丙章 苦に敗れて惨禍あり――The Habit Ends Up Small Bills
19. 大洋のきつつき
「遅い」
そんな理由で、ぼくは鉄船の甲板にあった。
マンベイを出たら、あとは鏡のようとまで形容される穏海だ。前も後ろも見渡す限りまっ平らな水面、乗ったら歩き出せそうな大海原だ。揺れもなければ酔いもない。船酔いのつらさは知らないわけじゃないが、こう何もないとたまには船酔いもスパイスに思う。
おまけに船はとにかく遅い。これじゃ着くものも着かないし、考えるものも考えられない。そこで少しばかりチートと洒落込み、石油で動く現代のフネを持ってきたわけだ。
そのフネの甲板、積荷用クレーンの首に釣り床を吊って、ぼくは空を見ていた。
空は青。ときどき雲の白が、合間を流れていく。
その雲を引っ掛けるようにして、青空に一本、灰色の竿が突き立っている。
マストだ。
すでに帆を張ることのなくなった現代のフネでも、大なり小なりマストはある。背丈より小さなものから、まさに帆柱というものまで。たいていはレイダーや見張り台がついているけど、いまなお信号旗にも使うらしい。ぼくらの船のそれは、見張り台はついていないが帆も張れるくらい大きく、てっぺんでレイダーがくるくると回っている。
「おっ?」
そのマストに、本当に何か引っかかっていた。もちろん、信号旗じゃない。もっとちっぽけな、かたまりのような何かだった。立ち上がって目を凝らすが、分からない。こんな陸地も見えない海の果てで、フネの大檣に見慣れないものを見つけるはずがない。不思議に思って背伸びしようとしたとき。
それが、やにわに動いた。
鐘鳴らす撞木か、城破る槌か。そんな奇怪な動きを、すばやく、目にも留まらぬ速さで、無数に繰り返している。その動きに見覚えがあって、ぼくはつぶやいた。
「きつつきか?」
森にしか生息しないはずのきつつきが、なぜか海上にいた。それも帆柱の足場にとまって、鋼鉄でできた灰色のマストを、一心不乱につついていた。
硬質の音が、わずかに聞こえる。音が四散し、聴き取ることの難しいとされる海上にあってこれだけ聞こえるのだから、よほど力強くつついているのだろう。それだけの力で必死に首を振るかれ(または彼女)が、少し哀れになった。
「おいおい、それは鋼の柱だ。どんなに力をこめてつついても、穴なんてあかないぞ」
声をかけるが、きつつきには届かない。届いているかもしれないが、通じてはいまい。
その首の動きが、速く大振りになった。
おおい、あまりむきになるなよ。――
そんなことを心のなかで呼びかけてみるが、それも当然通じなかった。すると、
「空に何かありました――って、お? 不思議ですね、こんな大洋できつつき?」
ぼくの視線を、見慣れた容姿が遮った。
アルが、一段高い上甲板から覗いていた。いや、覗き込んだのはついさっきまでで、今は見あげている。見あげて、下からでも分かるくらいおだやかに微笑んでいた。
「巣作りに余念がないみたいですね。そうは言っても、どんなに頑張っても彼の家はできあがらないわけですが」
「鋼だからねえ。磨り減るとすればむしろ、マストじゃなくてくちばしのほうだろう」
「これは悪いことをしたかな。便利なんでつい貰っちゃいましたが、木の船ならきつつきにも優しいでしょうし」
「気に病む必要はないんじゃないか? きつつきのくせして海にいるほうがおかしい」
「そうですね。正確には僕が気に病む必要はないですね。ありえないところにきつつきがいるのは、だってきっと
アルは笑った。
「けど、ちょっと可哀相になりますね。僕らみたいな知能がないばかりに、今やっていることが徒労だと分からない。せめてもう少し賢ければ、それが分かっただろうものを」
アルの視線の先には、きつつきがある。ぼくの視線の先にも、それがある。ぼくはきつつきに視線を合わせたまま、言葉を発することができなかった。アルはしばらくかれ(または彼女)を見あげていたが、やがてぼくの様子に気づいて、見おろしてきた。
「どうしました?」
「……本当にそうだろうか」
ぼくのつぶやきに、アルの顔から一瞬理知の光が抜けた。しかしすぐにそれも戻って、
「どういうことです?」
「いや、何でもないよ」
鼻から息を吐きだしながら、ぼくは答えた。
実際、些事には違いない。少なくともかれにとっては。
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