31. ぼくとエゴイズムと
「わたくしね、提案がございますの」
「え?」
予期しない言葉に、ぼくは抱えていた頭をあげた。
「科学者が人体に起きていることを確かめるとき、どうなさるでしょう?」
「人体に? ううん、人体実験は基本的にダメだし、何だろう? 今はやりのアイピーエス細胞とか?」
「
いやいやちょっと待ってくれ。ぼくはそんな横文字は知らない。そう言いかけたが、得たりという彼女の顔を見て、出かかった言葉をひっこめた。
そのまま彼女の反応を待つと、彼女はしかし首を振った。
「使いようによりましてはそれもよろしゅうございましょう。でも、もっと古典的な方法がございませんこと?」
「古典的?」
と言われてもあまりよく分からない。ぼくは理系の人間だが、専門は工学だ。それも電気工学のほうで、医学や生体工学のことはよく分からない。好んで取材している分、文系の美作先生のほうが詳しいくらいだ。
首をひねるぼくに、彼女もまた首をかしげてみせる。ぼくは腕を組みしかめ面をしていると思うが、彼女は手を合わせにこにこ楽しげだ。
「人間にさせられませんことを、代わりになににさせましょう?」
「ああ、モルモットか」
「いまもっともよく使われる実験動物はハツカネズミのようでございますけれど」
そう、人で試せないなら動物で試せ。それが科学の出した方法論のひとつだ。
人体を再現するなら、きっとそれが一番本物に近いのだろう。それは生物科学にうといぼくでも容易に想像できる。
だが、ぼくの求めるのは生物科学的な成果ではない。
「人文科学的なことには、使えないんじゃないかなあ」
ぼくは独りごちた。何せ人のありようを知ろうという話だ。言葉も通じずおつむも足らない動物を使って、何ができるというのだろう。
「人文科学だからこそでございます。と申しましても獣はお使いになれませんが、獣に代わるものなら幾らでもあるのではございませんこと?」
「いくらでも?」
「はい。ご自分の安らぎを壊すことなくその安らぎに隠された先にあるものをご覧になりたいなら、ご自分以外の方々の安らぎを壊して差し上げれば宜しいかと存じます」
「ひとの安穏をぶち壊す?」
それこそ、そんなことをしたらその人によって逆にぼくの安穏をぶち壊されそうなのだが。
「実在の人物ではなくて宜しいのです。ご存知の実例をもとに最もふさわしいモデルケースをお作りになれば。その架空の人物を通じて、いずれ破れるものを徹底的に破っておしまいになれば宜しいのです」
ぼくは唸った。
それは、興味深い話だった。
構造上ぼくに為しえないことを、架空の人物に肩代わりさせる。なるほど、それならばぼくがそれを為したときに起こりうる致命的な副作用を都合よく取り除くことができる。ばっさり言ってしまえば思考実験なのだが、被験者として架空の人格を想定するところがふつうの思考実験とは異なる。実際の実験を必要としない、まさに人文ならではの方法。飽くまでも仮想であって実際の人格ではないことに注意は必要だが、設定と追跡がうまくいけばそれなりに高精度の再現ができるだろう。
ただ、気になるところもいくつかはある。それらの問題は、実行する前に解決しなくてはならない。
「幾つか訊いてもいいかい?」
「なんなりと仰せつけくださいませ」
「じゃあまずひとつ。最適なモデルケイスを作るためには、人の心理に通じていなけりゃならない。ぼくは経験上それなりに通じているつもりだが、そうと裏付ける根拠はない。そこを確かめるにはどうしたらいいだろう?」
「他我の問題でございますね」
間を置かず彼女は答えた。開けばまんまるの大きな目が、いまは糸のように細くなっている。
「おひとりでなさろうとなさるからお困りになるのです。人の意見にお耳を傾ければ、ある程度の信憑性は得られることもございましょう。一方より二方、二方より三方と」
「ううん、でもその人たちが正しいとは限らないのだけど」
「仰せの通りですが、それを正すための話し合いでもございましょう。おたがい、納得のゆくことは受け入れ、ゆかないことは意見を戦わせれば、お一方のときよりもずっと精度は宜しいかと」
それでも完璧じゃなかろうが、まあよしとしよう。厳密には他我問題への回答としては不足だが、この場合、モデルケイス上のだれかはぼくの負担を肩代わりするものだ。つまりぼくの分身なので正しくは他我じゃない。なので、これはこの回答でよしとしよう。
「じゃあもうひとつ。追跡の過程で想定不足が露呈した場合。軌道修正か作り直しを迫られるわけだが、中にはぼくの気づかない想定不足もあるかもしれない。その結果誤った結論に辿り着くこともあると思うが、それの拾いあげはどうしたらいい?」
「それも相談を、と申し上げたいところではございます。ただ、実験中ずっと相談し続けることは難しゅうございます。ならば、お気づきにならなかったところはお気づきにならないままに実験を完うなされば宜しいかと」
