キョン「パルクール?」
watercandy
夏
〜夏、文芸部室〜
ハルヒ「『ヤマカシという名前は、コンゴの言語であるリンガラ語で"強靭な精神"、"強靭な肉体"、"強靭な人物"、"忍耐力"などを意味する語に由来する』」
最高気温36℃の猛暑日に、わざわざあの照り返しの焦熱地獄の坂を完登してまで屯する程の価値が、この空調設備もないうらぶれた部室に果たしてあるだろうか。いや、ない。汗ばんで上気した朝比奈さんのご尊顔を至近距離で拝める事を考慮に入れてもだ。
古泉「それ、知ってますよ。確かリュック・ベッソンが手掛けた仏映画ですよね」
あと、ハルヒは一体何を言っているんだ?こいつも暑さで変になったのか? ぼんやりとそんな事を思ってから、自分の思考が誤った方向へ進んでいた事に気付いた。そういえば、こいつは元から変だった。
ハルヒ「正確には、ヤマカシっていうのはそのキャストの人らの組んでるチームの名前なんだって。実在の集団ってWikipediaに書いてある」
ヤマカシ、ハルヒの口から出てくるのはそういう音の組み合わせだった。心なしか響きが日本語っぽいが、ハルヒはコンゴの言葉だと言っていた。
何を思ってコンゴのナンチャラ語の説明が映し出されているPCの画面を唐突に読み上げ始めたのか、全くわからないし、そういうハルヒの行動について「わかった」と思った事は一度もない。
それでも古泉はハルヒの与太話に付き合っていく。それがあいつの仕事だからな。
古泉「らしいですね。役者がすべてガチンコでアクションをやっているという触れ込みで、記憶に残っている人も多いようですから」
マジで暑い。
みくる「長門さん、アイスクリームなら何の味が好きですか?」
長門「……チョコミント」
◆
ハルヒ「ねぇキョン、これ見てよ」
パイプ椅子の上で力無くふやけていた俺に、ハルヒが声をかける。しかし、見よ、このホセ・メンドーサに敗れた矢吹丈と寸分違わぬポーズを。俺はもう動きたくないんだ。
そんな事を思いつつも、椅子から立ち上がってPCの方へのろのろと向かってしまう俺の体。習慣とは怖ろしいものである。いや、それよりもっと怖ろしいのはハルヒの機嫌を損ねる事だ。
キョン「……なんだ?」
ハルヒ「ねぇ、これめちゃくちゃ凄くない?」
PC画面の中で、外国人の男たちが建物の2階からコンクリートの地面へ向かって飛び降りたり、フェンスを飛び越えたり、壁をよじ登ったり、かと思えば、そこかしこで宙返りをしたりしている。なんだ、軽業師の動画なんか観てたのか。
某成龍の真似事でジャングルジムのてっぺんからえいやと飛び降り、膝小僧を血だらけにしていた、そんな小学生時分の青い衝動を思い出すな。
キョン「こんなもん観て、まさか映画の続編でも撮ろうってんじゃないだろうな。いくら運動神経抜群のお前でも、こりゃあ無理だ。あまつさえ俺になんか、逆立ちしたって無理だ」
そもそも、逆立ちするのが無理だ。
ハルヒ「違うわよバカキョン。だいいち私は監督なんだから……って、そうじゃなくて、これ」
ハルヒがタブを切り替える。Wikipediaの……何だこれは?聞いたことがない言葉に関するページが開かれていた。
キョン「パルクール?」
朝比奈さんの淹れて下さった冷たい麦茶のコップはもう汗だくになって、自身の周りにちょっとした水溜りを作っている。
◆
キョン「パルクール?」
ハルヒ「そ、みんなでこれやるわよ」
すみません、長門大先生。一先ず不思議な力で俺たち全員のライフを99機にして頂いてもよろしいでしょうか?
キョン「ハルヒ。その山伏とやらに比べたら俺の耐久力はスペランカーみたいなもんだ。死ぬならお前だけにしてくれ。墓にはSOS団長と彫っておいてやるからな」
ハルヒ「私も最初は、こんなの銀幕の中だけのスタントだと思ってたわよ。ところがね、色々調べてみたんだけど、これって海外じゃ普通にスポーツとして流行ってるんだって。あと、ふざけた事言ってると殺すわよ」
みくる「今サーティワンでダブルを頼むと、サイズアップしてくれるんですよ。あとで駅前のサーティワン行きません?」
長門「……行く」
◆
スポーツ?
この、どう見ても尋常ならざる身体能力を要するであろう超人技が?
……まぁ、アイロン掛けやウイイレがスポーツとして認められる時代だからな。俺にはもうスポーツの定義がよくわからんが、エラい人がそう決めたんなら、まぁそうなんだろう。そういう事にしておく。
キョン「スポーツとして流行ってるったってお前、こんなもんいきなり俺たちに出来るわけないだろう。だいいち場所はどうする。善良なる市民に通報されて飛んできたお巡りに、退散命令を食らうのがオチだ」
ハルヒ「その辺の公園でやればいいじゃない。この暑さだし、子どももそんなに居ないわよ。逆説的にチャンスね」
そのプラス思考を是非とも他の事に役立ててくれ。
ハルヒ「日本の動画もあるわよ」
クリック音と共に、再びタブが切り替わる。今度は一人称視点の主観映像で、男が複雑に入り組んだダクトやアンテナ、巨大な室外機、フェンスなんかを乗り越え、躱し、飛び降りながら、ビルの谷間の奈落をひょいひょいと飛び越えていく。タイトルには「東京パルクール視点」とあるが、日本にもこんな奇天烈なことをやっている人間がいるのか?
