6.ホルモン焼きです、中佐殿
勤務終了、定時のラッパが基地中に響き渡る。
本日は残務なしで帰れそうで、兄貴達も手早くデスクを片づけて帰ろうとしている。
でも城戸中佐は、まだノートパソコンのデータを睨んだまま帰ろうとしない。
「中佐、お手伝いありますか」
気遣った塚田少佐が尋ねたが、城戸中佐は首を振った。
「いいよ。たいしたことないから。それより、早く帰れる日に家族サービスしておけよ」
そこは塚田少佐も弱いらしい。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。お先に失礼いたします」
片づけが終わった心優も、塚田少佐と一緒に礼をして出て行こうとした。
「あ、園田は残って欲しい。話がある」
一人だけ居残りさせられる。しかも中佐殿直々からのお話? なんだろうと、心優は緊張してきた。塚田少佐も、自分は帰されて新人が残されることを知って間に入ってくる。
「どのようなお話ですか。園田に落ち度があるなら、教育係である私の責任です。私に直接……」
「いや、違う。ミセス准将の話」
それだけで、塚田少佐がハッとした顔になった。
「わかりました。では……。園田をよろしくお願いいたします」
塚田少佐は心優を置いて、秘書室を出て行ってしまった。
お互いにデスクに座ったまま、秘書室が静かになる。
また……。ミセス准将の話とはなんなのだろう。そのひと言で塚田少佐が、心優と中佐を二人きりにして帰ってしまうような話とはなんなのだろう。
「少し、待っていてくれ」
「はい」
データを見ていた中佐が、今度はキーボードをパチパチと打ち始める。
大きな手、太くて長い指。パイロットの手。そう思いながら、彼の指先にみとれてしまっていた。
そのうちに、キーボードを叩きながら、中佐がおかしそうに笑い出した。
「なんだよ。なんでそんなにジッと見ているんだよ。緊張するだろう」
見つめていたことに気付かれていて、心優の頬は熱くなる。
「えっと、その指が操縦桿を握っていたのかなって……」
彼に現役時代を思い出させることはタブーだと解っていても、心優は正直に答えていた。
そして、城戸中佐も嫌な顔は見せなかった。ただ、ちょっと致し方ない笑みを滲ませて、キーボードから手を離した。
「そうだよ。パイロット候補生から十数年、毎日、空を飛んでいた」
懐かしむように彼が手を開いて見つめている。そのうちに中佐はデスクから立ち上がり、心優の隣にある塚田少佐の席へと座ってしまう。
近くに中佐が来て、心優はドキドキしはじめる。すぐそこに、あの綺麗な目がある。職務の時に見せている冷たい目ではなくて、柔らかに溶けた水面のような黒目で心優へと手を差し出してくれる。
「いまでも感触が残っている。Gの中、握っていた感触だ」
いま男性の手にしか見えないけれど、そう教えてもらうとグローブをして操縦桿を握っていた映像が鮮明に浮かんでしまう。
「すごい。Gがかかると、それだけ強く握りしめることがあるってことですね」
「うん。スクランブル出動で領空境界エリアまで飛ぶ実務より、訓練のほうが過酷な状況を要求をされる。ドッグファイトの演習の時は、同僚の機体を敵機とみなして迎撃の訓練をするんだ。互いにロックオンをされないために、激しい上下飛行をする。上空から海上への急降下、海上から上空への急上昇。その時に7Gぐらいかかる。それぐらいの負荷で旋回をすると、操縦桿がものすごく重い」