「それじゃ拾いあげられないじゃないか」
「そこで査読をお受けになるのです。実験の経過と結果を公表して、多くの方の御覧に入れてはいかがでしょう。実験の成果につきご感想をいただけるものと存じます。なかには失敗と判定されてしまうこともございましょうが、それも糧になります。その糧をもとに修正実験を行えば宜しゅうございましょう」
なるほど公開ね。その方法はまた議論を必要とするが、しかし大筋の方針としては悪くない。実際、多くの目によって批判的に検証することは現代科学の常道だ。これも完璧とは言えまいが、今できることとしては最良の部類だろう。
「最後にひとつ。前にぼく、きみにこのことを相談したことはあったかな? 何かきみとのやりとりに既視感があるんだが」
質問の最後に、ぼくはずっと気になっていたことをつけ足した。
これは実際、提案の最初の頃から気になっていた。
どうも、彼女はいるだけでぼくをふしぎな感覚にいざなう。ここで会ったのがはじめてのはずなのに、どこかで会ったような気がするし。ここで話したことがらが、前に話したか話さなかったか定かでなくなってくるし。そら、この質問も前にもしたような気はするが、していないといえばそんな気もしてくる。そしてどうせ彼女はまともには答えてくれないのだろう。いつぞやのときみたいに。――いつぞや?
「仰せになったかも知れませんし、仰せにならなかったかも知れませんわね。でも、どちらでもよくありませんこと?」
そら来た。
ぼくの既視感がただの錯覚でないなら、ここでぼくが何でよというと、彼女はデカルトの話をする。
「何でよ」
「だって、記憶とはあいまいなものでございますもの。記憶とは体験した世界を保存可能な形に変換したもの。世界そのものを再現できるものではございません」
違った。とするとやっぱり既視感は既視感。錯覚だったのだろうか。
「それにその確からしさも簡単に変化いたします。はじめは確信していたことでも、重ねて真実か問い続けられると不確かになって参ります。また、ほかの情報に引きずられて組み変わることも」
それは、聞いたことがある。常日頃はそう意識されることもないが、裁判なんかのときには結構問題になると。つまり、証人の記憶がほかの物証や当事者への印象などに引きずられてしまう場合があるという。
「そうすると、経験もまた不確かというわけか」
経験とは、ざっくり言ってしまえば体験の記憶だ。広義には単にエピソードに留まらず、そこから引き出したティップスや教訓、仮説、あるいは手続き記憶をも含む。
「さようでございます。記憶も、経験も、そして先ほどさまがおっしゃいましたような既視感。そのような心理作用も不確かなものでございます。さらに申せば、知覚さえも」
「知覚も?」
「痛い、痒い、快い、熱い、冷たいなどの知覚は、その瞬間瞬間には活でございます。されど、その瞬間をすぎたその時から、それは知覚の記憶になります」
「なるほどたしかに。痛みのあとに残るのは痛みそのものじゃない。痛かったという記憶と、それに伴う感情だけだ。その痛みの感じかたを含めどんな感覚かまではある程度思い出せる。けれども痛みそのものを再体験しているわけじゃない」
「はい」
にっこり。嬉々として笑うのは彼女。
だが、ぼくは笑えない。いささか混乱してきた。
「いやだが、そうすると今までの話は台無しにならないかい? 経験はともかく、記憶そのものや心理作用も、さらには知覚までも否定してしまったら、思考実験もくそもないじゃないか」
「はい」
またしてもにっこり。てっきり反論してくれると思ったのだが、当てが外れた。ぼくの混乱は落ち着きそうもない。
「じゃあ、今までの話は何だったんだよ」
「ですから、その実験を始めるより先に、不確かな部分はすべて否定してしまうのです。人への信頼? 無力でございます。――記憶と経験? 不確かでございます。――心理と知覚? 記憶や経験となにが違いますの?」
「そうして否定して行くと、最後にのこるのはぼく自身だけだね」
「あらうれしい。賢くていらっしゃいますのね。おっしゃるとおりですわ」
と彼女は、口許を袖で隠して、ころころと笑った。
「ではそのさまは、いかがでございましょう?」
「え?」
「さまは一体、どちらさまでございましょう?」
「いや、ぼくは綾瀬慎太……もしくは筆名で一姫二太郎」
「それはあなたさまに貼られたレイベル。レイベルだけではあなたさまが何処のどなたなのかまでは、分かりませんことよ?」
くすくすと笑みを漏らす彼女。気がつけば、その姿がよく見えなくなっている。そういえば心なしか辺りも暗い気がする。いつも明るい部屋のなかだというのに。
「だいたい思考実験って、それを考えるためにするのであって……」
「あら、実験のためにそれを考えていらっしゃったではございませんこと?」
なんだか目も回ってきた。循環論法? いやそんなことになるはずはないんだが、どこでどう間違ったのだ?
