第10話 10月5日(2)


 レトロな喫茶店。店内には一人のお客様。金髪の美しい少女。そしてカウンターの中に立つマスター、サガン。


 二人は何かを話しているようだ。パイプを咥えて、サガンが美しい少女の話を聴く。どうやら彼女は、姉を探しているらしい。


「テリー」


 サガンが顔をしかめた。


「悪いが、そんな名前の嬢ちゃんの話は聞いたことがねえ」

「でも、住所はここで合ってるんです」


 美しい少女は家からくすねてきたであろう紙を取り、指を差した。


「お店の名前まで聞けばよかった。商店街の中の店としか聞いてなくて…」

「特徴は?」

「あの、赤髪で、目が鋭くて、無愛想です」

「赤髪で、目が鋭くて、無愛想な……」


 サガンが考える。


「赤髪の女の子なんて、ここでは腐るほどいる。名前はテリーで合ってるのか?」

「は、はい」

「あー……。んな奴いたか……?」

「サガンさん、こんにちは」

「ん」


 サガンが振り向いた。メニーがサガンにつられて振り向き、扉の前に立つあたしを見て、目を丸くした。


「お姉ちゃん!」

「あ?」


 サガンがあたしを見て、眉をひそめる。


「……ああ、確かに無愛想だ」

「サガンさん、あたし無愛想じゃありません」


 にっこりん! と微笑んで、メニーの一つ空けた隣の席に座った。笑顔を浮かべたままメニュー表を眺める。


「あー。お仕事疲れたー。サガンさん、珈琲をお願いします」

「お前、名前はテリーだったか?」

「嫌ですわ。サガンさん。あたしはニコラです」

「ああ、そうだった」

「ニコラ?」


 メニーが眉をひそめた。


「お姉ちゃん何言ってるの?」

「サガンさん、珈琲、甘くしてくださいな」

「……そういうことか」


 サガンがため息をついた。


「めんどくせぇな。おい、菓子屋の新人、さっさとその嬢ちゃんと話つけろ」

「あたし知りません。そんな子」

「……」


 メニーの目が潤んだのを見て、サガンが頭を掻いた。


「ああ、ったく。……おい。面倒事はもう沢山だ。外のガキ共といいてめえらといい、お前達のせいで今日も赤字だ。くそ。おい、新人、珈琲でいいんだな?」

「……」


 ちらっと視線を動かして、メニーが何も飲んでいないことを見て、視線を動かして、メニュー表を見て、サガンに顔を上げる。


「追加。オレンジジュース。そちらに」


 サガンがため息混じりに頷き、冷蔵庫からオレンジを取り出して、やかんのお湯を温めだす。メニーに近づくことはない。一つ席を空けるくらいが丁度いい。隣なんかに誰が座るか。あたしは怒ってるのよ。


 足と腕を組んで、あたしはサガンの背中を見る。メニーもサガンの背中を見る。静寂に包まれる中、背中に向けられる痛い視線に構うことなく、サガンは慣れた手つきでオレンジジュースをグラスに、珈琲を使い古したカップに注ぎ、メニーとあたしに差し出した。ミルクと砂糖は違う容器。自分で作る。あたしはミルクと砂糖を大量に入れる。はい。甘い珈琲の完成。これが美味しくて好き。後は冷めるのを待つ。メニーはグラスに手をつけない。


 沈黙。


 サガンがうなじを掻いた。


「……一服してくる。ニコラ、留守番を頼むぞ」

「……はーい」

「はあ」


 ため息をつき、サガンがパイプを持って出ていく。店を出て、扉の前に立ち、まるで通せんぼのように、そこでのんびりとパイプを吸い始めた。


(……吸ってる間に何とかしろってことか)


