panya

第1話 春の旅

 いや、このまえ電車で寝過ごしていまいまして....と、彼はポツリとつぶやいた。彼の名前は、高橋さん。しっぽ町に住んでいる。

 2月に、彼とお茶を飲みに行った。これは、そのとき彼から聞いた話。

 駅のホームには、さくらえび駅、と書かれていた。どうも隣町まで来てしまったらしい。

「あちゃー、やってしまった。」

時々、こうしてうっかりすることがある。どんなに気をつけていても、必ず、月に一度はうっかりする。例えば、会社の資料を家に忘れたり、弁当の箸を忘れたり、今日みたいに駅を寝過ごしてしまったりする。だけど、今日は土曜日の午後。用事が終わって、家に帰るタイミングだったのが幸いだった。次の電車まで40分もある。それまで時間をつぶそう、と思って駅を出た。

 目の前に大きな空があった。まだ少し肌寒い空。見下ろすと、駅の正面は下り坂になっていて、坂の向こうに海が見える。今日は土曜日なので、自転車がぽつんと数台だけ。駅の横には、桜の木が一本植えてあるが、まだ葉はついていない。静かな町だった。

「なにもない町だったんです。」と、高橋さんは言った。

「なにもないというか。余白のある町でした。電車の待ち時間、大きな空、あそこには沢山の余白があるんです。だけど、それって実はすごく素敵なことだと思うんですよ。」

「素敵なこと?」

「はい、僕たちが忘れてかけていることです。」

彼は言って、笑った。私はキョトンとした。高橋さんは、きっと私よりも多くのモノが見えているのだろう。彼のみつけた余白。私たちが忘れかけている余白。

「良かったら、今度一緒に行きませんか?桜の咲く季節になったら、一緒に。」

「はい、私も余白を探しにいきたいです。」

「良い返事ですね。」と、高橋さん。

 なんだか可笑しくて、二人で、笑った。

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