第11話 10月25日(3)


あたしは瞼を上げた。

もう雨は止んでいた。

暖かな太陽が公園を照らし、鳥が鳴く声と子供達の笑い声が聞こえる。目の前では、あたしに微笑むレオがいた。あたしの手には、レオの帽子が握られている。


「どこにあったの?」

「……お化け屋敷」

「ああ、やっぱり」


レオが手を伸ばした。


「チョウダイ」

「はい」

「ありがとう」


レオが帽子を受け取り、頭に被った。


「ああ、やっぱり自分のが落ち着くね。ニコラ、借りてたの返すよ。今までありがとう」

「いらない」

「大丈夫。もう自分のがあるから、返すよ」


レオが無理矢理あたしに帽子を被せた。


「んっ!!」

「ほら、かっこいい! 僕とお揃いだ! ……よく似合ってるよ。ふふっ!」

「……」


あたしは黙ってレオを睨んだ。レオは笑っている。


「さ、ニコラ、帽子も無事に戻ってきたところで、情報共有といこう」

「情報共有?」

「ジャックについてだ」


レオがにんまりと微笑む。


「僕、授業中に考えてたんだ。ジャックってお菓子が好きだろ? だから、ニコラの知り合いリストの中の甘党の人を調べれば、自然とジャックに辿り着くんじゃないかと思ってさ」

「……授業中?」

「うん。今日は学校だったから」


あたしはレオを見た。

レオはあたしに微笑んだ。


「だから帽子を探しに行けなかったんだ。助かったよ」

「レオ」


あたしは訊く。


「それ本当?」

「ん?」

「今日、学校だったの?」

「他にどこに行くの?」

「……」

「なんだよ、ニコラってば。さては一人で歩いてて寂しかったんだな?」


くすっとレオが笑った。


「お陰で帽子が帰ってきた。お礼を言うよ。ありがとう。金貨は君にあげる。お兄ちゃんからのお小遣いだ。好きなものでも買うといい」


レオが優しく微笑む。


「悪夢のせいで、ぼーっとする人も増えてる。気を引き締めないと、事故に巻き込まれるかもしれない。ニコラも気をつけて」


さて、


「ニコラ、この間の名前のリストは?」


あたしはリュックから名前の書かれた紙を出した。テーブル台に置く。


「この中から、甘党の人を絞り出すんだ」

「……」

「ニコラ、君の記憶が頼りだ。甘党の人、いる? そうだな。相当な甘党がいい。いる?」


あたしは名前の欄を眺める。


(相当な甘党じゃないけど、お菓子好きならいるわ)


リオンとキッドが。


(……)


あたしの記憶が頼りだ。


(サリアが言ってた。夢の中なら想像すれば何でも実現すると)

(ドロシーがまじないをかけてくれた)

(思い出すまじない)


そのために必要なものは、


(キノコ)


あたしはリュックを見た。なぜかキノコが入ってた。あたしはキノコを持ち上げる。


「ん?」


あたしはレオに差し出した。


「食べる?」

「いらない。キノコは嫌いなんだ」

「そう」


あたしはキノコを食べた。食べながら名前を見る。


「どう? ニコラ、誰かいそう?」


あたしの口の中で、キノコが噛み砕かれる。


「ゆっくりでいい。思い出してみて」


あたしは言われた通り、ゆっくり思い出す。

リオンの行動を思い出す。



――畜生! せっかく一人で城下町回ってたのに! お前のせいで台無しだよ!! 見てみろよ! もう周りの視線が痛い痛い! お前のせいで街の方々の視線がちくちく痛いんだよ! お前が! 僕の! 名前を! 連呼して! 叫ぶから!!

――何を申しますか! 俺は、貴方様を! 心配して! ここまで! このアレキサンダーを走らせたのですよ!



グレタからリオンはよく逃げていた。街を一人で歩き回っていたから。



――言っただろ? 僕は人見知りなんだ。なぜこんなに君をしつこく追いかけたと思う? ここまで話し相手になってくれた子が、初めてだからさ!