 珈琲をじっと見つめる。レコードが回り、喫茶店に古びたジャズの音楽が流れ続ける。


「……で?」


 珈琲を見つめたまま訊く。


「何しにきたの? お嬢ちゃん」

「……話をしにきたの」


 珈琲が揺れる。


「話すことなんてあったかしら?」

「……またそんな言い方する……」


 メニーが拗ねたように呟く。


「……怒ってるんだ」

「怒るわよ」

「私も怒ってた」

「意味が分からない。なんであんたが怒るのよ」

「……部屋に入ったから」

「あんただってあたしの部屋に無断で入ってるじゃない」

「……」

「前からずっと」

「……」

「何?」


 横目でメニーを睨む。


「教科書を借りて、返さなかったのはそっちでしょ。必要だったから返してもらいに行っただけじゃない。なんでそこまで借りてた本人に怒られなきゃいけないわけ? おまけにあたしは、そのせいで今こんなことになってるのよ。怒りたいのはこっちよ」


 メニーが黙った。

 あたしも黙る。

 黙って珈琲が冷めるのを待つ。

 待って、

 しばらく沈黙して、


 メニーの口が開いた。


「……ごめんなさい」


 ぽつりと言った。


「ごめんなさい」


 メニーの声が震えた。


「ごめんなさい……」


 メニーの声が鼻声になった。


「……ごめんなさい……」


 メニーの目から、飴玉のような涙がぽろぽろ溢れ落ちてきた。


「ごめんなさい……」


 あたしの眉間の皺が増えた。


「……。……あたしが悪いみたいじゃない」

「んっ……。ひっく……」

「あーー……」


(またこのパターンなわけ?)


 うんざりとため息を吐き、頭を乱暴に掻いて、女の子らしく可愛く綺麗に泣くメニーの傍に寄るため、隣の席に移動する。


「メニー」


 メニーに鋭い目を向ける。


「女同士の喧嘩はね、泣いたら負けなのよ」


 いいこと?


「涙を見せるのは、殿方が現れた時だけよ。それまで意地でも涙を見せては駄目。殿方が現れたら、すぐに泣けるように涙腺に溜めておくのよ。で、殿方が現れたら、すぐに泣きなさい。その瞬間にその喧嘩はあんたの勝ちになる」


 ここには、王子様はどこにもいない。


「喧嘩中に泣きたくなったらね、隠れるのよ。トイレに行って頭を冷やすわって言い訳でもして、トイレで思いっきり泣くの。でも、その姿を同性に見せては駄目よ。見せたら最後。その喧嘩はあんたの負けよ」


 これはあたし達の喧嘩であり、今、あんたは泣いている。ということは、どこかに隠れないといけないのよ。


「隠れなさい」


 あたしはメニーに体を向けて、両手を広げた。


「見せては駄目」


 どこかに隠れなさい。


「壁でも誰かの胸でもどこでもいい」


 メニーが涙を落とす。


「あたしが見る前に、隠れなさい」


 あたしが瞼を下ろすと、


 あたしの胸に、熱と体重が乗っかった。

 しがみつくように背中に腕が伸びて、服を握られる。

 あたしの胸元が温かい水滴で濡れていく。あたしは瞼を上げて、ふう、と息を吐いた。


「そうそう。それでいいのよ」


 片手を伸ばし、少し冷めた珈琲を飲み込む。


「あまっ」


 呟き、珈琲をカウンターに置く。


「はあ」


 またため息を吐いて、震えるメニーの背中を撫でる。


「ほらね、泣いたら喋れなくなるでしょう? だから泣いては駄目なのよ。女はただでさえ心と感情で生きてる人間なんだから、ベックス家の三女としてしっかりなさい」

「……ごめん、なさいっ……」

「……今回はあたしも悪かったわよ。認める。……」


 少し黙ってから、


「……ごめんなさい。メニー」


 頭を撫でた。


「もう勝手に部屋に入らないようにする。それでいい?」

「……そうじゃなくて……」


 そうじゃない?


(あたしが謝っているというのに、何を否定してくる気……?)


