第10話 10月5日(4)


 16時。


 リュックを持って、レジにいた奥さんと売り場で仕事をするカリンに挨拶をする。


「お疲れさまでした」

「はいよ! お疲れ様!」

「お疲れ様ぁ、ニコラちゃん」

「ニコラ」


 奥さんがカウンターから身を乗り出して、あたしに微笑んだ。


「まずは一週間、どうだった?」

「ああ」


 あたしは微笑んで頷く。


「とても勉強になってます。接客とか、品出しも大変ですが、奥さんもカリンさんもいてくれますし、働きやすくて有難いです」

「はっはっはっはっ! お世辞が上手い子だこと!」


 奥さんがあたしの髪をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。


「一緒に働いてる子たちとも上手くやれてるようだし、また来週もよろしく頼むよ」

「はい」

「頑張りましょうねぇ! ニコラちゃん!」


 つるん!


「きゃあ!」


 ずてーーん! とカリンがお菓子の籠を持ったまま、転んだ。お菓子が地面にばら撒かれる。


「いたぁーい……」

「大丈夫かい? カリン」

「平気ですぅ。奥さん」


 にこにこして、カリンが立ち上がる。


「何もない所で転んじゃったぁ。うふふふ!」

「しっかりしてくださいよー! カリンさん!」


 裏から出てきたアリスが声をかけてきた。カリンがてへへと笑って、お菓子を拾う。

 歩いてきたアリスがあたしに顔を向け、ニッ、と微笑んだ。


「今日もお疲れ様、ニコラ!」

「ええ。アリスも」

「まだ一週間って感じしないわね。ふふっ。もう一ヶ月くらい働いてる子みたい!」

「そんなことないわよ。まだ出来ないこと多いし」

「分からないことがあったら、私が教えてあげる! 心配なんてないんだから!」

「ええ、ありがとう」

「じゃあ、アリス」


 奥さんがにやりとして、アリスに訊いた。


「今日のチョコレートの在庫は、いくつくらい残ってるんだい?」

「え、そ、それは、あの、そんな難しいことは、あの、社員さんのお仕事じゃないですか!」

「確認してないんだね。こら!」

「ひえええ! 奥さん! 私ばかり虐めないでくださいよお……!」


 アリスが眉をへこませると、奥さんとカリンが笑った。そこでリトルルビィも裏から出てくる。口をもぐもぐと動かしながら。


「あっ」


 アリスがじっとリトルルビィを見下ろし、指を差した。


「こいつ、なんか食べてる! 奥さん、この子、何か美味しそうなもの食べてます!」

「きっと旦那がケーキを味見させたんだろうね。リトルルビィ、味はどうだい?」


 リトルルビィが親指と人差し指をくっつけて、丸を作った。


「そうかい。じゃ、廃棄になるのを楽しみにしてな」


 くすっと笑って、奥さんがあたし達に微笑んだ。


「じゃあね、三人とも。お疲れ様」

「お疲れさまでした!」


 アリスが声を出し、


「お疲れさまでした」


 あたしが声を出して、


「おふはえははへひは!」


 リトルルビィがもぐもぐさせながら、頭を下げて、一緒に店から出た。アリスがとびっきりの伸びをする。


「わーい! 明日はお休みだーーー! 五連勤が! 終わったぞーーー! 明日はぐだぐだするんだ! 今日学校行けばお休み! ……あ、学校があるんだった」


 アリスが壁に頭をつけて、しゃがみ込んだ。


「あーあ……、遊びたい……。部屋に引きこもりたい……」


 ぶつぶつ呟いて、立ち上がり、あたし達に振り向いた。


「じゃあね! リトルルビィとニコラ! また来週!」

「ええ」

「ひをふへへへ!」

「何言ってるか分からないわよ! リトルルビィ!」


 アリスが笑ってあたし達に手を振り、いつものように駆けていく。

 リトルルビィが口の中のものを飲み込んで、ふにゃりと微笑んで、あたしと一緒に歩き出す。


「はあ、美味しかった」

「何食べてたの?」

「チーズケーキ!」


 ふにゃりと幸せそうに、リトルルビィが微笑んでいる。


(ああ)