リオンは誰にも相手にされなかった。認められなかった――と、彼が言っていた。



――弱虫だって言われてムキになった子が、競争して戻れなくなったんだって。

――説教じゃない。聞いた限り、帽子は一人一点のみと店側が決めている。お金を払う立場とはいえ、ルールは守らないと。

――どうも、第二王子のリオンです。ご説明を。

――駄目! 駄目駄目! 僕、蛇駄目なんだ!

――男ならレディを怖がらせるな! 乱暴じゃない方法でレディが誘いに乗ってくれる技を身に付けてくるまで、この子には近づくな。好きなら出直してこい!!

――すみません。長靴の履いた猫の看板の店を知りませんか。



レオは困ってた人々を助けていた。



――いいか? 狼だって、本当は皆とお友達になりたいのかもしれない。だったら、お腹に石を入れたら可哀想じゃないか。



レオは正義感が人一番強い。そしてかなり不器用だ。



―――ほらね、シャイだろ? くくっ! 可愛いなあ! コリーってば!

―――ニコラ、紹介するよ。昨日も話してた、青い鳥のぴぃちゃんだ。



リオンの相手をするのは動物ばかりだった。



「ヒヒーン!」

「リオン様!」

「リオンさばあああ! なぜ! 一体なぜここに! アレクちゃん! リオン様の位置を辿るんだ!」

「なぜ! 一体なぜここに! なぜこの時間帯にいるんだ!? グレタ、今日は午後まで自室療養だったよな!?」

「そのはずだ! 兄さん!」






ヘンゼの言葉を思い出す。



「なぜ! 一体なぜここに! なぜこの時間帯にいるんだ!? グレタ、今日は午後まで『自室療養』だったよな!?」



あたしは思い出す。キッドとビリーの声を思い出す。



「俺は悪くないよ。あいつが勝手に暴れて癇癪起こしてテリーをどこかに連れて行こうとしたんだ」

「手を出したのはお前じゃないか。お前にも非があるぞ」

「売ってきた喧嘩を買っただけだ。可愛い兄弟喧嘩じゃないか」

「帰りなさい」

「なんで俺が怒られないといけないわけ? 事件を解決したのは俺だよ」

「帰りなさい」

「あいつだって殴ってきた!」

「帰りなさい」

「『おかしい』のはあいつじゃないか!!」



キッドはあたしとリオンを引き離そうとした。

リオンがあたしに近づかないようにしようとした。

何度もリオンのことを知らないだろ、と言われた。

リオンはいらいらしていた。キッドはリオンを殴った。リオンはキッドを殴った。



「君のために言うぞ。リオン様はやめておけ。彼は『重度の病人』だ」



ミックスマックス本店の店長が、そう言っていた。



リオンの精神には異常がある。



それを踏まえて、今までの人たちの会話を、あたしは思い出す。

リオンに対しての会話を、あたしは思い出す。

リオンがあたしとした会話を、あたしは思い出す。

あたしは集中する。

あたしの記憶が頼りだ。

あたしはキノコを食べる。

あたしは思い出す。

10月21日。

リオンとの会話を思い出す。




「ジャックに悪夢を見せられた。その痕がついてるの」


リオンはあたしの話を聞いて、真剣に話を聞き入れ、こう言った。


「必ず見つけよう。僕達二人がいれば、必ずジャックは見つかるさ」