 あたしの怒りの炎に薪を増やし始めたメニーが目を擦らせながら、あたしから離れ、顔を上げる。


「ちゃんと、理由があったの……」

「理由ねえ?」


 分かった。お前の言い分を聞いてやろうじゃない。


「だけどその前に、あんたね、貴族令嬢としてその涙の拭き方はなってないわ」


 ポケットからハンカチを取り出し、そっとメニーの目に押し付ける。


「んっ」

「擦るんじゃない。押し当てるのよ。その方がメイクも崩れないでしょ」

「……お化粧なんて、してないよ」

「普段からやって慣れておくのよ。パーティーで目なんか擦ってみなさい。はしたないって笑われるわよ」

「……いいもん。笑われても」

「ベックス家の恥にならないでちょうだい」

「……」

「ハンカチはその『ため』にも使えるのよ。悔しがってかじるためじゃなくて、お別れを言う時に風に当てるためじゃなくて、そういう時に殿方の前で使うのよ。はしたない。ハンカチくらい持ち歩きなさい。どうせそのお洒落で高級な鞄の中には、本とお財布しか入ってないんでしょう?」

「……すぐ帰る予定だったから……」

「人の休憩時間潰しておいて、よく言うわ」


 むすっとして、メニーの目からハンカチを離す。そして、次はメニーの鼻に押し当てる。


「ほら、ちーんしなさい」


 チーン! とメニーが鼻をかんだ。ハンカチを畳んでポケットにしまい、また背筋を伸ばして、おしとやかに珈琲を飲む。


「で? 理由って?」

「……教科書が、あったの」

「ええ、教科書があったから取りに部屋に入ったのよ」

「そうじゃなくて」


 メニーがどこか恥ずかしそうに俯いて、小さな声で言った。


「私の教科書が、机にあったの」


 メニーが目を泳がせた。


「……料理の、教科書……」

「うん?」


 料理?


「……もしかして、最近あんたが見てたレシピがわんさか載ってる本?」

「ん……。……うん……」


 こくりとメニーが頷いた。


「そう。それ……」

「へえ。あれ教科書だったのね。料理のねえ?」


 料理?


「……そうだよ。お姉ちゃん」


 メニーが、それはそれは恥ずかしそうに、頬を赤く染めて、俯いて、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめる。


「料理、……勉強してたの」

「料理? なんで?」

「……お姉ちゃんが」

「あたしが?」

「味のないシチューを飲んだって、ドリーに怒ってたから……」


(……あ)


 一年前の怪盗事件終了後、あたしは屋敷のコックのドリーに、散々言ったのだ。


「メニーにシチューの作り方くらい教えておきなさいよ! 全く! ここの使用人達はどうなってるの!? そんなんだからメニーがあたしに味のないシチューを作るんじゃない!」

「し、しかしテリーお嬢様、それはメニーお嬢様が催眠にかけられていたからだと兵士様が……!」

「うるさい! ドリーのくせに! お黙り! ドリーは毎日美味しいもの作れる技術があるんだから! 黙ってメニーにシチューの作り方の一つや二つ、レパートリーを多く、教えてやってよ!」

「テ、テリーお嬢様……!  そこまでこのドリーの腕を認めてくださってるとは……! くう! 涙が玉ねぎのようにちょちょ切れて! ああ! なんて良い日なんだろう! かしこまりました! ドリーは、シチューの作り方をお教えします!!」


(……あれか)


 あたしは黙って珈琲を飲んだ。


「私、お姉様と見てたの。お姉様は気にしちゃ駄目よって言ってくれたんだけど、そういうわけにもいかないと思って……」


 メニーは自ら料理を学ぼうとして、ドリーの料理姿を観察していたらしい。そこでドリーは基本的な知識を頭に入れて置いた方が良いと、料理の基本が載った本をお勧めした。それが、メニーの言う教科書。


「形に出来るまで、お姉ちゃんには秘密にしたかったの」

「あのね、料理なんて実践よ。実践。作れば作るほど上手くなるんだから、本だけじゃどうにもならないのよ」

「そうだよ。実践だよ」


 メニーが隣の席に手を伸ばした。


「だから持ってきたの」

「……ん?」


 メニーがバスケットをカウンターに置いた。あたしはきょとん。蓋を開けると布が敷かれ、めくるとパンが入っていた。あたしは瞬き三回。


「……何これ」

「パン」

「……分かるけど……」

「作ったの」

「誰が」

「私が」

「……。……。……。……」


(ん?)


