第9話 凍り付く体(2)


 いつもより早めに屋敷に戻ってくる。

 裏出入口の扉を開けて、通路を通って、屋根裏部屋を通って、下に下りて、三階に辿り着く。


(……疲れた)


 早く寝てしまおう。明日はパン屋に行かないと。


(……ん?)


 ぺた、ぺた、と、廊下を歩く足音が前から聞こえてくる。


(げっ。まずい)


 あたしは廊下に置かれた花瓶置きの棚の横に隠れる。


(…………ん?)


 薄暗い中、メニーが歩いている。ネグリジェのまま、上着も着ないで廊下をゆっくりと歩く。どこか、歩き方に違和感がある。


(……ドロシーは?)


 見回すがいない。


(役立たずめ)


 あたしは家具から出る。メニーの後ろから歩く。


「メニー、こんな夜にお散歩?」


 メニーの腕を掴んだ。

 その瞬間、寒さが無くなったあたしの手が、冷たいと感じた。


(え?)


 氷のように冷たい。

 雪のように冷たい。


「メ、メニー? あんた、外にでも出てたの………」


 あたしが言い終える前に、メニーがふらりと、地面に倒れた。


「ひえ!?」


 メニーが倒れたまま、動かなくなる。


「え、え、え?」


 あたしは見回す。


「え、どうしよう。ど、ドロシー!」


 ドロシーはいない。


(役立たず!)


 あたしは慌てて走り出し、扉を叩いた。


「アメリ!」


 出て来ない。


(役立たず!)


「誰か!!」


 大声で叫んだ。


「誰かーーーーーーーーーー!!!!!!」


 叫んで、走ってくる足音が聞こえて、急いでメニーの傍に戻る。様子を先に見ておく。


(あたし、殺して無いわよね!?)


 手首に触れる。脈はある。


(よし、こいつ生きてる! あたしは殺して無いわよ! あたし悪く無いわよ!)


 次だ。顔を覗き込む。メニーの意識は無い。さっきまでぺたぺた歩いていたくせに、瞼は硬く閉ざされている。体を揺らしてみる。反応はない。吐息を立てている。メニーは寝ているようだ。手に触れる。首に触れる。顔に触れる。


(冷たい)


 肌が冷たい。全部冷たい。氷のように冷たい。雪のように冷たい。


(ただの風邪じゃない。どうしたっての…?)


