裏切り者と呪われし者

土芥 枝葉

裏切り者と呪われし者

 落ち葉のじゅうたんの上に一糸まとわぬ青年が横たわっている。小柄で細い体には生々しい傷跡やあざが目立つ。このまま放っておかれたなら、その肉体は土に還る運命を免れないだろう。彼の名はグロウという。

 グロウは愛する妹を思い浮かべた。

 こんな山の中でくたばってたまるか。僕が死んだら誰がルィスを救うんだ。

 自らを鼓舞して立ち上がろうと試みるも、腕を動かすことさえ叶わない。まだ日は出ているものの、冷たい秋の風も容赦なく吹きつける。


 ……誰か倒れ……。

 朦朧とする意識の中で、グロウは男の声を聞いた。何人かの足音が近づいてくる。助けを求めようにも声すら出せない。

 ……まだ生きて……。

 グロウは誰かに抱きかかえられた。

 助かった――。

 彼の意識はそこで途切れた。


 目を覚ましたグロウは薄暗い部屋でベッドに寝かされていた。

 目だけ動かして周囲を見ると、壁に掛けられたランプがごつごつした壁や天井を照らしている。部屋というよりは洞穴か何かのようだ。

「ぐっ……」

 体を起こそうとすると痛みが走った。

「目が覚めたかい?」

 男に呼びかけられた。人がいると思っていなかったグロウは驚きつつも、痛みを押して体を起こした。あちこちに包帯が巻いてあり、手当てしてもらったことに気がつく。服も貸してもらったようだ。朧げながら、自分が追い剥ぎに襲われ、誰かに助けられたことを思い出す。

「あの、ありがとうございます」

 とにもかくにも、礼を述べた。

「うん。持ち直して良かった。丸一日寝込んでたからダメかと思ったよ」

 言いながら、男はベッドの側に歩み寄った。穏やかな声同様、顔立ちも上品で賢そうに見える。厚手の上着を着ているので寒いのかもしれない。

「立てそう? 君が目を覚ましたらお頭のところへ連れていくことになってるんだ」

 男の肩を借りてゆっくりと立ち上がる。上着を羽織らせてもらい、支えられながら部屋を出た。

 部屋といってもドアなどの仕切りはなく、横穴が伸びているだけだった。グロウの想像どおりそこは洞窟の中のようで、あちこちに設置されたランプが狭い通路を照らしている。通路には柄の悪い男が何人もいて、グロウたちをじろじろと見つめていた。

 奥の部屋だけは木製のドアが据え付けてあった。連れの男がノックすると中から「入れ」と低い声がした。待っていたのは大柄な髭面の男で、グロウは彼の前に座るよう椅子を勧められた。

「何とか命拾いしたみてえだな」

「はい、おかげさまで。ありがとうございます」

 男の酒臭い息に戸惑いながら、グロウは深々と頭を下げた。

「オレはセヴァーダ。おまえ、名前は?」

「僕はグロウといいます。グロウ・セリオです」

「どこに住んでる? フェシャードか?」

「いえ、ガロアールです。フェシャードで働き口を探そうと出てきたところを、追い剥ぎに襲われたんです。ほとんどお金を持っていませんでしたから、盗られたものはないも同然ですが……」

 フェシャードは多くの物や商人が集まる商業都市で、地方から出稼ぎに来る者も多い。グロウが襲われたのはフェシャードへ向かう山道でのことだった。

「そうか、そいつは運がなかったな。オレの縄張りで追い剥ぎとはいい度胸だ。見つけたらとっちめねえとな。……まあともかく、それなら丁度良かった。おまえ、ここで働くつもりはねえか?」

 グロウにとっては願ってもない申し出だったが、どんな仕事かもわからないのに返事ができるはずがない。おまけに、目の前のセヴァーダを筆頭に、ここにいる人々はどうも堅気の人間とは思えない。答えられないでいると、セヴァーダはグロウのとまどいに気がついたらしかった。

「ああ、オレたちはアレだ。早い話が強盗団だな。だがな、誰彼構わず襲うわけじゃねえ。オレたちが狙うのは汚えやり方で儲けてる商人や、賄賂や不正で私腹を肥やす役人どもさ。まあ、その稼ぎを一般人にばらまくわけじゃねえから、義賊を名乗るつもりはねえけどよ」

 強盗団と聞いてグロウは目を伏せた。いくら金が必要だといっても犯罪に関わるのは気が引ける。

「まともに働くより稼ぎはいいぞ。それは約束する」

 しかし、妹のルィスのために大金を稼がなければならないのも事実だった。たとえ、悪事に手を染めてでも。

「もし嫌だってんなら、悪いが、生かして帰すわけにはいかねえ。顔を見られちまったからな」

 どうやら選択の余地はないようだ。生唾を飲み込み、覚悟を決める。

「助けていただいた命です。あなたに忠誠を誓いましょう」

 グロウは椅子から立ち上がって跪き、頭を下げた。抵抗があるのは間違いないが、セヴァーダに恩義を感じているのも嘘ではなかった。

「そうか! よしよし、まあ、顔を上げて座ってくれ。……それで、何も強盗を手伝ってくれってわけじゃねえんだ。悪いがおまえじゃ戦力にならねえだろうしな。頼みたいのは飯の支度や馬の世話なんかだ。できるか?」

 それを聞いていくらか安心したグロウは、頬を緩めて「はい」と頷いた。

「そういう仕事を任せてた奴が病気でころっと死んじまってな。おまえが入ってくれると助かるぜ。ソージャ、仕事はおまえから教えてやってくれよな。それから、腹が空いてるだろうから、何か食わせてやれ」

 看病してくれた男が返事をした。グロウが立って振り向くと、彼は右手を差し出した。

「ソージャだ。よろしく」

「よろしくお願いします」

 握手を交わし、再びセヴァーダに向き直る。

「あの、セヴァーダさん……」

「グロウ、お頭って呼ぶんだ」

 早速ソージャから指導を受けた。セヴァーダはニヤニヤして気にしていない様子だ。

「あ、すみません……それでお頭、一つお願いがあるんですが」

「なんだ?」

「実は、ガロアールに妹がいるんですが、体を壊してずっと病院に入ってるんです。お金を支払いに行かなければなりませんし、たった一人の家族ですから、たまには顔を見せに行ってやりたいんですが……」

 ガロアールはフェシャードの北方に位置するのどかな田園地帯である。フェシャードからは馬を飛ばせば一時間程度、歩いても一日はかからない。グロウはそこの出身だった。

「ああ、もちろん構わねえ。馬も貸してやるから、時間があればいつでも行ってこい」

 セヴァーダは案外人情家なのかもしれない。グロウは感謝を述べた。

 こうしてグロウは、強盗団セヴァーダ一家の一員となったのだった。


 半年もして暖かくなってくる頃には、グロウもすっかり馴染んでいた。

 その日はソージャと二人、フェシャードの市場まで買い出しに出かけ、情報も集めてきた。街の噂、人々の世間話などから襲撃の目標が選ばれることも少なくはない。情報収集はソージャとグロウに任された重要な任務なのである。

 フェシャードは山間部の商業都市で、南北を結ぶ街道と東西を結ぶ街道が交差する、交通の要衝でもある。中心部にはフェシャード侯が暮らす美しい宮殿の他、大型の商店や立派な宿屋が建ち並び、国内でも指折りの大都市として知られている。

 そうして、光が差すところに必ず闇が存在するように、富を狙う強盗団やごろつきが多数存在していた。セヴァーダ一家はその代表格である。

 門を抜け、郊外へ出た二人は馬車を引き、フェシャードの北側に面するウルソ山脈へと向かった。セヴァーダ一家の隠れ家はその山中にある。整備されていない道の先なので、一般人や憲兵が踏み込んでくることはまずない。

「妹さん、まだよくならないのかい?」

 山に入り、人目を気にする必要がなくなったところでソージャが聞いた。

「うん……そんなに簡単に治るものじゃないんだ」

「若いのに気の毒だな。どんな病気なんだい?」

「それが、病気じゃなくて……」

 グロウは話しても良いか迷いながらも、正直に打ち明けることにした。誰かに聞いてほしいという思いは常にあった。

「ルィスは……妹は、呪われてるんだ」

 遠くで獣の鳴き声がした。どことなく不吉で気味の悪い声だった。

「呪われてる? 一体誰に?」

「僕の父さんが殺した魔術師だよ。……父さんは名うての賞金稼ぎだったんだ。怪物の退治から悪人の生け捕りまで、人が避けるような仕事でも平気でやってのけた。でも、その魔術師には手を出すべきじゃなかった」

 ソージャは黙って聞いている。

「あちこちで悪さをしている魔術師で、強大な魔力を持っていた。父さんは不意を突いて致命傷を負わせたものの、呪いをかけられてしまったんだ。魔術師は息絶え、報酬は手に入れたけど、僕たち家族が失ったものはあまりにも大きかった。父さんはそれ以来生気を失ってしまって……」」

「妹さんまで呪われてしまったってことかい?」

「うん……ルィスは死神の姿が見えるようになってしまったんだ」

 可哀相なルィス。話しながらグロウは胸を痛めた。

「死神、か」

「うん。死期が近づいた人の側には必ず死神がいるらしい。色々な姿をしているけど、どれも恐ろしいものらしくて。おまけに両親も相次いで亡くなって、ルィスは精神が参ってしまったんだ。それで、ガロアールの病院で面倒を見てもらってるってわけさ。母さんの知り合いがやっているところだから、少し負けてもらってるけどね」

「そうだったのか……でも、魔術師が死んだら、その呪いも解けるんじゃないのかい?」

 ソージャのもっともらしい問いに、グロウは首を横に振った。

「残念ながらそうはならなかった。詳しい人によれば、呪いを解くにはその魔術師と同等かそれ以上の魔力を持つ人に頼むしかないんだって。やっとのことで解呪を頼めそうな魔女を見つけたんだけど、随分ふっかけられてさ」

「それで大金が必要ってわけなんだね。いくらくらい?」

「五百万ペタラだって」

 ペタラはこの国の通貨単位で、五百万ペタラあればそれなりの家が一軒建てられる。

「五百万か……それはちょっと気が遠くなるね」

 一回の襲撃でグロウがもらえる分け前は、良くて金貨三枚、つまり三万ペタラである。それより少ないことの方が多いので、五百万も貯めるのは相当な時間がかかりそうだった。

「お頭も気前よく使っちゃう人だし、オレも力になれそうにない。すまないな」

「ソージャが謝ることじゃないよ。気にしないで」


 話している間に二人は隠れ家に着いた。荷物を下ろしてから、早速セヴァーダや幹部たちに集めてきた情報を報告する。

「どうだ、面白そうなネタはあったか?」

 セヴァーダが聞いた。

「はい、近々東の方から宮殿へ、たいそうなお宝が運び込まれてくるとの噂があります。どんなものか、何のためかもわかりませんが」

 ソージャが淀みなく答えた。

「ほう、フェシャード侯か。あの強欲な領主なら、横取りしても罰はあたらねえだろう」

 この辺りを治めるフェシャード侯の評判は決して良いとはいえない。セヴァーダ一家としては恰好の標的であり、過去に幾度か襲撃を行ってきた。とはいえ、警備が厳重な宮殿を襲ったことはさすがにない。

「ソージャ、グロウ、その話、裏をとってくれねえか」

 

 さらなる調査の結果、フェシャード侯のお宝の話は事実だと判明した。運び込まれる日やルートも確度の高い情報を得ることができた。もちろん、セヴァーダは襲撃を決めた。

「例の件、実行するそうだ」

 グロウはソージャからそれを聞いた。グロウは会議に参加させてもらえないが、ソージャは明晰な頭脳を活かして作戦の立案に関わっている。裏方だけでなく、参謀としてもセヴァーダから信頼されているようだった。


 そうして決行の日。出撃したセヴァーダたちを待つ間、グロウとソージャは食事の準備に追われていた。セヴァーダたちが帰ってきたらすぐに宴会が始まるのだ。もちろん、生きて帰ってくれば、の話ではあるが。

「うまくいくかな」

 鍋をかき混ぜながらグロウが聞いた。セヴァーダたちが襲撃に向かう度、グロウは彼らの身を案じていた。

「問題ないよ。護衛の数も少ないようだし、襲撃地点はフェシャードから離れた山道だ。いつもの仕事より簡単なくらいさ」

 ソージャはまるで心配などしていない口ぶりだ。

 支度をしているうちに入り口の方が騒がしくなってきた。もう引き上げてきたようだ。二人はすぐ出迎えに向かう。

「お頭、よくぞご無事で。いかがでしたか?」

「なあに、楽勝だ。ソージャ、おまえの計画どおり、襲撃した場所がよかったな」

「そうですか、それは何よりです。それで、お宝というのは……?」

「ああ、中身はまだ見てねえんだ。おいおまえら、食堂に運べ」

 手下たちの手で木箱が運ばれてきた。大きさの割にはなかなか重そうだ。木箱は食堂の中央に置かれ、団員たちはそれを取り囲むように腰掛けた。宴会の始まりである。

「みんな、ご苦労だったな。早速獲物を見てみようじゃねえか。おい」

 釘を外し、箱が開封された。中から現れたものを見たセヴァーダは目を丸くした。

「……何だこりゃあ?」

 どちらかといえば期待外れという声色だった。床に置かれたのは大きな鉱石のようだった。人の頭よりも二回りほど大きい。

「水晶、ですね。しかもこれは、希少な紫水晶です」

 給仕をしていたソージャが近づき、水晶を確認した。

「希少? いくらくらいになる?」

「そうですね……安く見積もっても、一千万ペタラにはなるでしょう」

 一千万という金額に食堂内がざわめいた。稼ぎとしては上出来だ。

「一千万か。そりゃあいい。早速金に換えるとしよう。おまえらも楽しみにしとけよ!」

 セヴァーダの一言に部下たちは歓声をあげた。

 グロウは愛想笑いを浮かべながら水晶を眺めていた。

 一千万あれば――。

 もちろん言い出せるはずもない。セヴァーダの取り分と組織の資金を差し引き、残りを三十人以上いる団員に分け与えれば、グロウは五万もらえるかどうかだろう。必要な額にはとても届かない。


 その日の宴はいつになく盛り上がり、皆が引き上げたのは夜が明ける頃だった。グロウはソージャと共に近くの川に食器を洗いに行った。

「あの水晶を独り占めしたい。そんな顔をしてたね」

 ソージャに指摘され、グロウはうろたえる。

「隠さなくていいよ。おかしいことじゃないし、君は妹さんのためにお金が必要なんだからね。気持ちはわかる」

「……五百万貯めるのに、あと何年かかるかな。確かに、普通に働くよりはずっと稼ぎがいいんだろうけど」

「妹思いだな、君は」

「ルィスのためなら何だってするさ……」

 春とはいえ、早朝の川の水は冷たかった。


 仕事を終えて束の間の休息をとっていたセヴァーダ一家に、思わぬ知らせが舞い込んだ。偵察から戻った団員によれば、フェシャードの市街地に出入りするすべての門や、フェシャードに通じる街道で警備が強化されているのだという。検問も行われてるらしい。フェシャード侯はどうあっても水晶を取り返すつもりでいるようだ。

「そいつは面倒なことになったな」

 セヴァーダは顔をしかめた。夕食時に報告があったため、グロウを含め、団員のほとんどがそれを知ることとなった。

「フェシャードから持ち出せねえと金に換えるのは難しいんだがな。あんなもの、置いといても何の役にも立ちゃしねえ」

 紫水晶はセヴァーダの部屋に保管してある。興味のない者にとってはただの石ころにすぎないのだろう。

「そうだ、魔術師に頼んで瞬間移動させてもらうってのはどうだ?」

 セヴァーダはさも名案を閃いたように言ったが、すぐにソージャが否定する。

「そんなことができるのはかなり高位の魔術師だけですよ。そんな人に依頼すれば、口止め料も含めて相当足下を見られるでしょうね。稼ぎはほとんど残らないと思った方が良いです」

「そうか……。ううん、どうしたもんか。ソージャ、グロウ、明日街に出たら、どこかに抜け道がなさそうか、探っておいてくれねえか」

 その声からセヴァーダがあまり期待していないのが伝わってきた。


 翌日、街に赴いたグロウとソージャは、想像していたよりもずっと状況が悪いことを思い知らされた。

 まず、フェシャードに出入りするすべての門と街道の途中で厳しい荷物検査が行われていること。そして、奪われた紫水晶は嫁入りする娘のためにフェシャード侯が取り寄せたものだったそうで、彼はひどく腹を立て、絶対に取り戻せと厳命を下したらしい。おまけに犯行はセヴァーダ一家の仕業ではないかという噂も広まっていた。悪名高い強盗団、盗賊団はフェシャードにいくつかあるが、セヴァーダ一家は最も警戒されている組織の一つだった。

「簡単じゃないね」

 ソージャが言った。グロウも頷くしかなかった。

 フェシャードの市街地は周囲を高い石の塀に囲まれており、東西南北に設けられた出入り口には門と見張りが待ち構えている。セヴァーダ一家の隠れ家はその塀の外、北の山中にあるのでそれは問題ない。

 しかし、フェシャード地方は四方を険しい山に囲まれており、街道の他に人馬の通る道はない。その道中にも関所が設けられたということなので、セヴァーダ一家は他の地方に出ることができなくなってしまったのだ。ウルソ山脈に限らず、街道を通らずよそへ行こうとするなら、道のない山中を越えていくしかない。いくら百戦錬磨のセヴァーダたちでも、それはかなりの危険を伴う行為であった。


 塀の外に出て人気のない郊外まで出ると、いつものようにソージャが話しかけてくる。

「グロウ、何かいい案は浮かんだかい?」

「いや、何も。ほとぼりが冷めるまでおとなしくしておいた方がいいんじゃないかな」

「それは違うね」

 ソージャがすぐに異議を唱えた。

「水晶が見つからなければ、しびれを切らしたフェシャード侯は大捜索を始めるだろう。オレたちはただでさえ目をつけられてるんだし、山狩りも行われるはずだ。そうしたら、隠れ家が見つかるのも時間の問題だよ」

「それはまずいね……」

「ああ、まずい。ただ、水晶を持ち出す方法なら考えついたんだ」

「本当に? どうやって?」

 ソージャは応えず、辺りを見回した。

「ねえ、グロウ。五百万ペタラ、ほしくないかい?」

「え……もちろんほしいけど、どういうこと?」

「あの水晶をいただいて、二人で山分けしようってことだよ」

 その部分はことさら小さな声で発せられた。

「持ち逃げするってこと?」

「声が大きいよ」

 ソージャは口に人差し指を当てる。

「芝居を打つなら君が協力してくれたほうがより効果的だし、それに、君もお金が必要だろう? どうかな?」

 提案を受けたグロウは露骨に顔をしかめた。

「そんな顔をしないでくれよ。君を見込んで打ち明けたんだ。一千万くらいお頭たちならすぐに稼げるだろうし。これは、神様がオレたちに与えてくれたチャンスなんだよ」

「君は、そのお金を何に使うの?」

 グロウは訝しげに尋ねた。

「足を洗って、どこかでまっとうな商売でも始めるつもりさ。……もうすぐ隠れ家だ。どうする?」

「……明日、ルィスの見舞いに行ってきて、それから返事をしてもいい?」

「もちろん。……さあ、この話はオレたちの胸にしまっておこう」


 翌日、グロウは馬を借りてガロアールへ里帰りした。噂どおり、道中の検問では厳しい荷物検査が行われ、名前や住処、通行の目的などを根掘り葉掘り聞かれた。あらかじめ考えておいた嘘で何とかやり過ごし、馬を走らせる。

 ルィスのいる病院へは昼前に着いた。森の奥、湖畔に建てられた木造の二階建てだ。グロウは何度も来ているが、いつも美しい風景に心を奪われるのだった。

「お兄ちゃん!」

 寝間着姿のルィスは病室に入ってきたグロウの姿を見つけ、喜びの声をあげた。椅子から立ち上がり、駆け寄って彼に抱きつく。

「元気にしてたかい?」

「うん、平気」

 その言葉に偽りはないようだ。最近は死神の姿を見ていないのだろう。

「あら、いらっしゃい」

 院長夫人のアザレイアが素っ気ない調子で割り込んできた。グロウたちの母の友人で、大柄な女性である。最近は愛想笑いも見せない。

「こんにちは、アザレイアさん。これ、来月の分です」

 グロウはそそくさとルィスの入院費用を手渡した。負けてもらっているとはいえ、毎月の出費は少なくない。アザレイアはその場で袋から金貨三枚を取り出し、確認した。

「まだ宿屋で働いてるの?」

 そういうことにしてある。お金が貯まったらルィスを引き取るとも伝えてあるのだが、それがいつになるのか見当もつかないせいか、アザレイアの態度は決して好意的とはいえなかった。