 幸せそうな顔。


「ん?」


 リトルルビィがあたしを見上げる。


「なあに?」

「いや? 幸せそうだと思って」

「幸せよ。美味しいもの食べて幸せになったの」

「そうね。確かに美味しいものって幸せになるわよね」


 あたしの気分は、あの二人のおかげで最悪だけどね。


(一日で夫婦両方に会うなんて。あたしも運がない)


「……ねえ、ニコラ」


 ちらっと、リトルルビィがあたしに訊く。


「……あの、メニーのこと、訊いても大丈夫?」

「……仲直りならしたわよ」

「本当?」


 ぱっと、不安そうな顔が笑顔になる。


「良かった。ひとまず、問題は解決したのかな?」

「……ええ」


 問題が解決して、新たな問題が出てきたけど。


(リオンに会うことになるとは、思わなかった)


 あたしの初恋。

 これ以上ない恋をした相手。

 そんなあたしが一方的に好きで、好きになって、ずっと見ていて、リオンしか見えなかったあたしを見ることなく、リオンはメニーを見つけた。


 二人は結婚した。


「……」


 ……二人は結婚した。


「……」


 笑顔のバージンロード。

 人々の歓声。

 プリンセス・メニーの誕生だ。


「……。……。……。……」


 あたしの夢を、メニーが叶えた。

 あたしではなく、メニーが手に入れた。

 あたしではなく、メニーが全てを手に入れた。




 あたしは、死刑になった。




「リトルルビィ」


 隣で歩くお気に入りの少女に声をかける。


「うん? なあに?」


 本来いるはずのない彼女が、あたしに返事をする。一人であるはずのあたしの隣に、その少女がいる。


 あたしの、虚無な心が、少女に言った。


「手、繋いでくれない?」


 リトルルビィがきょとんとする。

 あたしは足を動かす。

 リトルルビィも一緒に歩く。

 あたしは黙る。

 リトルルビィが黙る。

 黙って、

 リトルルビィがあたしに近づく。

 ふらふらするあたしの手を、生身の手で、きゅっと握る。

 ちらっと、横を見ると、リトルルビィが微笑んで、あたしの顔をじいいっと、赤い瞳で見つめていた。


「……これでいい? テリー」

「……」


 頷く。


「……ありがとう」

「ううん」


 リトルルビィが、俯く。


「これくらい、いつだってやってあげる」


 微笑みながら、俯く。


「いつだって、テリーの手、握ってあげる」


 嬉しそうに、微笑む。


「テリー」


 リトルルビィがあたしに笑顔を浮かべる。


「私が傍にいてあげる」

「テリーの隣にいてあげる」

「どんな時だって」

「テリーが苦しくなったら」

「テリーが悲しくなったら」

「私が絶対にテリーの傍にいてあげる」

「テリーが私を受け入れてくれたように」

「私が、テリーの隣に、すぐ近くに、傍にいてあげる!」

「テリー」


 リトルルビィが、ふわりと微笑む。


「大好き」


 リトルルビィの弾んだ声と、温かいぬくもりが手に伝わる。

 そのぬくもりに安心する自分がいる。

 そのぬくもりで記憶を埋め尽くそうとする自分がいる。

 そのぬくもりで虚しさから逃げようとする自分がいる。

 リトルルビィの優しさに甘えようとしている自分がいる。


「……すごい口説き文句ね」


 つい、くすっと笑うと、リトルルビィが首を傾げる。


「テリー、どうして笑うの?」

「それはね、リトルルビィ、あたしの心をあんたが明るく照らしたからよ」

「テリー、どうしてテリーの心が暗かったの?」

「それはね、リトルルビィ、あたしが嫌だなって思った出来事があったからよ」

「テリー、どうして嫌だなって思ったことがあったの?」

「それはね、リトルルビィ」


 その手をきゅっと、あたしも握り返す。


「もういいのよ」


 リトルルビィが手を繋いでくれただけで、


(あたしは嬉しかったからいいの)


 この手が、虚しさを埋めてくれる。


「ねえ、リトルルビィ、あんた、紳士にもそういう素直な言葉、恥ずかしがらずに言うのよ。あんたの言葉で紳士の心はくぎ付けになるわ」

「テリーだけだもん!」

「ニコラ」

「ニコラだけだもん!」

「好きな人が出来たら、ちゃんと教えるのよ。あたしが見極めてあげるから」

「ニコラだけだもん!」

「あんたは大切なあたしの妹分よ。いいこと? ちゃんと教えるのよ」

「……ニコラだけだもん……」


 むうと、リトルルビィがむくれたまま、ほんの少しの間だけ手を繋いで歩き、噴水前に到着する。


(あっという間ね。……でも)


 あたしには十分なぬくもりだった。


(ありがとう。ルビィ)


 手を離そうと指を開くと、リトルルビィがあたしの手を握ってきた。


(ん?)