「テリー? テリーなの?」


 薄暗い廊下からクロシェ先生が走ってくる。コートを着たあたしを見て、目を凝らして、倒れたメニーを見て、はっと目を見開き、急いで駆け寄ってきた。


「まあ! メニー! 一体どうしたの!?」

「あの、なんか、急に、倒れて…!」

「テリー、手伝ってくれる? メニーを部屋まで運ぶわ」


 クロシェ先生がメニーを背中に抱え、メニーの部屋に早足で歩く。

 あたしもついていき、言われた通り扉を開けて、クロシェ先生がメニーをベッドへ置いた。ギルエドと使用人達が部屋に入ってくる。


「何の騒ぎですか」

「ギルエドさん」


 クロシェ先生が振り向いた。


「私が来た時には、メニーが倒れておりまして…」

「メニーお嬢様が?」


 ギルエドがメニーを見て、あたしを見下ろして、眉をひそめた。


「……テリーお嬢様、なぜコートなど着ているのですか?」

「寒くて」

「結構。お仕置きは後です。何があったのですか」

「あたし、悪い事してないわ。寒かったのよ」

「なぜブーツに雪がついているのですか?」

「………。あたし、しーらない」

「ギルエドさん、事情は後です」


 クロシェ先生が使用人のルミエールを見た。


「ルミエールさん、お医者様を呼んでください」

「は、はい!」

「暖めないと」


 クロシェ先生が毛布とシーツをメニーに被せ、抱きしめる。


「ああ、なんてこと。なんて冷たいの」


 クロシェ先生の表情が曇る。


「メニー。起きて。聞こえる? メニー」

「何事ですか」


 廊下からママの声が聞こえ、ギルエドが急いで部屋から出る。


「奥様、メニーお嬢様が」

「どうしたの」

「ご様子が変です」

「何があったの」

「あの、それが…」

「お退き」


 ママが無理矢理部屋に入った。ベッドに寝込むメニーを見て、暖めるクロシェ先生を見て、あたしを見て、―――眉をひそめた。


「……テリー、どうしてコートなんて着ているの」

「寒かったの」

「どうしてブーツなんて履いてるの」

「寒かったの」

「雪がついてる」

「魔法使いさんが現れたのよ」

「結構。話は後よ」


 ママがベッドの傍に寄った。クロシェ先生が顔を上げる。


「お医者様を呼んでます」

「結構」


 ママがメニーの頬に触れた。


「メニー、起きなさい」


 メニーは起きない。肌は冷たい。


「メニー」


 ママの呼ぶ声に、メニーは反応しない。


「…………」


 ママがあたしを睨んだ。


「テリー、メニーと何をしていたの」

「何もしてないってば」


 クロシェ先生がメニーの頭を撫でた。ママが続ける。


「今夜はもう寝ると挨拶に来たわね」

「トイレに行くために着替えたの」

「わざわざ着替えるの?」

「寒かったから」

「テリー」

「あたし、何もしてない。悪い事なんてしてないったら。本当よ」

「出てお行き!」


 ママが怒鳴った。


「説教は後よ! 部屋に戻りなさい!」

「ママ! あたし、本当に何もしてないってば!」

「テリーお嬢様」


 ギルエドに肩を掴まれる。


「お部屋に」

「あたしを疑ってるの? あたし、何もしてないのに!」

「お話は後で。さあ、お部屋に」

「ギルエド!」

「さ、お嬢様。お部屋に行きましょう」

「本当よ。あたし、何もしてないわ」

「どちらに行かれていたんですか?」

「確かに外に出たわ。でも何よ。ちょっと家から抜け出しただけじゃない! メニーとは関係無いわ! 本当よ! あたし何も悪くないってば!!」


 言い訳を繰り返すあたしは、ギルエドに引っ張られ、メニーの部屋から追い出される。そのまま部屋に閉じ込められ、何も出来ず、仕方が無く、あたしは着替えて、暖かいベッドで安らかに眠る事にした。


(すやあ)


 眠っていると、無理矢理叩き起こされる。


「どうも初めまして。テリーお嬢様」


 片目には眼帯、口の中の前歯は一本抜けている、変な顔の男があたしのベッドの横に椅子を置いて、どっかり腰を下ろす。


「どうも。医者です。診察に来ましたよ。ちょこっと失礼」

「ふわあ」

「まあ。大きな欠伸だこと。健康そうですな」


 健康なあたしをお医者様が診察する。


「具合は悪くないかね。お嬢様」

「元気です」

「調子はどうだね。お嬢様」

「元気です」

「私は誰だい」

「お医者様」

「ふむふむ。大丈夫そうですな」


 お医者様が聴診器を向けた。


「お嬢様、大変心苦しいのだが、胸を見せていただけるかな? あーん。言っておきましょう。私は小さな女の子を愛でて好む趣味は無い。そこは安心していただきたい」

「はあ」

「やましい事は無いということですわ。おっほん。げほげほっ! かーっ、ごっくん! …はあ。さあ、両胸を見せていただけますかな?」


 あたしはネグリジェを捲り、キャミソールも一緒に捲り、上に持ち上げる。


「ん」

「ふむふむ。結構。実に健康的ですわ」


 お医者様がカルテを書き、鞄に乱暴に突っ込んだ。


「最高にワンダフルに健康で結構です。ご安心を。お嬢様は病気じゃございませんですわ」

「はあ」

「特に害のある菌も無さそうです。ただ、あら、まあ、ちょっとお体が暖かいですね。何なんですか。これ。わお。暖かい。お嬢様は実に健康的だわ。体がこんなに暖かいなんて。まあ、何ですか、これ」