「どうぞ、ごゆっくり」

 アザレイアは出て行った。

 ルィスは窓から湖を眺めていた。どちらかと言えば狭い部屋だが、個室に入れてもらえるのはありがたい。グロウは彼女の隣に立つ。

「アザレイアさんに冷たくされてない?」

 グロウは尋ねた。悪意があるとまでは言えなくても、アザレイアが彼らを厄介者として見ているのは明らかだった。

「大丈夫。アザレイアさんはいつもあんな調子だけど、すごく私のことを気にかけてくれてるの。だから、心配しないで」

 ルィスが嘘をついているのがわかった。心配をかけまいとしているのだろう。グロウはたまらず、彼女を抱きしめた。なるべく早くここから出してやらなければならない。

「ルィス、もう少しの辛抱だよ。お金が貯まったら呪いを解いてもらって、二人で暮らそう」

「うん……。でも、お兄ちゃんにばかり働かせちゃダメだよね。私も、何か……」

「いや、無理しなくていい。それに、あてがあるんだ。うまくいけば……」

 ルィスは不意に体を離した。眉間にしわを寄せている。

「お兄ちゃん、何か危ないことをしようとしてるんじゃないの?」

 ルィスは昔から鋭いのだ。もうしている、とは口が裂けても言えない。

「大丈夫だ、心配いらない」

「嘘よ! ねえ、お兄ちゃん、お願いだから変な気は起こさないで。お兄ちゃんまでいなくなったら、私、どうすればいいの……」

 ルィスはグロウの胸に顔を埋め、泣き出した。

「落ち着いて、ルィス。僕に死神がついてるかい?」

 ルィスは顔を上げ、首を横に振った。

「じゃあ、大丈夫だろう。僕を信じて」

 もう一度、強く抱きしめた。ルィスは胸の中で何度も頷いた。

 ルィスが落ち着くまで待って、病院を後にする。

 ――死神はついていない。

 グロウは胸の内で何度も復唱し、隠れ家へ馬を走らせた。ソージャに返事をしなければならない。


 夕食後の皿洗い。ソージャと二人きりになったタイミングで、グロウは計画への参加を表明した。

「協力してくれると信じてたよ」

 川のせせらぎだけが響く闇の中、ランタンに照らされた二人は堅い握手を交わした。

「じゃあ、具体的に説明しよう。隠れ家の中じゃ話せないからね」

 ソージャは皿を洗いながら小声で話し始めた。

「まず、水晶を持ち出す方法だけど、あれをワインの樽に沈めようと思ってるんだ」

「ワインの樽? 確かに、大きさも丁度よさそうだけど……」

「大きさだけじゃないさ。赤ワインの樽に沈めれば、ふたを開けたって見えやしない。関所でも、いちいちワインを他の容器に移して確認まではしない。それは昨日、実験済みだからね」

 言われてみれば、門の検査では栓を開けられ、わずかに飲んで確認されたものの、樽の中をさらうようなことはされなかった。それでソージャはすぐに必要でもない樽のワインを買ったのかとグロウは納得した。計画の下調べを兼ねて購入されたものだったのだ。

「その樽を運び出す仕事を、僕たちでやろうってこと?」

「そういうこと。関所さえ抜ければ、そのままおさらばってわけさ」

「でも、そんな大役を僕たちに任せてもらえるかな? 適任者は他にいくらでもいるんじゃない?」

「ところが、それはオレたちにしかできないんだよ」

「どうして?」

 ソージャはもったいぶるように間をおいた。

「お頭はもちろん、団員のほとんどは人相書きが出回ってるんだ。それだけうちの強盗団は有名ってことさ。いくら隠しても、関所では顔を見せろと言われるに決まってる。それはあまりに危険だ。その点、オレたちは顔が割れていないから安心だよ」

 言われてグロウも納得した。襲撃に加わらない自分たちは手配されていないので、フェシャードの街を自由に歩き回ることができる。買い出しや情報収集を任されているのもそのためだ。

 おおよその計画はグロウも把握した。セヴァーダに移送計画を認めてもらう必要があるし、ソージャの思惑どおりに関所を抜けることができるのかもわからないが、それ以上に良い方法は思いつかない。

「明日の会議で提案してみよう。グロウも同席させてもらえるように手配しておくから、オレの言うとおりに動いてほしい」

 戻るまでに段取りを説明された。

「それじゃ、よろしく頼むよ」

 もう後戻りはできない。グロウは腹を据えた。


 ソージャの予告どおり、翌日の会議にはグロウも出席を認められた。

「お頭、水晶を運び出す方法を思いつきました」

「本当か! どうやるんだ?」

 セヴァーダはソージャを信用しきっているらしい。グロウは気の毒に思った。

 ソージャは昨日グロウに語ったのと同様に、ワイン樽に隠して関所を通過する方法を説明した。

「なるほど……それなら、見つかる可能性は低いだろうな。さすがソージャだ」

「念のため、他の酒もできるだけ積んでおいた方がいいでしょうね。酒場を開くために酒を仕入れに来た、とでも言えば怪しまれることもないでしょう」

「よし、わかった。その案でいこう。問題は、誰に任せるかだが……」

「お頭、ここはオレとグロウに任せてもらえませんか?」

「何? おまえらが?」

 セヴァーダは怪しむというよりは、驚いたような顔をしている。

「はい。オレたちは顔が割れてませんから、関所でも特別に警戒されることはないでしょう。それに、いつもお頭や皆さんに危ない橋を渡ってもらってるんです。オレたちもいつか、一家のために力になりたいと思ってたんです」

「お頭、この役目、僕たちにお申し付けください。私は命を救っていただきましたから、その恩返しがしたいんです」

 グロウも続く。台詞はソージャから指示されたものだったが、恩を返したいという思いは確かにあった。もっとも、計画通りに事が運べばセヴァーダを裏切ることになるのだが。

「万が一、水晶が見つかるようなことがあれば、お頭たちは知らんぷりをしてください。水晶強盗の罪はオレたちが被りますから」

「おまえら……」

 セヴァーダは感激したのか、目元をぬぐった。それを見たグロウは罪悪感に苛まれた。

「よし、この一件、おまえらに任せよう! 危険な役目だが、頼むぞ」

「ありがとうございます」

 グロウはソージャに倣って頭を下げた。

「プラナウトの外れにラガルトって男がいる。どんなにヤバいものでも金に換えてくれる、闇の商人ってやつだ。地図と手紙を書いておくから、そいつのところに水晶を持っていくんだ。盗難の噂は国中に広まってるだろうから、あれを買い取ってくれるのはラガルトくらいしかいねえだろう」

 プラナウトはガロアールのさらに北方に位置する、この国の首都である。

「わかりました。金は同じ方法か、あるいは一旦銀行に預けて、何度かにわけて持って帰りましょう。そこそこの金貨ならそれほど疑われることもないでしょうから」

 ソージャの計画に他の幹部も賛成の意を示した。

「それと、水晶が見つからない場合、山狩りを含めて大規模な捜索が行われることが予想されます。この隠れ家はなるべく早めに引き払った方がいいかもしれません」

「言われてみりゃ、そのとおりだな。ここは気に入ってるんだが別の場所も探っておこう。いつ憲兵が来るかもわからん」

「ええ。それとお頭、もう一つお願いがあります」

「ん、何だ?」

「秘蔵のパルセイラを一本、わけてもらえませんか」

「パルセイラだと……?」

 セヴァーダは若干の不満を示した。パルセイラは赤ワインの銘柄で、うまいと評判だが生産数が極めて少ないため、かなりの高値で取引されている。以前の襲撃で手に入れたもので、皆で楽しんだ後、最後の数本をセヴァーダが大切に保管しているのだ。