リオンがニッ、と笑った。


「さて、ジャックのことは明日また考えるとして、今日はせっかくのミックスマックスのイベントだ。ニコラ、痣をつけられて辛いだろうけど、元気を出して」








「レオ」



あたしは顔を上げる。レオが真剣な目であたしを見た。



「なんだ? ニコラ」

「質問してもいい?」

「何?」


レオは優しく微笑んで、首を傾げる。


「レオに訊きたいことがあるの」

「僕に?」

「今日は学校で何をしたの?」

「ニコラ、何を言ってるんだ。そんなことより、思い出して」

「緊張して思い出せないの。学校の面白い話して」

「うーん」


レオが腕を組み、眉をひそめた。


「今日は、普通に勉強しただけなんだよな」

「友達と?」

「うん」

「何をしたの?」

「色んなことをしたよ。国語に、数学。社会に、理科」

「あんた、休学してるんじゃないの?」


レオが黙った。あたしを見た。あたしはレオを見た。レオが黙る。あたしは黙る。レオが静かに息を吐いた。


「誰から聞いたの。そんな話」

「暴力事件があったんでしょ」

「誰から聞いたの。そんな話」

「あんたが殴ったって」

「誰から聞いたの。そんな話」

「自室療養の予定だったのに抜け出して、ヘンゼとグレタが捜しに来た。それを、学校が休みだったって、貴方はあたしに言った」

「何の話? それ」

「レオはアイスが好きだった。アイスを見つけては食べてたがってたわ」

「美味しいじゃん。アイス」

「こんなに寒いのに?」

「喉が渇くから」

「夢の中で、ジャックはアイスを差し出した」

「アイスかどうか分からない。覚えてないんだろ?」

「何味だったか分かれば証拠になるわ」

「ニコラ、どうしたの?」


あたしはキノコを食べる。


「それさえ思い出せばいいのよ」


緑の光が鍵の形になる。


「思い出せればいいのよ」


あたしは鍵を錠に挿した。


「思い出せないんだろ?」


錠が取れた。


「ニコラ」


錠が取れた。


「ニコラってば」


錠が落ちた。


「ニコラ」


あたしは扉を開けた。


「やめろ」


あたしは見た。


「ヤメロ」


夢の中のあたしはアイスを叩いて飛ばした。扉を開けたあたしの目の前に、アイスが落ちてくる。


抹茶のアイスが、足元に流れる。




「レオ」



あたしは質問する。



「あたしは、痕がついたって言ったのよ」



包帯を巻いた自分の首に触れる。



「どうして、痣だって分かったの?」

「皆が」


リオンが言った。


「皆に、痣がついていたから」

「皆って? 休学中だったのに、誰がいたの?」

「皆が」

「ねえ、あたしは痕としか言ってないのよ」

「痣がついてた」

「痣だなんて言ってないわ」

「だって痣だろ」

「痕としか言ってないのに」


レオは痣って言ってた。


「あの時、確かに被害はあったわ。でも、学校に行っていたならまだしも、貴方は休学中で、部屋にいて、部下に囲まれた環境で、あたしと歩いて出会った人達、誰も痣なんてついてなかった。その中で、あたしは痕がついたとしか言ってないのよ? 情報は、それしか言ってない」