「寝てたから体があったまってるんじゃないですか…?」

「いや、実に興味深い。子供の体は不思議ですわ。こんなに暖まる事がありましょうか」


 椅子を引いて、お医者様が立ち上がる。


「では、テリーお嬢様、お大事に」

「ありがとうございました」


 お医者様があたしの部屋の扉を開けると、ママとギルエドが立っていた。ギルエドが眉を下げた。


「いかがでしょうか。先生」

「ああ、テリーお嬢様はお元気そのものでございます。彼女は何の問題もございませんわ。ただね、いやね、ちょっとね、お隣のお部屋の妹様のメニーお嬢様はねー、ちょっとねー、よくよく診ておきましょうかねー。んふふふ。ああん、でもその前に、お電話をお借り出来ますかな。上司に連絡をしなくてはいけないのよ。これがまた一々面倒でしてな。もう、嫌になっちゃう」


 お医者様がギルエドと共にあたしの部屋から出て行った。ろうそくを持ったママが部屋に入ってくる。


「テリー」

「おはよう。ママ。……ふわあ……」

「こっちにお座り」


 ママがソファーに座る。あたしは欠伸をしながらベッドから抜けて、向かいのソファーに座る。そのタイミングで、扉がノックされた。


「ドリーです」

「お入り」

「奥様、お待たせいたしました」


 あたしの目の前に、プティングが差し出される。


(…朝ご飯?)


 ごくりと、喉が鳴る。


「テリー、正直に言いなさい」


 ママがスプーンを持ち、テーブルを叩いた。


「お前がやった事は、全部分かってます」

「やってない」


 あたしは真実を答える。


「あたし、何もやってない」

「じゃあどうしてコートなんて着ていたの。コートだけじゃない。外出用のドレスも着てた。それも、汚してもいいように用意した普段着用ドレス」

「……ふわあ……」


 ちょっと欠伸。ママの皺が増える。あたしの欠伸が終わる。


「……で、何が言いたいわけ?」

「真夜中にメニーを連れて、どこに行っていたの」

「メニーを連れて行くわけないでしょ」


 あたしは顔をしかめた。


「あの子まだ8歳なのよ。誕生日は近いけど」

「テリー、正直に言えば、このスプーンをあげるわ。ここにあるドリー特製のプティングを食べていいのよ。さあ、正直に言いなさい」

「ええ。正直に話してこの美味しそうなプティングをいただくわ」


 あたしは思いきりテーブルを叩く。プティングが揺れる。


「あたしは、何もやってない!」

「はあ」


 ママがため息をついた。


「外出禁止よ」

「ママ!」

「プティングも没収よ」


 ドリーがプティングを下げた。


「ちょっと! あたしのプティング!」

「正直に話すまで、部屋から出しません」

「正直に言ったじゃない!」

「なぜ貴女を診察させたと思う?」

「何よ。メニーの症状分かったの?」

「原因不明の病よ」


 あたしは黙った。


「テリー、わからないの。治療法もね」


 ママが首を振った。


「お前とメニーがどこかに出かけて、余計なものをもらってきたに決まってる」

「……………」

「テリー、お母様も心苦しいのよ」


 外出禁止よ。


「しばらく、お部屋で大人しくしてなさい」


 揺れるプティングが部屋から出て行く中、あたしは記憶をたどっていく。


(メニーの様子がおかしくなったのはいつだ)


 ここ最近の話だ。


(ここ最近、あたし達は何をしていた)


 共通点として、何をしていた。


 その一、メニーとパン屋に行った。

 その二、メニーにパンを買って与えていた。

 その三、メニーと勉強していた。

 その四、メニーと会話をしていた。

 その五、メニーと出かけた。


 メニーと、小さな大冒険に出かけた。



(あのトンネル……)


 あたしは鏡を思い出す。


(やっぱり、何かあるわね……?)