 赤い目は、まだあたしに向けられている。


「ねえ、ニコラ、この後時間ある?」

「この後?」

「図書館に行こうと思って」


 リトルルビィが少しだけ頬を赤らめて、真剣な眼差しであたしに言った。


「良かったら、一緒に行かない?」


 あのね、


「……もうちょっとだけ、一緒にいない?」


 リトルルビィの赤い瞳が、あたしを見つめる。頬は赤い。照れているのか、恥ずかしいのか。


(12歳の女の子だものね。お姉ちゃんのようなあたしと、もう少し一緒にいたいと思ってくれてるんだわ)


 あたしは考える。


(そうね)

(今日くらいなら)

(この子と一緒に……)


 その瞬間、ゴーンと、鐘が鳴った。


 あたしは目を見開き、振り向く。

 噴水通りにある教会の鐘が、子供達によって鳴らされていた。子供達がくすくす笑っている。教会の中からシスターが出てきて、「こらー! まだ17時になってませんよー!」と怒っている。鐘を鳴らした子供たちが笑いながら逃げていく。シスターが呆れたように教会の中へ入っていく。


 時計を見る。16時15分。


 あたしはリトルルビィに向き直す。

 リトルルビィもあたしを見上げて、くすっと笑った。

 時計は進んでいる。

 時間は進んでいる。

 待ってはくれない。

 惨劇は、今月に起きる。

 一日が勝負だ。

 時計の針は、進んでいる。

 時計の針は、止まらない。

 リトルルビィの手を、優しく握り直す。


「悪いわね。リトルルビィ」


 あたしはいつも通り、いやらしく笑った。


「この後、用があるのよ」

「用?」

「ええ」


 あたしは頷く。


「すっごく大切な用事があるから、あたし、すぐに行かないと」

「えー……」


 すごく嫌そうな顔をして、リトルルビィがむくれた。あたしはそんなリトルルビィに声を出して笑った。


「おっほっほっほっ! しょうがない子ね! いいわ。あんたがむくれないように、また今度埋め合わせしてあげる。だから今日は勘弁してちょうだい」

「……埋め合わせ?」

「ええ。約束する」

「や、約束?」

「約束」


 頷くと、リトルルビィがぱっと明るい笑顔になって、むふふっと笑った。


「絶対よ?」

「ん」

「えへへ……」


 リトルルビィが嬉しそうに笑い、かかとを上げる。


(ん?)


 あたしの頬に近づく。


(あ)


 ――ふに、と、柔らかい唇がくっつく。


 リトルルビィの赤い唇が、あたしの頬にキスをした。


(あ)


「えへへ!」


 リトルルビィがしてやったりと笑って、あたしの手を離し、体を離し、くるんと回って、赤いマントを翻して、あたしに振り向いた。


 そして、小さく手を振る。


「じゃあね、ニコラ。来週も頑張ろうね!」

「……ええ。また来週」


 頷くと、リトルルビィがはにかんで、図書館の方向に走って行った。その背中を見送り、見えなくなるまで見送り、その赤いマントも、その小さな少女も、見えなくなるまで見つめて、完全に見えなくなれば、ようやくあたしの視線が動く。


(さて)


 切り替えよう。切り替えなければ。


(今日は、どこを見て歩こうか)


 昨日、キッドが帰ってきたショックで街を見られなかったから、今日はちゃんと見ないといけない。残念ながら、遊んでる暇はない。


(……キッド)


 キッドの胡散臭い笑顔を思い出す。


(くそ、本当に帰ってきやがった……)


 見たくない。会いたくない。


(……リオン)


 リオンのキザな笑顔を思い出す。


(王子様らしい、素敵な笑顔だった)


 見たくない。会いたくない。


(……王子様なんて、ろくなものじゃないわ)


 目を細め、眉をひそめる。


(くそ。もやもやする…)

(全部あの兄弟のせいだ)

(問題は山積みなのに、もやもやする)

(そうよ。問題は、山積みなのよ)


 アリーチェ・ラビッツ・クロック。


(この一週間、まるでアリーチェの情報がない)


 やはり、ただの一般市民なのだろう。


(どこかで、個人情報を掴めそうな所があればいいんだけど)

(……個人情報を……)


 個人情報?