そしてそのめまいのせいだろうか、耳鳴りのようにあちこちからきりきり奇妙な音がする。きりきり、きりきりと、小さいが確かに聞こえてくる。
「じゃあぼくはきみの夫だ。ぼくのレイベルが何であれ、その事実はかわらない」
「わたくしがなにものかもご存知ありませんのに?」
こころなしかきりきり音が大きくなっている気がする。その音に混じってこれもどこか分からないが、くすくすと息の漏れる声がはっきりと聞こえる。
「それを知らなくたって、ぼくはきみの夫だ。それは決して動かせないし、ぼくの大事なアイデンティティだ。ぼくはきみを愛し、きみもぼくを愛したからこそ夫婦になった」
「愛とはなんでございましょう?」
一瞬言葉に詰まって、しかしどうにかそれを捻り出した。
「愛とは誓いと信頼のことだ。相手が何であれ受け入れるという信頼、そして誓いだ」
「信頼の無力をご存知?」
「知ってなお奉るからこその信頼であり、知ってなお動ずまいと意を固めるからこその誓いだ」
もはや四方八方から絶え間なく、不協和に、夏を謳歌するせみの声のようにあのきりきり音は聞こえてきていた。もはや聞こえるというより、ぼくを押し潰さんばかりにあらゆるところから圧し掛かってくる。
「死に臨む方のご家族がなにをなさるか、御覧になったことは?」
「死に臨む人の家族?」
思い起こしてみるが、これといって心当たりはない。両親は存命、祖父母はみな鬼籍だが、父方の祖父は父の物心つく前に逝った。ほかの三人はみな九十くらいまで生きたが、長いことアルツハイマー病を患っていた父方の祖母も、入院がきっかけで認知症になった母方の祖父母も、最後は肺炎やら何やらでさほど苦しまずに逝った。
「ぼくが経験したのは、そのくらいかなあ」
「結構でございます。では、その罹病期間と申しましょうか、最期の数日をお定めになったのは、どなたでございますの?」
「え? いやそれは病状だからね、祖父母の生命力と病魔が決めたんだと思うけど」
「では、救命のためにありとあらゆる手をお尽くしになって、その結果の数日でございましたの?」
「いやいや、九十のおじいちゃんおばあちゃんだからね、抗菌薬くらいは使ってもらったが、それで駄目なら無理な蘇生は試みずに安らかに逝かせてあげて欲しいと先生にはお願いしたよ」
厳密にはぼくがではなく、父母とその兄弟が、だけど。
「では、最期の数日をお定めになったのは、さまとご家族さまがたでございますね」
「まあ、理屈の上ではそういうことになるかな。でも、祖父も祖母も生前充分生きたとは言っていたし、長患いはしたくないと言っていた。これでいいんじゃないかな」
「おじいさまやおばあさまのお気持ちは、きちんとお確かめになりましたの?」
「いや、確かめなかったよ。急な重病でもう喋れる状態じゃなくなっちゃっていたし、喋れても認知症できちんと判断はできなかっただろう」
「さようでございます。すすんだ認知症の方には、ただしく状況をお捉えになるのは無理でございます。したがいまして、そのご判断は完全にご本人さまのお手を離れた、ご家族さまの自己本位のものでございます」
「自己本位は違うんじゃないかな。実際以前は本人がそう言っていたわけだし」
「それでも、その時のご意思は分かりません。いざご病気になってみて、変わったかもしれません。飽くまでもご家族さまが、見たいものを見ただけのことでございます」
「いやでも本人の意思が確認できなかったり、本人に判断力がなかったりする場合には、そうするしかないんじゃ……」
「はい。ですからシステム上それは妥当なことでございます。でも、システム上妥当かどうかとそれがご本人さまの真意かどうかは別のことでございます。ご本人さまは、ご自分のお気持ちとはかかわりなく、ご家族さまのご意思で死期を定められたのでございます」