 あたしが親指の爪を噛むと、プティングを運ぶドリーが部屋から退場した。




(*'ω'*)






 あたしは言われた通り、部屋で大人しくする。たまにギルエドが様子を見に来るが、大人しく本を読んでぼうっとするあたしに、反省の色が見えると判断して部屋から出て行く。そしてあたしは作業に戻る。


(よし、我ながら上出来)


 あたしはぎゅっ、ぎゅっと締め付ける。


(良い感じ。良い感じ)


 部屋から抜け出して客室からこっそりこっそりシーツというシーツを部屋に運んで、作業を続けた。ドロシーがいない中であたしは天才だわ。


(素晴らしい)


 ベッドの足に括り付けて、完成。仕掛けをカーテンで隠す。扉がノックされた。


「テリーお嬢様、晩ご飯でございます」

「ありがとう」

「ドリーがお可哀想にと、大盛りにしてくれましたよ」


 メイドがウインクして、あたしにトレイを渡す。あたしは食事を済ます。


(よし)


 扉の前にトレイを置いておく。これで部屋の中に誰も来ない。


(ま、念のため)


 扉に鍵をかけておく。


「さて」


 あたしは伸びをした。


「行くか」


 あたしはコートを着て、マフラーを巻き付け、結んだポニーテールを揺らす。カーテンを捲った。ベッドの足に括り付けられたいくつもの結んだシーツを、窓に放り投げる。


(これでよし)


 あたしは手袋を頑丈にはめて、シーツを握り締める。


(三階から下りるのは、楽じゃないわね…)


 シーツを握り締め、部屋から出る。


(工場時代は五階から抜け出したっけ…)


 あたしは慣れた手つきで、屋根から屋根へと下りていく。


(よいしょ、よいしょ)


 まるで上手の泥棒みたい。壁を蹴飛ばし、ばれないように、ばれないように、屋根から屋根へ。壁から屋根へ。壁から壁へ。蹴飛ばして、蹴飛ばして、下りて、地面に足をつける。


「ふう」


 シーツから手を離す。


(片付けは、まあ、バレてからでも大丈夫でしょ)


 手袋越しから手をほろって、リュックを背負い直して、てくてく歩いていく。

 いつもよりちょっと早い時間帯。今から行けば、19時には着くだろう。


(ニクスが来る前に調べないと)


 あのトンネル。雪の城。


(もう一度、入念に調べよう)


 てくてく歩く。雪を踏む。あたしは街へ向かう。日は既に沈んでいる。辺りが暗い。あたしはランプをぶら下げた。火が揺れる。消えても大丈夫。マッチが残ってる。あたしはてくてく歩く。雪の国に向かって歩いていく。


(………思い出すわね)


 こんな風に、あたしは抜け出した。


(約束だからって)


 あたしに関心の無い屋敷から抜け出した。ばれはしなかった。誰もあたしの行動に気付く者はいなかった。


(ニクス)


 笑ってるあたしがいた。


(ニクス)


 喜んでいるあたしがいた。


(ニクス)


 楽しんでいるあたしがいた。


(ニクス)


 ブーツを動かして、雪を踏んで、


(ニクス)


 ただ、ニクスに会うために、


(ニクス)


 ただ、ただ、それだけのために、


(ニクス)


 夜に屋敷を抜け出して、


(ニクス)




 ニクスに会いたかったあたしが、確かに存在した。






 雪の国に、辿り着く。



(…………いない)



 誰もいない。とても静かだ。



「……………」



 あたしは氷の上に入る。足を動かせば、するーっと滑っていった。ニクスと滑っているように、滑る。転びはしない。ブーツだもの。滑りはあまりよろしくないから、転ぶことは無い。


「………」


 雪の城の前まで滑り、足を止める。


「………………」


 ランプを持ち上げる。奥までは見えない。


「……………………」


 あたしの足が動き出す。寒さは感じない。ドロシーの魔法のお陰で寒さに強くなった体で、日の落ちた真っ暗な中、雪の城の中へ入っていく。

 歩く。影が動く。

 歩く。影が揺れる。

 歩く。ランプの火が揺れる。

 歩く。耳鳴りがする。

 歩く。あたしは止まらない。

 歩く。奥へ、奥へ、歩いていく。


 行き止まり。


 鏡が一つ、立っている。


「…………………」


(これだ)


 ただ、一つだけ違う。


「……ん?」


 大きな石のようなものが置かれている。あたしはランプを持って近づく。


(……何?)