心優は知ってしまう。やはりこの人の心は、まだコックピットにある。パイロットの気持ちになると、こんなに生き生きと話してくれる。でも秘書官である時は、その気持ちに重い蓋をしているのだと感じた。
「苦しくないのですか、そんな厳しい訓練を毎日、身体を酷使して」
「苦しいよ。でも、辞めたいだなんて……。俺だけじゃない。コックピットにいる男達は思ったとしても本心じゃない。次の日も、シートに座ったらベルトを締めて、酸素マスクを装着している。できれば自分が座っているシートは誰にも譲りたくない。一握りの男しか飛ぶことが許されない、そんな仕事だとわかっているからだ」
パイロットのプライドを、見た気がした。
そして中佐は、黙り込んでしまった。それでも自分の手を見つめて、いつになく穏やかな横顔。
その中佐が急に顔をあげ、心優を見る。さらに心優はドキドキ。頬なんてずうっと熱い。
「園田の大学時代の試合、見たよ。すごくかっこよかったな」
「はあ……。よく男前だっていわれていました」
「準決勝だったかな。自分より上位の選手に向かっていこうとする目が怖かった。いい意味で。俺は国防で領空の向こうを見ていた、園田は世界を見据えていた。そんな目に期待していた。それが半年前から、仕事の中で生きている。そうなってくれて、嬉しかったよ」
今度は心優が黙り込む。
そんなに褒めてくれて、嬉しくて。諦めなくて良かった、乗り越えて良かったと思えた瞬間。半年の間に胸を傷めたこともあったけれど、もう忘れてもいいくらい。中佐殿がいう『次の日のは忘れて、コックピットにいる』気持ちは、こんな気持ちと一緒なのかもしれないと初めて思えた。
「雰囲気も、急に可愛くなったよな」
可愛い――と言われてもうちょっとでぼうっとなりそうになったけれど、そこで中佐がまた笑い出す。そして心優も居たたまれない気持ちになって俯いてしまう。
「メイクなんて本当に必要ないと思っていたんですけれど、秘書室はお客様がいらっしゃるから」
「別にあのままでも良かったんだよ。俺も体育会系だから、秘書官になる前は汗まみれのそのままで過ごしていたぐらいだ」
「でも。秘書官になられたから、中佐も身だしなみを整えるようになられたんですよね」
ふんわり香るメンズトワレの匂いとか。きちんと整えられた爽やかな大人のヘアカットとか。それはもう現場の男ではなくて、オフィスで小綺麗にしている大人のビジネスマンだった。
「そうだな、秘書官になると意識せざる得ないよな。でも、強要は違うと思ったんだ。俺もそうだった。自分が望んでやるから身に付くだろう」
『はい』と心優も頷く。人から例え上官でも『女らしくないからやれ』とか『恥ずかしいから整えろ』なんて高圧的にいわれていたら、今まで以上に拒絶反応を起こしていたと思う。
「俺だけじゃないよ、秘書室の兄貴に親父達がさ、みーんな、園田の変化にヤキモキしていたわけ」
「え、なんですか。それ」
心優の変化に周りの先輩達が気がついていて、でも、そんな素振りなんて誰も見せなかった。心優が慣れないメイクに必死になっていても気にならないのかと思っていた。
でも中佐はさらにクスリと笑う。そんな笑って澄ましている中佐に油断していたら、彼が急に心優の顔を覗き込んできたのでドキリと硬直する。
「これ」
「えっ」
操縦桿を握っていたという男らしい指先が、ぴんと、なにげなく心優のまつげを弾いた。
さりげなく、しかもあたりまえのように……。彼の指が触れたので、そのまま心優は動けなくなる。
まさか、まさか。いままで仕事中は誰も寄せ付けないほどの隙をみせなかった中佐から、ふっと心優の隙に入り込んでいる。彼がわたしに触った!