あと、やはりスポーツとして流行ってるとは思えない。
◆
古泉「僕も小学生の頃は散々やりましたよ、こういうこと」
いつの間にか俺とハルヒの背後に回っていた古泉が、肩越しに画面を覗きながら言う。こいつは素性が素性なだけに、こんな事もある程度出来そうな気がする。
キョン「小学生ならともかく、大の大人が公共の場で忍者ごっこというのもなぁ……。常識に囚われないと言えば聞こえはいいが」
ハルヒ「あんたはいつも非常識なくらい常識にこだわるわね」
みくる「あ、これ見た事あります!」
同じく席を立ってPC画面を覗きに来た朝比奈さんが、思わぬ反応を見せた。
みくる「ZENくんがやってるやつですよね。クラスにエグザイル好きな子がいて、その子に動画見せてもらったんですよ」
いや、 ZENくんって誰だ。
古泉「一般的に考えられているほど滅茶苦茶なものでもないみたいですよ。涼宮さんの仰っていたことは一理あって、欧米では学校の体育の授業に取り入れられていたり、健康増進の趣味として楽しむための専用施設も少なくないみたいです。今の日本で言うと、ボルダリングみたいな立ち位置なんでしょうね」
Wikipediaの「概要」欄には思ったより複雑なことが記載されている。身体の機能性と現時点の限界を理解し……芸術や哲学の側面を……なるほど、わからん。
◆
キョン「百歩譲って、これをやってみるとしてだな。素人の俺たちが何の手解きを受けることも無しに、こんな芸当をこなせるとは思えんのだが」
ハルヒ「キョン、あんたYouTubeって知ってる?世界中の色んな動画が観れる画期的なサイトなんだけど」
ハルヒはまたタブを切り替え、YouTube上での「パルクール 始め方」の検索結果をスクロールしていく。パルクールの始め方、初心者向け講座、〇〇のやり方、〇〇の練習法……なるほど、ハウツー動画は一応ごろごろ転がってるみたいだ。
ハルヒ「とりあえず、見よう見まねでやってみるわよ。キョン、あんたは大体において、まずは行動、何でもやってみようという気概に欠けてるのよ。案ずるより産むが易し。受け身の姿勢じゃいつまでも面白いことは始まらないわよ」
俺は平凡な日常をこそ愛してやまず、闇雲な気勢が先に立って人様に迷惑をかける様なことはしたくないし、それを地でいくお前にそんな事を言われる筋合いはないし、第一このクソ暑いのにわざわざ外で運動をしようという所からして馬鹿げた考えだ、こんな時節には冷房の効いた場所でゆっくりするのが一番に決まっている。以上の反駁を喉の奥で一息に呑み込み、明後日の方向を見ながら適当に相槌を打った。無茶苦茶なことに散々つき合わされてきたせいか、事勿れ主義のスキルも順調に成長してきているみたいだ。
キョン「そうだな」
ハルヒ「絶対ちゃんと聞いてなかったでしょ!?」
◆
古泉「まずは初心者向けハウツー動画を一通り漁って、簡単に出来そうなものから試していくという寸法ですね。しかし、一体何から始めれば良いんでしょう」
ハルヒ「最初はやっぱり着地とか受け身とかから始めるんじゃない?大体こういうのって、安全面を確保するとこから始まる気がするわ」
スキーで実際に滑り始める前に、まず雪の上で安全に転ける練習をするのと同じ要領だろう。それに関しては俺もハルヒに同意だ。
ハルヒ「えーっと……いっぱいあってよく分かんないわね」
ハルヒが件の検索結果を適当に巡回して、初心者向けと思しき動画が集められた再生リストをクリックする。
ハルヒ「ほら、やっぱり着地から始めるみたいよ」
男が、何か説明の様な事を喋りながらしきりに、軽くジャンプしたあと深くしゃがみこみ、両手を地面に付くという動作を繰り返している。これが一番最初に持ってきてあるということは、恐らくこれが一番初歩的な動きなんだろうな。脚を少し広げてその間に両手を着いている姿が、なんかカエルみたいだ。
ハルヒ「なんかカエルみたいね」
古泉「手を着かずに脚だけで済ませようとすると、膝が壊れるんじゃないですか?」
確かに、これで手の助けが無かったら足腰への負担が半端じゃ無さそうだ。このカエルみたいな不格好な方法も、そう考えると理に適っているのかも知れない。
ハルヒ「どうやらそうみたいよ。『膝を前に出さないようにしゃがみこんだ後、両手も使って、全身で衝撃を吸収する』だって」
キョン「しかし、しゃがんで両手を着いたくらいで何とかなるもんか?ちょっとした段差から降りるくらいならまだしも、ジャンプした勢いがあったらこれじゃ耐えきれないぞ」
古泉「説明が書いてありますよ。『ランディングは垂直方向への落下に用いる』だそうです。下だけじゃなく、前に進む力が働いている時には代わりに、柔道とかでよくある前回り受け身をするのでしょう」
このカエル着地は「ランディング」という名前らしい。
みくる「暑いですね、長門さん……」
長門「アイス……」
◆
ハルヒ「とりあえず一通り目を通してから、近くの公園に行って実際に試してみるわよ。現地ではキョンの携帯で動画見ながらになると思うから、充電は温存しときなさいよ」
言い出しっぺのお前の携帯で見るのが筋というものではないか。というか、今からやるのか!?
ハルヒ「買いたい時が買い替え時よ」
今度は画面上の男が素早くでんぐり返りの様なことをしている。これがさっき古泉の言っていた受け身だろう。
古泉「『ロール、落下の衝撃を和らげるための受け身』だそうです。いきなりコンクリートでやるのは幾分痛そうですね」
古泉が苦笑いしながらハルヒに進言するのも尤もで、こんなもんはちゃんとした訓練が必要だろう。素人の俺たちにいきなりこなせる芸当ではない。長門に頼んで公園の地面を全部ウレタンマットに取っ換えてもらうんなら、話は別だがな。
ハルヒ「すぐにできる見込みのないやつは飛ばしていくわ。後から出来るようになればいいし、まずは楽しむことが先よ」
こんな調子で、ハルヒは次々と動画を再生していく。どうやらパルクールの動きは着地、走る、跳ぶ、登る、こんなところに分類されるみたいだ。イメージ的には宙返りが花形と思われがちだが、それは応用の領域に属するものであり、ある程度稽古を積んで下地が固まってから手を出すものだという。しかし、ロッククライミングと器械体操と陸上競技の混成競技をやれと言われているような気がしてハードルが高いんだが、本当に大丈夫なんだろうか。
ハルヒ「さっきも古泉くんが言ってたでしょ、ちゃんと順序だてて練習していけば誰にでも楽しめるものだって。私だって、いきなりビルの上を飛び回ってやろうなんて思っちゃないわよ」
長門、古泉、朝比奈さん。一先ず今回のハルヒの頭は一応常識人モードみたいですので、世界改変の為に裏で東奔西走しなければならない様な事態は回避できそうです。
みくる「アイスクリームはまた今度みたいですね」
長門「チョコミントのダブル……」
◆
ハルヒ「それじゃあ、今から近くの公園に行って実際にパルクールをやってみることにします。反対意見のある人は、練習が終わってから聞くわね」
暴君という言葉がこれほど似合う女子高生も、そういないだろうな。
PCの画面に釘付けのハルヒを尻目に、部屋の隅で古泉と額を寄せ合って小声で話す。
古泉「今回の涼宮さん、今からやるというのは置いておいても、意外と常識的にものを捉えておいでですね。貴方も意外とはまるかもしれませんよ、パルクール」
キョン「そういうお前は、機関の訓練でこんなことも散々やらされてるんじゃないのか」
古泉「まぁ……やっていないと言ったら嘘になりますがね。なに、涼宮さんに勘繰られないよう程々にしておきますよ」
キョン「お前とハルヒ、場合によっては長門もともかく、俺と朝比奈さんは端の方で大人しくしてるのが吉だろうな。頭から落っこちて脳震盪でも起こしたら事だ。加えてこの酷暑、朝比奈さんのお体が一番の懸念事項だよ」
上を下への大騒ぎこそ回避できそうだが、しかしそれを差し引いてもまだ油断はできない。お世辞にも、激しい運動に適した気候だとは言い難いからな。
古泉「まぁ、大丈夫だとは思いますがね。一般レベルから逸脱した事態に陥った場合は、長門さんのお力添えを要することも、無きにしも非ずですが」
確かに今回のハルヒは、どうやら真っ当にスポーツを楽しみたいだけみたいだからな。長門の手を煩わせることなしに、万事恙なく進んでくれることを祈っているよ。ところで、長門の表情が心なしか平常時より輪をかけて沈んでいるように見えるんだが、何かあったんだろうか。
◆
暑ッッ!!!
