Z E R O

春嵐

Z E R O

 何もなかった。

 命の果て。

「遂に死んだかな」

 思い出すこともない。走馬燈というのも、特に感じない。

「よかった」

 お気に入りの黒いワンピース着ながらしねる。仕事中よりは何倍もいい。

 セクハラで更迭された同性の上司にかわって、明日着任する新しい上司の顔を見れないのだけが心残りだった。不死身の筋肉を持つ、かなりのイケメンと聞いていたのに。

 人の姿。自分ではない。

 記憶が見せている何かだろうか。あれは誰だろう。

「どうも」

 話しかけてきた。

「どうも」

 実像らしい。

 いや、実際に存在しているものはここにいない。

 相手。ちょっと困ったような顔。

「ここ、どこなんでしょうか」

 訊いてくる。

 男性。ちょっと地味目な服。短い髪。小さいながらも顔にあった銀縁の眼鏡。良い眼鏡のチョイスだった。

「たぶん、しぬ前後に整理とかする場所だと思います」

「え、整理?」

 男性は、ここに来るのが初めてらしい。

「私もよくわからないですけど、魂とか、記憶とか?」

 まだ信じられないというような顔をしている。

「なにか、宗教に入っていたりということはありますか?」

「え、ええと」

 思い出そうとしているということは、べつだん宗教に入っているわけでもなさそう。

「ふつうの、仏教とか、でしょうか」

「じゃあですね、ここは涅槃です」

「ねはん」

 理解が追いついていないらしいので、それ以上の説明をやめた。それに、正確にはここは涅槃でもなんでもない。

 たんなる、しの直前。それ以上でもそれ以下でもない。

「そうですか」

 突然、悲しそうな顔。理解が追いついてきたらしい、ようやく自分の状態が呑みこめたのか。

「お悔やみ申し上げます」

「え?」

「まだ、そんなに若いのに」

 私のことを言っているのか。

「わたしですか?」

「ええ。私なんかよりもずっと人生楽しかっただろうに」

 なかなか良い性格をしている。

「わたし、何才に見えます?」

「えっ」

 地雷を踏んだような顔をしている。

「ええと」

 答えてみせろ。

「に、にじゅうに」

「二十二」

 笑った。

 私が。

 二十二とか。

「あ、あの」

「ごめんなさい」

 まだ笑いが止まらない。

「三十一です」

 九つも外している。

 この男性は眼鏡の度が入っていないんじゃないか。銀縁の伊達か。

「うそ」

 男性の顔。

 びっくりしている。

「私よりも年上」

 まあせいぜい二十五というところだろう。筋肉の付き方がまだ若い。

「わたし三十なんですよ」

 あれ。

 けっこういってる。

「若い」

 しまった。思わず口に出してしまった。

「ええ、そちらこそ」

 沈黙。

 意外と近い年齢だったから、急に意識が近寄ってしまった。

「あの」

 男の人が訊いてくる。

「あなたは、どうしてここに」

「私ですか?」

 ちょっと心臓がどきっとした。

 これを知られると、ちょっと恥ずかしい。

「えっと、あの」

「あっ、言いたくなければ大丈夫です全然」

「いえ」

 いいか。

 どうせしぬんだし。

「猫を助けに行ったんですよ」

「ねこ?」

「たまたま、目の前を通りがかった猫が踏切を通り越しちゃって」

 それを助けに行って、たぶん轢かれた。

「そうなんですか」

 男の人。くしゃっとした顔。

「え」

 笑っているのか。

「あっごめんなさい。かわいいなとおもって」

 同性の上司からのセクハラ以外でかわいいと言われたことが無かったので、ちょっと驚いた。

「いやごめんなさい」

 男の人。かわいいと言った自分を恥ずかしがっている。

「かわいいですね」

 それを指摘されて顔が赤らんでいる。小学生か。いや私もかわいいと言われて驚いているから同類かもしれない。

「あなたは、どうして」

「あ、それは知らないほうが」

 知らないほうが?

「気になりますね」

「いやほんと、しょうもないので」

 沈黙。

 喋りはじめると思って待ってみたが、その気配はない。

 沈黙。

「お仕事は何を?」

 男の人。まったく違うことを訊いてきた。どうやら本当にしの理由を話す気がないらしい。

「仕事、ですか」

 説明が難しい。

「そうですね」

 職務を偽る仕事。だから、これといって説明した経験がない。

 まあ、いいか。

 墓場まで持って行かなければならない秘密がけっこうあるけど、もうここまで来れば実質墓場だろう。

公安あんこです」

「えっ」

 いい反応だった。一般人は、公安という言葉そのものに馴染みがない。

こうとりですか、それとも末法まっぽの?」

 意外と話が分かる。もしかしたら、シンジケート系の方なのかもしれない。ここまで来れば、法律の範疇ではないからどうでもいいことだった。職務外。

「末法です」

 ちょっと考える仕草。

「もしかして、女性部署ガールズチームの敏腕猫好きキャットラバーって」

 あれ。

「なぜそれを」

 しまった。口に出てしまった。

「ああ、あっはは」

 今度は、男の人が笑い始めた。

「そうか、そうだったのか」

「あの、あなたは生前なにを」

「ええ、どうしようかなあ」

 何をだ。

「教えてください」

 そこで、終わった。


 目が覚めた。

「あれ、生きてるなぁ」

 全身の重さ。

 身体の各部。いつも通り、繋がっているかどうか確かめていく。

 右腕。左足。右足。左手。首。頭。

 大丈夫。全身繋がっている。

「起きました?」

 隣のベッド。

 おかしい。

 大体個室のはずだ。

 いや、いまは職務外の負傷だから普通の病棟か。

「あっ」

 男の人。隣のベッドにいる。

 ニコッと笑った。

「いやあ、よかったですね。お互い生きてて」

「ごめんなさい状況が呑み込めません」

「内偵先を探してたら、あなたが突然踏切に突っ込んで行ったので、つい。まさかあなたが内偵対象だとは思いませんでした」

 私を助けようとして、しにかけていたのか。

「え、内偵?」

 もしかして。

「ええ。あなたの次の上司です。これからよろしくお願いします猫好きさん」

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