第9話
妹は梨奈ちゃんに挨拶をすると出て行った。その時家の奥から母の声がした。
「信春、帰ったの? 誰か一緒?」
その声と一緒に母が家の奥の方からエプロンで手を拭きながら出て来た。その姿を見て梨奈ちゃんは
「わたし、信春さんとお付き合いをさせて頂いている和久井梨奈と申します」
梨奈ちゃんがそう言って頭を下げると、母は
「あら、こんな格好でごめんなさいね。もう、この子何も言わないからこんな格好で……和久井さん?」
「はい」
頭を上げた梨奈ちゃんの顔を母はしっかりと見ると
「もしかして、遊蔵師匠の娘さんの梨奈ちゃん?」
「はい、そうです。よろしくお願いいたします」
梨奈ちゃんがそう言ってもう一度頭を下げた時だった。
「信春! お前なんてことを!」
その言葉が口から出るや、母の平手が俺の顔に飛んだ。その凄まじい勢いで俺は玄関の外まで飛ばされてしまった。それほど強烈だった。
「お前、師匠の娘さんに手を出したのかい! それがどんな事だか判っているのかい? 御免なさいね梨奈ちゃん。ウチのバカが貴方を騙したのでしょう?」
母は、俺が梨奈ちゃんを口車に乗せて騙したのだと思っているらしい。この平手はその怒りの現れと言う訳だ。
「お母さん違うんです。むしろ、わたしが最初に信春さんを好きになったんです」
梨奈ちゃんの言葉に俺は立ち上がり
「違うよ! 俺が先に好きになったんだ」
「違うんです。わたしなんです」
お互いに自分が先だと言い合っていたら
「そう。判ったわ。お互いが同時に好きになったのね。ウチのバカが騙した訳では無いのね?」
「はいそうなんです」
答えたのが同時で声が揃った。
「騒がして御免なさいね。わたしは信春の母の恵子です。よろしくお願いね。さあ、上がって下さいな」
母はそう言ってスリッパを出した。
「ありがとうございます!」
梨奈ちゃんはそのまま上がると、クルッと体を回して自分の脱いだ靴を揃えた。最初から後ろ向きで上がるなんて不作法な事はしない。
「もうこの子は芸人になるなんて言って親戚一同も驚いたのよ」
母はそんな事を言いながら、俺と梨奈ちゃんを応接間に通した。応接間と言ってもサイドボードやソファーが置いてあるだけの部屋なのだが、我が家ではこの部屋を応接間と呼ぶのだ。
俺と梨奈ちゃんを座らせると母はお茶を持って来る為に台所に向った。梨奈ちゃんは脚を揃えてきちんと座っている。脚を少し斜めに揃えている。ミニスカートから出た長い脚が眩しい。手は膝の上に置いている。
「緊張してる?」
「緊張と言うより驚いた……いきなり信ちゃんが飛んだから驚いた」
「まあ、かなり早とちりするタイプだからね。でもさっきの言葉嬉しかった」
「わたしも同じ……イザと言う時にちゃんと守ってくれる人だと判ったしね」
そこまで言って雰囲気が盛り上がった時だった。母が我が家で唯一の銀盆にティーポットと紅茶のカップを二脚乗せて持って来た。見ればかなり大事なお客さん用のウエッジウッドのワイルドストロベリーだ。確か母が嫁入りの時にセットで持って来たと聞いた事がある。お目にかかったのは数年ぶりだった。未だ大事に取っておいたんだと思った。
「何にも無いのだけど」
母はそう言って梨奈ちゃんと俺の前にカップを置いてその向こうにパステルのなめらかプリンと銀の匙を置いた。俺の記憶が正しければ、このパステルのプリンは昨日俺が仕事先で戴いて来たもので、俺は食べずに居て確か箱に入っていたのが五個だったので辻褄はあった。食べなかったのは虫の知らせだろうか……。
「ありがとうございます! どうぞお構いなし……」
梨奈ちゃんはそう言って恐縮しているが母は