別段冷房も効いていない校舎だったが、いざ真夏の直射日光の下に体を晒すと、途端に文芸部室が恋しく感じられ、ハルヒの決定に対してもっと強情に異議を唱えなかった自分の選択を呪いたくなる。
ハルヒ「ほら、さっさと行くわよ」
足取りも軽やかに校門を目指すハルヒが、振り返って俺を急かす。長門と古泉も涼しい顔だが、暑いのには相違ないだろう。朝比奈さんは日傘を差している。最寄りの公園までは数百メートルの距離だが、そこへ辿り着くまでに体力ゲージの大半を消費しちまいそうな気がする。こんな日に公園で自衛隊の訓練めいたことをやろうというのは、とち狂っているとしか思えない。早くも額に玉の汗を浮かべながら、呪詛の言葉を脳内で並べてみるも、体は従順にハルヒに着き従って歩みを進める。終わったらアイスでも食べるか……。
横手のグラウンドから、野球部やサッカー部、ラグビー部、陸上部の足音、掛け声、ホイッスルの音、白球を強打する金属音が、砂埃と一緒くたになって曖昧に薄められ、中空に響く。こんな炎天下で、運動部員はよく平気でいられるな。人間の適応能力とはすごいもんだ。
◆
一行が到着したのは、学校からほど近く、何の変哲もない児童公園。さすがにこの暑さの為か、ハルヒの目算通り子どもの影は見当たらなかった。これなら、高校生が公園ではしゃぎ回っていてもそこまで問題にはならないだろう。遊具らしい遊具は滑り台、砂場、ブランコ、鉄棒といったごく普通のものしかないが、果たしてこんな所で練習が出来るのか?
ハルヒ「まずはランディングからね」
一先ず俺たちは、木陰で準備運動らしいことを適当にやってから、YouTubeを頼りに手探りでパルクールをやっていくことになった。最初はハルヒの立案通り、初歩的な着地動作から始めていくことに決まった。この暑さでは、ハルヒの体力より俺の携帯のバッテリーがダメになる方が早い気がする。
ハルヒ「こんなもんでしょ?」シュタ
古泉「たぶんそういうことだと思いますよ。手を着いてあげると、そこを媒介に上半身の筋肉も有効活用できるというのが肝みたいですから。よっと」シュタ
長門「……」シュタ
三人は、部室で見ていた「ランディング」とやらの練習をさっそく始めている。膝上くらいの段差から軽く飛び降りて、深くしゃがみ込みながら両手を地面に着く、という単純な練習だが、傍から見ているとまさしくカエルだな。
制服のままなので長門とハルヒはスカートだが、ハルヒはあまり気に留めていないらしい。
ハルヒ「膝を前に出すなって言ってたの、わかるかも。そうしたら膝痛くなりそうね」
古泉「それもありますし、膝を前に出していると手も着きにくくなりますね。ちょっと前傾姿勢でいくと、膝を出さずに腕もしっかり使えますよ」
ハルヒ「あ、ホントだ!」
長門「……」シュタ
俺と朝比奈さんは、少し離れた木陰のベンチに座って練習風景を見物している。公園内の、まるでそうしなければ元より短い寿命がさらに縮まってしまうのかというほど苛烈にさんざめくセミたちの声があまりにもうるさ過ぎて、そこに逆説的に静寂を見出した芭蕉の気持ちが今ならわかる気がする。「涼宮」って夏の季語っぽいな、等と下らないことを考えながら、今日の活動が一刻も早く終了するのをじっと待つ。とにかくハルヒに無理やり呼び出されないよう、なるべく目立たないようにしていなければ。
みくる「涼宮さん、この暑さなのにすごい元気ですね……」
キョン「あいつは一旦夢中になると、寝食を忘れて取り組むタイプですからね」
そのエネルギーが、今回のようにスポーツとか健全な方向に向いている時は、俺たちも安穏としていられるんだがな。
ハルヒ「ちょっとキョン!あんた何みくるちゃんとこっそり懇ろになろうとしてんのよ!あんたもやるのよ!」
こうやって、矛先が人に向かうと厄介なんだ。
◆
~30分後~
ハルヒ「はい」スッ
キョン「はい、涼宮君」
ハルヒ「たぶんローファーでやるのが違う気がしてきました」
キョン「今頃かよ!」
古泉「だましだましやってましたが、ちゃんとした運動靴でやるべきでしょうね。部室で見ていたWikipediaにも、『靴選びは大切』という旨の事が書いてありましたし」
ランディングが終わり、障害物を飛び越える「ヴォルト」という動きの練習を鉄棒を使って始めた所で、ハルヒが唐突に提言した。常識的に考えて、運動靴やスニーカーでやるべきだろうな。それに、朝比奈さんを除く四名、いや、不思議と汗一つかいていない長門も除いた三名はもう汗だくだし、無理やり参加させられた俺に至っては太ももの筋肉が裏返りそうだ。
みくる「皆さん、水分補給はしっかりしてくださいね」
そう言って、カバンから大きな水筒を取り出した朝比奈さんが、冷えたお茶を紙コップに注いで配って回る。
ハルヒ「ありがと。みくるちゃんもやってみたら?初歩的なことだったら結構簡単よ」
みくる「わ、私は運動神経よくないから……」
ハルヒ「うーん……まぁ、怪我したらダメだからね、やりたくないなら無理にとは言わないわ」
俺が有無を言わさず強制参加だったのは何だったんだ。
◆
ハルヒ「しっかし、簡単なことしかやってないのに結構疲れたわね」
古泉「普段使わない筋肉を使ったせいでしょうね。それにこの暑さですし、装備も十全ではなかったですから。また日を改めて出直しましょう」
おい古泉、余計なことを言うんじゃない。パルクールは今日限りの一過性のブームに終わらせるんだ。
ハルヒ「そうね、この格好じゃさすがに分が悪いってものだわ。日曜日にまた練習するわよ。○○駅の近くに大きい公園があるから、そこにしましょう。駅に集合ね。みんな、今度はちゃんと運動できる格好で来るのよ」
結局こうなってしまう。お前が一人でやる分には良いが、俺たちまで巻き込むのはよしてくれ……なんて言おうもんなら、日曜にお冠のハルヒから鬼のように電話がかかってくるのは目に見えてる。しょうがない、こうなったら発想を切り替えて、せめて楽しむ方向性で行くとするか。健康的な汗を流す機会なんて、近頃なかったからな。しかし、高校生にもなって公園で遊ぶことに日曜を費やす物好きは、北高で俺らぐらいのもんだろうよ。
さ、無事に今日を乗り切ったことだし、コンビニでアイスでも買って……