「あ」


 ぴんぽーん、とひらめきスイッチを押した。


(……あるか、分からないけど……、物は試しよね)


 あたしは歩き出した。


(ニクスの時と同じ)


 紹介所の方へと、歩いていく。


(さあ、切り替えを)


 ニコラから、テリーへ。


(あたしはテリー・ベックス。紹介所の社長よ)


 いつもの道を進み、いつものように歩き、お店が少なくなってきて、紹介所が見えてくる。どんどん進み、堂々と歩き、紹介所の出入り口から出入りする人々を視界の隅で見ながら、建物の裏に回り、受付の警備員に声をかける。


「こんにちは」

「ふわあ……、ん?」


 欠伸をしていた警備員があたしの顔を見て、目を丸くした。


「おっと! なんてこった! どこぞの小娘だと思ったらテリー社長! お久しぶりです!」

「通してもらえる?」

「どうぞどうぞ! ご自由に出入りしてくださいな!」


 警備員が後ろに振り向いた。


「おい、ディラン! テリー様がおいでだぜ!」

「何! テリー様って、社長のテリー様か!」

「今日は三つ編みガールだぜ!」

「おさげのガールだって!? なんてこった! テリー様もとうとうおさげの年頃だってか! かー! 淡い初恋を思い出すぜ! 俺のフラワーちゃん! くっ! 涙が溢れてきやがるぜ!」

「なんて顔してやがるんだ! ディラン! お前らしくねえ! ほらよ! こいつで涙を拭きな!」

「ブロック! 俺が間違ってたよ! 俺はこのままじゃいけねえ! 人は常に進化しないといけねえ!」

「分かってくれて嬉しいぜ! ディラン!」

「俺は一から体を鍛え直すことにするぜ!」

「仕方ねーな! 付き合ってやるぜ!」

「心の友よ!」

「さあ、ディラン! 進化してやろうぜ!! 正直者は筋肉だけだ!!」


 警備員二人が仲良くラジオ体操を始めた。


(彼らは本当にちゃんと見張りをやってるのかしら……)


 いつもの裏口から入り、エレベーターで上まで行く。いつものルート。廊下を歩き、所長室の前で立ち止まる。扉をノックすると、どうぞ、と声が聞こえてきた。扉を開けると、紹介所の所長、ジェフが、いつものように机にある書類と睨めっこ。いつもと変わらないその姿に、笑いすらこみあげてくる。


「貴方の仕事ぶりはすごいわね。尊敬するわ。Mr.ジェフ」


 あたしの声に反応して顔を上げたジェフが、あたしの姿を見て頬を緩ませた。


「おや、これはこれは、テリーさ……」


 ――ぴたっと固まり、ジェフがあたしを凝視した。


「ん?」


 ジェフにきょとんとする。そして、……ゆっくりと、慎重に、あたしに訊いてくる。


「……テリー様、それはキッド様の服では?」

「え? ああ、よく分かったわね。そうよ。あいつのお下がり」


 頷くと、ジェフがぎろりとあたしを睨んだ。


「テリー様!」

「えっ」


 ジェフが机をばーーーーん!! と叩いた。


「なんたることだ!!」

「えっ」

「貴女という人は!!」

「えっ」


(何?)


 いつも優しくあたしを招いてくれるジェフが、あたしを睨んで睨んで睨んで、いつも穏やかな目を鋭く、書類の山を全て横に流して床に落とした。


 ばさーーーーー!


「あ、書類が……!」


 あたしが声を出すと、


「黙りなさい!」

「へっ!?」


 ジェフがあたしを睨んで、叫んだ。


「キッド様ですね!?」

「えっ!?」

「キッド様が貴女に着せたのですね!」


 その服を!