 ちらっと、メニーを見ると、メニーの顔を俯かせたまま、耳まで真っ赤になっている。


(なんで?)


 あたしはパンに指を差す。


「メニー、これは何?」

「……だから、……これは……パンです……」

「それは分かる」


 そうじゃなくて、


「なんであんたの作ったパンなんか持ってきてるの」

「……お昼ご飯」

「お昼ご飯……?」


(……)


「まさか、……お弁当?」


 訊けば、メニーがあたしに体を向けて、顔を上げた。


「お姉ちゃん」


 その目には、強い決意が込められている。


「私、謝罪と反省の意を込めて、これから10月いっぱい、お弁当作って、お姉ちゃんに届けるから」

「結構よ」


 即答で断る。メニーが思いきり顔をしかめた。


「……」

「いらない。宿泊先からお昼貰ってるのよ」

「……そっちをいらないって言えばいいじゃん」

「あんたのお弁当を優先しろっての?」

「うん」


 メニーが微笑んで頷く。


「そうして?」

「お馬鹿」


 メニーの額に指をぴんと跳ねさせた。


「痛い!」

「なんであたしがメニーの実験台にならないといけないのよ」


 眉をひそめて首を振った。


「はっきり言うわよ。遠慮する。いらない」

「お姉ちゃん」


 メニーが鋭い目であたしを見てくる。


「私を誰だと思ってるの?」

「メニー・ベックス」

「そうだよ。私はメニー」

「だから何」

「誰の妹だと思ってるの?」


 メニーがにこりと笑った。


「テリーお姉ちゃんの妹だよ?」


 あたしはじろりとメニーを見る。


「私が何も考えてこないと思った? お姉ちゃんがいらないって言うなら」


 メニーがそっと、あたしの耳を両手で囲って囁いた。


「キッド殿下の婚約者がテリー・ベックスだって、お姉ちゃんの写真持って商店街中に言って回ってやる」


 その一言に、びくりと体が硬直する。メニーはにっこり微笑んでいる。あたしも微笑んだ。メニーも微笑んだ。あたしが笑った。メニーも笑った。


「おほほほ」

「あははは」

「おっほっほっほっほっほっ」

「あっはっはっはっはっはっ」


 ――……。


「馬鹿じゃないの?」

「馬鹿だと思う?」

「出来るわけないじゃない」

「聞いてるよ。お姉ちゃん。去年の仮面舞踏会で、誰かがキッド殿下を殴ったんだって」


 あたしは顔を引き攣らせる。


「貴族なら色んな情報を頭に入れておく。去年、お姉ちゃんが私に言ったことだよ」


 メニーの目が光る。


「仮面舞踏会には多くの人が参加した。さて、写真を見せたら皆どんな反応するかな?」


 メニーがポケットから取り出したあたしの写真をひらひらり。


「私、本気だよ。お姉ちゃん」


 メニーは微笑む。


「さーて、お姉ちゃん」


 メニーは確信していた。


「この勝負は、私の勝ちみたいだね」


 ついさっきまでびーびー泣いてたとは思えないほど、メニーが強気な笑みを浮かべた。


「10月いっぱい、お姉ちゃんが帰ってくるまで、お姉ちゃんの胃袋は、このメニー・ベックスがいただいた! ふぅーはぁーはぁーはぁーあ!」


 不慣れな棒の高笑いをするメニーの隣で、あたしはぐうの音も出ない。ただひたすらメニーを睨んだ。


「……メニー……。あんた……悪い顔するようになったわね……」

「ふふふ。お姉様とお姉ちゃんを見て育ったからね」


 メニーが笑いながら写真をポケットに入れ、バスケットごとパンを差し出してくる。


「ねえ、一口でいいから食べてみて。感想聞かせて?」

「メニー、ここは飲食店よ。持ち込みは駄目なの」

「……でも、今、誰も見てないよ」


 扉にもたれるサガンの背中がここからよく見える。振り向いて、あたしが扉に視線をぶつけても、まだサガンが帰ってくる様子はない。諦めて、ふう、と息を吐いて、天使のように微笑むメニーに向き直す。