ハルヒ「はー疲れた。サーティワンでアイスたべよーっと」
みくる「あ、さっきちょうど長門さんと行こうって言ってたんですよ!今ダブルを頼むと大っきいサイズにしてくれるんです」
ハルヒ「みくるちゃん、そういうことは早く言わないとダメじゃない!」
長門「……やった」
古泉「いいですねぇ。僕もご一緒させてもらいましょうかね、男一人ではどうにも入りづらくて」
ハルヒ「みくるちゃんは何が好きなの?」
みくる「私はストロベリーチーズケーキが一番好きかなぁ。でもこの間食べた期間限定のハニーレモンハニーも美味しかったですよ」
ハルヒ「あーわかる!あれレギュラーメニューに常駐させて欲しいくらいよね。有希は何が好き?」
長門「チョコミント」
古泉「なんだか似合いますね」
……そういうことなら、俺も着いていこう。
◆
~日曜~
この間の猛烈な暑さは一旦影を潜め、今日の気温は抑え目だ。空気も湿度が低くカラッと乾いていて、運動には比較的適した気候だろう。
ハルヒは運動できる格好と言っていたが、ジャージのズボンにTシャツ、運動靴で十分だろう。時間通りに指定の公園の最寄り駅へ赴くと、既に俺を除く4名が揃っていた。SOS団内の不文律において、遅刻の定義とは指定の時刻に遅れることではない。現場に最後に到着した人物が遅刻扱いになるのだ。
ハルヒ「遅かったわねキョン。罰として、今日もあんたの携帯で動画を見ながら進めていくことにするわよ」
そして、この罰は俺が一番乗りだったとしても同様に課せられたものであることは想像に難くない。
一行は駅の近く、グラウンドや芝生広場とそれなりに遊具の充実した大きめの公園へ向かっていく。
この間とは違い、今日は各自運動に相応しい格好で揃えている。女性陣はフルレングスのスパッツにハーフパンツとTシャツ。古泉はポロシャツにハーフパンツで、どこかのテニス選手のような爽やかな出で立ちだ。皆ランニングシューズを履いている。今日も公園の人影はまばらで、俺たちが何事かを行うだけのスペースは十分確保できそうだ。子どもたちとしても、わざわざ公園で体力を消耗して遊び回るくらいなら、家でニンテンドースウィッチをやっていた方が有意義というわけだろうか。近頃は「球技禁止」の張り紙もあちこちに増えてきているし、過保護な親からの要請で大きな遊具もどんどん撤去されていっている。国全体の潮流として、外遊びの機会はどんどん減っていってるんだろう。
ハルヒ「それじゃあ、今日もパルクールの練習をすることにします。みんな、怪我には気を付けて、一個ずつ確実にやっていきましょう。パルクールは危険な度胸試しではなく、歴としたスポーツです」
お前はパルクール教室のインストラクターにでもなったつもりか。まぁ、こっちとしてはそう考えているだけ有難いことだが。
ハルヒ「こんなに大っきな芝生の広場があるんだから、この間出来なかったロールをやってみましょう。と、その前に準備運動ね」
今日は受け身の練習から始めるらしい。
◆
キョン「ごろん、と」
ハルヒ「あんたのそれは、ただ前転してるだけじゃないの。斜めに回るって書いてあるじゃない」
古泉「パルクールの受け身は柔道等の受け身と違って、足を折りたたんでおいて、回り終わったらすぐ立ち上がれるようにしているんですね。手も、地面を叩くのではなく、押し返して立ち上がる力に利用する、と」
長門「……」クルン
ハルヒ「ほら、有希のフォームを見習いなさい。アルマジロくらい綺麗よ」
キョン「斜めというのがわからん。真っすぐ前転するか、さもなくば丸太のように横に転がるか、その二つだ」
ハルヒ「ほら、この動画では『どちらか片側の肩から入って、背中を斜めに横切って反対側の腰に向かうように』って言ってるわよ。芝生だから痛くないわよ」
みくる「ふわ~~!」コロン
ハルヒ「みくるちゃんは前転してるだけで可愛いわね……」
長門「……」クルン
◆
ハルヒ「まぁ、ロールはこんなもんでしょ。コンクリの地面でやれって言われたら厳しいものがあるけど、導入としてはこれくらいでいいかしらね」
キョン「体を守るための受け身で、逆に体が痛いんだが」
古泉「慣れるまでは、骨の出っ張っている部分を地面にぶつけて、却ってどこか傷めてしまうこともあるかも知れませんね。コツがわかれば、コンクリートの地面に向かって飛び降りてから受け身をしても、全く痛くないらしいですが」
キョン「アドレナリンでハイになって、痛覚が一時的に麻痺してるだけじゃないのか」
古泉「地面に触れる軌道から肘、肩、背中、腰の骨の出っ張りを上手く外してあげると、痛くないらしいですよ。拳骨で硬いものを叩くと痛いですが、手の平で硬いものを叩いてもあまり痛くないのと同じ原理みたいです」
キョン「やけに詳しいじゃないか」
古泉「実は、ちょっと調べてみたんですよ。個人的に、パルクールの術理に興味がありましてね」
ハルヒ「さすが古泉君!キョン、あんたも団の活動に対して積極的な姿勢を持たないと、最終解脱のステージに到達できないわよ」
キョン「SOS団はいつから尊師を大いに奉るための涼宮ハルヒの団になったんだ」
◆
少し休憩を挟んだ後、俺たちは公園内の遊具が密集しているエリアに移動し、鉄棒や低いブロック塀を使って「ヴォルト」の練習を始めた。ヴォルトというのは障害物を飛び越える動きの総称らしく、初心者がすぐに出来るものから高度な宙返りに派生するものまで、数多の種類があるらしい。
一先ず初心者向けのハウツー動画を見てわかったのは、一番簡単なものが「ステップヴォルト」という、障害物に脚をかけて乗り越えるものであるらしいということだ。
ハルヒ「これ結構簡単そうじゃない?片足かけて、よいしょって乗り越えるだけでしょ?」
古泉「ヴォルトの中でも最も初歩的なものみたいですね。パルクールを知らない人でも、障害物を乗り越える必要がある場合は、誰でも自然にこのやり方を選ぶ気がしますが」
確かに、これなら俺にも出来そうだ。見てくれが華麗かどうかはともかくとして。
ハルヒ「えーっと、両手で鉄棒を持って、片足を鉄棒にかけて……よっと。ねぇ、これホントに技なの?」