「キッド様が、貴女に着せたのですか!!」


 それは! つまり!!


「恋人の、お下がりコーディネートというやつですね!!??」


 あたしの口角が下がった。


「ああ、お若い……」


 ジェフが口元を手で押さえた。


「尊い」


 ジェフの髭がぴょこぴょこと揺れる。


「妻と私にも、そんな時期がありましたなあ」


 そっとハンカチを取り出して、目頭に押し当てる。


「そんなにキッド様が恋しいのですね」

「そんなにキッド様が愛おしいのですね」

「キッド様のお下がりを着るまでの関係に、なれたのですね」

「そんなにそんなに、あの方が愛おしいのですね」

「やはりキッド様がお選びになられたお方だ……」

「我々に忘れていた初々しさというものを思い出させてくれる……」

「テリー様」

「貴方様に会うたびに、ジェフは! 胸が! 熱くなります!」

「さあ、どんどん着なさい! キッド様のお洋服! どんどんお下がりコーディネート!! するのです!!」


 大興奮のジェフが目を輝かせた。あたしはじとっと冷たい目を向けた。


「……そんなことどうでもいいから、書類を拾って」

「はっ! 私としたことが!」


 ジェフが大慌てで床に広がる書類を拾い、机に綺麗に並べていく。あたしはため息をつきながら、ジェフの机に近づいた。


「ねえ、Mr.ジェフ、折り入ってお願いが……」

「おや、いかがされましたかな?」

「……また個人情報を確認したいって言ったら怒る?」


 言うと、ジェフがにやっとした。


「ほう。これはまた……」

「ここに登録してるかどうかだけ調べてもらえないかしら」

「調べる程度でしたら。お名前は?」

「アリーチェ・ラビッツ・クロック」

「ご年齢は?」

「今年で15歳」

「性別は?」

「女」


 言うと、ジェフが机の引き出しから大きなファイルを取り出し、ぱらぱらとめくり、目を動かす。そして、首を振る。


「その方は登録されていないようですね。名前がありません」

「……そう」


(なかったか)


 あれば住所を特定できたのに。


(ただ、情報が無いわけではない)

(登録されてない。つまり、紹介所は彼女の面倒を見ていない)


 まだ働いてない?


(だとしたら、やっぱりどこかの学生かしら)


 ただの女子学生。


(今推測出来るのは、この程度かしらね)


「分かった。ありがとう」

「お力になれましたか?」

「ええ。十分よ」


 微笑むと、ジェフも頷き、ファイルを引き出しの中に戻した。


「お茶でも出しましょう。おかけください」

「いえ、いいの。すぐに出るから」

「おや、せっかくですので、ゆっくりされていかれては?」

「そういうわけにもいかないのよ。色々事情が混みあってて」

「忙しそうですね。最近貴女のお顔を見ていなかったので、少し心配でした」

「そうね。あたしも久しぶりに貴方の顔が見れて良かったわ。荒んだ心が癒された」


 冗談交じりで本当のことを言う。ジェフがどこか嬉しそうにあたしを見つめた。


「ジェフはいつでもここにおりますので、いつでもいらしてください」

「ええ。ありがとう」


 頷き、目を見合わせてから、また微笑み、ジェフの仕事の邪魔をしないうちに所長室から出ていく。扉を閉めて、また深いため息。


(……手がかりなし)


 紹介所に掲げられた大きな時計を眺めれば、時刻は16時40分。


(まだ時間はある。少し歩いて、見回りして、それから帰ろうかしら)


 どうせ明日は休みだ。少し歩いたところで、明日はゆっくり休めばいい。たとえ何もなくても、たとえ無駄な時間だとしても、それでも、あたしは何としてでも、惨劇を回避したいのだ。


 あたしはまだ死にたくない。


(……どこ行こう……)


 あたしの足が、また広場へと向かった。




(*'ω'*)



 18時30分。


 町中をぐるぐるしてから、特に飾りつけも、変わったところもなく、足も痛くなってきて、疲れて、諦めて家に帰る。扉を開けると、ジャガイモを煮詰めて広がった美味しそうな匂いが、家の中に充満していた。