 近づいてみると、ようやく分かった。パンだ。


「……パン」


 あたしは膝を立て、見てみる。


(ニクスが来たみたいね)


 凍ったパン。まるで氷のパン。流石、雪の王様。凍った食べ物が好きなのかしら。


(パンなんてどうでもいいわ。あたしとメニーが来た時には、パンなんて無かったんだから)


 ランプを当てて辺りを見回してみる。前、右、後ろ、左、また前。何も無い。変なものは無い。あるのは鏡だけ。


「………」


 あたしは鏡に近づく。ゆっくりと近づく。鏡に変なところは特に無い。


(……何も無いはずなのに……)


 メニーとあたしはこのトンネルに来て、この鏡を見て、それですぐに帰った。


(どこで、体に菌が入ったのかしら)


 あたしは鏡を見つめる。


(なんて事の無い鏡)


 鏡がランプの光に反射して光った。


(普通の鏡)


 ランプを持ったあたしがいる。


(ん?)




 プリンセスのあたしが、微笑んでいた。




(え?)


「何驚いてるのよ」


 プリンセス・テリーが笑った。


「あたしはプリンセスになりたかった。ほら、なれたわよ」


 プリンセス・テリーは嬉しそうに笑った。


「どう? あたしはプリンセスよ」


 プリンセス・テリーがにこやかに笑う。


「こうなる事を望んでた」


 美しいドレスが光る。


「願いを叶えてあげたわよ。プリンセス」


 プリンセス・テリーが笑う。


「さあ、次の願いは?」


 プリンセス・テリーが鏡を愛でる。


「プリンセスだけじゃ足りないでしょ?」

「もっと叶えてあげるわ」

「プリンセス、教えて」

「願いは何?」

「願いを叶えてあげる」

「望みは何?」

「望みは全部叶えてあげる」

「分かってるでしょう?」

「さあ、何が欲しい?」

「名誉」

「お金」

「男」

「愛」

「それとも」


 鏡のあたしが笑う。


「リオン様?」


 目が合った直後、あたしの頭が真っ白になる。視界が真っ白になり、何も見えなくなる。そしたら足の力が緩み、手が緩み、重力に耐え切れなくなり、ランプを落とした。ランプが割れる。火が消える。膝をつく。そのまま、倒れた。


 あたしの意識が、薄くなっていく。






 真っ白になる。









































 白い。



 頭の中が、白い。



 何かが、脳の中に入り込もうとしてくる。



(てめえら何よ。誰よ)



 あたしがそう言ったら、何かは驚いたように、慌てて逃げるように、引っ込んでいく。



 逃げていくそれを追わない。



 あたしは見送る。



 興味はない。



 また眠れるなら問題はない。



 ゆっくり眠ろう。



 体が揺れている気がする。



 すごく揺れている。



 ――――――ー!



 叫び声が聞こえた。



 ――――リー!!



 また叫び声が聞こえた。



 ――――テリー!!



 声が聞こえた。





「起きて、テリー!!」




 ――――頬を叩かれた。





「いたっ!」

「テリー!」


 ニクスが、目を見開いたニクスが、焦ったニクスが、あたしの肩を掴んで、がくがくと体を揺らしていた。あたしははっと、目が見開き、ニクスを見る。


「ニクス…?」

「テリー!」


 今までに無いほど必死な表情のニクスが、そこにあった。


「どうして! どうしてここにいるの!」

「…………」

「あれほど近づくなって言ったのに!」

「……、……ニクス…?」


 ぼんやりとする頭で、ぐわんぐわんと鳴り響く頭を押さえた。


「ん…」

「テリー?」

「頭痛い…」

「テリー、話せる? 僕が分かる?」

「頭…ぼんやりして…」

「ああ、もう、ああ…!」


 ニクスが自分の頭を抱えて、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回した。


「ああああああああああああああああああああああああ!!!! もぉおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」


 あたしの手を掴み、引っ張り、一緒に立たせる。


「来て!」

「ん…」


 無理矢理立つと、ふらつく。


「……ん……」

「テリー、早くここから出よう! さあ、早く! 急いで!」


 ニクスがランプのガラスを踏んだ。あたしもガラスの破片を踏んだ。二人で踏むが、気にせず歩き進む。暗いのに、ニクスが慣れているように早足で歩いていく。あたしはついていくだけ。引っ張られるだけ。ふらふらする足が、ニクスに出口まで導かれていく。