古泉「『ステップは最小限の力でヴォルトを成立させることを学ぶために、とても重要な動き』だそうですよ。一旦片足を着いてしまうことで、越える瞬間に体が不必要に高く浮いてしまうことを防ぐ効果があるみたいです」
長門「……」ヒョイ
みくる「これなら私も出来るかも……」
ハルヒ「みくるちゃん、自分の力を過小評価してちゃダメよ。できるって思ったら、それはできるの。できることにしか、『できるかも』なんて思わないんだから」
胡乱なことを言いて朝比奈さんを焚き付けるな。念のため、朝比奈さんを補助できるようにさり気なく鉄棒の横へ移動しておく。長門、万一のことがあったら高速詠唱で何とかしてくれるよな。
みくる「両手で握って、片足を……んしょっ……えいっ!やった、できました!」
ステップは素人でも必ず無意識に使ってしまう方法だと古泉が言っていたが、それでも朝比奈さんにとっては大きな一歩だった様である。緊急事態に備えて鉄棒の横で身構えていたが、ほっと胸を撫で下ろした。
ハルヒ「みくるちゃん!すごい!やれば出来るじゃない!むぎゅ~」
みくる「暑いです、涼宮さん~」
こらこらハルヒ、パブリック・プレイスで俺たちのヴィーナスに端なくベタつくんじゃない。後で俺と変わりなさい。
◆
鉄棒の次は、20cmほどの幅のある低いブロック塀を使って同じステップヴォルトをやってみる。同じ動きでも、手は握るのか置くだけなのか、足をかける幅がどれくらいあるのか、という細かい所が変わるだけで、体感も少しずつだが変わってくる。
古泉「ステップはまだ比較的楽に出来ますね。細かい部分を直し始めると、かなり奥の深い動きみたいですが」ヒョイ
キョン「この、ただ足をかけて乗り越えるだけの動きがか?」ヒョイ
古泉「ほら、この動画を見て下さい。海外のプロの動きなのですが……これです。わかりましたか?今の動きも分類的にはステップヴォルトですよ」
古泉が動画を巻き戻す。腰くらいの高さのフェンスに向かって走ってきた男が、そのままの勢いでジャンプしたと思ったら、あるか無いかの一瞬のタイミングだけ片手と片足をフェンスに触れさせ、ほとんどすり抜けるようにして通過していった。上下の移動がほとんど無かったせいで、スピードを全く落とさず走り抜けていく。
古泉「たかがステップヴォルトと侮るなかれ、ですね。僕もこんな風に動いてみたいものです」
お前はそんなことしなくても、閉鎖空間で赤玉になって自由に飛び回れるだろう。
古泉「生身の体一つで、という所にまた違った面白さがあるんですよ」
ハルヒ「鉄棒じゃなくてこういう幅のあるブロックだと、ちょっと太いから安心かも」ヒョイ
長門「……」ヒョイ
ハルヒ「……ねぇ有希、ちょっとこっち来て」
長門「……なに」
ハルヒ「むぎゅ~」
長門「……」
◆
ハルヒ「今更だけど、やっぱり靴がちゃんとしてると全然違うわね」
確かに、この間の学生服にローファーという出で立ちに比べ、動きやすさが各段に向上しているというのは、素人の俺でもわかる。
ハルヒ「えーっと次は……『ツーハンドヴォルト』?」
「ツーハンドヴォルト」は平たく言うと、足を着かないステップヴォルトである。一息に跳び越えてしまう分、さっきのよりは体力が要りそうだ。
古泉「とは言え、これもまだ初心者向けの技の一つとして紹介されていますよ。これもステップヴォルトと同様、パルクールを知らない人間が無意識に使う方法の一つではないですか?」
ハルヒ「この辺りまでは、まだ誰でも出来る範疇みたいね……ほっ」
ハルヒが鉄棒を両手で握り、腕を支えにして軽々とその上を跳び越える。両脚は横に出して、お姉さん座りの要領だ。しかし、やけに軽々とやるじゃないか。
古泉「涼宮さん、さすがの運動神経ですね」
キョン「入学当初は全ての部活に仮入部してみたといっていたくらいだからな。元々自信があるんだろう」
ハルヒ「これも簡単だし、次のやつ行きましょうよ」
◆
ステップ、ツーハンドと来て次は……モンキーヴォルトという技だ。これは体育の授業で誰しも挑戦したことがあるだろう、両足を両手の中に通して跳び箱を越える閉脚跳びというやつだ。ここから一気にハードルが上がってきたな。
古泉「急にパルクールっぽくなってきましたね。これ、跳び越えた勢いを利用してそのまま離れた場所に飛び乗ったりするようですよ」
ハルヒ「まずはやってみましょ。えーっと……ほいっと。できたわ」
ハルヒは簡単にやってのけたが、普通に考えて、足が引っかかったら顔面から地面に激突することになる。下はマットでも何でもない、ただの砂だ。
キョン「ハルヒ、くれぐれも怪我には気を付けるんだぞ」
曲がりなりにも、顔立ちは整っている部類なのだし。
ハルヒ「あんたみたいに鈍臭くないから大丈夫よ。あと思ったんだけど、これで足が引っかかったりした時に、咄嗟にロールを使うんじゃないの?」
古泉「そういう意味合いもあるでしょうね。緊急事態の使用に堪えてこその受け身ですから。よっと」ヒョイ
心配せずとも、俺はそもそも足が引っかかることが無いよう、わざわざこんな障害物の跳び越え方はしないがな。
みくる「チョコミント好きな人って、『歯磨き粉の味がする』って言われたら、そんなことないって怒るじゃないですか」
長門「……」コク
みくる「この前クラスの子が、『歯磨き粉の味がするから美味しい』って言ってましたよ」
長門「……!?」
◆
ヴォルトは他にも種類が沢山残っているみたいだが、ここからはどんどん高度なものになっていく為、この辺で終了とした。というより、ハルヒが飽きて他の事をやりたいと言い出した。もっとも、長門なら今すぐにでも全部出来てしまいそうだが。
ハルヒ「さぁーて次は……壁を登ることにします」
大きな石を切り出して作られた、3m程の高さの立方体のオブジェが置かれているエリアにやってきた。
キョン「登ることにします、じゃあないんだよ。こんなもん、何の手掛かりも無しに登れるわけないだろう。ヤモリじゃあるまいし」
ハルヒ「それを可能にするためのパルクールじゃない。ほら、さっきの動画の続きよ」
壁を上るための技術として、壁を蹴って上に飛び上がり、壁の縁を掴んでそのままよじ登っていく、というものがあるらしい。SASUKEで山田克己が毎回苦汁を飲まされているアレをイメージしてもらえれば、わかりやすいだろうか。