「はい。なるべく持って帰るつもりでいますが、もしもの場合、関所での賄賂に使わせてもらいます」

「うーん、それなら仕方ないな……。わかった、用意しておこう」

「ありがとうございます。明日にでも出発しようと思います」

「ああ、任せた。おまえらみたいな仲間がいてくれて、オレは本当に嬉しいぞ」

 セヴァーダに肩を叩いて激励された。グロウは彼と目を合わせることができなかった。


「第一段階はうまくいったね。後は、無事に関所を通過できればいい」

 翌日の出発を前に、グロウたちは闇夜の中、川で食器を洗っていた。

「うまくいくかな」

「そんな弱気じゃ困るよ。堂々としてもらわないと、兵士に怪しまれる」

 ソージャの言うことはもっともだった。ただ、グロウは計画の成否よりも、セヴァーダを裏切ることを気にしていた。ルィスのためとはいえ、彼らがやろうとしているのは恩を仇で返すことに他ならない。

「ねえ、ソージャ、家族はいないの?」

 しばらく無言で皿を洗ってから、グロウが尋ねた。何となく聞きづらく、今まで言い出せなかったのだ。

「オレはね、小さい頃、捨てられたんだ」

 少し間をおいて返事があった。聞いてはいけないことだったのかもしれない。

「ごめん」

「いや、いいんだ。もう昔のことだし。……だから、オレの家族はどこにいるのか、生きているのかもわからない。物心ついたときにはフェシャードにいたから、出身地がどこなのかも知らない。ソージャって名前が親につけられたのか、オレを拾った男がつけたのかもわからないんだ」

 グロウはソージャを見る目を改めざるを得なかった。上品で頭の切れるソージャは、てっきり恵まれた家に生まれ、高い教育を受けたのだろうと思い込んでいた。実際はグロウと変わらず、過酷な人生を歩んできたようだ。

「拾われたのが商人の家で、そこで奴隷みたいに働かされていたんだけど、金の輸送中にお頭たちに襲われたんだ。子供だったオレは見逃してもらって、そのまま仲間入りしたってわけさ」

「そうだったんだね」

 セヴァーダに拾われたという点ではグロウと変わらないようだ。

「新天地で、うまくいくといいね。ソージャならきっとやれるよ」

「ああ。これでようやく、まともな生活に戻れるよ」

 また、沈黙。

「……関所で万が一という可能性がないわけじゃない。何かやり残したことがあれば、今夜中にやっておいた方がいい」

 ソージャは言った。

 心残りといえばルィスのことだが、今から会いに行く時間はない。もっともグロウは捕まる心配などしていなかった。水晶が発見され捕らえられれば死罪は免れないだろう。しかし、ルィスはグロウに死神がついていないと言った。それはつまり、捕まることはないというお墨付きに他ならないのだ。


 迎えた翌日。団員の手を借り、水晶は赤ワインの樽に沈められた。上からちょっと見ただけではわからない。他の樽や多くの酒瓶に紛れ込ませるように馬車へと載せられる。

「それじゃあ、行ってきます」

 グロウとソージャはわざと古い服を着た。綺麗な服などないが、手持ちの中で一番のぼろを選んだ。ガロアールの田舎で酒場を開くため、フェシャードに酒の仕入れに出てきた、と装うのだ。なるべく野暮ったく見えた方が良い。

「しっかりな」

 セヴァーダが見送りに出てくれた。

「はい。なるべく早く戻ってきます」

 ソージャは応え、馬を引いて歩き出した。グロウは胸の内で仲間たちに謝りながら彼に続いた。

 関所でのやりとりを想定し、歩きながら練習を行う。しくじることはないとわかっていても、グロウはだんだんと緊張してきた。

「オレが喋るから、グロウは調子を合わせてくれるだけでいい。大丈夫、うまくいくよ」

 ソージャは自信があるようだ。一千万ペタラの価値がある水晶を持ち逃げし、それを隠して関所を通り抜けようというのだから、そのくらい大胆な方が良いのだろう。


 山を下りて街道に入り、しばらく進むと関所が見えてきた。

「勝負所だ。グロウ、頼むよ」

 厳重な荷物検査が行われているせいで、関所付近はかなり渋滞していた。グロウたちの馬車も兵士に誘導され、検査を待つ列に並んだ。

 ソージャは思い出したように列を離れ、関所を通過してフェシャード方面へ向かう商人風の男に何かを手渡した。戻ってきたソージャに尋ねると、「ちょっとした手紙さ」と返ってきた。グロウは感づかれないように顔をしかめた。ソージャが良からぬことを企んでいるのが感じられたのだ。ただ、具体的なことまではわからなかった。

 余計なことは話さず、ソージャは積み荷の確認をしながら、グロウは馬をなだめながら順番を待った。馬の首に虻が止まっていたのを見つけたグロウは、それを捕まえて小袋に入れた。

 それとなく様子を窺うと、積み荷の検査はかなり入念に行われているようだ。農民風の男は袋に入った小麦粉をたらいに広げ、中身をあらためられている。

 かなり待たされた後、ようやくグロウたちの番になった。鼓動が高まる。

「積み荷を調べさせてもらうぞ」

 三人の兵士たちは返事も聞かずに荷車を調べ始めた。探しているのはもちろん、奪われた水晶だろう。それが目の前にあると知ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。

