アスール戦記

浮椎吾

序章 世界に触れろ(1)

 炎。


 炎だ。


 炎の中。


 炎が包み。


 炎に弄ばれ。


 炎だけがあり。


 炎で身は焦がれ。


 炎から逃げられず。


 炎のみがここにあり。

 炎は勢いを増すだけで。

 炎を受け入れることしか。

 炎はただひたすらにうねり。




 ――……。






 目を覚ました少年は、ただ目の前に業火が広がるのを見た。


 少年には記憶がなかった。

 自分の名前が《アスール=ファンダル》ということすら、彼は忘れていた。

 動揺はしていなかった。

 忘れていることが多すぎるため、彼は自分が記憶を失っていることを理解できずにいたのだ。

 生まれて間もない赤ん坊がそうであるように、彼はただ茫洋と視線を泳がせている。

 世界が彼に与える刺激を抵抗することなく享受していた。

 このままいると自分の身が危ない――そんな当たり前の危機感すらなく、彼は目の前でうごめく炎に魅了されていた。




(――綺麗だ)




 熱い。痛い。辛い。

 体が告げる様々な危険反応を、少年は自分の中でうまく整理できずにいる。

 それ以上にこみあげてくる、眼前にある真っ赤な情景を美しいと思う情動が、それ以外の感情を生まれるのを阻害していた。

 生物であれば当然の、炎を恐れるという感覚が、彼からは完全に失せていたのだ。


 炎は塵となって、少年の頬をなぞっては消えていく。

 舞い散る細かい火の粉は、さながら草原の上で踊る蛍のようだった。

 勢いを増した火炎が、風に吹かれて揺れる牧草が如く、波を打つ。

 その繰り返しだった。

 何回も爆発を起こし、膨れ上がった炎はそのたびに彼を覆い尽くした。

 火の粉を幾度と浴び、彼の体は、悲鳴にも似た電気信号を彼の脳へ何度も何度も送った。

 しかし、少年はその命令に逆らってその場に居座り続けた。

 ただ目の前の光景を観察し続け、その虜になり続けた。

 ぼんやりと、ただひたすらに。

 誰かが見れば自殺しているようにしか見えないほど、微動だにせず、彼は炎の熱に体を焼かれ続けた。




 少年――アスールに変化を与えたのは、彼の名を呼ぶ誰かの声だった。




 記憶を失っている彼は、もちろん自分の名前が呼ばれたとは理解していなかった。

 アスールが反応したのは、爆発音とは違うその音に、ほんのわずかな興味を持ったからだ。


 彼の名前を呼ぶ声は頭上から響き渡っていた。

 見えない糸に手繰り寄せられるように、彼はすっと頭を上げた。




 ――アスールは、反射的に目を見張った。

 『それ』は、声の主とは違った。声を発していたとしたしたら、距離があまり近すぎた。

 とはいっても、『それ』はアスールが新しく興味を持つには、十分すぎる存在であることには間違いない。

 開き切った瞳孔は、彼とは比較にもならないほど巨大な『それ』を真っ直ぐに捉えていた。




 銀色の巨人が、屹然とアスールを見下ろしていた。


*/*/*


『世界がただ苦しいだけではないことを誰かに教えよう。

 あなたが涙を流そうとしたときに、希望となりえる物語を今語ろう。

 想いを貫くことを難しいと知り、挫けかけたあなたを立ち直らせる物語を与えよう。


 歩き続けるだけで世界は変わるのだと。

 大人があなたに教えそこなった最終定理を、その片鱗だけでもあなたに伝えていこう。』

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