レオは黙った。


「知ってないと、痣だなんて言えないはずだけど」


レオは黙った。


「レオ、あんたも夢を見てるなら、あるはずよね」


あたしは言った。


「あんたについてる痣、見せて」







レオは黙る。あたしは黙る。

レオは笑う。あたしは黙る。

レオは微笑む。あたしは黙る。

レオは目を見開く。あたしは黙る。

レオは顔を上げた。あたしは黙る。





「ニコラ」





とても素敵な笑顔を浮かべたレオがいる。


「僕を疑ってるの?」


レオが名前の書かれた紙を持つ。


「こんなに知り合いがいるのに」


レオが紙を破った。


「僕一人を疑うの?」


レオが紙を破った。


「僕が君を守ってあげてたのに」


レオが紙を破った。


「僕を疑うの?」


レオが笑った。


「はは」


レオが紙を破った。


「痣?」


レオが笑った。


「痣ねえ?」


レオが紙をぐちゃぐちゃにした。


「どこだっけ?」


レオが紙を投げた。


「くくっ」


レオが目を閉じる。


「ニコラ、帽子ありがとう」


レオが帽子を脱いだ。


「これがないと、落ち着かなくてさ」


レオが帽子を抱きしめた。


「大好きなミックスマックスの帽子だから、取り戻せて嬉しいよ」


レオが目を開いた。


「何? その目」


レオがあたしを見た。


「なんで黙ってるの?」


あ、そうか。


「ニコラは僕と遊びたいんだな? だから、さっきから変なことばかり言うんだ」


いいよ。


「兄妹っていうものは遊ぶものだ」


くくっ。


「いいよ」


レオが立ち上がった。


「ニコラ、遊ぼうか」


あたしの手を掴んだ。


「遊ボウヨ」


あたしの手を握った。


「遊ぼうよ」


あたしはレオを見上げた。


「かくれんぼをしよう。僕が隠れる。ニコラは鬼だよ。くくっ。お兄ちゃんはかくれんぼが上手いんだ。隠れてばかりのキッドの代わりに鬼ばかりやっていたから、隠れられる場所は分かってるんだ」


ニコラが鬼だよ。


「さ、遊ぼうよ」


ニコラが鬼だよ。


「ニコラ」


レオが微笑んだ。


「今夜も夢で会おう」


くくっ。


「ふふっ」


くくく。


「ふふふふふ」


くくくくくくく。


「くひひひひひひひひひひひひ」


くくくくくくくくくくく。


「ひははははははははは、ひゃはははははは、あは、はははは、あはははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」


くくくくくくくくくくくくくくく!!!


「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」



レオが楽しそうに、あたしの手を離し、耳打ちした。






「探してみろよ。お前が鬼だ」













( ˘ω˘ )


(*'ω'*)














あたしは瞼を上げた。

はっと、頭を上げる。


目の間に座っていたはずのレオはいない。


「……」


雨が降っている。


「……」


寒いけど、さっきよりは寒くない。


「……」


あたしは周りを見た。誰もいない。レオもいない。何もいない。


「……んっ」


あたしは唸り、手で頭を押さえた。


(頭痛がする)


頭から手を離した。瞬間、掌を凝視する。


「え」


掌に、赤い字で書かれていた。



『君が鬼』



「……」



触れてみる。ぺたりと、指についた。ペンキじゃない。血のようだった。


(いや)


これ、血だ。


(誰の?)


あたしはもう一度、周りを見た。


「レオ」


レオは、いない。

雨は降り続ける。

太陽は、雲から姿を見せない。


「レオ」


かくれんぼをしているように、太陽は雲に隠れていた。

雨が降り続く。

あたしは一人、ガゼボに残された。


「レオ」


レオは、どこにもいない。






(*'ω'*)