 玄関から廊下に進み、廊下からリビングへ。

 リビングからキッチンを覗くと、じいじがちょうど料理を作っている。その背中を見つめていると、じいじが振り向き、あたしがいることに気づき、微笑んだ。


「おや、帰っていたのかい。ニコラや」

「ただいま、じいじ」


 14歳らしい可愛い笑みを返す。


「お腹空いた。まだ?」

「もう少し待っとれ。料理は待つのが肝心じゃ」


 じいじがあたしに言い聞かせるように言った。


「待っていれば、自然と旨みが出てくる。早く早くと急かせば、出てくるはずの旨みも出てこなくなる。そういうものじゃ」

「先にお風呂にしようかしら」

「そうしなさい」


 浴室に向かおうと足を動かそうとした瞬間、あたしのお腹の音が鳴る。あたしは非常にお腹が空いている。誰かのせいで、パンを食べられなかったから。


(……ああ)


 その顔を、思い出す。


(……)


 ぴたりと止まって、あたしはじいじに振り向く。


「ねえ、じいじ」

「ん?」

「今日ね」


 ぽつりと、言った。


「リオン様と会ったの」


 言うと、じいじも声をあげた。


「ほう」


 驚くでもなく、とうにその話を知っているように、じいじがあたしと会話をする。


「城下町の学校に通っていると聞いたな」

「ああ、そういえば、スノウ様がそんなこと言ってたかも」

「お元気そうだったか」

「さあ? どうだったかしら……」


 あたしの声が、自然と低くなる。


「あのね、じいじ、怒らないで聞いてくれる?」

「うん?」

「あたし、今日お昼食べれなかったの」

「ほう、そうか。忙しかったのかい?」

「リオン様がぶつかってきて、手が滑って、パンを落としちゃった」

「おや、それはそれは」


 くくっと、じいじが笑った。


「災難じゃったのう。お腹空いただろう」

「もうぺこぺこよ。リオン様のせいで、パンが食べれなかったんだから」

「リオンは謝ったかい?」

「謝ってきたけど、その後パンを買ってあげるから許してって言われて、あたし、怒ったの」

「うん? なぜ怒ったんだい?」

「むかつくじゃない」


 あたしの目がどんどん鋭くなっていく。


「じいじのパンを食べようとしたら、リオン様がぶつかってきたのよ。それでパンを買ってあげるから許してって、虫が良すぎるのよ。何でもお金で解決しようとするところ、キッドに似てる」

