「例え危険を理解出来ていたとしても、それが危険だと忘れてはならない」

 宵闇の森閑。

 風が木々を薙ぎ、歯を揺らし、擦る音だけがやけに騒がしく聞こえる閑静とした森の中、橙色の髪を携えた少女は、遮音の結界を己に敷いて、枝葉を踏み締める音を掻き消しながら、迷う事無く真っ直ぐに進んでいた。

 月明かりしか光源の無い中、夕日と同じ色の髪を湛える少女はまるで日と共に沈むかのように、夜の森に沈んでいく。

 一行は、彼女と同じ遮音の結界と匂い消しの香水とを施し、沈み行く橙色の髪を追っていた。

「オレンジ先輩、いつもこんな時間に?」

「いつもじゃないわ、時々よ。一人の時間が欲しいからと思ってたから、そっとしておいたけど……最近頻度が増したかしら」

「こんな尾行なんてして、良いのでしょうか……」

「私達があれこれ要求するから、変に追い詰めちゃってるかもしれないし……オレンジに限ってあり得ないと思うけど、変な気を起こされたら怖いからね。とりあえず一度、ちゃんと何をしているのか知っておかないと」

「しぃっ。遮音の結界があっても、魔力でバレちゃうかもなんだから、会話は控えて」

 よろめく事も無ければ、蹴躓く事も無い。

 もう何度も通い詰めている証拠だ。もう目を瞑っていても、感覚だけで辿り着ける。

 その日の夜空を鮮明に映す水鏡たる巨大な水溜り。定義上そうなっているが、水溜りと呼ぶにはあまりにも巨大で、住み着いている動植物も多い。

 夜には夜行性の動物達が動き、昼間と形の異なる食物連鎖が繰り広げられる。

 静謐に、静寂に、粛々と繰り広げられる自然の摂理。しかし今宵、この日、この時間だけは、森はより一層の静けさを求められる。

 あり得ない事ではあるものの、もしも彼に気付かれたなら、瞬く間に喰われてしまうだろうと、本能が訴えられるからだ。

 植物の一つも生えない霊峰の最奥に鎮座する彼には、知的生命体相手ならともかく、本能で動く動植物のそう言った危機管理能力に関しては反応が疎く、森全体が自分のために静謐を作り出しているとは、全く思っていなかった。

 水面に映る三日月に影を落とす形で、彼もまた、静寂を保ったまま下りて来る。

「レキエム、さん……」

「久方振りだな。息災であったか?」

「はい。レキエムさんも、その……お元気そうで、何より、です」

「……いつ聞いても、新鮮である。災禍に至ってより、我が身を案じてくれるのは後にも先にも其方のみ。死ねと殺すと、常に殺意を向け続けられる我が身には、何にも代え難き薬である」

「また、命を狙われたのですか……?」

「傷は無く、痛みもない。しかし、其方の言葉を聞き、声を聞いて知るのだ。我が心、胸の奥は傷を負っていたのだと。時折其方の身を案じ、こうして様子を窺い来ているつもりが、実は私が、我が心を癒すため赴いているのだと気付かされる」

「私は、壊してばかりです……体も、心も、回復させるのは、苦手です」

「愛おしき娘よ。私が語るは、魔術でも無ければ、治療術でもない。私を想う言葉を掛けてくれる、其方の在り方である。其方が私を想い、私を想う言葉を掛けてくれるだけで、我が心、体は癒されるのだ」

 水面を歩くように、災禍レキエムはゆっくりと近寄る。

 オレンジもつま先がわずかに濡れる際まで近寄ると、そっと自分を抱き寄せる災禍の胸に耳を当てて、硬い皮膚、黒い肉の下で打たれる鼓動に聴き入った。

 まるで子供の様な、小さな心臓の音がする。

 災禍にされる前のままなのか。自分と同じくらいの可愛らしい鼓動。

 とても人々から恐れられ、命を狙われる災禍のとは思えない小さな鼓動は、オレンジの意識を深く沈め、落ち着かせた。

 災禍の鼓動に耳を傾け、無事を確認して、安堵の吐息を漏らす。

 そんな事をしてくれる唯一の少女を、災禍は壊してしまわぬようにと優しく抱き寄せ、髪を梳くように撫でた。

「少し、疲れているようだな。何かあったのか」

「いえ、特別疲れるような事はないのです。ただ、わからなくて……」

「わからない?」

 理解など出来るはずもなかった。

 少女オレンジが時折一人で湖大の水溜りまで下り、何をしているのかと思えば、まさか災禍と密会しているなどと。

 しかも、まるで恋人同士のように身を寄せ合って、男の人の胸に抱かれているオレンジなど初めてで、見ている方がドキドキさせられてしまう。

 災禍が目の前にいるし、友達が密会しているし、抱き締め合っているしで、最早、どこからツッコめばいいのかわからない。

 とにかくこのままではいけないと思いつつも、果たして引き離して良い物か。そもそも引き離せるものなのか、一行は自分達の行動に迷う。

 と、三つ並んだ災禍の右目が、動揺から揺らいだ遮音の結界を見抜き、オレンジを抱き上げて水面へと飛び退いた。

「レキエムさん?」

「迂闊であった……どうやら、何者かが其方を付けて来たようだ」

「……ごめんなさい。私の、せいで」

「構わぬ。それよりも今は、其方の身だ。要らぬ噂を流されて、其方が当院にいられなくなっては困る。私があれらの口を塞ごう。いざとなれば……」

「タイム! タイムタイム! 待って待って待って! 敵じゃない! とりあえずは敵じゃないから!」

「ディマーナ……」

「知り合いか」

「お友達……多分、そこにいる他のみんな、も」

 一度結界を感知出来れば、中に何人いるかくらいはわかる。

 ディマーナの他に四人の気配を感じ取ったオレンジの予想通りの面々が、ゆっくりと立ち上がって、茂みの中から月光の下へと姿を曝け出した。

「何で……」

「いや、その……オレンジが最近、夜な夜な出掛けてるみたいだったから、もしかして思い詰めてるんじゃないかなぁとか、一人で悩んでるんじゃないかなぁとか、心配になって……こっそり後を付けて見たんだけ、ど……」