21時。リビング。








受話器からダイヤルの音が聞こえる。がちゃりと受話器を出る音が聞こえる。相手の声が、慎重に、そっと、かけられた。


『……はい』


声を聞いて、あたしは訊く。


「ニクス?」


あたしの声を聞いて、ニクスは大きな呼吸をした。


『テリー?』

「ええ」

『テリーなの?』

「ニクスね?」

『……大丈夫?』

「……ニクス、挨拶が先よ。こんばんは」


挨拶よりも、人を心配する言葉を出せるニクスは、何も変わらない。ニクスは声をひそめた。


『挨拶なんかあとさ。テリー、君も見てるんでしょ?』

「悪夢のこと?」

『この感じ、お父さんの時と似てる』

「そうよ。中毒者の仕業」

『魔法使いさんは、また誰かの弱みにつけこんだんだね』


ニクスが息を吐く。


『おかしいとは思ってたんだ。10月に入ってから、切り裂きジャックの話が異常に流行り出して、悪夢を見た人は痣までついて……』

「ニクスも見てるのね」

『うんと怖いやつをね』

「あたしも見たわ。すごく怖いやつを」

『大丈夫?』

「ニクスは?」

『ふふっ』


ニクスがおかしそうに笑った。


『おじさんとおばさんがね、すごく怖がってて、三人でベッドの中で毎晩歌ってるんだ。ジャックなんか、怖くないって』

「三人で?」

『ふふっ。そうだよ。三人で狭いベッドに潜って、歌ってるんだ。ふふっ。歌ってたらすごく楽しくなるんだよ』

「……楽しそうね」

『ジャックは見つかったの?』

「いいえ」


少し黙って、また口を動かす。


「これから探すの」

『早く見つかることを願ってるよ。こんな悪夢生活、もうまっぴら御免なんだから』

「キッドが城下町から出て、何かしてるみたいなの。リトルルビィも、皆」


多分、悪夢から人々を守ろうとしている。


「……あたしには、『遊ぶ』ことしか出来ないわ」


あたしは瞼を閉じる。


「ニクス、ジャックがいそうな場所ってどこだと思う?」

『……ジャックがいそうな場所?』


ニクスが唸った。


『夢の中だろうね』

「夢の中ね」

『だって、ジャックって人を切り裂くために夢を歩いてるんでしょ』

「……」

『悪夢に彷徨った人を殺すお化けなら、夢の中にいるんじゃない?』


悪夢に彷徨う人を切り裂くおばけ。切り裂きジャック。


『案外、テリーの働くお菓子屋さんにいたりして』

「一理あるわね」

『ちょっと、やめて。冗談だよ』

「ふふっ、馬鹿ね。分かってるわよ」

『もう、またそうやって笑うんだから』


ニクスが笑う。あたしも笑う。

ニクスが黙る。あたしも黙る。


「元気?」

『あまり』

「あたしも」

『仕事はどう?』

「へとへと。接客なんて二度とやりたくない」

『ふふっ。12歳の時のあたしの苦労が分かったか』

「すごいわね。ニクス。それでよくお父様の面倒も見てたわよね」

『あたしもそう思う。よくもバレずにやってたよね』


ニクスが優しい声で言った。


『辛いことはない? 愚痴なら聞くよ』

「……」


辛いことは沢山あった。この25日間、むかつくことだらけ。楽しいことも、嬉しかったこともあったはずなのに、辛かったことや大変だったことがこびりついて離れない。楽しい話をしたいのに、その記憶は薄れていた。


「……」


一つ、ニクスに話したい話題を思い出した。


「あのね」


あたしはぽつりと話し始める。


「あたし、ヴァイオリン弾けるのよ」

『へえ』


ニクスの声が弾んだ。


『ヴァイオリン。わあ、かっこいい』

「でもね」


あたしは顔を俯かせた。


「初めての発表会で、知らない大人に悪口言われて、それがずっと胸に突っかかって、弾かなくなったのよ」

『初めての発表会って、いつ頃?』

「……そうね。あたしが11歳の時だったかな」

『11歳のテリーに、いい大人が悪口を言ったの? それは酷い話』

「お金持ちには多い話よ」

『でも酷い』

「下手くそで、いかれた演奏って言われたわ」

『初めての子供の発表でしょう? なんて酷い奴』

「今ならそう思えるのよね」


でも、そう思えなかった。

そうやって言ってくれる人もいなかった。

あたしは全てを一人で抱えた。


「一人で、悲しくて、ずっと悲しくて、ずっと練習してても、全然上達しているように感じなくて、ずっと下手くそだと思ってやってたら、空しくなって、虚しくて、やめちゃった」

『聴きたいな。それ』

「下手くそよ」

『でも聴きたい』

「きいきいうるさいのよ」

『テリーが弾いてくれるんでしょう? 聴きたいなぁ』


聴かせる前に、ニクスは行方不明になった。


『聴きたいな。テリーのヴァイオリン』


ニクスがわくわくした声を出した。


『ねえ、やらないの?』

「……あのね、迷ってるの」

『やりなよ』

「やって、続けられなかったら? お金と時間の無駄遣いだわ」

『お金と時間は使うためにあるんだよ。テリー』


君はお金持ちの貴族でしょ?


