Episode 45.「桜吹雪の窓辺で」

 サクラが入院していたのは、中央地区、風紀委員会館のすぐ近くにある、大きな病院だった。私がいた、あの入院棟とは違うんだな、とぼんやり考えながら、ポーターを降りる。


 カレンと話してから、一晩を明かした朝。私の体は驚くほどに軽くなっていた。


 背負っていたものをある程度下ろせたからだろうか。今であれば、彼女とも相対できそうだ。


 受付に立つレプリカントに話せば、すぐに面会は許可された。彼女の病室は、三階の角部屋――奥まったところにある四人部屋を、一人で使っているらしい。


 果たしてそれが、様々なことの真相を知っていたことによる隔離なのか、それとも、風紀委員の特別待遇なのかは知らない。いや、そもそもそんな待遇があるのかどうかも聞いたことがない。


 ともあれ、今、サクラの病室には彼女一人しかいないようだ。


 積もる話もある、他人には聞かれたくない話も、聞かせられない話も、だ。


 好都合――そう、言えるのかもしれない。


「……いや、都合のいいことなんて、一つもないや」


 私は思わず一人呟いて、さらに歩を進めていく。


 何を話すか、どこまで話すか。その境を決めるのは簡単ではなくて、見誤ればきっと、私は破滅へと向かってしまう。


 或いは、そうでなくとも。親友に重いものを抱えさせ、これから先の混迷を生きさせることになってしまう。


 だから、最初の一言が肝心だ。それを間違えてしまえば、私はきっとその先も、彼女の目を見て喋れない。


「……ここだ」


 突き当り、すぐ脇にある扉の前で、私は足を止めた。

 ネームプレートには"ミッドウェー"の文字が躍っている。ごくりと飲み込んだ生唾が、食道に引っかかってズキリと痛んだ。


 扉が、滑らかに開く。病室の中は、私がいたあの入院棟よりも幾分広いように思えた。


 空のベッドが三つ。そして、右奥のひとつだけ、カーテンに閉ざされたベッドがある。


 意を決して、私は近づいていく。薄い布一枚、隔てた先にある気配に、心臓が高鳴るのを感じながら――。


「――何してるの、早く、こっちに来なさい」


 不意に、帷の向こうから聞こえてきた、凛としたアルトは、今まで聞き馴染んできたもので、思わず体が跳ね上がった。


 観念して、私はカーテンを開く。そうして、彼女と対峙する。


 サクラは、ベッドの上で上体を起こしたまま、目を瞑って黙していた。


 細く、しなやかな体はあちこちが包帯に覆われており、中でも、右目のあたりを覆うように巻かれた顔の包帯が、酷く痛々しかった。


「……さ、サクラ。その、あの」


 覚悟はしてきたはずなのに、いざ目の前にすると、なかなか言葉が出てこない。


 詰まる胸と喉。しかし、彼女は私が話し始めるのを待ってくれていた。それに甘えるように、大きな深呼吸を挟んでから。



「――ごめんなさい、私、無茶なことしてた」



 その一言を口にして、私は大きく頭を下げた。


 まずは、"ごめんなさい"だ。一段落したら、ずっと謝ろうと思っていた。ともあれ、これを言わなければ私は、先に進めない。


 謝罪を受けたサクラは、呆れるように息を吐いた。そして、涼やかな左目をこちらに向けて、薄い唇を震わせる。



「……はあ、まったく。シオンに振り回されるのは慣れてるつもりだったけど、今回は流石に、私も堪えたわ」


「ご、ごめん……でも、私……」


「いいわよ。あなたの猪突猛進は、今に始まったことじゃないから。でも、【全身鎧】の件で私の忠告を聞かなかったことは、たっぷりと反省してもらうわ」



 あんなことがあったというのに、いつもの調子でお説教を始めるサクラに、私は少しだけ安堵する。


 まるで、日常に返ってきたかのような――そんな安心感の中で、やはり異質なのは彼女の顔に巻きついた、あの包帯だ。


 フウリンが言っていた。サクラは、片目が弾け飛ぶ大怪我をしたと。つまり、あの包帯の下は――。


「ああ、これ」サクラは、事も無げに。

「潰れたの、私の右目」


 細い五指が、包帯の上をなぞる。しかし、私は冷静ではいられなかった。興奮に声が跳ねるのを、必死に押さえつける。



「フウリンから、聞いたよ。じゃあ、その包帯の下――」


「大丈夫よ。この間、手術が終わって、人工眼球を入れてあるの。"レプリカント"技術が発達したおかげで、本物と変わらないように使える目が移植できたのよ」



 今までと、瞳の色は変わっちゃうけど――と、少しだけ、寂しそうにしながら。


 穏やかな様子で、なんてことないように喋る彼女が強がっていることくらい、私にだってわかった。


 大丈夫なわけがない。私が好きだった、意志の強さを思わせる、黒目の大きな彼女の目は、贋作とすげ替わってしまった。



「……いいのよ。私は、納得してるわ。友達を守るために負った、名誉の傷だもの」


「名誉の傷、なんて……私が、余計なことしなければ、その目も……」


「余計なこと、ね。確かに、それはそうかもしれないわ。でも――」



 彼女の残った左目は、相変わらず強い意志の光を宿している。


 折れず、曲がらず、何よりも真っ直ぐな。彼女の振るうカタナを思わせる、愚直にも思えるような、一貫した強さ。それは決して、失われてなどいなくて。



「――なにもかも、ソーヤのためにやったんでしょ?」



 私は、その言葉に即答できなかった。


 ソーヤのため、であることは間違いない。けれどそれ以上に、自分のために動いたのだから。


 自分のために――多くのものを傷付けたのだから。


「……私、馬鹿だったんだ」


 ぽつり。上手く形にならない言葉を、そのまま続けて。

 

「ソーヤのことで、頭が一杯だった。あいつを手放さないように必死で、他の大事な物、何も見えてなかったの」


 彼女は、ただ優しく頷きながら、私の話を聞いていた。


 いつでも、そうだ。サクラは私の帰るべき場所になってくれていた。どれだけ迷っても、どれだけ拗れても、私は最後に、彼女の下に帰ることができる。


 しかし――それも、今までは、という話だ。


「……シオン、話してくれるわよね。ソーヤのこと、あなたのこと、そして、あの遊園地で一体、何が起こっていたかも」


 私は、考える。


 サクラは風紀委員だ。もし、彼女に迂闊なことを話して、それが学生省側に漏れれば、厄介なことになるのは想像に難くない。


 ソーヤの存在も、【トリカブト】の計画も、何もかもが風紀委員の取り締まり対象だし、情報が漏れることで、立場が無くなる人だっている。


 だから、彼女に話すことはできない――本来ならば。


「――うん、わかった」


 それでも、深く頷いた。


 サクラを信じている。学生省に報告するか否か、風紀委員として動くか否か、彼女であれば、適切な判断をしてくれるに違いない。


 わたしは、左の手首を指差した。銀色に輝く【Helper】が、そこには巻きついている。



「……ここから先の話を聞くなら、【Helper】の電源を落として。そうしたら、話せるから」


「どうして、っていうのも、教えてもらえるの?」


「うん、でも、長い話になるよ。それでもいい?」



 答えはわかっていた。だから、本当なら彼女の言葉を待つ必要もないけれど。


 それでも、待ってしまったのは――親友の振る舞いが帯びる暖かさが、恋しくなってしまったからだ。


「ええ、勿論。全部聞かなきゃ、到底、納得なんてできないもの」


 サクラが、【Helper】の電源を落とす。それを合図に、私は口を開いたのだった。

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