「こんなに酒を買い込んで、何をしようってんだ?」

 積み荷を調べながら、兵士の一人が訊いた。すかさずソージャが答える。

「はい、ガロアールで酒場を開こうと思って、フェシャードで仕入れてきたんです」

「ふうん。おまえ、ガロアールの人間か?」

「いえ、私はフェシャードの生まれですが、そこの連れがガロアールの出身なんです」

「はい、僕はガロアールから来ました。彼とはフェシャードで意気投合して、一緒に店をやろうという話になりまして……」

 事前の打ち合わせどおり、グロウも調子を合わせた。

「そうか。確かに、おまえはガロアールのなまりが少しあるな。オレもガロアールの出身でな。いつかは故郷で働きたいと思ってるんだ」

 同郷とわかったせいか、その兵士は表情を緩めた。グロウは自分のことを知っていなければ良いがと肝を冷やした。

「よし、あとは樽だな」

 ボトルに関しては簡単な目視だけで確認は終わる。そんな小さなものにあの大きな水晶が入っているはずがない。反対に、水晶を隠すにはもってこいの大きさである樽は、詳しく調べられるべき代物だった。

「この樽の中身は何だ?」

 別の兵士が尋ねた。樽は三つある。

「赤ワインが二つと、白ワインが一つです」

 ソージャの返答は真実だった。その赤の一つに水晶が隠してある。

「面倒だが、たらいに空けて中を調べんとな。おまえたちも手伝ってくれ」

「え、これをたらいに空けるんですか?」

 ソージャはとぼけたように反応したが、グロウは血の気が引いた。樽の中までは確認されないだろうと踏んでいたが、万が一が現実のものとなったのだ。ただ、ソージャはその可能性も排除していなかったようだ。

「ちょっと待ってください。あのたらいには小麦粉がたくさんついています。そんなところにワインを入れたりしたら、ダメになってしまいます」

「そりゃそうだが、こっちも命令でなあ……」

 ソージャの機転を利かせた返しに兵士たちは顔を見合わせた。つけ込む余地はありそうだ。

「それに、早くしないと、ガロアールに着く前に日が暮れてしまいます。もし追い剥ぎにでも襲われたら……」

 ソージャは演技を続け、グロウはどきどきしながらも感心していた。ここまでのやりとりは、大方ソージャが事前に予想していたとおりだったのだ。兵士の中にガロアール出身の者がいるかもしれない、というところまで。樽の中身を空けられそうになるという点は事前の打ち合わせにはなかったが、ソージャの手にかかればこの危機も難なく乗り越えられそうだった。

「栓を開けて、中身を少し確認すればいいんじゃないのか? これだけの酒をダメにするのは、いくら何でも気の毒だ」

 ガロアール出身の兵士が味方してくれる。

「私からも、どうか、お願いします。……そうだ、せっかくですから……」

 ソージャはそこで言葉を止め、鞄の中からワインのボトルを取り出した。セヴァーダが渋々わけてくれた、名酒パルセイラである。

「さっきフェシャードで買った物なんですが、店の人が間違えて入れたらしくて。こんなものを頼んだ憶えはないんですがね……。育ちが悪いもので、ワインの銘柄など知りませんから、うまいかはわかりませんが、よろしかったらお飲みになりませんか?」

 ボトルを受け取った兵士の一人は目を見開き、同僚にラベルを見せた。その男も信じられない、といった表情を隠さなかった。ガロアールの男はワインに疎いのか、特に反応を示さなかった。

「ん……しょうがないな。商売の邪魔をするのも気が引けるから、中身が本当にワインかだけ確認させてもらうぞ」

 こうして、樽にワインが入っていることが確かめられると、グロウたちは通行を許可された。最後までソージャの書いた筋書きから大幅にはみ出すことはなかった。


 二人は関所が見えなくなるまで黙って馬を引いた。

「何とか、切り抜けられたね」

 ソージャは安堵した様子だ。

「心臓が止まるかと思ったよ」

 グロウも同様である。

「何もかも、ソージャの言ったとおりだったね。あの高いワインがなきゃ危なかった」

「ああ。パルセイラは切り札だったんだけど、うまくいってよかった。酒が好きならパルセイラの名前を知らない者はいない。おまけに、一兵卒の稼ぎじゃとても手が出る品じゃないんだ。あの状況で賄賂として、パルセイラほど自然で効果的なものは他にないよ」