それは急に、キスをされたかのような甘い一瞬。
「睫毛にカール。この頃から、秘書室の兄貴達は『ソノちゃんが、急に可愛くなった』と騒ぎ始めたんだよ」
「えー、ソノちゃんってなんですか!?」
聞いたこともない兄貴達からの愛称にびっくりしてしまう。
「仕事中は言えないけれど、兄貴達の間ではそう呼ばれているよ。もうその目のメイク、最初はすごい下手だったよな」
『う~、それ言わないでください』と、心優は顔を覆う。メイクの最難関だったのはアイメイクだった。もうここまでしなくていいかと、投げ出したくなったのは確か。
「最初、ちょっと不慣れなところも、男達は気にしていたよ。雰囲気が変わったけれど、まだおかしい。今日は睫毛が折れていた。目元にマスカラ?ていうのか? その液を目元に落としたのか、無理に拭った黒い筋の跡があったとか。誰か嫁さんに教えてあげるように頼めよ――とか言い出してさ。そのうちに上達して綺麗になった頃にはもう、兄貴達も『よく頑張った』と笑って安心していたよ」
今度は違う意味で、心優の身体中が熱くなる。そんなに皆さんに観察されていたなんて、心優はまったく気が付いていなかった。
「まったく。未だにボサ子という奴らの気が知れない。もうボサ子じゃない。うちの立派な秘書官だ」
涙が出そうになった。にこにこしていても、目は冷徹で甘いことなどいっさい言ってくれなかった上司からの言葉。不安に過ごしてきた日々が報われる思い。
「わたし。いままで空手しかないと思っていたので、事務官になってもなんとなくその日が早く終わればいいな……、ぐらいの仕事しかしてこなかったんです」
「うん、わかるよ。俺も怪我で仕方なくコックピットから離れることになって、急に事務官に転向したわけだけれど、なんか、気が乗らないっていうか」
「ですよね」
「そうだよ」
二人でつい顔を付き合わせてしまう。一心不乱、目指しているところはただ一点。それだけの道に全てを投げ打っていた生活を、ある日突然失う。同じ気持ちを持つ同士。でも……。
「でも、城戸中佐は将軍付きの秘書室、秘書室長になるまでに努力されたのでしょう。わたしは……こうしてエンジンがかかるまで、もう何年かかったか」
「いや。俺はまだエンジンなんかかかっていない」
彼が不満げに眼差しを伏せる。
え? ここまで事務官として上りつめたのに? すっかりエンジン全開でここまで来たんじゃないの? 意外な返答に心優はしっくりしなくて落ち着かない。
「でも、秘書室長ですよ。父も言っていました。将軍付きの秘書室は、一個中隊分の部隊に匹敵する、機密性が高く、上官を支える重要な部署だと言っていました」
「ここまでこられたのは、こんな俺を重宝してくれた長沼隊長のおかげでもあることが大きいだけ。なによりも、パイロットの役に立つなら、陸から護りたいという気持ちは本当だ。それだけのことだ」
立派じゃないですか。ご自分は足を痛めてコックピットを降りても、現役で空を飛ぶ後輩達のことを護ろうと陸の業務を徹底的にこなしてきたのに。
そんな心優の言いたいことも彼は解っているようで、らしくな沈んだ眼差しのまま続けた。
「まだ、なんにも変わっていないんだよ。だから、エンジンのスイッチを入れられた園田はすごいと思っている」
そんな。何年も適当に日々を流してきたわたしとは全然違いますよ! そうして彼の功績を絶賛したいと力んだ時だった。
「なあ。女の子達を連れていく店を探したいから、手伝ってくれ」
心優のデスクにあるノートパソコンの電源を入れられてしまう。ネットのブラウザを立ち上げられ、リサーチするような画面に整えられてしまう。
「え、あの。中佐がわたしにお話があるとのことでしたよね」
せっかく中佐殿と今まで以上にお互いのことを話せたと思ったのに。仕事以外の、彼の気持ちを知れそうな気がしたのに。また向こうから、急に仕事の指示をする上司に戻ってしまい、心優を切り離した気がした。
それに残された理由は、確か、『ミセス准将の話』だったのでは? 彼女のことを自ら話してくれる中佐の気持ちも心優は知りたい。
「あの、ミセス准将のお話とは……」
彼女の名をいうのは中佐の前ではかなり勇気が要る。そんな城戸中佐も、あっという間にいつもの中佐殿の冷めた横顔に戻ってしまった。
「ああ……。うん、なんだか気が滅入った。あの人の話をしようとすると、もっと気が滅入る。またにする」
えー。わざわざあなたが呼び止めるほど重要なお話だと思っていたのに。
でも、彼が現役の話をしてくれた。そして、心優のこの一年を労ってくれた。だから今夜はもうそれだけで。
「調べますね」
「うん、頼んだよ」
デスクに向かい、横須賀から横浜エリアの飲食店をリサーチする。鎌倉も入れておこうかな、と……。中佐が他の女性と、あの愛嬌ある爽やかな顔でいく店を探している。
でも、心優はなんだか笑えてきた。だって、あの『愛嬌ある笑顔』に騙されちゃいけないんだから。そんな自分も半年ほど、あのにこにこ笑顔に騙されていたけれどね――と。
でもそこに彼の痛みを心優は思う。普通の女の子になりたいと思ったことは何度もあった。けれど、実際に怪我で競技から引退することになって『自由になった。これからは普通に遊べる』と喜んだのも束の間。そこはすぐに飽きてしまうなんの魅力もないという絶望を味わうことになった。
きっと城戸中佐も、『空で命の危険から解放されたが、魅力のない日々』を送っているのだろう。
それでも、仕事も女としてもなにもかもを放棄していた心優とは逆に、中佐殿が秘書室長になったのは素晴らしいことだと思う。
「なんだよ、なんか笑っているだろ」
「あ、いえ。中佐のデートのお手伝いをしているなんて、おかしいなって」
「デートじゃねえよ」
あれ、ちょっといつもと感じが違う言い方?