「早く!」


 ニクスの声に、悲鳴のような、泣き声が含まれていた気がした。


「テリー、歩いて、早く!」

「…ニクス…」

「お願い、早く、早く!」

「ニクス…?」

「出口、出口! 早く、出口に!!」


 早口で、出口と叫ぶ。

 あたしはぼんやり歩く。

 その中で、目玉が動く。

 ぼうっとする視界に、ニクスが鼻をすする姿が映った。

 ニクスに引っ張られる。

 早足で出口に向かう。

 星が広がる空の下。


 トンネルから抜け出した。


 ニクスがあたしに振り向く。目には涙が溜まっていた。


(あ)


「……っ!」


 ニクスが手を上げて、思いきり振った。ばちんと、あたしの頬を叩いた。


「いたっ!」


 もう一回、叩いてきた。


「いたいっ!」


 もう一回、手を振り上げてきた。


「やめっ!」


 また叩かれる。


「はぶ!」


 叩かれる。


「やめ」


 叩かれる。


「や」


 たたかれ、


「やめろ!!!!!!!」


 ニクスの手を両手で止めた。手を封じたあたしを見て、ニクスがはっと目を見開いた。


「テリー」


 ニクスの手が、とんでもないほど優しく、あたしの頬に触れた。


「ねえ、僕がわかる?」

「何するのよ、ニクス。酷いわ」

「ああ、よかった。テリー、よかった…! テリーだ。ああ、よかった…!!」


 ニクスの瞳から涙が溢れ、ぎゅっとあたしを抱きしめる。腕に力がこめられたあたしは、ぽかんと瞬きをした。


「…ニクス?」

「テリー、なんで、ここ、駄目って、言ったのに」

「ニクス」

「テリー、いけない子。良い子だから言うこと聞いて。もう駄目だよ。絶対入っちゃ駄目だよ。ここは危険なんだ。雪の王様がいるから、危ないって言ったでしょう?」

「でも、ニクス」

「安心して。外は大丈夫だからね。もう大丈夫だよ。だから、もう、もう大丈夫」

「ニクス」

「ああ、よかった…。もう大丈夫だから、ああ、もう。あはは、よかった…。無事でよかった…」


 ニクスがあたしの肩に顔を埋めた。ニクスは泣いている。ほろほろと涙を流している。あたしの肩が、どんどん濡れていく。


「ニクス、どうしたの?」


 そっと、空いてる手で、ニクスの背中を撫でる。


「王様なんて、いないじゃない」

「いるよ」

「いなかった」

「いるよ」

「でもいな」


 ニクスが遮った。


「いるんだってば!!!!!!」


 ぎょっと、あたしの体が強張った。ニクスがはっと息を呑んで、あたしの背中を撫でた。


「ああ! ごめん! 大きな声あげたりして! 鼓膜は破れてない? 耳、大丈夫?」

「それは、大丈夫、だけど…」

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」


 ニクスがあたしの耳に謝った。


「ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね」

「ニクス?」


 あたしはニクスを抱きしめる。ニクスに、優しく声をかける。


「落ち着いて。ニクス。あたしは大丈夫だから」