5人で鈴なりになって携帯の画面を注視する。
キョン「これは一体どういう仕組みなんだ?某そり立つ壁は多少カーブしている分楽なんだろうが、この壁は完全な垂直だぞ」
古泉「確かに、地面の角度がシームレスに上がっていくというのならまだ勝機はありそうですが、通常は地面と壁とが直角に分かれていますからね……。力を伝える方向を一瞬で切り替える瞬発力が要求されそうです」
みくる「それに、上を掴めたとしても、そこからよじ登るのも大変そう……」
ハルヒ「むむ……まぁ、ひとまずやってみましょうよ。これは失敗してもそんなに危なくないし」
というわけで、銘々壁登りにトライし始めたのだが……。
◆
~15分経過~
ハルヒ「いやー……思ったよりムズいわね、これ」
みくる「涼宮さんと古泉君、惜しかったじゃないですかぁ。もう少しで上に手が届きそうでしたよ」
キョン「ダメだ、俺は全く希望が見えない。そもそも、この壁が高すぎるんじゃないか?」
古泉「コツを掴めれば、このくらいの高さなら我々でも何とかなりそうな気もしますがね……。極端な話、壁キックを経由せずとも、垂直跳びの要領で直に攻めればギリギリ縁は掴めると思います」
ハルヒ「そうね、確かにそう考えると……」
古泉「えぇ。本来この技術は、単なる垂直跳びよりも遥かに高さを稼ぐことが出来る筈なんです」
ハルヒ「垂直跳びだと、身長勝負になっちゃうからなぁ……。ちゃんと、技としての登り方をマスターしたいわね」
古泉「トライ&エラーですね」
キョン「動画では、『壁は下じゃなくて斜め後ろに蹴る』って言ってなかったか?俺はどうもその感覚というか、原理がよくわからんのだが」
古泉「拮抗ですね」
キョン「拮抗?」
古泉「壁に向かって助走・ジャンプした分の斜め前方向のエネルギーがありますから、壁を斜め後ろに蹴って体を戻す斜め後ろ方向のエネルギーがそれと拮抗して、体が真上に上がるんだと思いますよ」
キョン「なるほど、わからん」
ハルヒ「あと、真下に蹴ると足が滑っちゃうんじゃないの?壁をしっかり捉えて力を伝えるために、敢えて後ろ目に蹴るんじゃない?」
古泉「実際、壁を踏んだ足が滑ってしまうと厳しかったですよ。動画では、壁を蹴ってから更に加速しているくらいの勢いがありますし、確実に踏み締めておかないといけないんでしょう」
みくる「確かに、上手く高さが出た時は足が滑ってなかった気がします」
ハルヒ「もうちょっとなんだけどなぁ……」
キョン「そもそも、上に手が届いたとして、そこからどうやって登るつもりなんだ。かなりの腕力が必要になると思うんだが」
ハルヒ「それは届いた時に考えるわよ」
キョン「さいですか」
◆
長門「……どいて」
ハルヒ「有希!」
ここに来て、見かねた長門が手を拱く一同に手本を示してくれるらしい。間違って、あの壁の上までひとっ跳び、なんてのは無しだぜ。
壁に向かって軽く走っていく長門。特にべらぼうな勢いを付けている風にも見えなかったが、壁に向かってひょいとジャンプし、片足で壁を捉えたと思うと、面白いほどに体がふわりと浮き上がった。壁を蹴上がったというより、見えない段差に足をかけて体を押し上げたような、不思議な容易さが見て取れた。
そのまま壁の縁に両手をかけたと思ったら、一気に上半身を持ち上げ、あっという間にするすると登り切ってしまった。
ハルヒ「有希、うま!!」
古泉「さすがですね」
みくる「しかも、上まで登り切っちゃいましたよぉ」
呆気に取られる一同には目もくれず、すぐにオブジェの上から降りてくる長門。壁の縁にぶら下がって高さを緩和し、そのまま手を離して真下へ落下。しゃがみ込んで両手を地面に着き、立ち上がったと思ったら、何事も無かったかのようにこちらへ歩いてくる。なるほど、初日に練習したランディングはこういう時に利用価値があるんだな。
長門「……古泉一樹の推論は概ね正しい。あとは、壁を蹴った足が接地点から滑らないよう、足首や足の指先の操作を加えて壁から得られる力を最大にする。このタームが上手くいけば、この程度の高さなら、さっきの様に助走で勢い込む必要はない。小走りで十分」
ハルヒ「有希、あなたやっぱりすごいわ!今から東京五輪のパルクール代表選手に立候補よ!」
長門「パルクールはオリンピックの競技種目には選ばれていない」
キョン「……古泉よ、今のは宇宙人パワー抜きでの芸当だと思うか?」
古泉「だと思いますよ、長門さんの解説で、僕も自分に足りていない部分について、合点がいきましたし。恐らく本当に、この程度の高さなら大したエネルギーは必要ないのでしょう」
ハルヒ「キョン、古泉くん!今の有希の説明聞いてたでしょう。もう一回チャレンジしてみるわよ。なんかちょっと分かった気がするわ」
◆
古泉「よっと!あぁ、惜しい!もう指先はかかってるんですが」
ハルヒ「私もだいぶ上達してきたわ。もう何回かやれば、いけそうなんだけど……」
ハルヒと古泉は、長門のアドバイスを受けて二回戦に突入した。朝比奈さんは、二人がひたすら壁を蹴上がってよじ登ろうとする様を見守っている。俺も少し試してみたが、確かに足首から下の踏ん張りの意識一つで、多少楽に体を上げられるようにはなった気がする。
キョン「なぁ長門、さっきのは本当に俺達にも出来ることなのか?」
長門「特別な情報操作を行っているわけではない。この惑星の物理法則に則って、動作を成立させるために必要なだけの力を、適切なタイミングとベクトルで発揮しただけ。要はコツ」
キョン「言うは易く行うは難し、だな。もっとも、あいつらならそう時を待たずして、成功しそうな……」
ハルヒ「届いたぁ!」
声の聞こえた方に目を遣ると、遂にハルヒが両手で壁の縁を掴み、宙ぶらりんになりながらこちらに顔を向けていた。
ハルヒ「キョン!見なさい!できたわよ!ていうか、こっから上に上がるのは無理!」
言いたいだけ言って、ハルヒは手を放してしまう。身長を差し引いてもまだ地面と足との間にはそれなりの距離があったが、長門と同じ様にランディングで対処し、怪我無く降りてこれたみたいだ。
ハルヒ「届いたけど、ぶら下がった状態から上に上がるのはマジで無理よ。絶望を感じたわ。ていうか、初日にちゃんとランディング練習しといて良かった」