「ぼくらが殺したみたいないいかたをするなよ。病気で亡くなったんだしさ」
くすり。ため息のような笑いはひとつだけだったが、いやにはっきり聞こえた。
「病死には違いございません。でも、戦い抜いて生き延びる可能性に賭けるか、苦痛の闘病を避けて死ぬか。その選択を死ぬまでご本人さまにさせなかったのはご家族さまでございます」
「本人が意思表示できないのだから仕方ないじゃないか。その場合、ほかのだれが方針を決めろと言うんだい?」
「では、ご家族さまはなぜ、できる限りの闘病ではなく急変時無蘇生とお決めになったのでしょう?」
「え?」
「ご本人さまのお気持ちはもう分かりません。昔元気だったころのお気持ちが今ご病気に直面なさっても同じかどうかも分かりません。そこで、二択のどちらを選んでもよかったところ、どうして消極的安楽死を?」
「ぼくの意見で決めたという訳じゃないけど、みんなだいたい一致していたと思うよ。おじいちゃんおばあちゃんを苦しませたくないという気持ちで」
「ご本人さまはもっと生きていたいとお考えだったかもしれませんのに?」
「そうかもしれないが、それを確かめられない。だったら、大抵の人はそこに行きつくんじゃないかな。苦しんでいる家族を見るのはつらいわけだし」
「それでございます」
「どれよ?」
「苦しんでいるところを見るのはつらい。見たくない。それが決め手なのでございます。ご本人さまのお気持ちが確かめられませんときに、命の選択をするのは結局、見たい、見たくないというご家族のお気持ちなのでございます。ご本人さまの死期は、ご本人さまのお気持ちでも、まことの意味でご本人さまのためでもなく、ご家族さまのお気持ちによるのでございます」
「ほんと、いやな言いかたをするねえ。そうだよ。不確かなものをぜんぶ取っ払ったら、最後に残るのは家族のエゴイズムだ。今にして思えば、もっとひどいエゴイズムも含まれていたかもしれない。たとえば、急変したら家族は間違いなく病院から呼び出される。そのいつ呼び出されるか分からない状態が何日も続くのはつらい。あっさり逝ってくれればそれが短くて済むというね」
苦しむ父母を見たくないというのは、飽くまでも本人の苦痛が先にある。見たくないものを避けるというエゴイズムではあるが、それを惹起するのは本人の苦痛で、それを避けるという意味では――本人の意思とは無関係としても――本人を思ってのことだ。
だがいつ呼ばれるか分からない状態を終わらせたいという思いは、完全に家族の生活の都合だ。自身の数日の安穏のために、その日数分だけ身内の死を早めると言ってもいい。
だが、それのどこが悪い? 残りの数日にお別れの時間としての価値があるならば延ばすことも必要かもしれない。だが、もはや事実上お別れは済んで、あとは本人も家族も苦しいだけの時間でしかないなら、それを早く終わらせることに何の不都合があろうか。
その事実を声に向かって突きつけると、またしてもくすりと一声。そして、
「あなたさまがご家族さまであるうちは宜しいでしょうね。でもどうぞお考えになって。あなたさまご自身がおしまいに臨むとき、あなたさまはそれをされる側になるのです」
「あ……」
想像してしまった。
ぼくがいつか老いて死の床につくとき、ぼくはどんな死に方を迎えるだろうか。
がんだろうか。
脳卒中だろうか。
心臓死だろうか。
肺炎や、もしくは何らかの感染症だろうか。
それとも床の上で死ねず、事故や事件によって死ぬだろうか。
それがどうなるのか、いつ来るのかはまったく分からない。
がんだったら、たぶん長く患った末に、有名なキューブラー・ロスのモデルに従っておのずから死を受容するだろう。
事故や事件だったら、見つかったときには死んでいる可能性もある。
だがそれ以外だったら?
あるいはそれ以外でなくとも、そういう即死でも長患いでもなかった場合は?