 ソージャは気分が良さそうに語った。策士である。

「思ったより時間がかかったけど、日が暮れるまでにはガロアールに着けそうかな? そこで一泊して、プラナウトへは明日到着ってことになるだろう」

 ソージャが尋ねた。グロウはこの道を何度も往復しているので、移動にかかる時間は彼の方がよくわかっている。

「うん、大丈夫だと思う……」

 空は雨が降り出してもおかしくないほどに曇っている。


「お頭たちは、僕たちが裏切ったことを知ったらどう思うだろう」

 しばらく歩いた後、グロウは独り言のように呟いた。

「その心配はないさ。もうすぐ、兵士たちが隠れ家に突入するだろう。逃げられやしない」

 ソージャの言葉を理解しかねたグロウは、先ほど彼が行きずりの商人に手紙を託していたことを思い出した。

「まさか、さっきの手紙って……」

「そうだよ、隠れ家の場所を憲兵に知らせたのさ」

 ソージャは平然と答えた。

「どうして……」

 グロウは怒りで声を荒らげたが、すぐに自制した。

「どうしてって、そうしなきゃ、オレたちの命が危ないだろう? こんなものを持ち逃げしてきたんだから、あの人たちが野放しにされてるうちは、枕を高くして寝られないよ」

 ソージャの言い分は筋の通ったものだったが、グロウはどうしても納得がいかない。

「でも……」

「そりゃあ、悪いとは思うよ。だけど、お頭たちだってこれまで散々人を殺して、不当に金を稼いできたんだ。当然の報いだよ」

 ソージャの声には罪悪感の欠片さえ含まれていなかった。グロウはそちらの方が腹立たしかった。

「僕はあの人たちを売るつもりはなかった」

「うん、それならそれでいい。やったのはオレだから、グロウが気にする必要はないよ」

 気まずい沈黙の中、蹄の音、荷車が軋む音だけが山道に響いた。

 ――ルィスを救うためだ。

 グロウは自らにそう言い聞かせるしかなかった。


「そろそろ休憩にしようか。昼飯を食うのにいい頃合いだし、馬も休ませてやろう」

 もうしばらく歩いたところでソージャが提案した。

「うん……」

「オレ、いい場所を知ってるよ。この先にあるんだ」」

 ソージャの先導で街道から脇の森に入る。道らしい道はないので、誰でも知っている場所ではなさそうだ。

 少し歩いて森を抜けると、そこは見晴らしの良い断崖になっていた。彼方には山々が連なり、崖の下には大きな川が流れている。ひとまず、近くの木に馬を繋いだ。

「良い景色だろ? ここで飯にしよう」

 グロウはソージャをじっと見つめている。表情を変えないように注意しながら。

「どうしたんだ? オレの顔に何かついてるか?」

「いや……何でもないよ。その前に、小便をしてくる」

 グロウは木陰に隠れ、鞄から小さな袋を取り出した。ソージャが昼食の準備をしているのが見える。

 木陰から出てきたグロウは馬の様子を見てから戻った。折りたたみ式のテーブルが広げられ、皿にパンとチーズが盛られている。ソージャはジョッキを差し出した。

「まだ途中だけど、ここまで来たら成功したも同然だ。乾杯といこう」

 木彫りのジョッキに赤ワインがなみなみ注いである。グロウはそれを受け取り、中身を覗き込んだ。底はよく見えない。

「僕はいいよ。もし何かあったときに酔っ払ってるとまずいし」

「大丈夫だよ。グロウはワイン一杯くらいじゃ酔わないだろ?」

 ソージャは強引に勧めてくる。「でも……」とグロウがためらっていると、突然、繋いでいた馬がいなないた。背中の方を気にして暴れている。

「大変だ、水晶が……」

 グロウの言葉を聞いたソージャは慌てた様子で、テーブルにジョッキを置いて駆けだした。グロウも続く。

「どうしたんだ、一体」

 なだめながら調べると、馬の背に虻がとまっていた。噛まれたのかもしれない。ソージャは虻を叩き、地面に落ちたところを靴で踏みつぶした。

「やれやれ、驚いた……。じゃあ、気を取り直して乾杯だ」

 戻って、再びジョッキを持つ。しかし、グロウは中身を覗き込むばかりで、一向に口をつけない。

「どうしたんだよ。グロウらしくないじゃないか」

 グロウがワイン好きなのはソージャも知っていた。

「飲みたくないんだ……」

「どうして? 大丈夫だよ、毒なんか入っちゃいない。ほら」

 ソージャはごくごくとワインを飲んだ。

「うん、うまい。さあ、グロウも飲み……えっ」

 ソージャの手からジョッキが滑り落ちた。彼の顔はみるみる真っ青になり、膝から崩れ落ちたかと思うと、必死に吐こうとするようにげえげえ言い始めた。そして彼が吐き出したのは、赤ワインというよりはどす黒い血のように見えた。

「ど……どうして……」

 ソージャは驚きと憎しみが入り交じった目でグロウを睨みつけた。

「君が馬に駆け寄った隙に、ジョッキをすり替えたんだ」

 グロウは後ろめたそうに、目をそらして答えた。

「オレが毒を盛ったと、気づいて、いたのか……」

「……僕は人の悪意が見えるんだ。悪意を持った人間には黒い霧がつきまとう。……呪われてるんだよ、僕も」

「馬鹿な……」

 ソージャは耐えきれなくなったのか、倒れて転がり、仰向けになった。

「そんな力があれば、金を稼ぐ方法なんて、いくらでもあっただろうに……」

「……そんな便利なものじゃないんだ。苦しいだけさ。君なら、この世の中の人間がどれほど悪意に満ちているか、知ってるだろう?」

 ソージャは答える代わりに、ぜえぜえと苦しそうに呼吸した。

「君の魂胆は計画を持ちかけられたときから気づいていた。でも、君が言ったとおり、僕も金が必要だった。何とか思いとどまってくれればと思ってたけど……。僕はまだ、死ぬわけにはいかないんだ」

「……甘く見てたよ。君が、金のために、オレを殺すなんて、思いもしなかった」

「言ったはずだよ、ルィスのためなら何でもするって……」

 風が二人の髪をなびかせた。

「それに、お頭は僕たちを疑ってなんかいなかった。僕たちを信頼してくれていたんだ。それなのに……」

 グロウもセヴァーダを裏切ったことには変わりないが、売り渡すつもりなどまるでなかった。ソージャの悪意に気づきながらも、彼がセヴァーダを亡き者にしようとしていることまでは見抜けなかったのだ。

「君の勝ちだ。水晶は好きにすればいい。……ちくしょう、ちくしょう」

 ソージャは涙を流し、激しく咳き込んで血を吐き出した後、動かなくなった。

「……ごめんよ、ソージャ」

 グロウはソージャの亡骸を引きずり、転がして崖から落とした。やがて大きな水しぶきが上がる。

「一千万ペタラあれば、ルィスも僕も呪いを解いてもらえるだろう。大切に使わせてもらうよ」

 崖下に向かって呟き、立ち上がった。踵を返し、まだ休みたそうな馬を木から外す。

 ルィスのためなら何だってする。後悔なんかしない――。

 雲間から陽の光が差し込んできた。グロウは馬を引き、歩き始める。

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裏切り者と呪われし者 土芥 枝葉 @1430352

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