「ぼぼ、ぼ、僕、おちおおお、おち、つ、落ち着いてる、よ。お、お、お、お、落ち着いてないのは、テリーの方さ」

「あたし?」

「そうだよ。テリーはびっくりし、しし、しちゃったんだ。だから気をうし、失ってたんじゃないか」

「それも気になる。ねえ、あの鏡は何なの?」

「か」


 ニクスが言葉をつまずかせた。


「鏡?」


 ニクスの腕の力が強まった。


「鏡って何?」


 ニクスの笑い声が聞こえた。


「何それ」

「雪の城の奥にあった鏡よ」

「そんなもの無いよ」


 ニクスが引き攣った笑い声をあげた。


「あはは! テリー! 何言ってるの! そんなの無いよ!」

「ニクス」

「鏡なんて無いよ!!」

「ニクス」

「鏡なんて置いて無いよ!!」

「ニクス」

「ここにかかかかかかか鏡なんて、無いよ!!!!!!」


 ニクスがあたしを抱きしめる。


「そんなもの無いよ!!!!」

「ニクス」


 あたしはニクスを抱きしめる。


「なにっ」

「ニクス」


 腕を離さない。


「ニクス」

「………………」


 ニクスを抱きしめる。


「ニクス」


 ニクスがあたしを抱きしめる。体が震えている。あたしのマフラーが、コートが、ニクスの鼻水と涙で、ぐしゃぐしゃに濡れ続ける。


「……………………」

「どうしたの」

「……………………」

「何があったの」

「……………………」

「ニクス、何が起きてるの?」


 ニクスが弱々しく首を振った。


「……言えない……」

「何が言えないの?」

「……言えないんだよ……」

「ニクス」

「テリー、お願い。訊かないで……」

「訊くわ。何度だって」

「僕を許して……」

「許さない。教えて」

「大丈夫。外は安全だから」

「ニクス、教えて」

「外は安全なの。だから、一緒にいられる」

「ニクス、何があったの」

「テリー、約束して、もうお城に入らないで」

「ニクス、それは」

「お願いだよ。雪の王様は気難しい王様だから、近づいたら危ないんだ」

「危ないのは本当に雪の王様?」

「訊かないで…」

「ニクス」

「お願い。訊かないで……」


 ここは雪の国。ここには怖い怖い雪の王様がいる。外では遊んでいいよ。でもお城は危ないから。


「お願いだから、言う事聞いて……」




 ―――地面が揺れる。



「っ」


 ニクスが目を見開く。あたしを抱きしめていた手をあたしから離し、突き飛ばした。


「ぎゃ!」

「駄目!!!!!」


 雪の上に仰向けで倒れるあたしの反対方向からニクスが目隠ししてくる。


「見ないで!!!!!!!」


 揺れる。横に、縦に、変な音がする。ズシン、ズシン、という、変な音。


「だめぇぇぇええええええええええええええええええええええええ!!!!!」


 ニクスが泣き叫んだ。


「いやぁぁあぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!」


 痛々しい悲鳴をあげる。

 どうしてそんなに叫ぶかわからないくらい、叫ぶ。まるで音をあたしに聞かせないように叫ぶ。叫ぶ。悲鳴を、怒鳴り声を、叫んで、ニクスが息を吸い込んで、あたしを目隠しして、あたしの額に、額をくっつけさせた。


