本篇11、学校再見計画
増田朋美
第一章
学校再見計画
第一章
今日もまた、蘭が懍と一緒に「国訳大蔵経」の解読について勉強している。蘭が、仕事があるので予習も復習もできないというが、それでは勉強するということにはなりませんよと、懍に叱責されることから始まる。この叱責が時間稼ぎになって、結構長居をすることになるのだが、意外にこれが役にたつことにもなった。
その間に、杉三のほうは、四畳半に行って、ひたすら寝ていることを強いられる水穂や、食事を作っている恵子さんと馬鹿話をするのが通例になっている。誰も、礼儀知らずと言って、止める人はいない。これのおかげで、水穂も、恵子さんも大助かりであることを、みんな知っているからだ。
その時も、杉三が馬鹿話をしているが、時折聞こえてくる笑い声のおかげて、ああ、今日も水穂ちゃん容体がいいんだな、と確信して、恵子さんは安心して食事の支度に専念できるのだ。たぶん、介護事業者に言わせたら、杉ちゃんは天才だ。よく嫌がらないでああして患者の話を聞けるものだ。そして、時折ギャグを混ぜて本人も患者も楽しませることができるんだから。そういうときは、できる人に任せればいい、というのは、よく製鉄所を訪問してくれた、涼がよく言っていた言葉だったが、なんだかそれ、自分に向けて言っていた言葉だったのではないかと思う。
同じ事は、多分蘭も感じているだろう。もしできるもんなら、そういうところは杉ちゃんに感謝しなさいよ、蘭ちゃん。なんて思うのだが、果たして蘭がそういうことを素直に言えるかというと、それはないだろうなと予測ができる恵子さんだった。
「さて、寝るかな。」
鹿威しがカーンとなって、だいぶ時間がたったことを知った水穂が、不意にそういった。
「はれ?具合でもわるいのか?」
「いや、そういうわけではないけどさ。」
杉三が思わずそう聞くと、水穂は羽織を脱ぎながらいたずらっぽく笑って、
「杉ちゃんならわかると思う。」
と、言いながら布団に横になった。杉三も答えがすぐわかって、思わず吹き出してしまった。
「わかったよ。もう、うるさいもんな。て、いうか、これどうした?」
杉三は、枕元にあった、プラスチックの箱を指さす。
「あ、杉ちゃんたちが来る前に華岡さんがきて、置いていったよ。岐阜に捜査で行ったときにお土産に買ってきたんだって。まあ、部下の人にはかなり怒られたらしいけどね。」
確かにそうだと思う。テレビドラマではよくありそうだが、実際問題、刑事が捜査で旅行に行って、誰かに土産なんか買ってくることは、あり得ない話である。
「怒られる様が想像できるわ。ほんと、簡単に警視まで昇格できた人間でなければしないよな。」
「ほんと、青柳教授も、よくあんなのが警視まで昇格したとあきれていたよ。でもね、こんな辺境の地では、さほど凶悪な犯罪もあるわけではないし、ペーパーテストでいい点さえ取れれば難しくはないんだろうね。まあ、いいんじゃないの、ああいう人で大丈夫なんだったら、富士市が平和だってことでしょ。」
「ほんとだね。今頃、警察署内で、でっかいくしゃみして、また部下の人に怒られてないかな。」
まさしく、富士警察署では、捜査会議の真っ最中であったが、演説をしていた若手の刑事が一生懸命犯人について、説明をしていたところ、椅子に座っていた華岡が突然大きなくしゃみをしたので、一瞬空気がしらけてしまっていた。
まあ、そんなことはさておき。
「どっちにしろ、こんなものを貰っても、食べられないので、誰かにあげるしかないから、ちょうどいい。杉ちゃんにあげるよ。」
「あ、いいのかい?じゃあ、喜んでもらっちゃおう。久しぶりに五平餅食べられてうれしいな。」
確かに、箱の中身は岐阜の名物といわれている五平餅であった。たれにみそが付いているせいで、水穂には食せなかった。安全なのは、名古屋の八丁味噌だけである。それだって、時折大変なことになることもある。
「いいよ。食べな。」
「よし、いただきまあす。」
全く悪びれた様子もなく、杉三は箱に入った五平餅にかぶりついた。
「うまい、うまい。うまいなあ。」
「そうか。味も何もわからないが、そういうことを言うのなら、やっぱり五平餅というものはおいしいのだろうね。」
「うん、やはり伝統品はうまいよ。やっぱり華岡さんだけあってさ、そこらへんの屋台とかではなく、ちゃんとした老舗で買ってきた五平餅じゃないの?味もしっかりしているし、餅もさ、かなり歯ごたえがいいよ。」