意思表示できずに、あるいは意思決定もできずに家族の意思でぼくは死に送られるかもしれない。
ぼくがそれを望んでいるならば何の問題もない。あるいは積極的に望まなくても、愛する家族のためにはそれがいいと納得して受け入れられるならば問題はない。けれども、そのときもしぼくがもう少し生きたいと思ってしまったら。その意思を家族に伝える方法がなかったとしたら。
もちろん、こんなものは仮定だ。そうなるとは限らないし、どうなるかも分からない。
だが、なるかもしれないのだ。なったときに家族はぼくの味方かどうか、それは分からないのだ。
先のことは分からない。分からないから日頃はそんなことも忘れていられよう。だが、その日頃の生活、凡庸の帳を取り払ってみたとき、ぼくはその不確かさに直面する。日頃愛していると信じ、愛してくれていると信じた家族は、本当にぼくの味方だろうか。今はの際になって、ぼくはこの家族にぼくを預けられるだろうか。
それを想像してしまったとき、ぼくの周りにあるのは、真っ暗な闇だけだった。
どこに何がいるかも分からない。いないのかも分からない。どちらに行けば何があって、どちらに行ってはいけないのかも分からない。闇のなかを道案内もなく、旅仲間もなく進む旅はこの上なく不安だ。目の前なる闇から何が降りかかってくるか分からないし、あの黒く聳える山がぼく目がけて襲いかかってくるかもしれない。いやむしろ、底の見えない闇へといまにも吸い込まれるかもしれないと思うと足がすくむ。
いったい全体、ぼくはどこにいるのだろうか。
いや、ぼくはいるのだろうか。
触ってみれば、ぼくの手には触った感触が確かにある。ぼくの体には触られた感触が確かにある。だが、ぼくの手が触れたのはぼくの体とは限らないし、ぼくの体に触れたのはぼくの手とも限らない。ぼくの深部知覚は両者が触れ合ったと主張している。だがそれを裏付けるものはない。
そういえば、ぼくは服を着ていた気がする。だが、ぼくがぼくの手でおなかを触ったとき、服には触れたのだろうか。おなかの肌に触られた感触はあったが、触れたのが手なのか服なのかは分からない。また手のほうも同じく、触れたのが肌なのか服なのかは分からない。
ぼくは何か、呼ばれるためのものを持っていた気がする。ともに暮らしただれかがいた気もする。暮らしたわけではないが、よく言葉を交わしただれかもいたような気がする。
だが、それらはもはや分からなかった。
暗闇のなかに溶けてしまったかのようだった。
ぼくは何にぼくを預けてよいのだろうか。何に心を傾けてよいのだろうか。ぼくはいったい何なのだろうか。何の何なのだろうか。そういったものはすべて闇のなかで、その闇のなかには何が潜んでいるのかも分からない。
ぼくは声にならない叫び声を挙げ、小さく蹲った。それとて本当にそうできていたかは分からないが、たぶん蹲ったように思う。
きりきりぜみの音に混じって、どこからともなく声が聞こえる。
歌うようで笑うような、あるいは憐れむようで慈しむようなそれは、ぼくに、
「分からなければ、お探しあそばせ。ご自分がなにものか分からないときは、お顔を見れば分かるかもしれません。どうぞあのかたがたのように、ご自分でご自分のお顔を見ようとなされませ。答えを得られるかも分かりませんことよ」
「あの、方々?」
ほそぼそと問うぼくに、それは、
「あのうずたかく積み上がったかたがたでございます」
暗闇のなかに、あの聳え立つ山が、――天を覆いつくすほどの高さの、幾つもの山が浮かび上がってきた。実際に浮かび上がったのかは分からないが、とにかく真っ暗ななか、あの山々だけはぼくにも分かった。
それは、無数の人の山だった。
はだかで四つん這いになった人々が、そのまま首をすばやく横に振って、今度は逆向きに振る。それを繰り返していた。
何をしているのかは分からない。ただ、数えきれないほどの人が山のように折り重なりながら、きりきり、きりきりと首だけを動かしていた。
「ご覧ください、みなさまお首をすばやく動かして、どうにかしてご自分の顔を見ようとなさっておいででしょう。みなさまご自分が分からないのです。分からないから、どうにかして見つけようと必死なのです。ああして首を動かせば、いつかは残像になってご自分のお顔が見えるかもしれない。そうお考えになって、あのようになさっておいでなのでございます」
「無理だ。――あんな方法では、自分の顔なんて見えるわけ」
「でも、いずれかの方法は見つけなくてはなりません。あのかたがたにとっては、あれが採りうる最も見込みある方法だったのでしょう。あなたさまがどんな方法をお採りになるのかわたくしには分かりませんが、見つけられると宜しゅうございますね」
言葉の最後に、くすくすというさざめきが聞こえた。もう姿も気配も分からないが、声とそれだけは分かった。
だが、それもすぐにやんだ。最後にひとこと、
「もし答えが見つかったら、またお話しできるとよろしゅうございますね。そのときは、どうかわたくしの名をお呼びくださいまし。わたくしはみやこ。
それっきり、絶えた。
あとは、暗闇にうかぶはだかの人山。そして空気を圧するきりきりぜみの歌合戦。
かれらのそれを真似する気にはなれない。
だが、何もしないこともぼくには、できなかった。
足も重く、体も思い。しかし、
「やらねば――」
力の入らない足腰にむち打ち、休み休みぼくは腰をあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます