23. ご破算で願いましては
ああ、死んだ。
侍の刃に首を落とされる直前、ふしぎとぼくはそんなことを思った。怖いとか無念とかいった思いはこれっぽっちも湧かなくて、ただ茶を飲むような当たり前さで、それだけを思った。それまでこの灰色の侍をどうにかして排そうと必死になっていたことも忘れ、ぼくはそのとき、ぼく自身の死を斜め上から俯瞰していた。なんでそうなったのかは分からないが、そのときのぼくの心は、幽体離脱した魂のそれだった。
それが、突如として引き戻された。
「――ないっ!」
聞き慣れた声は、アリスの叫びだった。次の瞬間、頭に衝撃を感じて、世界がめまぐるしく変わった。わけが分からないながら身を起こすと、こめかみがびんびんと痛む。この世界に来た直後に受けた痛みと、同様の痛みだった。
とたん、ぼくの意識のなかに現実が、戻ってくる。火を噴くようなアリスの叫びが、ぼくの耳を満たした。
「もう、なにぼうっとしてんの! あれは本物の刀よっ?」
言われて侍を見たら、その手の刀身の鋭い輝きが目についた。目につくと同時に、首筋にひりひりとした痛み。手を当てると、ほのかな鉄のにおいとともに、赤黒く濡れた。
全身の毛が総立つのを感じた。
「わ、わあっ」
「慌てないっ! ただの擦り傷っ! そんなことより今は、あいつをどうにかすることを考えなさいっ!」
アリスに叱咤されて、その視線の指すほうを見た。そこでは例の男――それが名前なのかは分からないが、すつるべと言ったあの灰色の侍。あいつが、その生気ない瞳でこちらを見据えて刀を構えなおすところだった。
刃先が、きらりと光った。それだけで脚が竦みそうになるのを、かろうじて堪えた。竦んだら負けだ。動けなくなったら、据えもののように斬られる。いまぼくがやるべきことは、どんな手段でもいい、あいつの刀から遠ざかることだ。
でも、どうやって。
あいつはいくら想像したところで、消えなかった。それだけじゃない。想像で消せないのならば、消せるだけの道具を想像するまで。それで思いつく限りの殺人兵器を産みだしたが、通じなかった。矢弾も刃も、あいつの前には用をなさない。毒ガス、火炎、疫病の類だって、きっときかないだろう。
となれば、手段はひとつ。ぼくじゃどうあっても、あいつを排除できない。なら、――
「逃げる」
「え?」
「逃げるんだよ。
悠長に会話しているようにみえて、これでも必死だ。いまのひとことを告げる間に、三回はやつの刃の下をくぐった。侍の辞書には待つという文字がないらしい。ぼくが話すのもかまわず、斬りつけてくる。
アリスも、事態は呑み込んでいる。襲われているぼくを助けんとして握るその拳を緩めず、しかしすつるべの間合いには決して入らず、表情をゆがめた。
「悔しいけど、今はそれで精一杯ね。で、どうするの? 今は船も早馬もないんだけど」
「そんなの知るかっ。船がないなら飛行機だっ。馬がないなら車だっ。車も飛行機もないなら、別世界に続く扉でも出せばいいだろっ」
一太刀、また一太刀と踏み込んでくるすつるべを躱しながら、半ば以上やけになって叫んだ。むろんやつは頓着しない。まるで機械が同じことを繰り返すように、ぼくから生命を刈り取らんとしてその刀を振るう。ぼくも必死にそれを避け続けてはいたけど、数が重なればいずれあたる時が来る。後退するぼくの背中に、固いものが触れた。
万事休す。ぼくの背後は、このちっぽけな丘に咲く名も知らぬ樹木に、遮られた。次にやつが踏み込んできたとき、ぼくの逃げ場は下しかない。下に逃げたならもうそれで王手だ、しゃがみこんだぼくは、身動きもとれないままあいつの刃の下に骸と成り果てる。
絶体絶命のそのひととき。おのれが絶対的優位に立ったというこのときでさえ、すつるべの顔に緩みはなかった。追い詰めた獲物を楽しげに眺めるでもなく、窮余の一策に戒めるでもなく、何の感慨も、何のためらいもなく刀を振り上げた。
それが、遊ぶ間もなく振り下ろされた。
今度こそ、終わりだ。
そう思っていたぼくの顔が、どんな顔をしていたのか、ぼくは知らない。ただ、体が浮遊するようなふしぎな感覚にとらわれ、背筋が凍った。もしかしたら、顔も焦燥に満ちていたかもしれない。ああ、こんな切羽詰った時でも、急に身の支えを失ってうしろ向きに倒れるというのは、怖いものなんだな。この期に及んで倒れても倒れなくても、ぼくの運命は変わらないのに。人間の感覚って、なんて不思議なんだろう。
落下の感覚に捉えられながらぼくは、ただばかみたいにそのことだけを思った。
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