古泉「形だけでも訓練しておくと、以外に重宝するものですね。長門さんが先ほど披露した登攀技術は、確かクライムアップという名前だったと思いますが」
長門「……クライムアップは難しい。壁を蹴上がる動きなら素人でもある程度は形になるが、縁に掴まった状態から体を引き上げるのは、さらに詳細な術理が要求される」
ハルヒ「どうやるのか教えて!」
長門「……この壁は高すぎて練習に不適当。こっちへ」
そう言って、長門はハルヒと別の壁に取り掛かり始めた。今の壁の半分の高さのものが、すぐ隣にあった。さっきまでこんな壁あったっけな。
古泉「涼宮さん、さすがの運動神経ですね。僕も負けてられません……!」
古泉が珍しく、青い闘争心を見せている。トライを再開した古泉を余所に、ハルヒは長門とクライムアップとやらの稽古。俺と朝比奈さんは蚊帳の外。
みくる「みんな熱心ですねぇ」
キョン「ハルヒのエネルギーが、健全な形で発散されるのは良いことですよ。そのための世界保全活動だと思えば、明日の筋肉痛も安いもんです」
普段怠けさせっぱなしの体を鞭打って酷使したせいで、既に膝が笑い始めている。
◆
ハルヒ「握力がなくなったわ!」
キョン「いつものテンションで言われると、ちょっと面白いな」
クライムアップとやらの練習を切り上げたハルヒと長門。古泉はあれからコツを掴んで、壁蹴上がりを3回成功させていた。しかも、何とか上までよじ登ることにも成功していた。ハルヒは腕力的に無理があっただろうが、古泉は力業でゴリ押ししたんだろう。
ハルヒ「いやホントに。壁に掴まった所から上に上がるやつ、ぜんっぜん出来ないわよ。でも古泉くんやあんたよりか弱い有希に出来るんだから、これも力でどうこう、ってものじゃないんでしょうね」
長門「クライムアップは、腕力や勢いで捩じ伏せようとすると却って難しくなる。技術的には複雑だけど、一度理解できれば大したエネルギーは必要なくなる」
ハルヒ「むむ……しっかり理解できるまで練習、と言いたい所だけど、今日はもうダメね。悔しいけど、体力の限界だわ」
古泉「程々にしておかないと、無理に練習を続けて怪我をしていては元も子もありませんからね。おや、手の皮もボロボロになってしまいました」
キョン「俺ももう限界だ。ヘトヘト過ぎて、今から家まで帰るのも気が重い」
みくる「皆さんお疲れ様です!もうすぐ日も暮れますし、今日はこの辺りで……」
DAY2も、何とか無事に乗り切った。
◆
~駅にて~
ハルヒ「あー疲れた!もう筋肉痛が始まってる気がするわ」
キョン「体育の授業くらいじゃ中々体験できないハードさだったな……こりゃ明日が憂鬱だ」
みくる「古泉くん、手の平大丈夫?絆創膏ありますよ?」
古泉「あぁ、このくらいどうってことありませんよ。手の皮は再生が早いですからね。お気遣いどうも」
ハルヒ「しかし、有希はホントに何でもできるわね。私も負けてられないわ」
どうやらハルヒのやつ、これから定期的にパルクールの練習を続けていく料簡らしい。パルクールの技術的なことについて、長門とあれやこれやと話し込んでいるハルヒの両瞳が、陽光を映した水面のように濡れ輝いている。この妙なスポーツの事が、よほど気に入ったのだろう。結構熱を上げていた古泉はともかく、次回からはこんなハードワークに俺と朝比奈さんまで着き合わせるのは止めにしてほしいものである。……尤も、俺だって楽しくなかったと言えば嘘になるのだが。
古泉「涼宮さん、存分にお楽しみ頂けたみたいですね」
キョン「学校や街中で迷惑千万なことをやらかしたり、朝比奈さんのバニーガール姿をダシにして校門でビラ配りをするよりは、まだマシだろうさ。まぁ、これを校舎でやるとか言い始めたら、その時は俺も全力で阻止するがな」
古泉「それは……困りますねぇ」
そうだろう?わかったら、お前もハルヒと一緒になって練習に精を出していないで、少しはハルヒを宥める方向にも動いておいてくれ。そうじゃないと、俺の明日の筋肉痛も無駄骨に終わっちまうからな。
ハルヒ「男子ばっかりがやるものだと思われがちだけど、他のスポーツとおんなじで女子でも普通にできるわよね。みくるちゃんは胸が邪魔そうだけど」
みくる「わ、私はそもそも運動神経よくないから……」
ハルヒ「そう考えると、体形的に一番有利なのは有希ね」
長門「…………」
ハルヒ「……ご、ごめんてばぁ」
◆
~次の日、朝~
昨晩ハルヒたちと別れた後、床に入る数刻前から予感していたことだったが、よもやここまでとは……。
喧しい電子音が意識を眠りの底から一気に浮上させたのと同時に、条件反射で音の鳴る方へ手を伸ばす。そこで全身をしたたかに襲う異変。表情筋以外のほとんど全ての筋肉が、ギチギチと悲鳴を上げていた。眠気からではなく、痛みが起床を妨げたのは初めてだ。
部屋へ呼びつけた妹の手を借りて何とかベッドから起き上がり、回らない肩に四苦八苦しながら着替えを済ませる。アインシュタインは相対性という概念について「ストーブの上に1分間手を置くと1時間のように感じる。かわいい子と1時間いっしょに座っていると1分のように感じる。それが相対性だ」と説明したそうだが、今日の学校までの道のりは千里にも感じられそうだな……。
◆
~夏、文芸部室~
ハルヒ「ねぇ有希、ちょっと私のことむぎゅ~ってしてみて」
長門「……」ムギュ
ハルヒ「……も、もっと強く」ドキドキ
長門「……」ムギューー
ハルヒ「あー……いい……」
キョン「おーっす」ガチャ
ハルヒ「ぅわぁ!入ってくる前にノックぐらいしなさいよバカキョン!ち、ちなみに今のは有希が勝手に抱き着いてきただけだから!私は何も言ってn」
長門「違う。涼宮ハルヒに抱き着くよう指示さr」
古泉「これはこれは、何やら賑やかしいですね。僕も混ぜてもらえませんか?」ガチャ
キョン「よぉ古泉。恐らく、お前の混ざる余地はなさそうな案件だ」
みくる「掃除当番で遅くなっちゃいましたぁ~」ガチャ
◆
ハルヒ「はぁはぁ、まったく……みんな揃ったわね」
まだ頬がほんのり紅潮しているハルヒ。長門と何をやっていたかは俺の与り知らぬことだ。