「……一口だけよ」

「やった」


 メニーが膝の上に手を置いた。


「お願いします!」

「はいはい」


 バスケットに入ったパンをちぎって、ぱくりと食べる。


(……。……。……? ……)


「微妙」


 感想を率直に言うと、メニーが顔をしかめた。


「……微妙?」

「微妙」

「……」

「美味しくもないし、不味いわけでもない。微妙。ひたすら微妙。しっとりしたパンの感触もぱさぱさ。でも不味いわけじゃない。美味しいわけでもない」


 メニーにバスケットを戻す。


「はい。おしまい。分かったらさっさと帰りなさい」

「……」


 メニーがパンをちぎり、一口食べた。もぐもぐ。


「……むう……」


 メニーがむうっと、頬を膨らませた。


「リトルルビィみたいなことするんじゃないの。はしたない」


 指でメニーの頬を押すと、ぶう、とメニーの口から空気が漏れた。


「下品よ。やめなさい」


 手を置いて、静かに珈琲を飲むと、メニーもストローをつまんで、オレンジジュースを飲む。不満そうに、チラッとあたしを横目で見る。


「リトルルビィはいいの?」

「あの子はいいの」

「私は?」

「メニーは駄目」


 メニーがまたむっとした。


「……理不尽だ」

「貴族の令嬢としてわきまえなさい」

「そんな姿で貴族の令嬢なんて言うの?」

「そうよ。あたしは隠れた貴族のお嬢様なのよ」

「お姉様から聞いた。貴族ってこと、隠さないといけないって」


 メニーがここで納得した。


「……そっか。だから『ニコラ』って言ってたんだ」

「悪くない名前でしょう? あたしは10月いっぱい『ニコラ』っていう名前の女の子なのよ。ニコラ・サルジュ・ネージュ」

「……それ、ニクスちゃんの苗字……」

「違うわよ。あの子は今、ニクス・ネーヴェだもの」

「でも、お姉ちゃん、それで手紙送ってるでしょ」

「そうよ。その方がニクスが喜ぶの」

「使用許可は貰ったの?」

「ニクスなら許してくれるわ」

「許してくれなかったら?」

「理不尽だわって嘆く」

「ふふっ!」


 メニーが笑って、またオレンジジュースを飲んだ。


「名前も服装も違うなんて、本当に人間が変わったみたい」

「履歴書でテリー・ベックスなんて書いてみなさい。ばれないにしろ、ベックスで引っかかる人がいたっておかしくないでしょ」

「ベックス家って、結構有名な貴族だしね」

「下級貴族だけどね」

「下級だけど、ベックス家はすごいんだぞって、昔、お父さんから聞いた。没落しかけたのに、這い上がった一族だって」

「……ああ」


 珈琲を飲む。


「どこまで聞いたことあるの?」

「詳しいことは、最近お母様に聞いたんだけど」

「ママに?」

「うん。この間、何となく思い出して、寝る前にお母様に聞きに行ったら、すごく細かく丁寧に教えてくれた」

「……ママは、自分の血を誇りに思ってるものね」


 あたしはバスケットに手を突っ込ませ、パンをちぎって一口食べた。珈琲とは合うわね。この微妙なパン。メニーが歴史を思い出す。


「昔、戦争とかでいい成績を収めて、上流階級だったって」

「最初だけよ。それからどんどん落ちて行った」

「でも、受け継がれてるものは残ってる。あの島とか」

「小さな島よ」

「また魚釣りしたいね」

「次は冬になるんじゃない?」

「冬か。……冬だと寒いんだよなあ」

「暖かくして行けば問題ないわ」

「そうだね」


 メニーがバスケットのパンをちぎって食べた。


「でも、あの島も本当は失いかけたって聞いた」

「そうよ。遊び歩いた先祖の借金が膨れ上がって、破産しかけたのよ」

「それを持ち直したのが、お姉ちゃんのお婆様だって」

「ええ」


 アンナ・ベックス。


「あたしもあまり詳しいことは聞いてないけど」


 このままでは領土である島の権利を剥奪され、貴族という肩書きも失ってしまう。それを悟った若きばあばがビジネスを始めた。それが大儲け。会社を増やして、また別の会社を建てて、買い取って、また増やして、それを引き継いでるのがママ。パパは城で働いていた。上手くいくはずだった。パパが死ぬまでは。


 没落しかけた血。立て直した一族。明日何が起きるか分からない。また没落しないために、ママは地位関係なく、金持ちの男と再婚することにした。


「メニー、ママとお父様、どこで会ったか知ってる?」

「新しい船の発表会だっけ?」

「そうよ」


 メニーのお父様は商人だった。様々な会社を持ち、その中に船会社がある。


「今、新しい船を計画中なんだって」

「また作るの?」

「もう作ってるって、ルワンダさんが言ってた。早くて二年、遅くて四年ぐらいで出来上がる予定だって」

「……」


(……あの船か……)


 年数が一致して、嫌な記憶が蘇る。


「出来たら、一番に乗せてくれるって」

「……」


 一番に乗ることは無い。あたし達一家は屋敷に残った。


(四年後ってことは、そうね。あの船ね)


 大きな豪華客船だった。絶対に沈まない船だと言われた。そのように作られたと謳われた。国中が期待して、瞳を輝かせた。あたし達は階級が上に上がるかもしれないと舞い上がった。メニーの資産もたまには役に立つじゃないと笑っていた。





 あれのせいで全部崩れた。





「お姉ちゃん、次の出勤日はいつ?」


 メニーが口をもぐもぐさせながら首を傾げた。


「……平日はずっといる」

「じゃあ、明日はお休み?」

「ええ」

「分かった。じゃあ、私、また来週持ってくるね」

「いいわよ。持ってこなくて」

「持ってくる」

「また囲まれるわよ」

「……やっぱり見てたんだ」


 メニーが眉をひそめた。


「びっくりしちゃった。最初は一人だったのに、どんどん人が集まってくるの。本当に怖かった」


 あたしの指に力が入った。


「いつも街に来る時って、お姉ちゃんやお姉様が傍にいてくれたでしょう? ここら辺、一人で歩くの初めてだったから、急に声をかけられて、どうしていいか分からなくなっちゃって……」

「断ることを覚えなさい」


 じろりとメニーを睨む。


「舞踏会で学んでるでしょう? 街にいる子達なんて、礼儀知らずな奴らばかりよ。余計なお世話だって断りなさい」

「……断ったもん」

「弱いのよ」

「……そうかな」

「だから囲まれたの」

「……」

「胸を張って強気でいなさい。あたしのように、アメリのように、堂々と振る舞いなさい。それがあんたには足りないのよ」

「……」

「返事」

「……はい」

「よろしい」


 メニーがオレンジジュースを飲んだ。量が少なくなる。


「アメリはどうしてる?」

「お姉様?」


 メニーがはっとした。


「それがね、お姉ちゃん」


 メニーがくすっと笑った。


「習い事を始めたの」

「え?」

「歌」


 あたしは目を見開いた。メニーは微笑んでいる。


「アメリお姉様、歌を習い始めたの」


 その言葉で、即座に頭の中であたしの記憶が整理される。あるはずもない記憶が蘇る。


(アメリの歌の習い事)


 覚えがある。


(もっと早い段階でアメリが歌を習い始めていた)


 11歳の時だ。アメリと一緒に何かやらないかとママに誘われ、あたしはヴァイオリンで、12歳のアメリは歌だった。そして、あたしもアメリも、上手くなることはなかった。

 この世界では、ママに自分のしたかったことをあたし達に押し付けないでと言って断っていたけれど。


(歴史が繰り返されている)


 唾を飲み込み、平然を装う。


「あいつ、歌えるの?」

「頑張ってるよ。発声練習」

「耳が痛くなりそう」

「私も習い始めたんだよ」


(え?)


 これは、初めてだ。


「メニーも?」

「そう。ピアノ」


 メニーが嬉しそうに答えた。


「ずっとやってみたかったの。お母様がやりたいならやってみなさいって」

「……ママも寛大になったわね……」


 メニーに習い事をさせるなんて、三年前なら金の無駄と言って声すらかけなかっただろう。


「お姉ちゃんも帰ってきたら何かさせたいって言ってたよ」

「あたしはいい」

「何もしないの?」

「うん」

「なんで?」


 な ん で ?


「……」


 あたしはにっこりとメニーに微笑んだ。


「どうせ上達しないわよ」


 そう言うと、メニーが首を振った。


「そんなことないよ」

「あるの。あたしね、昔から楽器の才能はこれっぽっちも無いの」

「やってみなくちゃ分からないよ。もしかしたら天才的な才能があって、楽器を弾くこと自体が大好きになっちゃうかも。この期間でちょっと考えてみたら?」

「あたしはいいわ。興味無いの。そんなもの無くても生きていける」

「断言するのはまだ早いよ。……そうだ。お姉ちゃんも一緒にピアノやってみる?」

「やめておく。あんたみたいに手が細くて長いわけじゃないから、すぐ辞めることになりそう」


 手を広げてメニーに見せる。


「ね?」

「そんなことないよ」


 メニーがあたしの手に、自分の手を合わせた。


「可愛い手の形してるから、意外と出来るかもよ?」

「可愛い手の形って何よ。丸くて短いって言いたいの?」

「そんなこと言ってないよ」

「ああ、そう」


 メニーがあたしの小指を見てくる。


(ん?)


「何?」

「私」


 メニーが微笑む。


「催眠から解かれた時のこと、ぼんやりしてるんだけど、一部だけ覚えてるの」


 中毒者によってメニーは催眠をかけられ、挙句の果てにその力が暴走してしまった。


「お姉ちゃんがキッドさんにしたこととか、その時に見たこととか、少し覚えてるんだ」


 青い瞳が見つめる。


「お揃いなんだね。その指輪」

「……ああ」


 王冠の指輪が光る。


「そうよ。お揃いで買ったの。思い出に残るものが欲しいってあいつが言って」


 12歳の雪祭。キッドが少し大きめのこの指輪をあたしにプレゼントした。少しぶかぶかだったのが、今ではジャストフィット。改めて指輪を眺め、鼻で笑った。


「所詮お遊びよ」

「いつになったらそのお遊びって終わるの?」

「さあね?」

「お姉ちゃんはいいの?」

「心配ないわよ。近いうちに終わるんじゃない?」

「大丈夫なの?」

「平気よ」


 お前の心配なんていらない。あたしはお前と違って、自分の身は自分で守れるのよ。


(お姫様のあんたと違うのよ)


 お前はいいわね。頼れる相手が自然と作れて。あたしのように変な契約をしなくても、出会えるものね。


(リオン様)


 お前さえいなければ、リオン様はあたしを見てくれたかもしれないのに。


「……それ、飲んだら帰りなさいよ」


 少なくなったオレンジジュースを見て言うと、メニーが頷く。


「うん。そうする」

「馬車を捕まえてあげるわ。それで帰りなさい」

「ねえ、来週はこの時間帯にくればいい?」

「……休憩時間は大体12時から」

「分かった」


 メニーがもう一度頷き、バスケットのパンをちぎった。食べる。


「今度はもっと美味しいの作ってくる」

「出来るの?」

「頑張る」

「そう」


 あたしはバスケットのパンをちぎった。食べる。


「メニーなら出来るわ。頑張って」

「うん。期待して待ってて!」


 メニーが微笑み、あたしも微笑む。微妙なパンを噛む。細かく噛んでいく。メニーを切り裂くように、細かく細かく噛んでいく。


 バスケットの中のパンは、いつの間にか無くなっていた。


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