「うぅぅぅううううぅううううううううぅぅぅぅぅうううううう!!!!!」


 ニクスの涙があたしの髪の毛に落ちる。

 地面が揺れる。大きく揺れる。しかし、どんどん引いていく。揺れが小さくなっていく。収まっていく。小さくなる。揺れる。まだ揺れている。でも引いていく。


 揺れが止まった。


 ニクスが鼻をすすった。すすって、もう一回すすって、またすする。


「ニクス」


 手をぽんぽん叩く。


「手を退けて」

「駄目」

「もう地震は終わったわ」

「駄目」

「ニクス」

「駄目」

「もう終わったってば」

「駄目」

「ニクス!」


 ニクスが鼻をすすった。


「地震は終わったってば!」

「…………ごめん」


 ニクスがあたしの目から手を離した。


「ごめん」


 ニクスがぐちゃぐちゃの顔を、反対方向からあたしに見せた。


「ごめん…」


 ニクスの額があたしの額にくっついた。


「ごめん」


 ニクスの前髪があたしの目にかかった。


「…ごめん…」

「ニクス、教えて」

「教える事は無いよ。何もね…」


 ニクスが鼻をすする。


「何も……」


 ニクスがはっとした。


「『あー、そうだ!』」

「え?」

「『明日は、良いものを持ってきてあげる!』」


 泣きながら、ニクスが微笑んだ。


「『僕の宝物だよ!』」


 あたしは目を見開いた。


「前に言ったでしょう? 宝箱の中に、僕の一番大切にしている宝物を入れてるって」


 ニクスが涙を流す。だが、再現は既に始まっている。


「『ふふっ! テリーが喜ぶと思うんだ』」

「……。……『み』……『みた』、……『見たい!』」

「『いいよ。持ってくるから、明日もここで遊ぼう』」

「『うん!』」


 胸の鼓動が、早くなっていくのを感じる。この場面を、よく覚えているから。


「『でも、テリー、これで君は共犯だよ。王様に見つからないようにしないといけないから、お城には入っちゃいけない』」

「……。…『あ、そうね』……『じゃあ』……『王様に見つからないように気を付けるわ』」

「『じゃあ、明日ね。約束だよ』」

「『うん。明日ね』


 あたしは固唾を呑んだ。


「『約束』」

「『忘れないでね。テリー』」

「『うん』」

「『指切りげんまん』」


 泣きながら、ニクスが小指をあたしに差し出してきた。あたしは手を差し出す。


「『指切りげんまん』」


 小指同士が、絡み合う。約束を、交わした。


「ニクス」


 じっとニクスを見つめる。


「本当に、来るのね?」


 涙を流すニクスが、笑いながら頷く。


「今、約束したばかりだよ」

「…………。そうね」

「今日は帰ろう。帰ろうよ。テリー」


 ニクスが眉を下げ、唇を震わせた。


「お願い、もう帰ろう…?」

「ええ、帰りましょう」

「…ん…帰ろう…」

「ニクス」


 雨のような涙が降る。


「泣かないで。ニクス」

「………っ………」

「どうして泣くの。ニクス」

「………………」

「ねえ、ニクス」


 貴方は今、


「喜怒哀楽で、どの感情?」

「哀」


 ニクスが手袋で目を擦る。


「哀しい」


 ニクスが涙を手袋で拭く。


「悲しい」


 ニクスの涙が止まらない。


「哀しくて仕方ないよ。テリー」

「どうして?」

「言えないから」

「どうして?」

「言えないんだ」

「どうしても?」

「言えない」

「そう」


 あたしは瞼を閉じた。


「いいわ」


 ニクスの手を握った。


「ねえ、ニクス、少しだけ一緒に星空を見よう」

「帰ろう。テリー」

「五分だけ」


 ニクスの手を握る。


「こっち来て」


 甘い誘惑で、ニクスを誘う。


「一緒に星空を見よう」

「………ん」

「流れ星が見えるかもしれないわ」

「……………」


 ニクスが立ち上がり、あたしの頭から横に移動する。仰向けで倒れたままのあたしの横に、ニクスが寝転がり、一緒に仰向けになる。


 星空が広がる。


「ニクス、あれはテリーっていう星座よね」

「…………」

「あれは、ニクスっていう星座」

「…………」

「星座が隣同士。星も仲良しね」

「…………」

「ニクス」


 星空が光る下で手を握り締める。


「あたし、幸せよ」

「……何が?」

「ニクスと友達になれて幸せよ」


 横目でニクスを見る。潤んだ瞳のニクスがあたしを見た。


「あたし達は、ずっと友達よ」


 ニクスが涙を流す。


「そうでしょう?」

「……うん」


 ニクスの顔が歪む。


「友達だよ」


 ニクスの涙が雪を濡らす。


「大好きだよ。テリー」

「ええ」


 あたしは再現する。


「『あたしもニクスが大好き』」



 約束が守られなかった果てに起きた出来事を、教えて。ニクス。



 流れ星は流れてこない。ただ、星が光るだけ。冷たい風が吹くだけ。ニクスの涙が止まらない。それはまるで輝く銀河のように、流れ続けた。






(*'ω'*)







 ―――――そっと、裏の出入り口の扉を開ける。


「お帰りなさいませ。テリーお嬢様」


 見上げると、ギルエドが仁王立ちしていた。あたしはぽかんと、目を丸くする。


「…貴女の出入りしている場所を、私が存じていないとでも?」

「………」

「来なさい。テリーお嬢様。奥様がお怒りです。シーツを結んで三階から抜け出すなんて、お怪我でもしたらどうするんですか。もう当分外出は禁止だそうです。今後、ミス・クロシェからの宿題は二倍になりますからね。いいですか。お嬢様。…何ですか、そのお顔は。少しは反省なさい」


 むっとしたあたしの可愛い首根っこが掴まれて、そのまま、あたしは引きずられるように部屋に戻されたのだった。





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