ハルヒ「えー、この間から始まってるパルクール企画ですが……あれから何回かまた練習をして、着地や受け身、ヴォルト、壁を上る動きに加えて、プレシジョン系やバランス系、フローの練習と、基本的な事はこれで一通りさらいました。そこで、次はいよいよ、花形の宙返りに挑戦してみたいと思います」
キョン「はい」スッ
ハルヒ「はいキョン」
キョン「俺はまだ死にたくない」
ハルヒ「それを今から説明するわよ。えーっと、宙返りはいきなり出来るとは思えないので、学校の武道場でマットを敷いてやろうと思います。武道場は休み時間でも鍵が開いているのは調査済みです。端に積んであるマットを使って出来るだけ安全に進めていこうと思います。あ、みくるちゃんは無理に参加しなくていいわよ」
ここいら辺りで、そろそろ長門の出番じゃないか?素人が何のノウハウも無しにいきなり宙返りが出来るようになるとは思えないし、柔らかいマットがあっても危険には違いないだろう。万が一ハルヒが失敗したら、その一瞬だけ重力を反転させたりしなくちゃならんかも知れんぞ。
ここで、隣に座っていた古泉が神妙な面持ちで手を挙げた。
古泉「涼宮さん。僭越ながら意見させて頂きますと、パルクールの基本動作の練習とは違い、宙返りには大きな危険が伴います。今までのように動画を見ながら独学で進めていくのにも限界があるかと」
みくる「そうですよぉ、頭から落ちたりしたら大変なことになりますよぉ」
ハルヒ「むむ……でも、このままじゃいつまで経ってもバク宙できるようにならないわ。私はそんなの嫌よ。キョン、あんたも嫌でしょ?」
ハルヒの頭に鎮座する山吹色のカチューシャが、夏の午後の陽光を目一杯吸い込んで厳めしく輝く。ひょっとしてあれは、この女は危険だという警戒色の意味合いでも込められているのだろうか。
それから、一生バク宙が出来なかったとしても、こちらとしては全く問題ないんだがな。
◆
長門「……これを」
おもむろに団長席の傍まで来た長門が、差し出したiPhoneの画面をハルヒに見せる。
ハルヒ「有希、どうしたの……って何これ!こんなのあるの!?」
残りの三人も何事かと訝しんで、ハルヒの席に集まる。
画面に映っているのは、何やらアスレチックの様な、パルクールにもってこいのオブジェクトでぎっしり埋め尽くされている広大な屋内施設だ。大小様々な壁やボックスが、複雑に入り組んだ巨大な鉄棒のセットと共に立ち並び、脇にはスポンジのプールとトランポリンもある。どう見ても、パルクールのための施設だろう。しかも、ウェブサイトの文章は日本語で書かれている。料金体系、クラススケジュール、注意事項、云々……。
古泉「これは……パルクールジムですか」
みくる「すごい!これ、日本にあるんですか?」
長門「スポーツやトレーニングメソッドとしての真っ当なパルクール観は主に欧米で醸成されてきたが、ここ数年で日本にもその流れが形作られつつある。ストリートとは違って安全かつ自由な練習体制が整った専用施設としてのパルクールジムは、もはや海外だけの特別なものではない。このジムは国内の現役のプレイヤー達が造ったものだが、最近ではAEONグループも自社のスポーツジム内にパルクールエリアを取り入れるなど、大資本がパルクール業界に進出してきた」
いよいよ話が本格的になってきたな。確かに、これ以上の独学での練習、ましてや宙返りへの挑戦などは効率が悪すぎるし、第一あまりにも危険すぎる。パルクールを楽しむための御誂え向きの専用施設とやらがあるんなら、そこに足を運んでプロに基礎からレクチャーしてもらう方が良いに決まっている。しかし、こういう最先端のモノは大抵東京に一極集中するのが世の常だと思うんだが……。
長門「この施設は東京だが、似たような施設がここから電車で30分程の場所に最近オープンしたばかり」
ハルヒ「みんな、聞いたわね!?次の日曜に行くわよ!!」
トントン拍子で話が進んでいく。本当に、こんなにもタイミング良く近辺にパルクール専用施設なんてものが建設されたばかりだったのか?……まぁ、その辺りは深く詮索しないでおこう。肝心なのは、無茶な環境でチャレンジを強いられることなく、ある程度の安全を確保した上でハルヒを存分に遊ばせてやれそうであるということだ。
キョン「良かったじゃないかハルヒ、日曜はせいぜい楽しんでくるんだぞ」
ハルヒ「は?あんたも来るんじゃない」
キョン「俺はもう、あんな地獄みたいな筋肉痛は御免被る。最初に練習に出かけた日の翌朝なんか、ベッドから起き上がるために妹の手を借りる羽目になったんだぞ。次にそんな体たらくを味わうのは、60年ほど後でいい」
ハルヒ「60年後の自分を先行体験できる貴重な機会だったわね。これからは、お年寄りには優しくしようっていう敬老精神でも芽生えたんじゃない?」
まったく、口の立つ女だ。
◆
ハルヒ「キョンも何だかんだ言いながら、割合慣れてきてるじゃないの。自分では自覚ないのかも知れないけど、練習してる時けっこう楽しそうよ、あんた」
キョン「む……まぁ、楽しくないわけではないがな。ただ、初日のようにフルパワーで体力を使い果たすまで練習させるのは勘弁してくれ。何事も程々が一番だ」
古泉「そんなに遠くないところみたいですし、個人的には一度くらい行ってみたいですね、パルクールジム」
みくる「あの、涼宮さんが最近こういうことにハマってて、って鶴屋さんに話したら、鶴屋さんもやってみたいって言ってました~」
ハルヒ「もちろん大歓迎よ!次の日曜に向けて、また話しておかなくちゃね」
キョン「……なぁ長門よ。ものは相談なんだが、ケアル的な呪文は使えたりしないか?あんな日常生活に支障を来すレベルの筋肉痛はもう御免だ」
長門「……コンビニで、筋肉の疲労回復に適したプロテイン入りドリンクが売っているから、それを練習の直後に飲むといい。何もしないよりはマシ」
キョン「あ、はい……」
ハルヒ「みんな、わかったわね!次の日曜、正午に駅前集合!遅れたら罰金だから!」
……やれやれ。
おわりんこ
キョン「パルクール?」 watercandy @ats713
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