「ふぉふぉふぉ。いつでも作ってあげるよ。ニコラ」

「ううん。もう作らなくていい」

「ん?」

「メニーがお昼を届けてくれるんだって」

「ほう。そうかい」


 じいじが微笑んだ。


「メニー殿に会ったのかい」

「あいつ今日会いに来たのよ」

「仲直りは?」

「したつもり」

「そうか。良かったじゃないか」

「……そう思う?」

「良くないのかい?」

「何も良くないわよ」


 あたしの表情が曇っていく。口が、つい、動く。


「じいじ、しんどい」

「何がだい?」

「しんどいのよ」

「何がだい?」

「全部しんどい」

「そうかい」


 あたしの心が弱音を吐く。じいじは頷く。


「疲れた」

「そうかい」

「だるい」

「そうかい」

「きつい」

「そうかい」

「痛い」

「そうかい」

「しんどい」

「そうかい」

「しんどい」

「そうかい」

「しんどい」

「そうかい」


 じいじは頷く。あたしは黙る。

 煮込まれる鍋の音が響く。

 あたしは静かに、また呟いた。


「……疲れた」

「ああ。そうじゃろうな」

「……まだ?」

「もう少しで出来るからのう」


 じいじは鍋に向かい合う。あたしには振り向かない。


「ニコラ、風呂に入ってきなさい。上がってくる頃に出来ているだろう」

「……それ、美味しい?」

「美味しいとも」

「嫌なこと忘れられる?」

「ああ。疲れが吹っ飛ぶぞ」

「……あたし、疲れたわ。パンだけじゃない。リオン様のせいで、黒馬にも轢かれそうになったのよ」

「ああ……あいつはまた……」


 じいじが呆れたように声を出し、鍋を見下ろしながら言った。


「グレタだな?」

「……」

「黒馬に乗っていた、リオンを追いかけていた男だろう?」

「……そう。その人」

「グレーテル・サタラディア。警察官じゃ。警察と言っても、城から派遣された特殊部隊での。元々は軍兵じゃったが、警察の方がいいと判断され、そのまま警察に異動した」

「警察が第二王子を追いかけるの?」

「リオンが直属の部下達の目をくらまして、単独行動すれば、警察は簡単に動くぞ。王子に何かあっては首を跳ねられてしまうからの」


 つまりその話を聞く限り、


「単独行動をしていたんじゃな」

「ああ、そういえば一人だった。ふざけてふらふらしながら歩いてた」


 じいじの手が止まった。


「……そうか」


 じいじが訊いた。


「怪我はないかい?」

「大丈夫」

「……それは良かった」


 おたまを回し始める。


「まあ、リオンも年頃だからの」


 じいじがうんうんと頷く。


「キッドの時も警察って動いてたの?」

「あいつの時はしょっちゅうな」

「でも、あたし見たことなかったわ」

「キッドの場合は、王子として名乗り出ていなかった。世間に正体を隠していたということもあって、それほど騒ぎにならんでな。見張りも遠目から見れれば大丈夫という感じじゃった」

「ふーん。なるほどね。確かにリオン様は王子だって、昔から認知されていたものね」

「言うなれば、キッドの盾にもなっていた。あやつが好き放題する間、リオンは王族の子孫である使命を一人で背負わされていたと言っても過言ではない。あの子がいなければ、キッドはこんなに自由には動いてはいないだろう。だが、キッドが第一王子と名乗り出た。怪盗事件の解決からキッドの人気が急に上がり、表にいたはずのリオンが急に裏に戻された。色々と不憫な子じゃ」


 もしも、キッドが死んでいれば、


(そのまま、本当に第一王子になっていたのね)


 キッドは存在を発表されていなかった。だから誰にも気づかれなかった。


(でも、あたしどこかで王族の写真見たことあるのよね)


 四人写ってた。よく覚えてないけど。


(……四人か)


 本当はあと一人いるんだっけ?


(クレア)


 キッドの双子の姉。


(……やめておこう。あいつに関わるとろくなことがないのだから)


 あたしはリオンに視線を戻した。


「……不憫だとしても、単独行動するなんて王子として自覚が足りないんじゃない? リオン様」

「キッドも同じようなもんじゃ。それに、リオンにも好き放題していい時期くらいあってもいいだろう。まだ子供なんだ。きっと今のこの期間が、その時でもあるのだろうさ」

「だったら変装をもっと上手くしないと。彼、とんでもなく下手くそだったわ」


 顔をしかめると、じいじが口元を緩ませた。


「ほう。リオンが変装してたのかい?」

「最初のキッドみたいな感じ。帽子を被ってたんだけど、浅く被ってて顔が丸見えだった。一瞬でリオン様って分かったわ」

「口元には?」

「何もしてない」

「駄目じゃのう。あいつ」

「ダメダメね」


 呆れるわ。


「会って思ったけど」


 あたしは肩をすくめた。


「全然かっこいいと思わなかった」


 昔はあんなに恋焦がれていたのに。


「……なんか、萎えた」


 キッドを間抜け面にしたような顔に、怒りと恨みと憎しみを覚えただけだった。かっこいいところなど、全然なかった。


(馬鹿みたい)


 あれが、あたしの初恋?

 鼻で笑い飛ばしてしまおう。

 今日のことは、ジャックに忘れさせてもらおう。


「じいじ、お風呂入ってくる」

「そうしておいで」

「じいじ、ご飯食べたら、勉強を見てくれない?」

「ああ、いいとも」

「それから、一緒に遊んでくれない?」

「私でいいのかい?」

「じいじ、カードゲーム出来る? あの足し算と引き算のやつ」

「前にキッドに対戦相手にさせられたよ。だがニコラや、私は強いぞ? キッドも私には勝てないんだ」

「あら、それは燃えてくるわね。遊んでよ」

「いいとも」

「やった」


 あたしは、微笑んだ。


「じゃあ、お風呂入ってくる」


 哀れな憎しみを胸に抱いて、じいじに背を向けた。


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