『十分なお金があるなら、やってみたらいいじゃない』

「ニクスはそう思う?」

『あたしがヴァイオリンをやりたくても、環境的に出来ないんだよ。でもテリーは恵まれてる。やれる環境にいるなら、やればいいじゃない』


ニクスがスノウ様と同じことを言った。でもその先を、ニクスはあたしに伝える。


『ねえ、テリー、やりなよ。あたし、テリーがヴァイオリンを弾けるって聞いて、どうしても聴きたくなっちゃった。発表会が怖いならあたしが駆け付けてあげる。どんなに大切なテストがあったって、おじさんとおばさんに頭を下げて駆け付けるよ。それで、悪口をいう輩がいるなら、あたしが怒鳴りつけてやる。じゃあ貴方はこんなに素敵な演奏が出来るんですか! やってごらんなさい! って』 

「……ふふっ」

『あたしは雪で固まったお父さんを相手にしてたんだよ。たかが健康な普通のお金持ちの大人なんて、何も怖くない』

「……そうね。ニクスが経験したことは、誰にでも出来るものじゃないわね」

『そうだよ。命からがらの生活をして、今がある。ジャックも怖くない。……悪夢は怖いけど』

「……そう」


あたしはいつの間にか、口角が上がっていた。


「……ニクスがそう言うなら……」


……。


あたしは瞼を閉じて、静かに呼吸をする。ニクスが息を吸った。


『テリー、迷ってる?』

「かなり」

『ねえ、どうして迷ってるの? やりたくないなら、やらなければいいのに』


あたしは黙った。ニクスが笑った。


『迷ってるってことは、やりたいんじゃないの?』


ニクスがあたしの心を突いた。


『未練があるんだ』


心に、突っかかりがあるんだ。


『テリー、ホラー小説見たことある? ホラー小説の醍醐味、教えてあげる』


未練たっぷりの悪霊を成仏させるために、悪霊の未練を浄化させるんだ。


『そうすれば、悪霊の毒は浄化される』


悪霊は純粋だった頃の、美しい姿を取り戻す。


『そして、清々しい心で、綺麗な姿で、楽園へ旅立つんだ』


とても素敵な話でしょう?


「どうせその後、実は成仏されてませんでしたって、オチでしょ」

『夢がないなぁ、テリーってば。なんでそのオチが付け加えられたと思ってるの? 元々、ホラー小説はハッピーエンドで終わるものだったんだよ。サスペンスだって、オカルトだって、皆が幸せになって、ハッピーエンドで終わるものだったのに、そんなのおかしいと思った、頭の中が不幸な嫌な奴が、スパイスを加えてしまったんだ』


バッドエンド? 違うな。それが現実というものだ。何でもかんでも上手くいくと思ったらお門違い。人は死ぬし裏切る。愛もへったくれもない。男は女を抱くし、女の妬む力は人一倍。それを表現して何が悪い。


『確かに必要でもあると思うけど、そんな後味の悪い作品は願い下げだ。最初に読んだ本が中身のないバッドエンドの物語だったらどう思う? 人が死んで、建物が壊れて、皆が不幸に見舞われて終わる。内容は薄っぺらくて、ただその展開が書きたかっただけ。そんなの読んだら本が嫌いになるよ。バッドエンドなら、なぜそうならなければいけなかったのか、ちゃんと明確に書いてくれないと』


話が逸れたね。


『つまり、何が言いたいか。あたしはテリーの未練がなくなってほしいんだ。テリーの心に突っかかる未練がなくなれば、その分、テリーは今以上に輝けるんでしょう? それって、すごく素敵なことだと思わない?』


そして、


『このジャック騒動がさっさと終わって、中毒者が無事に保護されて、あたしは未練が浄化されてすっきりした元気なテリーと再会したい。それだけなんだ』


ほら、元気を出して。


『テリー、声を聞いた時から思ってたんだけど、君の声、とても沈んでる』

「え?」

『落ち込んでるみたい』

「……何に落ち込んでるって言うのよ」

『さぁ? 何だろう。そこまではあたしにも分からない。だけど、……何だろう。テリーが、どこか、なんでか、なぜか、どうしてか、とても落ち込んでる気がしたんだ』


あたしが再び黙ると、ニクスがくすりと笑った。


『テリー、歌おうよ』

「え?」

『歌ったら元気が出る。ねえ、一緒に歌おうよ』

「今?」

『そうだよ。一緒に歌うんだ』


ニクスが歌い出した。


『ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!』


ニクスが元気に歌う。


『ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!』


ほらほら、どうしたの?


