言う事だとは判ってはいた。
「でも、俺と梨奈ちゃんは付き合いは長いんだ。知り合って間もない間柄では無い」
「そうね。でも恋人としては浅いでしょう? それとも?」
母は俺の表情を読んで
「そこまでは未だみたいね」
そう言って僅かに口角を上げた。これが俺の母親なのだ。その時二階から
「お掃除終わったよ~」
梨奈ちゃんの声が聴こえた。
「今行く!」
梨奈ちゃんに返事をして母に
「じゃあ上に行くから」
そう言うと母は
「ご飯出来たら呼ぶからね」
そんな事を言って手を振っていた。
二階に上がり自分の部屋のドアを開けると、窓からの春の風がカーテンを揺らしていて、タンスの上に置いたラジカセ。その隣にあった写真立てが俺の置いた向きとは若干違っていた。写真には俺と梨奈ちゃんが写っている。青森から帰った時に梨奈ちゃんの部屋に入った時にスマホで写したものだった。
母の考えなら、あの時梨奈ちゃんはどう思っていたのだろうか? そこまで考えて、納得した。あの時梨奈ちゃんは平気な顔をしていたが、俺にフレンチ・キスをした時には、やはり、かなりの覚悟だったのだと考えが及んだ。
「綺麗になったね。見違える様だよ」
「あの時の写真印刷したんだ」
梨奈ちゃんは俺のベッドの上に座っている。部屋の隅にはバケツと雑巾。それに掃除機とゴミの袋が置かれてあった。
「ちゃんと掃除したんだよ」
「うん。判る」
梨奈ちゃんが自分の座っている場所の隣を軽く叩く。横に座れと促しているのだ。梨奈ちゃんは姉さんかぶりの手拭いを取ると肩まで伸びた髪が風にふわっと揺れた。
隣に座り、梨奈ちゃんの肩を軽く抱き寄せると梨奈ちゃんは俺の方に体を向け目を瞑った。その唇に自分の唇を重ねる。お互いの舌が絡み合い、お互いの気持ちが交差して行くのが感じられる。そのまま少し力を入れて梨奈ちゃんの華奢な体を抱きしめた。
開け放たれた窓から、何処かの薔薇の香りが風に乗って部屋に入って来た。その風は二人を包むと、また外に出て行った。
梨奈ちゃんも俺の背中に手を回し、お互い抱き合う形になった。唇を離すと梨奈ちゃんの口から言葉が漏れた
「暫くこのままで……」
俺は返事の代わりに静かに黙って頷き。もう一度唇を重ねたのだった。
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