「違いが判らないから、答えが出せないよ。杉ちゃん。」
水穂は、とりあえずの答えを言った。でも、杉三の答えは、というとこうである。
「じゃあ、出さなくていい。たぶんきっとそうだぜ。華岡さん、何か言ってなかった?これは、どこどこの由緒ある店で買ってきた、超高級な五平餅だ。そこいらのとは、違うぞ!とか。」
「まあ確かに、流行りの朝ドラ?のヒロインが作るやつよりはおいしいのではないかといっていたけどね。もちろん、テレビなんて全く見ないから、わからないけど。」
「あ、あれね。蘭に聞いたことあるが、朝からあんな馬鹿みたいなのを見せられて、つらくなっちゃうから、もうテレビをつけるのがいやになるくらいひどい内容だって。まあ、蘭は、天気予報を見たいので、やむを得ずテレビをつけているが、そういう人の事を考慮しないで、ああいうのを放送するのは無神経だねえ。」
「そうかもしれないね。ただ、あまりに暗い事件が多いから、面白いものをやらないとだめなのかもね。せめて、テレビの中でだけでは、明るくしてほしいという、テレビ局の思いなのかもよ。」
水穂は、少しばかりせき込みながら、そう返答した。そういう時に態度を変えずに五平餅を食べ続けられるのは杉三だけである。蘭だったら、すぐに態度が変わるだろう。それはある意味では、うるさいということでもあるけれど。
「いや、面白いというか、あまりにも軽すぎて話にならないドラマだと言っていた。感動も何もしないって。かえってさ、登場してくる五平餅が、あまりにかわいそうだってさ。」
そうかもしれなかった。テレビドラマで伝統工芸とか、伝統料理が扱われることはよくあるが、そういうものに対して、多かれ少なかれ敬意というものを放送してもらえないだろうか、と思ったことはよくある。もちろん、伝統品にヒントを得て、自分の新しい創作物を打ち出すストーリーは、確かに良いものかもしれないけど、それはある意味では、伝統のすばらしさを否定している気がする。そして、自分の持っている銘仙の着物は、二度と取り上げられることはないことも知っている。
「そうだね。まず、杉ちゃんみたいに、思いっきりうまいと言ってくれるシーンがあれば多少変わるのかもしれないけどね。確かに、単なる道具にはしないでもらいたいよ。」
「そうそう。先ずは、五平餅がおいしいと言わなきゃ、絶対に売れるはずないよね。そういうところが、テレビドラマではかけているんだって、蘭は言っていた。単に名前を出すだけでは絶対に売れない。伝統品は、どういうところが魅力的なのかを持ち出さなきゃって、蘭は演説していたぞ。」
確かに、日本の伝統刺青にかかわる蘭が、言いそうなセリフだった。
「ほんとだ。」
と、一つため息をつくと、またせき込んでしまうのだった。
「あー、遅くなってごめんね。今日は、漢字を解読するのに時間がかかっちゃってさ。教授が貸してくれた漢和辞典を調べても載ってないんだもん。昔の漢字ってわかんないね。ほんと、僕からしてみたら、こんな難しい漢字を昔の人はよく平気で使いこなせていたもんだな。みんな字がうまい人ばっかりだったのかな。」
頭をかじりながら、蘭がふすまを開けると、杉三が、ちょうど五平餅を完食したところだった。隣では水穂が布団に座って手を拭いていた。
「何だよ杉ちゃん。こんな時に一人で何か食べるなんて、どういう神経なんだ?」
思わずそう言ってしまう蘭。
「うん。華岡さんが持って来てくれたんだって。水穂さんが食べろというので、食べただけだけど?」
「何を食べたんだ?」
詰問するように蘭が聞くと、
「五平餅。」
と、答えた。持っていた箱の中に竹串が五本入っていたので、いくつ五平餅を食べたのか、蘭にもすぐにわかった。その呆れかえるほどの大食いと、病気の人の前で平然と食べてしまう無神経ぶりに、蘭はあきれるというより怒ってしまう。
「もう、杉ちゃんさ、本当に考慮が足りないというか、もうちょっと考えるということをしないのかよ!」
「しないよ。本人が食べろというのならそうするよ。」
本当に単純素朴な答え。だけどねえ、その時に隣の人がどういう状況なのかとか、目があるんだからわかるもんではないのかよ。しないのかよ、と言われて、しないよ、と単純な答えが返ってくると、かえって嫌な気持ちになることも気が付かないのか。
「だけどさあ、いくらね、本人がそういったからといって、できない人の前でそうやって大っぴらに食べるというのは相手が傷つくというのは考えないのかい?」
「じゃあ、どうしろというんだよ。」
こんなことを教えなければいけないなんて、情けないなと思ってしまう蘭である。小学生の子供だって、聞き分けの良い子供であれば、わかってくれるのではないか。
「あのねえ。そういうときは、五平餅もらった直後に、食べれない本人の前で箱を開け、うまそうな顔して全部食べるのではなく、うちへ持って帰って食べるとか、ほかのところで食べるとか、そういうことをするもんだ!」
「気にしなくていいよ。そういう考慮なんかされたら、あの時しゃべって楽しかったのも全部なくなるもの。」
水穂が杉三を擁護するように言ったが、
「ダメ!ルールは教えていかなきゃ、杉ちゃんいつまでたってもダメなままになってしまう。」
と、蘭は強固に言った。
「そうかもしれないけどね。杉ちゃんが五平餅食べながら聞かせてくれた、面白い話はどこにいってしまったんだろう?」
「なんだ、お前もそういう文学的な言い方をするな!杉ちゃんという人は、そういう考慮ができないんだから、教えてあげなきゃだめなんだよ。」
「まあ、それは必要なことなのかもしれないね。少なくとも、誰かに教えていくことは必要なのかもね。でもね、少なくとも、僕が杉ちゃんと一緒にしゃべってた時は、すごく楽しかったよ。それは、五平餅食べながらでないと、出てこなかったと思うし。確かに蘭にとっては、食べれない食品を目の前でうまそうに食べられて、辛くないのかって心配するのかもしれないが、そういうものが目の前にあるほうがかえってつらいんだよ。それだったら、うまそうに食べてもらったほうがいいんだけどね。」
「だ、だけどさ、、、。」
「もともとは、こんなものをもってきた華岡さんが悪いんだ。元凶を作ったのは華岡さんだからな!」
蘭が言葉に詰まると、杉三がでかい声でそういった。これで、華岡が又でっかいくしゃみをしているだろうなと水穂も杉三も予測できた。
「人のせいにするな!ひとのせいに!」
「てか、蘭も、だれが悪いとか、これはいけないとか、何でも理論で決めるのはやめたほうがいいよ。理論なんて全部のものに当てはまるかっていうと、絶対そういうことはないよ。」
そう言いかけた水穂だが、咳に邪魔されて、蘭には伝わらない。杉三がまたやると言って、すぐに彼の背を叩いてやる。
「お、おい!大丈夫か、お前!」
「うるさい。お前は手を出すな。」
蘭は何とかしようと思ったが、あっけなく断られてしまった。こういうときは杉三のほうが割と判断力はあるようで、枕元に置いてあった鎮血薬と水筒を、はい、と言ってすぐにてわたすことができてしまう。そういう時に、にこっとわらって何も言わずに手渡してくれるほうが、本人にとっては一番いい。でも蘭をはじめとして、一般的な人は、そういう態度はとることはできないのではないか。たぶん、大丈夫かとか、病院に行ったほうがとか、そういうおせっかいをする。でもこれ、水穂にとってはうるさくてたまらないもので、できればやってほしくないのである。
とりあえず、杉三にもらった鎮血薬のおかげで、大して大量にはならずに止まったが、蘭がしでかしたおせっかいのおかげで、何とも言えない疲れが生じてしまった。
「悪いね、杉ちゃん。」
疲れ切って再度布団に横になる。
「いいよ。」
またにこっと笑って杉三がそう返してくれたおかげで、水穂は特有の自己嫌悪感は起こさずにすんだ。
「少し寝な。」
「ありがとうね。」
水穂も、笑顔を返して、軽く目を閉じた。暫くすると、本当に眠ってしまったようで、少し体をたたいただけでは反応しなくなった。
蘭は、蘭のほうで、杉三を責めることもできず、逆に自分の能力のなさを突き付けられたようで、もう何も言えないのであった。以前の蘭であれば、杉三を非難することもできたが、今は涼にいわれた通り、何も言わないでやるように心がけている。そして、自分にできないことは、できる限り手を出さないようにしろともいわれているが、それはちょっとまだ、蘭にはできそうにもないなと思われた。杉ちゃん、きっと目が覚めるまで帰らないんだろ。でも、悪いけど、僕はここにいたくないよ。そういう思いがわいてくる。
「杉ちゃん、まだここにいるか?」
「うん。当たり前だろ。」
この時、確か涼は、無理して合わせる必要はないといってくれた。でも、杉ちゃんが一人でタクシー呼び出して帰るのは、できないからという理由でいつも無理して一緒にいた。それは、ある意味ではたまらなく苦痛でもあった。
「蘭は先かえってろ。」
まあ、そういうことは言っても現実問題無理だからここにいる、と今までの蘭だったらそういうだろう。でも、蘭は涼に言われたセリフを思い出して、
「杉ちゃん、そういうこと言うんだったら、本当にかえっていいか?杉ちゃん、一人で帰ってこれる?」
と言ってみる。
「いいよ。もし、タクシー呼び出すんだったら、ほかにも手伝ってくれる人はいっぱいいるよ。」
また単純なこたえ。杉ちゃんは考えずにものを言うから。
「具体的に誰だ?まさか水穂には手伝わせるな!」
「静かに。起こしたらかわいそうだよ。それほど馬鹿じゃないよ。製鉄所には恵子さんも、青柳教授もいるよ。近くにはブッチャーも。こんなたくさんいるんだから大丈夫。先に帰りたければ先に帰れ。」
「だからねえ、、、。」
と、力が抜けてしまう蘭。結局、杉ちゃん、君は他人に頼らなければタクシー一台呼び出すことだってできないんだから、もうちょっと相手に対して悪いなとか、そういうことを考えないのか。あーあ、いくら教えてもダメだ。杉ちゃん、君は本当に、障碍者というべき人なんだね。
「わかった。やっぱりこっちにいる。」
と、結論付けるしかなかった。杉ちゃんに代わってタクシーを呼び出せるのは、相手の事情を考慮すれば誰もいない。いるのは僕だけである。つまり僕は、そうやって、杉ちゃんを手伝うしか役目がないのか。
涼さん、助けてください。僕は正直にしゃべりました。でも、杉ちゃんのいう通りなことを実行させたら、さらに杉ちゃんは他人に迷惑をかけて、僕がやらなければいけないことが、各段に増えます。僕は、どうしたらいいんですか。僕は、一生、杉ちゃんの付属品として生きていくしかないのでしょうか。僕は僕の人生をもっていいのではないかなんていう発想は、ぜいたく極まりないことですか!
蘭は、もうどうしようもなくて、がっくりと肩を落とした。
そんなことはつゆ知らず、杉三は中庭に向かって口笛を吹いている。
「僕はどうしたらいいんだろう、、、。」
蘭が頭を抱えて悩むのも、きっと杉三は何も知らないんだろう。こんなに悩んでいることなんか知らないで、人に迷惑をかけることを当然と思うような人間は、果たして何になるんだと、軍国主義者が言っていたことがあるが、それはある意味正しいことなんじゃないかと思ってしまう。
結局、誰かに迷惑かけないなんて、大間違いじゃないか。みんな平気なことして迷惑をかけている。もう少し、お礼をする文化を育てようとか、そういうことを助長させてくれないかな。そうすれば、犯罪だって、減るんじゃないだろうか。各々の個人がもう少し、他人に迷惑をかけないように生きてくれれば、、、。
それにしても退屈だ。まず、水穂は寝てしまっていて、当然のことながら返事というものはない。杉ちゃんが平気な顔して庭の鹿威しを眺めているのが、よく平気でできるものだ。暇だなあと感じてしまうと、それもまた苦しいな。結局人に迷惑をかけるなと言っておきながら、自分が何もしなくなるのもまたつらいのか。人間って本当にわがままだね。どっちもできないんだからな。しかたなく、車いすのポケットから国訳大蔵経を出して読んでみるが、隣の杉ちゃんの口笛のせいで、まったく頭に入らないのだった。
そのころ、懍はまた学会に出す資料の執筆をしていたが、ふいにスマートフォンがなったため、万年筆を置いて、スマートフォンを取った。
「はい、青柳です。あ、華岡さん。ご無沙汰しておりますね。はあ、また事件ですか。もう、最近は物騒で困りますね。了解ですよ。まあ、接見程度なら、お手伝いできると思いますよ。」
電話では、華岡が申し訳なさそうに話しているのが聞こえてきた。
「もうすみませんね。今日見舞いに行って、事件がひと段落したと思ったら、もう次の事件が出てしまうのが、日本です。あーあ、俺たちが休める時間なんて何もないなあ。」
「そんなこと言ってはいけませんよ。僕たちも努力していますけど、警察も何とかしてもらわなければ困ります。そんな時にそのようなことを言われては、警察も職務怠業です。」
「は、はい。すみません。」
そのまま、接見の予定などを話し合って、電話は続いたが、ところどころ懍が華岡に叱責する場面が多々見られ、教師が生徒を叱責しているのと大して変わらない内容であった。
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