『テリーも一緒に』

「でも」

『まさか、貴族令嬢だから歌えない、なんて馬鹿なこと言わないよね? さぁ、一緒に』


ニクスがあたしの手を引く。

12歳の時のように、あたしの手を引いて、まるで一緒にスケートをして遊ぶように、手を握り合って笑うように、歌い出す。


『ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!』


テリー!


『テリーの番だよ!』


ニクスが笑う。


『歌って!』


テリー!


『さあ、歌って!』

「……ジャ……」


あたしは歌う。


「ジャックなんか、怖くない。怖くないったら怖くない。ジャックなんか怖くない」


ニクスが歌う。


『ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!』


あたしが歌う。


「ジャックなんか、怖くない。怖くないったら怖くない。ジャックなんか怖くない」

『ふふっ!』


ニクスが笑い、また歌った。


『ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!』

「……ふふ」


あたしが笑い、また歌う。


ジャックなんか、怖くない。怖くないったら怖くない。ジャックなんか怖くない。


ニクスが歌う。


ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!


あたしとニクスが歌う。


ジャックなんか、怖くない! 怖くないったら怖くない! ジャックなんか怖くない!


「うふふふ!」

『あははは!』

「ふふ! ニクスったら! ふふ! 本当、馬鹿ね!」

『あたしについてきたテリーも本当に馬鹿だよ!』


あはははは!


『ねえ、頑張れそう?』


ニクスが優しくあたしに声をかける。あたしは静かに頷く。


「……ん。頑張れそう」

『そう』

「明日は大変よ。一日中歩き回らないと」

『へえ』

「隠れんぼをするの」

『隠れんぼ?』

「あたしが鬼で、隠れたお化けを見つけないといけないの」

『面白そう。隠れんぼか。あたし達も遊んだよね』

「遊んだわね」

『あの雪の上で』

「そうね」


あたしは微笑む。


「あんなに寒かったのに、暖かかった」


温かい記憶を思い出す。


「ニクスは覚えてる?」

『覚えてるよ』


ニクスの笑い声が聞こえる。


『君がスケートに怖がってたことも、覚えてるよ』

「それは忘れて」

『ねえ、今年はスケート行くの?』

「行かないわよ」

『キッドさんとデートは?』

「しない」

『しないの?』

「しないわよ」

『本当に?』

「ニクス」


ニクスの楽しそうに笑う声が聞こえてくる。受話器の向こうに、ニクスがいる。

ビリーもキッドも帰ってこない家の中で、あたしも笑う。


今夜も冷たい悪夢を見るだろう。

でも、今は温かい。


胸がぽかぽかして、ニクスのぬくもりが、あたしの胸に伝わる。

温かい。とても、……温かい。


長い間、あたしの手から受話器が離れなかった。








( ˘ω˘ )







「ジャック?」

「どうしたの?」

「なんで隠れてるの?」

「ふふ!」

「へえ、かくれんぼ?」

「妹と?」

「へえ。貴方、妹さんがいるのね」

「私も姉さんがいるの」

「ジャック、妹さんのこと好き?」

「私は姉さんのことが大好きよ」

「……」

「ジャック」

「日曜日のこと、言えなかったわ」

「私」

「駄目ね」

「駄目な子ね」

「ジャック」

「どうしたら伝わるんだろう」

「言葉に出すのが怖いのよ」

「ジャック」

「これこそ恐怖だわ」

「これが本当の恐怖だわ」

「ジャック」

「怖い」

「現実が怖い」



「私はどうしたらいい?」





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