「思わぬ相談相手で、ビックリしたわ」

 驚くだけで済んだわけではない。驚くだけで済んでしまった。

 度を超える驚愕は、人にそれ以上の言動を許さない。

 感情は在り処を失い、ただ目の前で繰り広げられる驚愕の事実とやらに目を奪われ、思考を奪われるばかり。

 状況を把握するために働く思考回路と、状況を打破するために働かせる思考回路が同じだからと考える者もいれば、単純に人が持ち合わせる思考回路の許容量を超えるからだとも言われる。

 今回は考えるまでもなく、まさしく後者。

 災禍と対峙したものの、災禍に戦意無し。打破すべき状況ではあったものの、目の前の友人に頼めばどうとでも出来てしまう簡単な状況だったからである。

 ただし、目の前に世界が災害と認めた生物がいる事には違いなく、平静を保てるかと訊かれれば、頷くだけのやせ我慢も出来なかった。

 一定の距離を保ったまま、近付く事さえ出来ず、オレンジを引き戻す事も出来ない。

 災禍はそんな自分達に対して何もして来ないが、オレンジの友人と認識して手を出さないのか、攻撃して来ないから手を出さないのか、判断が出来なかった。

「えっと……オレンジ、訊き方が悪いかもしれないけれど、その災禍。襲っては来ないの?」

「……とりあえず、今まで襲われた経験は、ないです」

「そ、そう……じゃあ、私達を襲わない保証も、出来る?」

 オレンジは首を傾げる。

 目の前に当の本人がいるのだから、直接訊けばいいのではないだろうかと問いかけるオレンジには、未だ自分と他のみんなとで彼に対する警戒心に雲泥の差がある事がわかっていない。

 それでも一応、レキエムへと視線を配る。

 レキエムは寧ろ世間が自分に抱く警戒心と示している危険度とを知っているので、オレンジに自分の返答を耳打ちだけして、直接答える事はしなかった。

 怪物の声が落ち着けと促したところで、落ち着けるはずもない。

「皆さんが私やレキエムさんに攻撃しない限りは、こちらも攻撃するつもりはない、とのことです」

「そう……」

「まぁ、当然と言えば当然だよね……」

 当然なんだけれど――そう思いながら、当然の事実さえ当然と受け入れきれていない事に、一行は気付けていない。

 攻撃されれば反撃し、攻撃されなければ傍観して終わるのは、自然界ならば当然の摂理。今も尚、周囲で密やかに行われている生存競争における常識だ。

 しかし災害とは、人の同意なしに襲い来る脅威だ。

 そして災禍は、そう言った自然の猛威、突如として襲い来る脅威として世界に認定された知的存在。皆の認識ではそう言った災害としての認識の方が強いため、そもそも会話出来るとさえ考えられない。

 知的存在と理解しながら、普通に会話しているオレンジの方が特異に感じられるのはこの世界の常識に従っているからであり、オレンジが特異な存在である事は、誰にも否定出来なかった。

「今宵は、改めよう。その方が良い」

「……そう、ですか」

「待って。邪魔しちゃったのは私達だし、ここは私達が――」

「引き返せまい。真に彼女を想えばこそ、ここで引き返す選択肢はあり得ない。仮に、もしも本当に引き返すようならば……私は其方達の口を、封じなければならない」

「レキエムさん。それでは……」

「愛しき橙の少女よ。其方にとって私がレキエムであったとしても、彼女達にとって、。ならばこの場で其方を置き去りにする事は、災禍の前に同胞を捨て置くと同じ。我を危険と見做すなら、ここで其方を我に預けるはずがない……預けては、ならない」

 漆黒の魔力が、レキエムより水面に蓋をするように広がって宵闇をより暗くする。

 月光がより強い光源となって、世界を灯しているかのように見えるほど黒い漆黒が森閑により濃密な静謐を齎した。

 漆黒を帯びた災禍の手が、少女の肩を抱き寄せて、そっと、他の目から覆い隠した場所で、再びゆっくりと抱き締めた。

「少女よ、忘れてはならない。我は災禍だ。レキエムだが、私は……我は災禍なのだ。私が危険である事を、私が災害である事を、忘れてはならない……其方が私を理解出来ても、私が周囲から、世界から、恐れられている事を……忘れては、ならない……忘れないでくれ、我が、愛しき娘よ……」

「レキエム……!」

 漆黒は晴れ、災禍は台風一過――意味の通り、災害が過ぎ去った後の如く消えた。

 月は沈み、日は昇り、生暖かい風が木々を揺らし、水面に波紋を刻む。

 災禍レキエムがほんの一瞬だけ発した魔力は学園にまで伝わり、高名な魔術師は深い眠りから跳ね起き、窓の錠を開けて飛行魔術で飛び出し、現状を確認しに行く。

 オレンジらはそんな学園の教師や魔術師らに見つからぬよう、木陰に隠れながら先へ進み、学園へと戻って行った。

 その後、後を付けていた事を謝ろうとした五人だったが、オレンジは一言も言葉を交わしてくれず、軽音楽の練習など出来るはずもないまま、一週間の時が流れたのだった。

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