「わかっていますよ。これもお仕事ですよね。彼女達が気分良くお喋りになってくれるところ、探します。あ、でも、わたしみたいな空手家ボサ子のセンスではお手伝いにならないかも?」
今度は中佐が笑う。
「だけど、園田だって憧れている店ぐらいあるだろう。女の子ならさ、フレンチとかイタリアンとかさ。料亭の懐石とかさ。行きたい店があったら、手伝ってくれた御礼に連れて行ってやる。そんな店に行くことも秘書官としての勉強になるはずだ」
「はあ……。ピンときませんね。どれもちまちましたお食事で」
「ちまちま?」
中佐殿が目を丸くした。
「同じちまちまなら、ホルモン焼きの方がいいです。次の日のパワーの出方が……」
わははは!! 急に秘書室いっぱいに笑い声が響いたので、心優はたじろいだ。
「ちまちまって! そりゃ園田が笑うはずだ。ちまちましたもんで、気分がよくなるんだって……? しかも、ホルモン食べたら、次の日のパワーがって……」
わはははは!! また、秘書室に豪快な笑いが響き渡る。
さすがに心優も頬を染めて、俯いてしまう。
うー、だから、最後の最後、わたしは『やっぱり、空手家ボサ子』にしかなれない女ってこと。結局、体育会系女子が染みついている。
「も、もちろん。フレンチもイタリアンも、大好きですよー。でもお腹いっぱいにならないし、力が湧かないんですよー」
「あはははは。わ、わかった。わかった。そ、そんなこと、き、気にするなよ」
「そんなに笑い飛ばされたら、気にしますよ!」
しかも憧れの元パイロットな上司に、こんなに笑い飛ばされて、女の子らしくなってきたこと、可愛くなったとか、現役はかっこよかったとか言われて嬉しかったこと全て台無しになった気分!
でもそこで、城戸中佐の黒い瞳が急にキラッと光った気がした。まっすぐに心優を見定めている目。どこかで見た目、感じた眼差し?
「よし。今日はもう終わりにしよう」
彼が突然、心優からマウスを取り上げる。
「はい、電源落とす」
心優に頼んでいたリサーチの画面も落としてしまい、パソコンをシャットダウン。
塚田少佐のデスクに座り込んでいた中佐も立ち上がり、自分の中佐席の書類を片づけ始めた。
「ホルモン焼きを食べに行こう」
「え!?」
驚いて呆然としている心優を、中佐殿がまたあのキラッとしている黒目でみつめてくる。
あ、わかった。あの目と一緒! コックピットの綺麗な目。そして、甲板から空に飛んでいく時の目と一緒?
「いい店を知っているんだ。俺も急に食べたくなった。ほら、行くぞ」
「あの、でも、リサーチ……」
「ああ、塚田に頼んでおく」
はあ……。では、何のために今日は呼び止められたのだろう?
おかしな残務時間だった。ミセス准将の話は聞けなかったけれど、彼自身から現役の話は聞けた。それに彼がなにか満足した日々を送っていないことも……。わかった。
「ほら、早くしろよ」
「はい」
すっかりその気になって、もう秘書室のドアを閉めようとしている彼の後を心優は追う。
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