「何も無くて御免なさいね。せめて夕飯は食べて行って下さいね」
「ありがとうございます! 本当に急に押しかけて御免なさい」
「いえいえ良いの。正直言うと、とても嬉しいわ」
母はそう言うと夕飯の買い物に出かけて行った。
母が出て行ってしまうとこの家には俺と梨奈ちゃんの二人になった。
「素敵なカップね。なんだか飲むのが勿体無い感じ」
「結構古いんだよ。なんせ母の嫁入り道具だからね」
「へえ~、それって素敵じゃない。妹さんが受け継ぐのかな?」
「いや、妹は自分好みの新しいのを買い揃えると思うよ。それとも、そんな所には興味が無くて実用的なのを買ってしまうかも知れない」
恐らく後者だろうと想像はついた。
「紅茶も美味しい! お母さん紅茶が好きなのね。わたしも好きだから良かった。今度は良いお茶を買って来るね」
梨奈ちゃんは独り言のような、俺に言っているのか判らない呟きを言っていた。こんな時俺は正直、なんと話して良いか判らない。噺家としてどうなのかとは思うが……。
「信ちゃん……後で部屋が見たいな……駄目?」
「え、駄目じゃないけど、散らかっているから、片付けないと……」
「わたしが片付けて掃除してあげる! いいでしょう?」
正直困った。頭の中で今朝の部屋の様子を思い出してみる。ベッドは一応整えてある。机の上は……かなり散らかっているが見られて困るような物は無いはずだ。普段から妹が勝手に部屋に入って来るので、そのたぐいの物は隠してある。その心配は無いのだが、何か不安な気持ちになってしまう。部屋が汚いので嫌われてしまうなんて事は無いと信じたいのだが、不安は消えない。
「パステルのプリン。好きなんだ。昔はお父さんが楽屋見舞いで貰って楽屋中に配って余ったのを持って来てくれたんだ。だからこれを食べると何だかお父さんの事思い出すの」
そう言えば、俺が見習いの頃もたまに、そんな事があった。前座の時は酒もタバコも禁止だ。俺は生憎と言うか好都合で酒は弱いので積極的に呑む習慣は無い。この前のような打ち上げ等では呑むが量はそれほどでもない。タバコは初めから吸わないので困らなかった。逆に好きなのが甘いもので、師匠の家から帰る時にコンビニに寄って何かしら買って帰ったものだった。
「俺のも食べる?」
「え、信ちゃんは?」
「いいよ。梨奈ちゃんが美味しそうに食べる姿を見ている方が余程好きだな」
本音だった。好きな人が美味しそうに何かを食べている姿を見ているだけで幸福感が湧いて来るのを感じるのだった。
「わあ~思ったより片付けているのね。もっと散らかっていると思ってた」
紅茶を飲んでプリンを食べて片付ける。梨奈ちゃんが片付けてシンクで洗って食器籠に伏せておいた。その後二階の俺の部屋に行き扉を開けた時の第一声だ。
「ではお掃除させて戴こうかな。普段着で良かったかも」
梨奈ちゃんはそう言うとカーデガンを脱いで、ブラウスの腕をまくると
「ねえタオルがあれば二枚くれない。一枚は手拭いでも良いわ」
俺は新しいタオルと俺が二つ目になった時に作った披露の手拭いを渡した。それを見て梨奈ちゃんは
「ねえ、この披露目の手拭い。未だある?」
「あるよ。作りすぎたから」
「じゃあ、わたしにも一枚頂戴。鞄にいつも入れておくから」
「お安い御用だよ」
俺は熨斗紙に包まれた真新しい手拭いを渡した。梨奈ちゃんはそれを大事そうに鞄に仕舞うと、もう一枚の手拭いで姉さんかぶりをした。
「さて掃除をしましょうか!」
梨奈ちゃんは鼻歌を歌いながら掃除を始めるのだった。正直梨奈ちゃんの姉さんかぶりはこれも眼福ものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます